第4話

文字数 9,974文字

「すごいですね」と進藤先生が呟いた。
「ええ、四十年前とは比べものにならない」
 私はあの時を脳内に映した。彼が隣にいて、一緒に花火を見たあの時を。
「だけど、昔のもよかったんですよ。大きさではない何かがありました」
「そうなんですか」
 南知多総合病院の三◯五号室には沈黙が漂った。
 窓からはこれまで見たことのない数の花火が咲き誇っていた。一つ一つ開く毎に、心地のいい爆発音が部屋に篭った。
 この景色に再会できたのは偶然だった。一年前にここへ帰って来た時には祭りが四十年ぶりに開催されるなんて考えもしなかった。ただ育ててくれて、何もかも奪った憎たらしくも美しい海を眺めて人生に幕を降ろすつもりだったのに。もうこの祭りは皆の中から忘れ去られ、花火が煙となってしまうように消えてしまったのだと思い込んでいた。だから、丁度私が故郷へと戻り、この世を去る間近に私の中の最高の宝物である瞬間をまた見せてくれたのは、まさに神様が試練を与えているようだった。
「もうあれから四十年ですか。早いものですね」進藤先生が独り言のように呟いた。
「ええ、いつの間にかお婆ちゃんになっていました。今思い返すと、時が切り取られたみたいに早かった」
 私は掛け布団から出していた腕を見つめた。細くて血管の浮き出る腕。そこには点滴の針が刺さっており、半透明のチューブが延びていた。
「今でもあの日は覚えています。きっと私だけじゃなく、私たちの年代であったら誰もが一生背負い続ける事なのでしょうね」
 進藤先生は何も言わなかった。彼の顔を見なくても、無視しているわけではないのは長年生きてきて培った感覚で分かった。
「彼は来てくれるでしょうか」私はきいた。
「きっと来てくれますよ。東山さんはそういう人です」
「でも――」
 振り向くと先生の目元はほんのり赤くなっていた。
「信じてください」
 はい、と私は先生の言葉を信じ、私はまた月や星よりも華麗な輝きを放つ花火を見た。
「では、私はこれで。楽しんでくださいね」
 進藤先生はそう言い残すと、ゆっくりと部屋を後にした。
 部屋には私一人だけとなった。
 私の気持ちを明るく照らそうとするように、大きな白銀の花火が四、五発打ち上がった。上品で豪華な花火。
 四十年前の光景が段々頭に浮かんでくる。
 拒否しようとしても勝手に映像は流れはじめた。もう忘れたいはずなのに。もう涙なんて流したくないのに……。

 私たちは決して耽美な出会いをしたわけではなかった。南知多市の小さな町に生まれ、通っていた幼稚園で出会ったので、初めての会話がどんなものだったかは覚えてはいない。まるで姉弟のような仲だと、昔両親は言っていた。気が強い私はよく彼を連れ回して遊んでいたらしい。
「子供の頃はお転婆っていう言葉が似合いすぎる子だったわよ。それも子供らしいって言えば、そうなのかもしれないけど」と母が私に教えてくれたのを覚えている。
 話によると、いつも幼稚園へと迎えに行くと、私は男の子と追いかけっこをしていたらしい。それも、常に私が鬼になりたがっていたらしいのだ。そんな追いかけっこ仲間の一人が東山海史だった。彼は私とは違い、どっちかといえば部屋の中で本を読んだり、ブロック遊びが好きな大人しめの子供だったらしい。そんな彼を私が無理やり外で遊ぼうと誘っていたのだ。何故、そんなことをやっていたのかは見当もつかないが、何か親近感が湧いたのかもしれない。
 身長が伸び、歳を重ねていくにつれて、私たちは所謂腐れ縁というものになっていた。お互いの家も近く、両親がよく彼の経営していた喫茶店に足を運び、連れて行かれて暇になった私がよく彼と遊んでいたのもあるが、単純に相性が良かったのではないかと今になって思う。気の強かった私と積極性がない彼。足りないところを子供ながら補っていたのかもしれない。
