第24話 月ヶ谷家からの脱走

文字数 2,942文字

 シンと静まり返った人気のない暗い廊下は、なんだか洞窟の中みたいで薄気味悪かった。右手に並ぶ窓の向こうに見える星空が唯一の救いだ。小さな雲の塊も浮いているけど、今夜は良く晴れているようでよかった。昔の船乗りが星を頼りに航海したように、私も時々窓に目を向けながら、星明かりを頼りに足を前にすすめる。目の前にはどこまでも広がる底知れない闇。どれだけ歩いてもどこにも突き当たることなくこの闇は続いているような気さえする。気がついたらいつの間にか違う世界に足を踏み込んでいたりして。そこには人ならざる何者かが潜んでいて……。
 私は身震いをして足を止める。いかん。何を妄想しているんだ私は。あんまり変なこと考えすぎると進めなくなるぞ。それにしても心細い。小舟にのせられて大海原にほおり出されたような心細さだ。ときどき外から流れ込んでくる秋の虫の鳴き声が、その心細さにさらにもの悲しさを加えて、私の心を萎えさせようとする。ああ、やはりお布団にくるまっていた方がよかったかな。
 しかし私は勇気を振り絞ってお布団の誘惑を振り切り、闇の中を前進する。ここまできて退くわけにはいかない。ようやく決心してあの部屋を抜け出したんだ。もう、戻らないよ。
 私にそんな決心をさせたのは、あの二階堂君との二度目のデートで遭遇した事件と、そのあとの美夜さんとのやり取りだった。
 あんな得体のしれない連中に絡まれて、ただ鞠華の代理で見合いに出れば済むと、今までのように思っていられるわけがない。ひょっとして自分は何か面倒なことに巻き込まれているのでは、と、そんな不安にかられるのは自然なことじゃないだろうか。しかも何だよ木箱って。まあ、元から謎だらけの月ヶ谷家だけど。その謎多き家にひそむ、外部の者がのぞいてはならない闇のようなものが、その木箱の存在によって改めて認識させられて急に怖くなった。
 しかし木箱の話をしてその中身について問い詰めたとき、美夜さんは言ったものだ。
「あなたは知らなくてよいです。母田持氏にも『知らない』と伝えてあることです。あなたも『知らない』で通しなさい」
 直接鞠華に問い正そうともしたけれど、会わせてもらえなかった。なんでも、今、傷の具合が悪くて人に会えないらしい。本当かね。
 木箱の話は何も解決せず、それどころかそのあと告げられた今後の予定が私をさらにドン引きさせた。私の最終試験に、もう一回パーティーに出ろというのだ。もちろんただのパーティーではない。皇室主催で開かれるダンスパーティーである。これは月ヶ谷家の存在を公的な人に保証してほしいという、母田持の意向をくんでのことでもあるらしい。それにしたって皇室だよ皇室。誰に挨拶させられるのかわからないけど、いくら何でも私にはハードルが高すぎる。
 理由はまだ他にもある。それは私の心の問題。私の心のあることに気づいてしまったから。それについては無事にこのダンジョンを抜け出せたときに語るとしよう。今自分の心のその部分について語ったら、私の視界は涙で歪んで、ますます道が見えなくなってしまいそうだから。
 とにかく、我慢が自分の限界値を超えたことを悟った私は決めたのだ。逃げよう、と。
(無理だ。もう、無理だ)
 私は母田持の配下たちのことを思いだし、ダンスパーティーや母田持との見合いでさらすであろう自分の醜態を想像して、誰もいないのにぶんぶんと首を横に振った。ダメダメ。私には無理。もう無理。こんなところにはもういられない。


 正体をさらし皆様から嘲笑と罵声を浴びせられる自分の惨めな姿を糧として、私は広い月ヶ谷家屋敷の目もくらむような長い闇の中を進み続けた。目的地はとりあえず玄関。外に出たあとのことは、またその時に考えよう。しかし広すぎるよこの屋敷は。どこまで行けば一階への階段にたどりつくんだ。
 見えない道のりの長さにいら立って舌打ちをしたのと、息をのむのとが一緒になった。
 どこかから、声が聞えたような気がしたのだ。虫の鳴き声じゃない。もっと高くて、厚みがあって……そう、人間の話し声のような。
 私は立ち止まって息を殺し、耳を澄ませる。確かに聴こえる。虫の音の間を縫って、間違いなく人間の話し声が闇の中を突き抜けてくる。
 普通だったらすぐに逃げ出すところなのだが、そうしなかったのは、その声がその場の緊張感に似合わず可愛らしかったからだろう。甲高くて、ちょっと舌足らずな声。女の子のそれだ。こんな夜中にこんな暗い屋敷の中で女の子が一体何を? その好奇心が恐怖と警戒心を上回って、私はその声のする方に足を向けないわけにはいかなくなった。
 進むにつれ、小さくはあるがその声はだんだん鮮明になってくる。廊下じゃない。どこかの部屋の中から聞こえてくるようだ。
「くうっ、やるわね。でも、これしきのことで……」
「ああ、なんということ。許せないわ」
 一体どんな会話だ。そう暗闇に向かって問いかけてやりたいのを我慢する私の脳裏に、ふと、よもやこれは人ならざる何者かの仕業ではという考えが唐突に浮かぶ。ひょっとしてこれぞ噂に名高い座敷童だったりして。この屋敷なら座敷童のひとりやふたり、余裕で住んでいそうだ。そう思いながら目を凝らすと、前方に細い光が見えた。自分が逃亡作戦の途中であることも忘れ、怖さ半分、期待半分で私はその光に向かう。
 私が立ち止まったのはある部屋の扉の前だった。私の部屋のそれと同じような扉だ。細い光は、扉の隙間から漏れる部屋の明かりだ。そして例の声は、その扉の隙間から流れて出ているみたいだった。私は心臓を高鳴らせながら扉のノブに手をかける。鍵はかかっていない。呼吸を整えてからゆっくりと扉をひき、少しだけ作った隙間から部屋の中をのぞいた。
 細い隙間からでもわかるほど、なんとも落ち着きのない内装の部屋だった。ピンクのソファ。ピンクのクッション。フリフリのカーテン。お姫様の部屋かよと突っ込みたくなる。お姫様と言えば、鞠華は本物のお姫様なんだけど、彼女の部屋でないことは明白だ。彼女は地下の一番最奥の部屋に住んでいるのだから。
 ならばやはり座敷童……などと思って、少しだけ扉の隙間を広げると、ソファに座る人物の後姿が見えた。座敷童……ではなさそうだ。明らかに大人。大人の、女の人。ピンと伸ばした背に、束ねた黒髪を垂らしている。なんか、見覚えのある後姿だな。
 その人物がサイドテーブルに手を伸ばした時、横顔が見え、私の漠とした予想は確信に変わる。
(美夜さんだ)
 何で美夜さんがこんなところに。その疑問が浮かびかけると同時に、もう一つの疑問がその隣に浮上する。女の子の声はまだしている。別の方向から流れ続けている。もちろん美夜さんが発しているわけではない。一体誰が?
 私は思い切ってもう少し扉の隙間を広げた。何かものすごく嫌な予感がする。ひょっとしたら私は開けてはならないパンドラの箱の中をのぞこうとしているのではないか。このまま後ずさりして逃げるのが賢明ではないか。理性は私に警告するものの、見てはならぬと言われると見てみたくなるのが人情だ。私の無鉄砲な好奇心は愚かにも理性の警告を振り切って、ついに私にその箱の蓋をあけさせてしまった。

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