第6話

文字数 6,829文字

「今野さん、すいません。少し用事を思い出しました」 
 わたしは花火を見上げながら鉄板の上の焼きそばを適当に混ぜている今野さんに言った。
 彼は一瞬口を半開きにしてわたしの顔を見た。こんな忙しい時に何の用なんだ、とでも言いたそうだ。戸惑いの表情はすぐに元の陽気な彼の柔らかなものへと戻り、厄介者を追い払うように金属製のヘラを持ちながら手を払った。
「大事な用事なんだろ? 俺なんかに何もいうことはないよ。行った行った」
 わたしは彼に一礼し、鉢巻がわりにしていた白いタオルとソースやマヨネーズがついたエプロンを解いた。額から滲んでいた汗に海からの風が当たると、ひんやりとして気持ちがよかった。
 円形で白銀の上品な花火が打ち上がった。花火に詳しい彼女が教えてくれた。あれは菊の花火なんだよ、と。
 彼女、夏美もこの風景を見ているのだ。
 夏美は若年手術を受けて、三十代の姿となって私の前に現れた。若年手術を受けた人は本来の寿命よりも長く生きられるはずなのに、彼女は最後と、もっと遠くのところへ行くと手紙に書いた。それは彼女が死を覚悟していることを意味しているのではないか。そんな彼女が花火を見られる場所は太平洋を室内から眺めることのできる南知多総合病院しかない。
 わたしは走り出した。幸いにも多くの観光客は花火に釘付けで、歩みを止めている。彼らの間を必死に通り抜けた。
 ずっと止まっていた時計の針が花火の衝撃によって動き始めたのだ。夜空と海面、両方に咲く花火はまるで砂時計のようだった。三万発の花火がすべて打ち終わる前に、夏美がいるあの病院へと辿り着かなければいけない気がした。そうでないと、もう彼女に二度と会えないと思った。落ち続ける砂の流れに振りほどかれないように、わたしは死ぬ気で縋り付かなければいけないのだ。
 運動していないせいか、すぐに息が上がる。肺はより多くの酸素を取り入れようと大きく膨らんだ。心臓はより多くの血液を巡らせるために動きを激しくした。脚の筋肉はすでに堅く張りはじめた。他のお客さんの感動する声はすでに聞こえなくなっていた。はあはあ、という情けない自分の息遣いと雷鳴のように訴えかけてくる花火の音だけが聞こえる。
 苦しい。一旦休んでしまおうか。
 考えたくもないことが頭をよぎる。その度に夏美との思い出が結界となって、そんな邪心を追い返した。いつでも一緒に居てくれた彼女が今でも私の原動力となっていた。
 花火は演目を変え、菊型のものから小さく細かな花火が弾けるものになった。空中に放たれた無数のシャボン玉が綺麗に散るような花火。私と夏美が初めてキスしたのもあの花火があがっていた時だった。
 そんな活発な花火に反して、私の身体は限界をとっくに超えていた。走っているのにもかかわらず、歩幅が小さくなっているので全く前に進まない。ただ胸の痛みだけが強くなっていた。エンジンは動いているのに、他の部品が故障してしまったかのように徐々に速度は落ち、わたしはついに両膝に手をつき、項垂れた。前髪の毛先からぽたぽたと汗が垂れ、コンクリート道路に黒いドット柄を描いた。
 視界がぼやける。脚は震える。
 ようやく四分の三ほどの道のりまで来たところだ。疲れて下に落ちてしまう視線を無理やり上げると、一本道の先に南知多総合病院の淡い緑色に光る看板が見えた。あと少し踏ん張るだけなのに。
 わたしは目を右手で擦った。こんなところで倒れてたまるか。
 一歩踏み出そうとした時だった。わたしは両手に妙な違和感を感じた。何かと思い、深呼吸をしながら両手を胸の前で広げると、そこには数え切れないほどのシワが浮かび始めていた。皮膚は薄くなり、水分は空気中へと飛んでいった。それにつれて緑色の血管は姿を現わしはじめ、自分の老いを象徴していた。