 例えば、小学校の頃には私が勉強で分からないところを彼が教えてくれ、運動が苦手な彼に私が遊びながら一緒に練習した。彼が小学五年生の頃に一回イジメにあったこともあった。その理由が、喋らないロボットみたいだから、というつまらないものだったので私がそのいじめっ子をビンタしてキツく叱ったこともあった。一緒にいる大切な友達を悪く言われたのに無性に腹が立って、つい手を出してしまったのだ。母と父に腕を引っ張られて相手の親に頭を下げに行ったが、正直当時の私はなぜ謝らないといけないのかと心の中で首を傾げていた。その子が悪口を言っていたのに、なぜ私は海史をたすけちゃ駄目なんだろう。そんな幼稚な考えを私は持つほど、小学生の時の私はひどく単純で、だから冷静で大人っぽい彼と遊びたかったのかもしれない。
 そんな共存の関係は中学生になっても続いた。二人とも恋路に悩むような歳になっても、学校への行き帰りを気にすることなく共にし、くだらない話を二人で話していた。普通は恥ずかしくて一緒に歩けない、なんて胸の内をモヤモヤさせるのかもしれないが、そんなことは微塵も思わなかった。本当に私たちは家族のようで、彼は弟みたいだったからだ。その年頃というのは誰にとっても本当か嘘かも分からないような噂をコソコソと広めたい時期である。そんな時期に私たちは格好の獲物だった。クラスメイト達は私たちの友人関係を男女の関係にしようと必死だった。恋話になると、女友達はいつも私に彼のことをきくのだ。好きな人の話の時には他の子の恋愛事情も聞きたいのに、私がいるといつも彼の話になって終わってしまう。私はそんな雰囲気が嫌だったが、一番気に食わなかったのは言われれば言われる程、隣を歩く幼馴染がカッコよく見えたのだ。その気持ちが表情に出ていたのか、それとも雰囲気で感じ取られたのか、彼との会話の最中に妙な間が生まれるようになってしまった。気まずくはなかった。気持ちが伝わりそうで伝わらない。そんな何とも言えない関係が私たちの中学生活を飾った。
 私たちは何事もなく、同じ高校へと進学した。名古屋の高校へと進学する子もいたが、通学時間が勿体無いと二人とも思っていたのだ。また、私たちの町から自転車で十五分の場所に進学校と言われていた南知多成帝高校があったのも理由の一つだった。その高校へと入学するため、平日は個人で別々に勉強し、土日は図書館やビデオ通話をしながら学んだことを共有した。その甲斐あってか、二人とも無事にその南知多成帝高校へと入学することができたが、高校へと進学しても私たちを取り巻く環境はあまり変化を見せなかった。私たちの関係は常に噂の渦中にあり、いい話の種となっていたのだ。
 そんな不変な環境とは違い、彼の心は少しずつ変化していた。飲みたいジュースはあるかと聞かれた時にいつも何でもいいと言っていた彼が、これにすると即断するようになるくらい、自分の気持ちを表に出すようになったのだ。
 一年生の時――新たな高校生活にも慣れ始めた夏休み直前に事件は起こった。
 部活が終わって、橙色に揺れる夕陽が水平線へと沈んでいく夕暮れ、妙に私たちは口数が少なかった。それまでも喋らないことはあったのだが、その時は彼との距離が数センチ単位で気になるほど変な雰囲気だった。そんな中、彼は拳を握りしめて言ったのだ。
「僕はもっと夏美と話したい。こんな僕でよかったら付き合ってほしい」
 私は、あの息苦しくも暖かい雰囲気は彼が作り出していたのだ、と気が付いた。自分がその瞬間に言われたことが信じられなかった。付き合う? というか、いきなり告白する? ゆっくりとひいていた自転車を止め、困惑しながら彼を見た。夕陽が彼の顔の半分に当たって、半分は絵の具を塗ったかのように暗かった。それが絶妙な凹凸を作って、ずっと心の底で隠していた感情が掘り出された気がした。
 答えは当然イエスだった。心臓が高鳴りすぎて頷くことしかできなかった。帰り道も何も話せず、付き合ったという実感は正直いうとあまり湧かなかった。
 それから私たちは誰に何を言われようとデートを重ねた。デートと言っても、名古屋も遠かったこともありお互いの家へ行ったりしてゲームや動画を携帯で見ていただけだった。
