第1話

文字数 6,167文字

 身体は若くなっても、長年にわたって染み付いた習慣は抜けなかった。朝五時にアラームも付けずに目を覚まし、顔を出し始めた太陽と挨拶する。腕を天井に伸ばし、身体を反らす。
 身支度を済ませると、一階に降りて店のシャッターを開けた。早朝だからか、まだ夏特有の肌を撫でるようなジメッとした空気は感じない。また、耳元に届く波の音がシャワーを浴びるかのように心を洗い流す。
 レトロ感溢れる雰囲気が気に入って購入した赤いポストの中を見た。様々な情報を現代では電子コンタクトで得ることが出来るが、未だにわたしはそんな物は持っておらず、紙媒体のものが好きで新聞をとっていた。
 ポストにはいつも通り新聞紙とそれに挟まれた分厚いチラシがあった。だが、その日はそれだけではなかった。白い封筒が新聞の下敷きになっていた。きっと昨日届いていたのだろう。
 差出人は美波夏美。宛名はわたしの名前である東山海史。これまでに何回も彼女からは手紙が届けられていた。一年前からきっかり一ヶ月ごとに送られてくるので、これで十二枚目のものとなる。
 店に戻ると、ワインレッド色のソファに腰をかけ、封筒を開けた。中には一枚の手紙が入っており、細く端麗な字が連なっていた。

 拝啓

 果てしなく広がる海がより近くに感じる時期となりました。
 強い陽射しをより輝かせる波のように、東山さんもお元気にお過ごしでしょう。
 私は元気にまたこの季節を迎えられることに嬉しく思っています。蝉の声、窓から差し込んでくる暖かな光、青空に浮かぶ豪華客船のような積乱雲。全てが夏の訪れを感じさせます。
 さて東山さんにすれば私が誰なのかも分からないでしょう。もしかしたら、こんな手紙が届いて気持ち悪いと考えておられるかもしれません。返事がほしいわけでもありません。捨ててもらっても構わないです。ですが、一つだけ。私という存在を忘れないでほしいのです。
 それでは東山さんが今後もお身体に気を付けて、元気に過ごせることを願っています。

 敬具

 読むと、折り目にそって読む前の形に手紙を戻し、封筒の中に入れた。彼女がいう通り、私は彼女のことを一切知らなかった。容姿も年齢も私との関係も心当たりがないが、気味が悪いとは一度も思わなかった。なぜか彼女が手紙を書く手元だけ想像でき、親近感が沸くのだ。
 そんな女性が私の周りにいるだろうか。
 いつ、どこで、誰にわたしのことを教えてもらったのか。記憶の中を必死に探っても、何も出ず、謎は深い海底に沈みつづけるだけのようだった。

