第14話 黒猫

文字数 1,914文字

 親切なトラック運転手に助けられ、翔と未来は自宅にたどりついた。
 その後も、未来の記憶が戻ることはなかった。
 M県警に事件の通報をするが、なしのつぶてで、もうひと月が経ってしまった。無理もない。パトカーは焼き払われ、要人警護以外の警察官がいなかった。
 やっと傷口がふさがった。ファントムのことも心配だった。翔は安全のため未来を家の地下に隠し、ファントムに向かった。
 丘の向こうに、窓のないコンクリートの巨大な要塞が見えてきた。ファントムは万一の事故や急停止を想定し、最初から外壁が放射線を遮蔽する石棺構造になっている。
 周囲はすべて、頑丈なバリケードが築かれ、太い鎖に下がる「立ち入り禁止」の看板が行く手を塞いでいた。翔は、施設の裏に回った。
 行き倒れた野良犬に、たくさんのカラスが群がっていた。その向こうに、二羽のカラスと必死に闘う小さな黒猫の姿が見えた。その周りには、やがて餌になるのを待つカラスたちが、じわじわと輪を縮めている。見慣れた光景だが、翔は無性に猫が可哀そうになった。いつか自分が遭遇した光景が蘇る。翔は叫びながら駆けた。
 拾い上げると、怯え震えている黒猫は片目を失っていた。このまま置き去りにすれば、今も遠巻きにしながら、見て見ないふりをしているカラスたちの餌食になることは間違いない。翔は、黒猫を抱きかかえ、その場を去った。
 合いかぎを使い、高さ三メートルのゲートを開ける。正常な時は、顔認証で開くのだが、病み上がりの体に、手動ではこたえた。
 業者用のドアを開ける。厚さ四十センチのコンクリートをアルミ板と鉄板で覆ったものだ。収まりの精度が高いので意外と軽い。黒猫が、翔をチラリと見上げると、弱々しい足取りで、隙間から中に入って行った。
 懐かしい場所だった。カウンターの向こうの小部屋には、警備員が常駐し、翔も中で、たまには一緒にコーヒーを飲んだものだ。今はひっそりとして、誰もいない。
 トリチウム封入型誘導灯が、わずかな光を放ち、内部の構造を緑色に浮かび上がらせている。
 黒猫が、ときおり翔の動きを気にしながら、廊下の隅を付いてくる。黒猫の片目から、必死に生きようとする光が差している。コンクリートの廊下を進むと、地下へと続く階段が見えてきた。この下にはユーティリティ監視制御室がある。生きているとすれば、河村はここにいるはずだ。
 階段へと差しかかると、下は真っ暗だった。壁に取り付けられた非常用懐中電灯を手に取る。  自動的にスイッチが入り、足元にオレンジ色の輪が広がった。黒猫が興味深そうに、光の輪を前足でなぞっている。
 一歩一歩降りて行くと、微かにエンジン音が聞こえてきた。
 河村は生きている――。翔は確信した。
 巨大なコンクリートの部屋の中央に、突発的な所内電源の喪失に対応できる無停電電源装置と大小二基の非常用発電機が設置されている。小型の方は、最悪の場合でも、トリチウム除去システムに対応できる容量を持つ。
 部屋の奥にある、監視制御室の中で、河村は生きていた。
「河村さん! やっぱりここでしたね」
 翔は、痩せこけた体を椅子に預ける河村の顔を見て、涙が溢れてきた。
 河村は、ぎこちなく顔を綻ばせながら、ちょこんと前脚を揃えている黒猫と翔を、交互に見た。
「おお、森村さん、もう君とは会えないと思っていた――」
「それにしても、よく一人で。本社からは何もないのですか?」
「そりゃそうだ。私は解雇された身だからね。もっとも、本社営業所はテロの標的になり、すでにもぬけの殻だ。今は地下のコントロールセンターで、山岳地帯の水力発電所と火力発電所を遠隔監視している」
 いつの間にか黒猫が、河村の足元に寄り添っていた。
「デルタ社の友人からメールが来ましたが、ヨーロッパも同じような状況らしいです。それにしてもなぜ、核融合炉だけがテロに――」
「彼らにしてみれば、石炭火力は多くの労働者がそれで飯を食える。原発や核融合炉は、自らは手を汚さないエリートの象徴に見えるのかもしれない。実際は、どちらも我々庶民が命がけで守っているのに、彼らの目から見れば、権力の砦として映るんだろうね」
 河村が、黒猫の小さな背中を愛おしそうに撫でながら言った。
「確かに、いつの世も、人間は愚かな生き物なのかもしれません」
「そのとおりだ。ところで、その頭の包帯はどうしたんだ?」
「ああ、私も色々ありまして、妻が行方不明になりました――」
 翔は、それ以上のことは話せなかった。
「そうだったのか、それは気の毒だ。大変な目に遭ったのですね……」
 河村が心配そうな顔を向けた。彼もまた、外の凄惨な状況は所内テレビで見ているのか、深くは触れなかった。
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