 今までのデートがデートじゃないことに気付かされたのは付き合ってから一ヶ月後に開催された南知多花火大会だった。海に面した一本の道路で開催され、海から打ち上げられる花火を防波堤から見ることができた。道は車もあまり通らないのに広く、そのおかげで色々な種類の屋台が並ぶ。花火大会へは毎年来ていたが、今年は例年とは違う世界へと来てしまったようだった。去年までは楽しければいいという感じだったのに、私たちはきちんと浴衣を身につけ、手を繋ぎながら提灯が幻想的にやんわりと照らす道を歩いた。
 花火を見にきた人達が防波堤へと集まりだした頃、私たちはのんびりと食べ歩きしていた。すると、彼が言った。
「花火がよく見えるところがあるんだ」
 彼は私の手を引いて、人混みをわけ、一つの屋台の後ろにある小道へと入っていった。お店の客寄せの声や楽しそうな笑い声はどんどん離れていき、提灯なんて一つもなかった。周りには白色の電灯とコンクリートブロック塀だけがあり、そんなどこか物足りない道をとぼとぼと歩いた。
 着いたのは等間隔で植えられた木々に囲まれた公園だった。滑り台とブランコ、象やコアラなどの遊具に鉄棒、屋根付きベンチがある。来た道を知らなかっただけで、公園は昔から知っていた。祭りのおかげか夜の公園には誰もいず、虫の声だけが聞こえた。
 屋台で買ったものを食べながら、花火を待った。遠くから女性のアナウンスが聞こえる。
「ここから本当に見えるの?」
「うん、待ってて」
 絡まる指の暖かさを感じながら待った。
 すると一つの花火が打ち上がった。金色に開いた花の先はやがて赤や青色に変化した。
 南知多花火大会はテレビで紹介されていたような横浜で開催される花火大会の足元にも及ばない小さなものだったのだった。
 でもその日の花火は今まで見てきたものの中で、一番大きく、心を打った。
 私たちの間に言葉はなかった。ただお互いの手の感触、握る強さで何を思っているか伝えあった。
 私の手がギュッと握り締められて、少しの痛みを感じた時、彼は爆発音に隠れるようにそっと私の方に振り向いた。
 心の整理が出来ているのかいないのかも分からない間に、私は目を閉じていた。ドーン、ドーン、とカウントダウンのような重低音が響いた。つられて私の心臓も太鼓のような演奏を奏でた。
 痺れを切らして目を開けた瞬間、私と彼の唇が重なった。
 雷が地面に落ちる時のように一瞬で初めてのキスの味なんて確かめている暇なんてなかった。ただ、言葉では表せないほどの複雑な感情が一斉に私の中で弾け、幸せという一つの感情に結束した。
 それはまるで、彼の後ろで夜空に弾ける千輪菊のようだった。

 花火が打ち上げられ始めてから十分程が経っていた。王道の菊や牡丹などの円形で人を一瞬で虜にするような花火は休憩に入った。
 代わりにおたまじゃくしのような火の玉が夜空を駆け上がって、小さく爆ぜた。これだけかと、不満がる人を見返すように次の瞬間には様々な色の花火で花畑が描かれる。
 初めてのキス。
 六十代後半に差し掛かろうというのに、私はあの衝撃を忘れられずにいた。

 当時心のどこかで、彼とはもうこのまま離れないと思っていた。映画などで客観的にきくと、そんなはずはないだろうと笑いたくなるのに、実際に恋をしている時はそんなこと微塵も考えないのだ。まさに恋は盲目というのを私は体験していた。
 案の定、私の予想は大いに外れ、私は東京の私立大学に、彼はそのまま愛知県の国立大学に行くことが決まり、遠距離恋愛が確定した。この時に及んでも私は証拠にもない妄想を抱いていた。離れても大丈夫だろう。遠距離恋愛が辛いなんて話があるが私たちは違う。幼稚園から固く結ばれた想いがある。それに東京と名古屋は新幹線に乗れば一時間半、当時新しく開通したリニアモーターカーを使えば三、四十分で行き来できる距離なのだから大丈夫だろうと。
