第4話 鎌倉のお屋敷

文字数 3,039文字

 気がつくと、私はベッドに横たわっていた。
 一瞬自分のアパートの部屋かと思い、枕元に手をのばす。今、何時だろう。昨日はひどい目にあったな。しかも嫌な夢を見た。あの目つきの鋭いメイドに追われて拉致される夢だ。……などとのんきなことを思いながら。
 枕元にいつも置いてあるスマホがない。その時になってようやく私は、自分の置かれている状況が日常のそれと違うことに気がついた。そもそも自分を包む寝具の感触が違う。私はいつも薄い布団を床に敷いて寝ているんだ。こんなふかふかのベッドじゃない。
 大きく息を吸い、まだぼんやりする脳に酸素を送って目をちゃんと開く。視界に入ってきたのはボロアパートの無機質な白い天井ではなく、幾何学模様の描かれた木張りの高い天井だ。薄暗いその天井にはすずらんの花みたいな形の可愛らしい照明がさがっていて、ろうそくの火のようなオレンジ色の光を室内に落としていた。窓はベッドの脇にある。薄いピンクのカーテンは開かれて両側で束ねられ、その広い窓から鈍色の空を見上げることができた。外は雨だ。雨空の下、庭の木立の向こうに、灰色の海が小さく横たわっていた。
 ガラスを這い落ちる雨滴をぼんやりと眺めながらようやく私は思い出す。そうだ、私はあの女に拉致されたんだった。一体ここはどこだろう。あれからどれくらいたったんだろう。天気は変わらないから、同じ日かな。空は相変わらず暗くて、昼か夕方かはわからないけど。
 それにしてもどうして私がこんな目に? こんなベッドに寝かされているところをみると、どうやら私を痛めつけたり脅したりしようというのではないだろう。それだったらきっと、今頃地下倉庫みたいなところで縛りつけられている。そういえば、あの女はお願いがあるなどといっていたな。お願いって、いったい何だろう。私はこれから、何を要求されるのだろう。
 そんなことをぐるぐる考えていると、カチャリと金具の音がして、部屋の扉が開いた。
「お目覚めですか」
 無機質に言って入ってきたのは、例の黒髪美女だった。さっきのパンツスーツは外出用なのか、今はレストランにいるときみたいなメイド姿だ。挨拶もそこそこに、足音も立てず表情も変えずに黙々と歩み寄ってくる。なんか日本人形のお化けみたいで怖い。
「ここはどこ? あなたは誰? 私に何をしようというの」
 私は上半身を起こすと枕を抱え、彼女から逃れるようにベッドの上を後ずさる。
 私の怯えた視線に気づいたのか、日本人形の進撃が部屋の中ほどではたと止まった。
「ああ。自己紹介がまだでしたね。私は、名を、宇都宮美夜(うつのみやみや)と申します。この月ヶ谷家(つきがやけ)で、執事兼メイド長を務めさせていただいております。よろしく。北条祥子(ほうじょうしょうこ)さん」
「あ。え……えっと。どうして私の名前を?」
「調べました。三十一歳。独身。現在独り暮らしでコンビニ勤務。彼氏はいない……」
 大きなお世話だ。私は彼女の歳と彼氏の有無を訊き返そうとして、やっぱりやめた。どうせ彼氏はいないだろ。年は怖くて訊けない。まあ、私より少し上ということにしておいてやる。そんなことより、月ヶ谷家? 執事? なんじゃそれは。
 混乱してボケっとしている私をじろりと見つめながら、美夜(みや)さんは道を開けるようにわきに一歩身を引いた。
「さあ、ベッドから出て。主の部屋にご案内します」