 若年手術の効果が薄れてきていたのだ。祭が始まった夕方からあまりに忙しすぎて処方されていた薬を飲んでいなかった。それに普段しないような激しい運動をしたのも過度な老化の原因だろう。
 錠剤を入れたケースはエプロンのポケットに入れたままだった。急いで来たことが今になって仇となった。
 細胞は老化しはじめた。それに伴って、身体機能も悪くなっていく。途中で倒れる危険もある。
 その時だった。頭上から女性のアナウンスが聞こえた。
「南知多花火大会にお越しいただき、誠にありがとうございます。これから打ち上げられる花火は四十年前に打ち上げられた花火と同じ種類のものとなっています。是非、これから打ち上げられる花火を眺めて、四十年前の南知多も皆様のお心に留めておいて下さい」
 今野が一週間前に言っていた。
 演目の最後の方に四十年前と似たような花火が打ち上がると。
 次の演目が終われば、花火大会は終わる。
 わたしは踏み止まっていた足を動かした。筋肉がなくなり、細くなっているのを感じる。脆くなった木造の家の中にある階段に足を置いた時のように足が軋むような感じがした。が、それがどうしたというのだろう。ありのままの姿でいいじゃないか。わたしは元からこの姿なのだから。
 もう一歩。またもう一歩。わたしは確実に歩きはじめ、走りはじめた。
 もうすぐなのだ。すぐそこに夏美がいる。ここで償えないで、いつわたしは彼女に長年の罪を償えるというのだろう。
 彼女はずっとわたしを想ってくれていたのだ。毎月欠かさずに手紙を書き、最後には自ら若い姿になって店へと来てくれた。微笑み方、コーヒーを飲む時の仕草、読んでいた本、薬指に光る指輪。その挙動一つ一つがわたしの記憶を、彼女との記憶を引き出すための努力だった。
 それなのにわたしは彼女の頑張りを踏みにじるかのようにベラベラと自分のことを語った。彼女がわたしの人生にいなかった偽りの記憶を彼女本人に話してしまったのだ。なんという失態だろう。もはや何をしても許されないかもしれない。彼女の名を叫んでもこっちに振り向いてくれないかもしれない。
 それでも会いたかった。
 子供の頃からの記憶を共有し、わたしの全てを知っている唯一の存在。それが美波夏美だ。彼女と過ごした時間こそが失った記憶を取り戻すための最後のかけらであった。そんな彼女に会いたかった。四十年の時を経て、このわたし達が生まれ育った地でまた愛を確認したかった。
 病院へと近づくたびに痛みに刺激された脳は彼女と共有した気持ちや風景が深い海底から引き揚げた。小学校の時にいじめにあっていたわたしを助けてくれたこと。周りに冷やかされて近付きたくても近づけなかった中学時代。夕暮れ時の帰り道に勇気を振り絞って告白したこと。この祭りで、人気のない公園で初めてキスをしたこと。大学生になってから一度離れてしまったこと。そして、それがとても辛かったこと。だがその経験は決して無駄ではなかった。わたしは彼女が必要なのだと気付かされた。彼女がいない日々はまるで波のない海のように音もなく、酷く退屈なものだった。だからこそ、二人が社会に出て、安定してすぐに結婚を申し込んだ。彼女がもう二度とどこか遠くへ行かないように。
 指と指との隙間からこぼれ落ちた記憶を拾うように走った。

 病院からは点々と光が溢れていた。病室にいる患者達が花火を見上げている証拠だった。その中に夏美もいる。
 わたしは一息整えて、病院の目の前へと出た。すると、そこには見慣れた人がガラス製の自動ドアの前でパイプ椅子に座り、空を見上げていた。
「進藤先生。なぜここに」
「東山さんですか……。その姿、錠剤を飲んでないんですか?」
「すいません、それは今話していられないんです」
 進藤先生は小さくため息をついて、そうですよね、と呟いた。すると、両膝に手をつき、立ち上がった。
「彼女、ずっと待っていましたよ」
 その言葉でわたしは彼が夏美と話したことがあることを知った。