 そんな私の妄想をひと蹴りするように現実は厳しさを叩きつけてきた。ビデオ通話やバーチャル通信で連絡を取れたとしても私たちの間には目には見えない溝が着々とできていたのだ。最初は浅い溝だったのに、気付けば断崖絶壁の谷になっていた。そこには強烈な突風が吹き荒れ、彼がいる向こう側に大声で叫んでもその風が盗んでいってしまう。いつしか連絡が途絶えることは二人の間で普通になっていた。彼が何をやっていて、何を思っているのかも分からなくなり、彼のことを考えるだけで心臓を縄で縛り上げられたように言葉にも出来ない窮屈な痛みを感じた。あんなにも手に取るように理解していた彼の姿を私は思い浮かべることも出来なくなっていた。
 少し距離を置こう。
 彼にビデオ電話で言われたのは大学に入って一年経とうとしていた春休みだった。唐突だったのに、すんなりと受け入れてしまった自分がいた。このまま関係を続ければ、どんどん離れていってしまうんだと私も彼と同じように感じていたのだ。
 春休みはどこへ行こうか。そんな話も二人の間には浮かび上がらなかった。
 せっかく通じ合った気持ち。それは別れを請う気持ちだった。
 私は首を縦に振った。
 理由とか、何を改善したらいいとか話し合わず、ただ断崖絶壁の谷に私は身を投げたのだ。
 その夜は私の人生の中で三番目にひどく泣いた夜となった。電話を切った瞬間は何も感じなかった。ただ私の心で彼がいなくなり、その失った箇所を探すように一目散に部屋を見渡した。一人暮らしになり、せっかく自分で色彩を揃えた家具がどれも同じ色に見えた。魅力もない世界から目を背けるようにベッドに寝転ぶと、枕にうつ伏せになって、真っ暗な場所を彷徨よった。だが現実はひどく執着的で、私を追いかけ回した。彼との思い出、もはや私の人生が鮮明に映し出された。彼が映り込んでくるたびに、私はボロボロと涙を流し、瞼を真っ赤に腫らした。喪失感と悲壮感。その二つを永遠と繰り返し、私は次の日の出を一睡もせずに迎えた。
 それからはどこか抜け殻のような生活だった。大学は華やかで、友人と講義を受ける時は何かのスイッチが入ったかのように違う私が出てきた。本心ではない私だ。合コンに呼ばれることもあり、彼が去って開いた穴を埋めるようについて行ってみたが、これもまた何も変えられなかった。初めて会う男の人に愛想よく振る舞うが、心の中では上の空。今度どこかに食べに行こうよ、と誘われても何かしらの理由を捻り出して断っていた。まだ私は遠くにいる彼に谷の底から叫んでいたのだ。あんた何してんのよ、と。
 そんな虚無の日々が一年続いた。
 私と彼が再会したのは、二◯三五年の一月九日。成人式の時だった。
 実家のある南知多にはその一年の間、夏休みの二週間と正月の一週間しか帰っていなかった。親や地元の友達にはバイトがあるからと言ってはいたが、本心は長く居れば居るだけ彼に会う可能性が高くなるのが嫌だったからだ。会えば、離れたくなくなってしまう。大学をも中退してしまうのではないかと思うほど、私の心は彼を求め、突き放していた。
 そんな捻くれた心も世間の成人式は行かなきゃいけないものという親や親戚のプレッシャーには勝てず、私は心底緊張しながら髪のセットと着付けをまだぼんやりとする早朝、やっぱり行くのは止めようかなと迷う前にしてもらった。姿鏡に映った私は自分で思うのもおこがましいが綺麗だった。もし彼がお転婆娘だった私がこんな綺麗になった姿を見たら、なんて言うだろうか。また振り向いてくれるだろうか。そんな淡い期待が私の胸の中を照らしはじめていた。
 成人式は市の公民館で市内のいくつかの中学校を集めて行われた。会場の前には南知多にはこんなにも人がいたのか、と驚くほど人がおり、待ち合わせをしていた友達と会うのにも一苦労するほどだった。そこに集まった誰もが煌びやかで大人びて見えた。ジムに通っているのかマッチョになった人や垢抜けて通り過ぎる男の子全員が振り向くような美人になっていた女の子もいた。
 彼はどんな感じなのだろう。
 そうこうしている間に友達と合流した。小学校から仲が良かった三人で、高校の時にバラバラになってしまったが私が帰省する度に遊んでくれる大切な友人だった。黒髪だったのを明るい茶髪にしていた希子とバレー部で四人組の中で一番背が高かった明梨は愛知県内の大学に、昔から化粧やファッションに詳しかった英里奈はヘアメイクの専門学校に通っていた。
