第3話

文字数 6,204文字

 八月十八日。店は臨時休業となった。
 店の前の歩道にはすでに多くの人が盛大な祭りに向けて屋台や提灯、ゴミ箱の設置などの準備していた。屋台を組み立てるような作業は主に設計図を読み取らせた二足歩行型ロボットが担っていたが、品出しや看板の最終工程はハチマキを巻き、大量に汗をかいた人間が地道にやっていた。
 祭りが始まっていないのにもかかわらず、町の気合は最高潮にあった。四十年振りの花火大会ということもあるが、この町の将来もこの祭りが大きく影響すると考えられていたからだ。未だに南知多市全体は人口が震災後から増えておらず、家も点々としか建っていない。三階以上あるマンションさえもない状況だった。その空き地のせいで海沿いというせっかくの景観はどこか整っていない子供部屋のように片付いておらず、引っ越そうとしてくる人もいないのだ。だからこそ、この祭りでこの町の存在自体をより多くの人に認知してもらう必要があった。
 わたしもそんな希望を持つ泥臭い人間の一人だった。常連客である今野さんが自分の育てた野菜を使った焼きそば屋に人手が足りないので手伝ってほしいと頼まれていたからだ。なんでも、奥さんは今年五歳になった可愛い孫娘を連れて祭りを楽しみたいらしく、娘夫婦と一緒に回るため屋台は手伝えないのだという。気の毒だけれど、今野さんの家族らしい心が和む理由だった。
 八月の真っ只中、この日も太陽は容赦なくわたし達を照りつけた。滲んでくる汗は外で活動する喜びを感じさせる。重いものを持ち上げたりと重労働をしているのが、さすが若い身体だった。腰や膝などの関節が痛むことはない。これは作業していた年配層のみんなが言っていたことだった。
 わたし達が朝から働き続け、ようやく腰を下ろしたのが益々明るくなる太陽が真上にきた時だった。店の前に広げた椅子に座ると、背中に氷を入れられたような冷たさが走り、びっしょりと汗をかいていたのに気付く。この日のために購入した十分で乾くと謳われていた紺色のシャツの首元には汗が染み付いた跡がくっきりと残っていた。
 昼食は市から支給された小さな弁当だった。黒胡麻のかかった白米と唐揚げが二つ、卵焼きが一切れ、ひじきとピンクに着色された漬物が入っていた。
 一杯水を口に含んでから、弁当をつつこうとした時、今野さんがポストに指差して言った。
「東山さん、この朝刊、読んでもいいかな?」
 ポストからは朝刊が頭を見せている。朝は忙しかったせいか取り忘れていたのだ。
「ええ、もちろんいいですよ」
「すまないな、今日の新聞には祭りのことも書いてあるらしいから読んでみたくてさ」
 ポストに手を入れた今野さんの表情は数秒間に何度も変わった。目を見開き、片眉を上げて何が入っているのか考えていた。
「どうかしましたか」
「いや、これなんですけどね」
 今野さんは右手に持った白い封筒をわたしに渡した。
「東山さんにかな。今時珍しいですね、手紙なんて。目で見なきゃなんだか分かりませんでしたよ」
「そうですね。今じゃあ子供からお年寄りまで皆ショートメールを使っていますもんね」
「ええ、でもいいものですな。十代の時を思い出します。私、実は手紙をバレンタインデイに貰ったことあるんですよ」
「それは羨ましい」
「思えば、その時もらったのが最初で最後のラブレターだったなあ。佳代子なんて一回も私に手紙をくれたことないんですよ。ひどいですよね」
 今野さんは皮肉っぽく言いながら、すぐに鼻の天辺を掻いてみせた。
 佳代子というのは彼の奥さんだ。彼女も時折喫茶店に顔を見せにきてくれるため、わたしもよく知っていた。年齢は今野さんと同い年ということで六十代。彼女ももちろん若年手術を受けていた。長い艶のある黒髪をいつも後ろで縛っていて、広いおでこを出していた。そのおかげか、清楚ながら自分一人でも生きていけるというようなエネルギーを持っている。今野さんによると、性格もそんな感じで、いつも口喧嘩をする時には負かされ、結婚してからずっと奥さんの尻に敷かれている状態だという。