 八月十一日、火曜日。蒸し暑い潮風が風鈴の心地いい音を鳴らしながらこぢんまりとした店内へと入ってくる。ダークブラウンを基調とした木造の壁はそれらを客のように招き入れ、吸い込んだ。
 平日の昼下がりだからか、堤防沿いでひっそりと経営する喫茶店「East Mountain」には潮風の他に三人しか客が入っていなかった。
 二人は近所の年配常連客で、一つのテーブルで談笑をしていた。一人はこの町で一番大きな病院、南知多総合病院の院長を務めている進藤智だった。火曜日は彼の定休日らしく、この日も違う医者が彼の代わりに診療などを担っているらしい。もう一人は農家の今野明彦という小太りの男だった。気前がよく、誰にでも話しかけるようなフレンドリーな性格で、進藤先生だけではなくわたしとも仲がよかった。一見異色な二人組ではあるが、暇があればここを溜まり場として使い、各々あった出来事を報告しあう陽気な常連客だった。彼らの見た目は年配といっても「若年手術」のおかげで本当の年齢よりも三十歳は若く、話している話題もバスケットボールやサッカー、山登りなど身体を動かすレジャー系が多い。二人には目立った白髪も生えていないし、杖も使っていない。肌のハリもよく、口調と服のセンスさえよければ初対面の人は彼らが六十代のおじいちゃんだとは気付かないだろう。
 もう一人はこれまで一回も見たことのない客だった。新品のようなシワのない白のブラウス姿に麦わら帽子を被った若い女性だ。日焼けをしないようにするためか、紫外線を遮るための黒いグローブとクリーム色のロングスカートが彼女の清楚感をより際立たせている。艶のある綺麗な黒髪は肩に触れるくらいの長さで、鼻筋はほどよく高く、少しだけつり上がり大きく見開かれた瞳は強い女性像を具現化させたようだった。
 彼女は夏の間だけ外に設けているテラス席で文庫本を片手にカフェオレを飲み、静かに寝息を立てているような海を眺めていた。
 こんな穏やかな日は一回飲み物を出してしまえば、しばらくの間オーダーは入らなかった。そんな時は大抵コーヒーマシンやケトルの整備をしながら、蝉の声をBGM代わりに使い、店の隅に設置しているテレビを眺めて次のオーダーを待つ。
 チャンネルは適当に選んであり、誰かに変えてほしいと言われるまで変えないことにしている。この時間は午後のワイドショーがやっており、画面の右上には「震災から四十年。被災地の今」と書かれていた。
「南海トラフ大震災から四十年の時が経ち、愛知県の知多半島は沢山の人の手により、昔の姿を取り戻してきました。それは現代の科学技術を持ってしても決して楽な道ではなく、地道で辛く、心苦しい日々だったと思います。実際に多くの人、建築物、自然が被害に遭ったあの日、我々はもう元には戻れないのではないかと思い知らされました。しかし、日本が昔から持つ助け合いと不屈の精神がこの美しい光景を取り戻したのではないのでしょうか」
 女性レポーターが新しく舗装された海岸沿いの道路を案内するかのようにゆっくりと歩きながら言っていた。彼女の背景には広大な青空と宇宙にまで立ち昇っていきそうな巨大な積乱雲、太陽の光を煌びやかに反射する太平洋の一部があった。
「来週にはこの南知多で四十年前に行われていた花火大会の再開が決まりました。復興への感謝、そして何よりも地震で亡くなった人を弔うことを目的としたこの花火大会では、日本でも類をみない三万発の華麗な花火が準備されているとのことです」
 気付けばわたしの手は止まり、テレビに観入っていた。それは二人の常連客も同じようだった。ここに今住んでいる人の多くは愛知県出身で、震災の復興が進むとともに戻ってきた人が大半だった。彼らにも聞き流せる内容ではなかったのだろう。いつの間にかワイワイ賑わっていたテーブルは行き詰まった会議のように誰も話さず、重い空気が流れていた。
 そんな空気に風穴を開けたのは今野さんであった。
「東山さんもここ出身なんでしょう? 久しぶりのお祭り、楽しみですね」
 わたしに腹から出しているような太く、通る声できいた。
「そうなんですけど、子供の頃のことなのであまり覚えていないんですよね」
「そうなんですか。それらの記憶も……。まあでも、それなら尚更良いかもしれない。昔のことを思い出せるかもしれないですし」
「ええ」
「それにここだけの話なんですけどね、最後らへんには四十年前と同じような花火も打ち上げられるらしいんですよ。嫌なことを蒸し返すな、とか批判的な意見もあったらしいんですけどね、わたしは良いと思いますよ。私たちは昔の思い出まで壊されたわけじゃないんですから」
「たしかに今の若い世代の子供達にも何か教えられるかもしれないですしね」
 今野さんは腕を組んで深く何回も頷いた。今年で五歳になる孫を持つ彼にとって、かなり現実的な話なのかもしれない。
「それに、このお祭りのおかげで喫茶店も繁盛して、若い人達も来てくれるかもしれない」と今野さんはニヤリと悪さを考える子供みたいな表情で言った。
「そうだとありがたいんですが」
「もしかしたら、店の前に行列が出来ちゃうかもしれませんな」
「いえいえ、そんなことにはなりませんよ」 
 わたしが手を何回も振りながら謙遜すると、二人は大きな口を開いて笑った。
「そういえば」今野さんは人差し指を天井に向けた。「東山さんはあのニュース聞きましたか」
「あのニュース、と言いますと?」
「最近になって発見された新しい病気ですよ。若年手術の効果を失くしてしまう上に、寿命を縮めるとか噂されているやつ。そういえば、進藤さんの病院でも治療をされているんですよね?」
「AYG―06ですね。ええ、ここら辺ではうちが特に積極的に取り組んでいますよ」
 それを聞いた今野さんは顔をしかめて、あーそれだそれだ、と言いながら納得した。
 名前はパッと出てこなかったが、病気のことはわたしも知っていた。最近ニュースやワイドショーなどで取り上げられていることも多い話題だ。
「たしか若年手術で活性化させた細胞の衰えを手術前よりも加速させる病気でしたよね」
「東山さん、よく覚えていらっしゃいますね。AYGはかなり厄介な病気でしてね、東山さんが言った通り、細胞が手術をする前の状態に戻ろうとするんです。つまり、私たちの本当の年齢の姿に戻ってしまうってことです。かかってしまうと薬の効果も薄れて、短時間の間により多くの錠剤を飲まなきゃいけなくなるんですよ」
