第10話 鞠華との散策 前

文字数 2,202文字

 私の歩き方レッスンがどのような有様だったか、語るまでもないだろう。私の動きを一瞬たりとも見逃すまいとする美夜さんの鋭い視線。降り注ぐダメ出し。私の持たざる白旗を振るのに要した時間の短さは、テーブルマナーの時のそれを容易に更新した。幸いだったのは、美夜さんの木刀が私を打ち据えるために使用されなかったことだ。
「踏み出した足はまっすぐに。膝を曲げない」
「肩をゆらさない」
「背筋を伸ばす」
 ダメ出しとともに私の膝に、肩に、背に、その黒光りする木の刀身があてられる。雷光のような速さで、しかし静かに、微かな痛みを感じさせることもない丁寧さで。
 まるで標的の直前でピタリと止まる居合の技を見ているみたいだ。重たそうな木刀なのに、その切っ先は少しもぶれることはなく、間違っても私の身体を打ったりはしない。これは相当な武芸の技量を持っているのではと、身をもって思わされる。さすが武家の棟梁鎌倉殿の末裔に仕える者だと言っておこう。
 しかし、だからといって私のウォーキング技術が飛躍的に上達するわけではない。それとこれとは別の話だ。そもそも美しく歩くという行為は、簡単なようで実に難しい。身体にゆがみがあってはいけないし、美しい姿勢を保つための筋肉も鍛えなければならない。そのうえで体の隅々に注意を払いながら体を動かす。
 踏み出した足を地面に着地させるときは膝を伸ばす。足の裏の重心移動はしっかり行い、後ろ足の膝を柔らかく曲げながら前に引き寄せる。ひじを身体のラインより後ろに引いて背筋を伸ばし、身体を左右にゆらさない。身体全体のバネ、関節を柔らかく使いながらさっそうとリズムよく。しなやかで伸びのある動きをする。
 そんな体の動きと姿勢を意識しながら、目の前の白線を足の親指とその周辺あたりでとらえて歩く。つま先を進行方向に向けて。母指球に踏み込みながら、足裏全体で体を支えて。
 ひょっとしたら武芸習得の難しさと通ずるところもあるのかもしれない。そして私は、一週間たっても十メートルどころかその半分も美しく渡ることはできなかった。


 そうこうしているうちに、季節はいつの間にか梅雨に突入していた。
 私は朝目覚めるたびに、雨に濡れる窓、その向こうに広がる鈍色の空を眺めてはホッとと息をついて微笑みを浮かべる。木々や屋根を叩く雨音は小川のせせらぎのようだ。絶え間ない水滴のリズミカルな音に耳を傾けていると、少し憂鬱な、しかしぬるま湯に浸かっているような心地よさを感じる。
 私はどちらかというと晴れの日よりも、しとしとと雨の降っている日の方が好きだ。こっちの方が世界の本当の姿のように思えるから。快活で元気でいつも笑っている、そんな人間ばかりなものか。そりゃあ、そういう人もそれなりにはいるんだろうけれど、少数派だろうと私は思う。そういう人の声が大きいからわかりにくくなっているけれど、きっと多くの人は表面の殻をとれば泣いているんだ。少なくとも私はそう。もちろん晴れも好きだよ。でも、晴れた空は眩しくて、ずっと見上げていると何だかそわそわしてしまう。自分がこんなところにいてはいけないような気持ちにさせられて、なんだか居心地が悪いや。
 そんな梅雨の晴れ間のある日、珍しく外でレッスンが行われることになった。
 行われる場所は例の、私が大失敗を犯した庭だろうかと思っていたら違った。あの海の見える芝生の庭は、野外パーティーや遊戯などを行うための前庭らしい。この日美夜さんに連れられて行ったのは、その前庭とは館を挟んで逆の山側にある裏庭だった。どれだけ広いんだいこのお屋敷は。
 そして当然レッスンは私と美夜さんの二人で……と思っていたのだが、それも違っていた。庭園入り口の小さな木の門の軒の下に、人がひとり、ひっそりとたたずんでいた。右目に包帯を巻いた、もう一人の私……じゃない、鞠華だった。フリルのついた純白のワイシャツに、動きやすそうな薄桃色のスラックスパンツ。頭にはつばの広い帽子を目深にかぶっている。服装はフレアスカートの私と違うのでちょっとほっとした。
「今日は鞠華様と一緒に散策をしてもらいます。もちろん遊びではない。鞠華様の身のこなしを見て学んでもらうためです」
 私を連れ去った時と同じパンツスーツ姿の美夜さんは、そう告げたかと思うと、さっそうとその場を立ち去ろうとした。
「あれ? 美夜さん、どこ行くの」
「警備ですが、何か」
 何か、じゃないよ。あんた執事だろ。護衛と案内はどうするんだよ。
 声に出して言わなかったけれど、私の疑問はこの顔にわかりやすく描いてあったようだ。立ち止まってわずかに振り向いた美夜さんは、眉をしかめて答えてくれた。
「安心してください。鞠華様は庭のことを熟知しておられます。不審者が万が一にもここに近づけぬよう、我々がしっかり目を光らせるので。まあ、本当は私も鞠華様のおそばに……」
「美夜。そろそろおいきなさい」
 鞠華の蚊の鳴くような声に反応して、美夜さんはピシッと気をつけをした。一礼をし渋々といった表情で去っていく。
「私が、そうしたいって、言ったの」
 美夜さんの姿が竹林の陰に消えると、鞠華はその竹の枝に目を向けたままつぶやいた。
「どうして」
 私の問いには答えずに、
「さあ、行きましょう」
 鞠華は笑みを含んだ声で言い、歩き出す。風が吹き、その頭上でカエデの葉が、寄せては引く波のようにさざめいた。
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