 だから、佳代子さんが手紙を書いてくれたことがない、と言われても特に驚きはしなかった。
「で、そのラブレター、なんて書かれていたんですか?」
 わたしがきくと、今野さんは中空を見た。
「花の刺繍が入った可愛いやつでね。当時はやんちゃだった私なんかに長文で彼女の思いを書いてくれたんです。もう喧嘩はしないでくれ、とか喧嘩するくらいなら私がその相手を殴ってやるとか滅茶苦茶なことを書いていた気がします。読んだ時は何というか言葉に表せない満足感を味わったものです……」
 今野さんの声は次第に途切れ途切れになった。
「ああ、懐かしいな」
「もう子供の頃から五十年近く経っていますもんね」
「ええ」
 今野さんは青空を見上げた。何かを拝んでいるようにわたしには見えた。
「彼女とは幼馴染みだったんですよ。小中高と同じでね、友達以上の想いを抱いていました。でも、あの大震災で起きた津波に連れ去られたんです。ずっと一緒に育ってきたこの海に彼女は、彼女は」
 鼻頭は赤く染まり、瞼には大粒の涙が溜まっていた。
「その時、二人ともこの町にいたんです。ほんの少し距離があった職場でお互い働いていた。助けようと思えば助けに行けたんです。なのに、足がすくんで動けなかった。東日本大震災のことを考えると、津波が来るって頭がずっと言い続けるんです。山へ逃げろ、山へ逃げろって。私は逃げた。彼女もとっくに避難していると自分に言い聞かせて、勝手に納得させていたんです。そんな覚悟のない私のせいで彼女は……」
 今野さんは彼女がどうなったのかを言えずに泣いた。声を堪え、太い腕で顔を拭った。
 わたしは立ち上がり、今野さんの丸っこい背中をさすった。わたしは彼が泣くところを初めて目の前にした。大らかで、気さくで、情熱的な彼が泣いている姿なんて今まで想像すらしなかった。
「すいません。しんみりするつもりはなかったんですけどね」彼はほんのりと赤く腫れた目元を細めて微笑んだ。「そんなこんなで、この祭は私にとっても大切なものなんです。彼女を弔う、そして忘れない為にも心に残るものにしたいと思ってるんです」
「ですね。頑張りましょう」
 颯爽と吹いた潮風に手に持った封筒が靡いた。
「東山さん、私に気を遣わずに読んでください。また読んでから作業を始めましょう」
「すいません、では読ませていただきます」
 わたし達はそれぞれの椅子に座り、どこまでも続いていそうな青空の下で僅かな休息を取り始めた。
 それは約一週間ぶりの手紙だった。いつもは一ヶ月か二ヶ月に一回届くはずの手紙がこの頻度で送られてくるのは初めてだった。いつも通り、差出人は美波夏美。宛名はわたしの名前だった。一つ違ったのは中に入っていた便箋だった。シンプルなものではなく、貝や魚の可愛らしい刺繍が入っている。ふとそれは、今野さんが語ってくれた話を想起させた。

 拝啓

 今夜、南知多の空には無数の宝石が爆ぜて、海面に映ることでしょう。
 東山さんも日々の疲れを瞳から癒せることを心から願っています。
 さて、一週間ほど前にある女性が伺ったと思います。麦わら帽子に白いワンピースというライターとしては少々柔らかな服装をしていた女性です。突然で驚かれるかもしれませんが、あれは美波夏美、私なのです。その節はお気遣いありがとうございました。東山さんもすでにお気づきになられているかもしれませんが、私は既に六十を越えており、あの姿は若年手術によって得た姿です。もう何日も保ちませんが幸せなひと時でした。ルポライターというのも実は嘘なんです。名前や職業を深くきかれないか肝を冷やしましたが、東山さんの寛容な性格に助けられました。また、東山さんの人生を聞けて嬉しかったです。本当にありがとうございました。