「これの効果が薄れるねえ……」
 今野さんはポケットから取り出した、薬の入った透明なケースを眺めながら言った。
 ケースの中にはいくつもの白い錠剤が入っていた。若年手術を受けたものなら誰もが医者から処方されるもので、細胞の老化を防ぐ効果があった。人によって服用する頻度は変わってくるもので、わたしは若い姿を保つために昼食後と夕食後に二錠ずつ飲まなければいけなかった。
「そうなんですよ。テレビでは有名な学者さんが『もしかしたら、身体が許さなかったのかもしれない』なんてことを言っていましたよ。魂の寿命と身体の寿命が合わなくなるから、無意識のうちに自ら身体を老いさせていくって」と進藤先生は言った。
「そうなんですかい。それは恐いですな。まあでも、進藤さんもいることだし、大丈夫ですかね」
 今野さんがそう言うと、彼は微笑んだ。
 わたし達が進藤先生に信頼を置くように、この町の年配者のほとんどが彼と面識があり、信用していた。年配者が多いこの町の病院として若年手術やAYG-06の治療にも積極的に取り組んでいる貴重な病院だったからだ。また病院の立地も最高だった。病院はこの喫茶店と同じ堤防横を真っ直ぐ通る一本道にある。喫茶店からは大体歩いて二十分ほどのところだ。多くの部屋は日当たりも良く、何より病室からは太平洋が一望できた。普通なら破格の値段になるところを彼は多くの人が利用できるようにと手頃な値段で提供していた。未だにこの町の人口は復興が完了したと言っても増えてはおらず、多くの病室が空いているだけだからと進藤先生は言っていたことがあったが、わたしはただ彼が優しいだけなのではないかと思っている。若年手術と錠剤の処方をわたしも南知多総合病院にしてもらっているが、彼の優しさにはいつも関心させられるほどだ。
 その後も今野さんは病気への不安を口にした。それを受け止めるように進藤先生は科学的根拠を用いて彼をなだめた。職業は大きく違うかもしれないが、意外とバランスは取れているのかもしれない。わたしはスッと会話から外れ、蝉の代わりに彼らの話し声をBGMにした。
 二十分ほど経った頃、とうとう議論は終わりを迎え、二人は釣りにでも行こうかと言いながら席を立った。
 店を出る時、二人ともテラス席の女性が気になったようだった。祭りや病気の話をしていた時も表情一つ変えずに海を眺めていたからだ。それに、こんな平日の昼下がりに若い女性が一人で町外れの喫茶店へと訪れるのは珍しい。彼らはゆっくりと歩きながらそのミステリアスな雰囲気を探ろうとしたが、あいにく彼女は二人の存在に興味がないらしく手に持つ本をじっくりと優雅に読んでいた。そんなドラマの切り抜きのような光景がなんともおかしく、わたしは食器を洗うフリをしながら笑った。
 部活帰りの高校生のような人たちがいなくなると、店には彼女とわたしの二人になり、沈黙は喫茶店というよりバーに似た空間を作り出した。
 何を思ったのか彼女は持ち物を全部持ってテラス席から立ち上がり、三席しかないカウンター席へと移った。七畳ほどの小さな厨房とカウンターの間には壁がないせいで、彼女とわたしの距離はグッと近くなった。ここまでくるとコーヒーよりもカクテルを出さなくてはいけないのではないかと思い込んでしまう。
「随分と親しまれているんですね」
 彼女はわたしと目を合わせ、微笑みながら言った。反応はしなくとも、先ほどの会話を聞いていたらしい。
 常連客とはよく話す間柄だった。ここら辺では話し相手が限られているのも理由の一つだが、この店を家庭的で和やかな雰囲気にしたかった。そのせいで新しく来てくれたお客の中には馴染みにくいと感じる人がいることもわたしは知っていた。
「ええ、よく来てくださるんです。こんな田舎だから、わたしの話し相手になってくれて嬉しい限りです」
 彼女はすらりとした指が目立つ右手を口元に添え、微笑した。
「みなさん、若年手術を?」
「はい。ここだけの話、みんな六十半ばで」
「そうなんですか。だから、あの病気の話を」
「ええ。わたし達にとっては脅威ですから」
「でも、本当に凄いですね。皆さんが六十代なんて信じられないです」
 口調と服のセンスがよければ、と彼女は笑いながら付け足した。
「ここら辺にお住まいなんですか?」とわたしはきいた。
「はい。最近引っ越して来たんです」
「失礼かもしれませんが、どちらから?」
「東京からです」
「そんな都会からですか。ここと東京とではかなり違うでしょ」
「そうですね。けど私好きですよ、ここ。なんだか懐かしく思える」
「まだお若いのに。ここへ引っ越して来たのは仕事か何かですか」
 この時、彼女は初めて視線を逸らし、結露して水滴が垂れるグラスを見つめた。
「ここの取材できたんです。先ほどのテレビのような感じで、震災から四十年経った被災地のルポを書こうと思いまして」
「そうなんですね。仕事の為にわざわざ引っ越して来るなんて大変ですね」
「ええ……。あの、私のこと、どう思いますか?」
 不意を突くような質問にわたしは少しだけ首を傾げた。
「どう思うと言いますと、どういうことでしょうか」
「なんて言うか、難しいですね。率直に聞きたいんです。どう思うか」
 彼女は少し自信のないように見えた。ルポが上手くいっていないのか。それとも取材した被災者に何かを言われたのか。
「正直言うと、被災したことに対して何かをきかれるのには何とも思いませんよ。なんなら、あの震災の悲惨さをこの機会に知ってもらえるなら嬉しいです。今ではあの地震で何が起こったのかを知らない人もいるわけですし」
「そうですか……。それはよかった」彼女は少し黙ってから話を続けた「その、もしよろしければ、お話聞かせていただいてもよろしいですか?」
 わたしは店を見渡した。彼女とわたし以外、誰もいない。店の前の道に入ろうかと迷っている人もいない。
「いいですよ。何をお話しすればいいでしょうか」
「そうですね」彼女は顎に手を添え、考えると「出来れば、話せること全部をお願いします」と言った。
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