「ここは、鎌倉にある月ヶ谷家のお屋敷です。鎌倉のどこかって。うまく説明できませんね。鎌倉のにたくさんある谷のひとつとしか……」
 主とやらの部屋へ向かう道中、美夜さんの説明を聞きながら、私はきょろきょろと左右に視線を走らせたり上を見上げたりしては「ふぇ~」と感嘆の声を漏らした。
 昨日のレストランのような瀟洒な洋館だ。けして豪華ではない。だけど年代というか、重みというか、思わず神妙になってしまうような空気を感じる。落ち着いたクリーム色の壁。その壁にはられた黒光りする腰板。彫刻のほどこされた木の柱やアーチ。木張りの天井から吊り下げられたガラスの照明……。それらがみんな謹厳な学者のように、いろんな歴史や想いを秘めて黙しているような気がする。
 長い廊下の緋色の絨毯を恐る恐る踏み、染みひとつない壁を触って汚さないようにしながら、私は美夜さんにたずねた。
「この建物は、いつからあるんですか」
「明治時代に建てられたそうです」
 美夜さんは何でもないことのように言う。しかしその言に私はまた感嘆のため息をつく。明治時代に造られた洋館。歴史的建造物だよ。ひょっとしたら重要文化財級かも。現役で使われている歴史的建造物。なんかすごい。しかも広いし。東京や横浜で見学したことのある洋館の何倍もある。
「すごいですね。このお屋敷のご主人って、お金持ちなんですね。一体何をされている方なんですか」
 テンションが上がって、つい、馴れ馴れしくそんなことをきいてしまった。
 美夜さんが口をつぐんで立ち止まる。直立の姿勢のまま振り返ることもなく、
「何をされてる方、ですって」
 低くそうつぶやいて、小さく、とても小さくため息をついた。
「それは、部屋についてから説明しましょう」
 そう言ってから音もなくまた動き出し、廊下の奥へと歩を進めた。


 廊下を折れ曲がり、階段を下ってまた長い廊下を奥へと進み、さらに階段を下ったところで、目的の部屋へとついた。
 応接室だろうか。立派な部屋だった。天井にはシャンデリアが燦然とかがやき、絨毯の中心に描かれた獅子の模様を囲むように柔らかそうなソファが鎮座している。純白の壁には金色の額にはめられた絵画が並ぶ。その五枚の絵はすべて風景画。私の乏しい知識から推定するに、あれはおそらく十九世紀の印象派の絵だ。だぶん。本物かどうかはわからないが。
「あれらは皆、本物ですよ。軽々しく触らないように」
 私の視線に気づいたのか美夜さんが釘を刺して、それからソファに腰掛けるよう促した。
 言われるままにソファに腰をうずめて、その柔らかさに戸惑いつつもさらに部屋を見渡す私は、ある違和感に気づく。この部屋には何かが足りない。何か大事なものがないような気がする。何だろう。
 それを指摘する前に、私の向かいのソファの背後に立った美夜さんが、おもむろに口を開いた。
「さきほどのあなたの疑問にお答えしましょう。我が月ヶ谷家は、鎌倉時代より八百年つづく、武家の棟梁鎌倉殿の末裔です。我が主は四十四代目鎌倉殿、月ヶ谷鞠華(つきがやまりか)様。その鞠華様が今年の秋、お見合いをすることになっているのです」
 美夜さんの口にした言葉がいったん私の頭をすり抜けていく。何だか現実感のない話だったから。武家の棟梁。鎌倉殿。まるで歴史の授業みたいだ。私、知ってる。鎌倉殿って、あれだよね。たしか、源頼朝とか、鎌倉幕府の将軍だった人の別の呼び方でしょ。あれ? 最近どっかできいたような……。
 そのときふいに、昨日の晩、あのレストランの玄関わきに下げられていた札の字が、私の脳裏によみがえった。
『鎌倉殿御用達』
 いったん後方へと流されていった言葉が頭の中に戻ってきて、私はムンクの絵みたいに口と目を丸くする。鎌倉殿って、その鎌倉殿のことだったの? うそでしょ。本当にそんなものが今の世に存在するっていうの。
 しかし、それに次いで美夜さんが口にした言葉は、さらに信じがたいものだった。それを彼女は、眉一つ動かさずに言いやがった。
「あなたには、今年の秋に行われるそのお見合いに、鞠華(まりか)様の身代わりとして出ていただきたいのです」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み