 そして、私は謝りたいです。こんな回りくどい手紙を毎月送られてくることは嫌だったかと思います。今この手紙を読んでいても気味が悪いかもしれません。ですが、安心してください。今後、私はこの手紙を送ることはないでしょう。今私が住んでいる場所とはずっと遠くの場所に行くからです。もう後腐れもありません。宝石を最後に目にして、私は去るのです。
 それでは東山さんが今後もお身体に気を付けて、元気に過ごせることを願っています。
 今まで手紙お付き合いいただき、ありがとうございました。
 敬具

「東山さん、大丈夫か」
 天からの声のように遠くから今野さんの言葉が聞こえた気がした。
 わたしは彼の方を振り向くと、彼は心配そうな表情で目元を指差している。
 彼の指示に従って、目元に手をやると冬の霜が降りた葉のように肌は濡れていた。瞼を瞑るたびに涙が流星のように尾をひいて頬に垂れた。
「ええ、大丈夫です」
「それならよかった」
 今野さんは深入りせずに、新聞に戻りわたしを一人にした。
 何故涙しているのかわたしには分からなかった。この手紙についてわたしは何も知らないのだ。美波夏美、あの綺麗な女性がなんでこれまで手紙を送り続けたのか。なんでこれが最後なのか。なんでわたしに会いにきたのか。無数の疑問が頭を駆け巡った。しかし、そんな疑問はどうでもいいじゃないかとひと蹴りする自分がいた。孤独に歳をとっていくもう一人のわたしは心のどこかで彼女からの手紙に縋り付き、暖をとっていた。そのせいで「最後」という言葉に無意識に反応したのかもしれない。嘘だと信じたかったもう一人は予期せぬ涙を流させたのだ……。
 なあ、彼女はわたしにとって大切な存在なんだろ?
 わたしはきいた。
 もう一人の自分は頑なとして喋ろうとしなかった。ただ道に迷った小学生のように膝を丸めて涙をボロボロと流しているだけ。彼がなんで泣いているのか。顔を上げさせるには、何かきっかけを、欠けてしまったピースをわたしは見つけないと駄目なのか。

 午後五時を回ると、昨日までは近所に住む人しか通らなかった道に大勢の人が訪れていた。暑さから逃れるように半袖のシャツや短パンを履いている人もいれば、風情を感じさせる浴衣を着ている人もいる。多くの人の笑い声や下駄が地面と重なり軽快な音が町中を包みはじめた。それに負けないよう点々と輝く屋台からは客を寄せるための活き活きとした声が聞こえた。
 この町からの出身者だろうが違う県からの人だろうが関係なかった。一度は壊れたこの町に四十年の時を経て、また人々の和気藹々とした雰囲気が戻ってきたことだけがわたしにとっては嬉しかった。
「こりゃすごい人になりますな」焼きそばを作りながら今野さんが言った。
「ええ、腕がなりますね」
 そうこう言っているうちに焼きそば屋の前には長蛇の列が出来、わたし達は時間を忘れるくらい無心で焼きそばを作り続けた。鉄板からもくもくと立ち籠める煙の中、今野さんの表情を見る暇もなかったが、客の喜びに満ちた顔だけは焼きそばを渡す時に焼き付けようと頑張った。
「まずいな。みんなもう席取り始めてるよ」
「俺が席取ってくるよ、みんなはここで並んでて」
「ねえ、私たちはどうする」
 客の声が具材が炒められる音に流されて聞こえた。毎年、日本では多くの場所で個性的な花火大会が開かれている。それはもうこの国の風物詩であり、長い間培ってきた伝統出会った。そんな日本内でも類を見ないほどの花火がこの小さな町で打ち上げられようとしている。それを見にここへと集まっているのだ。いい席を取りたくなる気持ちは痛いほど伝わった。不安の声は並んでいる人だけではなく、屋台と屋台の間を歩く人からも聞こえた。反対側にも屋台が立ち並び、その後ろに今夜のメインショーが開かれる舞台がある。屋台と防波堤の間には5列ほど並べるスペースが作られるようにしていたはずだったが、隙間を覗いてみるとすでに多くの人だかりが出来ていた。