「もう診療時間は終わっているので、本来だったら病院は開けないことになっているんですよ。でも、あなたが来てくれるって信じていた。いや、彼女は信じていた。だから自分も何か出来ないかって」
「ありがとうございます」
 わたしが深く礼をしていると、先生は何も言わずに踵を返し、開いた自動ドアへと歩いていった。
 病院の中は誰もいないかのように蛍光灯のジリジリとした音と足音、ぼんやりとした花火の破裂音だけが響いた。
 女性看護師は何かあった時のために受付カウンターに座っており、先生は彼女に何かを伝えていた。彼女はわたしに視線を向けた。こんな汗だくのおじいさんが何をしに来たのだろうか、と思っているのだろうか。
 先生は鍵を彼女から受け取ると、それをわたしに渡した。ホテルの部屋に入る時のような薄いカードキーだ。
「三階にある三○五号室に美波夏美さんはいます」
 手に置かれた鍵はどんな物よりも重く感じ、重力以外の引力を帯びているような気がした。わたしはそれを手放さないように、しっかりと手に持った。
「進藤先生、恩に着ます。本当にありがとうございます」
 病院に入って左手に上の階へと昇るエレベーターが三つあった。のぼり用のボタンを押すと、厚い扉が両側へゆっくりと開く。箱の中に入り、扉が閉じると、階数が一つずつ上がっていく。その度に酸素が薄くなったかのように息苦しく感じた。
 扉が重々しく開いた。緑色に非常用出口のサインと壁に取り付けられた暖色の小さな足元灯だけが廊下を照らしていた。受付フロアよりも一段と静かだった。この空間だけが隔離されているかのようで、息遣い、足音、心臓が脈打つ音のすべてが聞こえた。そのせいか、自分の今の状態が手に取るようにわかった。わたしは人生の中で一番緊張し、感動し、憂慮で歓喜に沸いている。
 三○五号室、それはどこの病室とも変わらないはずなのに特別に感じた。部屋番号の下にはしっかりと「美波夏美」と、名が書かれている。木材で造られた縦長のドアノブを横に引けば、人生が一変する。いや、一変ではない。わたしは元の自分に戻るだけなのかもしれない。
 ドアを優しく二回ノックした。少しの沈黙の後、中から声が聞こえた。あまり覇気のない、透き通った女性の声。その声は「どうぞ」と一言だけ返事をした。
 ずっと手に持っていたカードキーを名札の下に取り付けられた四角のレシーバーにかざすと、緑色に光って鍵が開いた。
 早く開けなければ鍵が閉まってしまうかもしれない。なのに、ドアノブに掴まってから腕が動かない。肩は上下に揺れ、なぜか涙が溢れていた。
 わたしは試合前の選手のように目を瞑り、肺の奥深くまで酸素を取り入れ、吐き出した。
 しっかりとした姿を見せてあげなくては。
 扉を開くと、白に近いクリーム色の壁で囲まれた空間が広がっていた。横長のコーヒーテーブルと二人がけのソファ、一人がけの椅子と木製ロッカーに、洗面台があった。天井につけられた蛍光灯は点いてはおらず、代わりにベッドの横に置かれた間接照明と白い月が浮かぶ空に咲く花火が部屋全体を照らしていた。
 白いベッドの上には一人の女性が外を眺めていた。腕には点滴が付けられており、その腕はひどく細かった。
 彼女は何も言わなかった。
 ただ虹色に輝く花火を眺めていた。
 わたしはそっとベッドに近づくと、床に膝をつき、枠組みに手を置いた。
「夏美、本当に申し訳ない。これだけの長い間、待たせてしまって、本当に、本当に……」
 それ以上何も言えなかった。何を言っても、彼女の時間は戻ってこない。許されないことをわたしはしてしまったのだと、ベッドに横になる彼女を見て心の底から感じた。
 両手に火傷に似た痛みを感じた。わたしは手の感覚がなくなるほど強く握りしめた。
 情けないから心配をかけた。
 弱いから苦しめた。
 現実から逃げていたから向き合えなかった。