 いつになっても、つい最近会ったような感覚で話せるのがこの三人だった。もちろん彼女たちは私と彼のことも知っていた。
 成人式が始まるという実行委員の同級生たちの声が公民館前に響いた。みんなが笑いながら、続々と入っていく。その中に彼はいた。人混みの前方に彼はいた。
 手が震え、人を掻き分けるかどうか頭の中で思考が揺れた。
 人の波は止まることなく動いていく。彼はとっくに式が行われるホールへと入っていき、私と友達は流されるように壇上から離れた後方の席へと座り込んだ。
「ねえ、海史くんに話しかけないの?」と英里奈が言った。
「絶対話しかけた方がいいよ」希子が英里奈に続いて後押しする。
 三人は式なんかよりも気になる様子できいてきた。
 話しかけないと。私の判断力は右往左往し、実現するまでに成人式の後に開かれた二次会を超え、三次会までかかった。
 お酒を飲みすぎて何人かが机に突っ伏し始めている頃、私と彼は何故か同じテーブル、さらに隣同士で座っていた。何を話しかければいいのだろう。同じテーブルにいる同級生は楽しく喋っている中、私たちはお互いを探り合っていた。子供の頃からの知り合いだと信じられないほど、隣にいる人が何を思っているのかを忍びやかに知ろうとしていた。
「夏美、東京にはいつ帰るんだ」
 彼がこの日、私に対して初めて言った言葉だった。
 騒々しい空気の中であっても、彼の声だけは澄み切った海のように鮮明に聞こえた。
「明後日。月曜に帰る予定」
「そっか」
「うん」
 私たちは底がびっしょりと濡れたジョッキを持ち上げ、口に含んだ。
「明日の予定はあるの?」彼はきいた。
「特にないよ」
「じゃあさ、明日また会えない?」
「うん……。わかった」
 その日の会話はそれだけだった。私たちは自然と違う友達と話しはじめ、気づけば長かった成人式の日は終わっていた。
 わたしは三次会が終わった後、タクシーを使い、希子の家で泊まらせてもらうことになった。明梨と英里奈も一緒だ。小学校の時もこうやって皆で布団を敷いて寝転んだっけ。お酒が入っていることもあり、瞼は鉛のように重かった。でも話題は尽きることがなかった。地元の腹を割って話せる友人と長話をするのは久々で、眠くなるまで昔話をした。当然、彼のことが話題にあがった。
「海史くんとさ、何で別れたの?」
 口火を切ったのは英里奈だった。
 私は黙り込んで、考えた。
 大学の友達にもきかれたことがあるが、毎回言葉が出てこないのだ。きっと理由は一つ、本当は別れたくないからなのだろう。でも、そんなことを言えば「じゃあ、別れなければいいじゃん」と当たり前のことを言われる。
 たしかにそうだ。それが一番私の中で難しいことなのだ。好きって言って、振り向いてくれなかったらどうしよう、そうやって考えると足はすくみ、震えて、座り込んでしまう。
「まあ、分かんないこともあるよね」明梨が気兼ねなく言った。
「えー、そうかなあ」英里奈は腑に落ちないようだった。
「そうだよ。特に夏美の場合は付き合った期間が長かったわけだし」
「海史くんの方はどうなんだろ」
 黙っていたのでもう寝てしまったのかと思っていた希子が、そういえばね、と呟いた。
 希子は彼と同じ大学に通っていた。しかも同じ学部らしかった。特に喋ったりすることはないが、時折大学の友達と話していると彼の話題になるということは前から聞いていた。
 もしかしたら、違う女性と付き合っているのだろうか。そしたら、明日会う時にビンタしてやろう。私は耳を塞ぎたい気持ちをぐっと堪えながら、身構えた。
「海史くん、夏美と別れてから誰とも付き合ってないらしいよ。この一年間、男友達としか遊ばないで、女の子はなんか避けてるらしいって噂だよ」
「何でそれを先に言わないのよ」
 英里奈が笑った。
「もうそれって、ねえ」
 明梨が意味ありげに私の方を覗いた。
 彼女に続いて、英里奈と希子も私を見ると、もう私には逃げ場はなかった。明日、何かいうしかない。