 時計もないのに、海を正面にして待ち侘びる人を見るだけで、もうすぐ歴史的な瞬間が訪れるのだと予感させた。
 すると、スピーカーから女性の声が流れた。
「南知多花火大会へお越しのお客様に連絡いたします。今夜十八時三十分から愛知県の花火師たちによる三万発の豪華な花火が打ち上げられます。大変な混雑になることが予想されるので、マナーを守り、より多くのお客様が花火を楽しめるよう、ご協力お願いします。繰り返します。南知多花火大会へ――」
 アナウンスとともに多くの人達が同時に防波堤の近くへと寄った。すでに近くで見ることを諦めたのか、平然と屋台に並ぶ人もいる。海から反対側にあるわたし達の屋台の後ろでは道端に座り込み、頑張って空を見上げる人もいた。皆違う場所で見ていたが、待ち望むものは共通していた。遠距離恋愛でなかなか会えない恋人に久しぶりに会うかのように今か今かと待っていた。
 時の針が一秒一秒を丁寧に刻み、それが進むごとに会場に集まった人の声は静かになっていった。共通の意識を持っているのと同時にわたし達はこの時、同じ感覚も共有しているように感じる。誰かが電子コンタクトに浮かび上がる時計を見て、一緒にいる友達か、恋人か、家族にあと何分だよと伝える。それが聞こえた周りの人がさらに周りへと伝達していく。
 その時だった。ふと時が戻ったように二十代のわたしが見えた気がした。お客の楽しそうに話す光景が久しく閉ざされていた記憶を呼び戻そうとした。
 ああ、わたしもこんな風に待っていたな。隣には浴衣を着た女性がいた。
 あと十分。九分。七分。六分。五分――。
 どんな花火が空に打ち上げられるのだろう。妄想は期待へと変わり、期待は喜びへと変わった。それは町中を包み、四十年前、震災が起きる前の活気を今この時に戻させた。
 わたしと女性は人混みから逃げるように地元の人しか知らない細道へと入った。進み続けると、小さな公園があった。子供の頃、二人でよく遊んだ公園だ。春夏秋冬、関係なく無邪気に遊んだ公園はその時わたし達の為に用意されたかのように誰もいない二人だけの空間となっていた。
 あと四分。三分。二分。一分――。
 町は静まり返った。その時は焼きそばの音も、人の声も耳に入ってこなかった。まるで別の場所にわたしだけ飛ばされてしまったかのように、ただ夜風に揺れる波の音だけがそっと両耳に入り込んだ。
 四十年前、あの時の祭りもそうだった。波の音と彼女の息遣い、わたしの破裂しそうな心臓の音。それがこの世界にある音の全てかのようだった。
 一つの小さな火の玉が海も空も境界線のなくなった真っ暗な空間に打ち上がった。みんなの視線は目を凝らさないと見えないちっぽけなものに集まった。「あがった」や「見て」と歓声が口から自然と漏れた。そして唾を飲み込んだ。
 その瞬間だった。火の玉は視界を覆うほど大きく広がった。朱色の細かな宝石は無数にあり、それらは集まって夜空に菊の花を咲かせた。そうだ、これが花火なのだ。人々の心を一気に掻っ攫い、言葉を失わせる。まるで宝箱を見つけた海賊のように、まるで別れを惜しむ恋人のように感情は入り乱れるのだ。
 わたしの手は止まっていた。頭にはあの日のことがまるでカメラで撮ったように鮮明に映し出されていた。
 ベンチで座り、わたしは彼女、美波夏美の潤う瞳を見つめて誓ったのだ――。
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