 夜が明け、私はボサボサの頭を誰にも見られないことを祈りながら実家へと戻った。
 今日会う約束はしていたが、何時にどこで会うのかは分からなかった。連絡を取る勇気もない。だから一応化粧をし、髪のセットをして、二度寝はしなかった。
 ソワソワする私はお昼過ぎに家中に響いたチャイムの音に飛び起きた。脈拍は一秒ごとにその数を増し、何もしていないのに息があがった。
 母がのんびりとした声で「はーい」といい、玄関を開ける音が聞こえた。
 部屋中を忙しなく歩き回る私に、母の声が届いた。「夏美ー。海史くんが来てくれたわよ」その声はどこか嬉しそうで、私はそんな母を彼が見ていると思うと少し恥ずかしくなった。
 二階にある私の部屋から誰かに狙われているように警戒しながら慎重に出て、なるべく階段が軋まないように降りると厚手の紺色のコートを着た彼が玄関で靴も脱がずに待っていた。両手にはテイクアウト用のコーヒーカップを二つ持っていた。
「お母さんは?」
「なんか奥の方に行っちゃった」
「うーん、そっか」
 きっと母なりの意地悪な気遣いをしてくれたのだろう。
「いきなり来て、ごめん。大丈夫だった?」
「うん」
「そっか、よかった」
 二言三言話すと、変な間が生じた。まるで赤信号のようで、青になるタイミングを二人は探した。
「ちょっと、歩かない? 外寒いんだけど」
「うん、ちょっと待ってて」
 二階へとあがって、ベージュのコートを素早く持ってきた。
「行こっか」
 その日は不純なものが丁寧に取り除かれたような澄み切った青空だった。ただ白く輝く太陽だけが青いキャンパスの真ん中に位置し、その陽光は乾いた空気をじんわりと暖めていた。
「これ」
 そう言って、彼は手に持った二つのコーヒーカップの一つを渡した。
「夏美、カフェオレ好きだったよね?」
「うん」
 渡されたカップから温もりが手に伝わる。いただきます、と言って少しだけ啜った。コーヒーのほろ苦さとミルクのまろやかさが舌を纏った。大人になった今ではブラックでも飲めるが、やはり少しだけ甘みのあった方が好みだった。
「美味しい、ありがとう」
「よかった」
「お父さんが淹れてくれたの?」
「いや、俺が淹れた。寒いからさ」
 彼はそういいながら自分のカップを啜った。
「え、そうなの。めっちゃ上手じゃん」
「結構練習してたんだよね。大学生になると趣味の一つや二つ欲しくなるじゃん?」
「うん、わかるかも」
 私たちは堤防沿いの道路に出ていた。本当に長い一本道で、遠くには小指一本サイズの灯台が見える。三連休の日曜日ということもあって、人通りは少なかった。二人でコーヒーを啜りながら、とぼとぼ歩いた。太平洋から流れる潮の匂いが鼻をくすぐった。
 昨日の夜のことを不意に思い出す。今日、私は逃げてはいけない。
「ここ一年さ、女の子と遊んでないって本当?」私はきいた。
 彼は一拍置いて、うん、と答えた。
「ここで誰かと遊んだら、もう夏美とは会えないと思った」
 懺悔するように彼は呟いた。
「それと同時にずっと恐かった。関係を戻して、また離れ離れになったら、その時も夏美を失うことになるって。でも、昨日会って思ったよ。もしそうなったとしても、また会えばいい。いくら離れても、何回もやり直せばいいじゃないのかって」
 彼の言うとおりだった。私たちは勝手に悩んで進まなかった。お互いに言いたいことも言わないで、ただ気持ちがすれ違っていると決めてかかっていたのだ。逃げることで、本当に別れてしまうことを避けていた。
「私も恐かった。何も言い出せなかった。本当にごめん」
「ううん、俺の方こそ悪かったよ。だからさ、もう一回俺と付き合ってほしい。もう一回、いや何回でも挑戦しつづけよう。そうすれば、きっといつか遠距離なんて関係なくなると思う」
 私は喉に熱が篭るのを感じながら頷いた。
 涙を堪えようと口にしたカフェオレはすでに冷たくなっていた。
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