 また愛しているなんて気安く言えはしなかった。こんなわたしのせいで、彼女の人生は振り回されてしまったのだから。
 ベッドにしがみつく老いぼれの手に羽毛が落ちるかのように彼女の手が置かれた。薬指にはわたしがあげた指輪が長い年月が過ぎても輝いていた。
「そんなに落ち込んでいないで、一緒に見ませんか?」
 力がないのは逆に自然に感じた。弱っていることを隠すのが上手な彼女はこんな状況でも健在だった。
 わたしは顔を上げると、彼女は依然として窓に顔を向けていた。花火から放たれる光明が一瞬だけ彼女の顔を照らす。皺やシミは四十年という長い時を物語っていたが、彼女の端麗でハッキリとした顔つきは変わっていなかった。
 彼女が見つめる窓の外にわたしも目線を移した。瞼が腫れ、狭まった視界で真っ黒なキャンバスを彩る眩い絵の具を捉えた。ひとつひとつが違う芸術となり、心を揺さぶった
「この花火のこと覚えていますか?」彼女はきいた。
「もちろん。今まで何で忘れていたのか本当にわからない」
 彼女はわたしの手をぎゅっと握った。もう離さないと言われているようだった。
「本当にあなたって人は」彼女はその時初めてわたしに顔を向けてくれた。瞳から流れた涙は葉先から一滴だけこぼれ落ちる雨粒のようだった。葉で溜めた雨水を集約したような、そんな涙だった。「バカな人です」
 彼女は泣きながら微笑を浮かべていた。
 わたしは握られていた彼女の手を握り返した。余分な肉はなく、脆そうな骨を直接感じる。
「わたしはバカだ。これほど愛する人がいるというのに、忘れていたなんて。こんなにも触れたいと思っていたのに、忘れていたなんて」
「ええ」
「手紙も書いて、わざわざ店にまで来てくれたのに。大バカだ」
「本当に」
「すまなかった」
 わたしを見つめる瞳には自分が映った。彼女はいつものように包むような笑みを浮かべていた。
「そんなの言わなくてもいいんですよ。私を探し出してくれた時点でもうあなたを許しているんですから」
 わたしの瞳からも涙が滴り落ちた。いい歳をした二人が静かに泣いた。
 こんなに満たされた思いは四十年間で初めてだった。工場で働き、この喫茶店を建て、常連客が来てくれるようになっても彼女がいなかったわたしの心は都市を失った国のように正常に機能していなかったのだ。
 南知多花火大会はラストスパートをむかえていた。打ち上げられる花火の数はこの三十分間の中で最多で、勢いよく南知多の復興を祝った。赤、青、黄、緑、オレンジに白銀。色とりどりの花々があの日の果たせなかった約束を思い出させた。
「あなた以外いなかった」
 彼女は手は握ったままで外を眺めながらいった。
「他の人と結婚なんか考えられなかった」
 同じだった。本能がわたしに訴えていた。彼女もそうだったのかもしれない。
「そしたらこんな歳になってしまいました」
「身体の方は大丈夫なのか?」
 彼女は何と伝えればいいか考えるかのように黙り、ぼそっと言った。
「AYG-06だそうです」
「だからこの病院に」
「ええ、でももう手遅れだったみたいで……」
 それ以上彼女は言わなかった。
 わたしは目線を下げてしまった。慰めればいいのか、嫌だと拒絶すればいいのか、それとも何も言わない方がいいのか。大切な人を突然亡くしてきたわたしには分からなかった。また守ってやれない事実に自分自身を殴りたくなった。
「でも、もう後悔はしていないんですよ」
 彼女は触れていなかった右手をわたしの手の上に重ねた。
「死ぬってなった時の後悔って何だろうって考えていたんです。それこそついさっきまで。で、色々と考えたんですけど、やっぱりあなたに忘れられることだと思ったんです。そしてあなたは、こうして駆けつけてくれた。だから――」
「ダメだ。ずっと一緒に居てほしい。やっと取り戻したのに」
 耐えられなかった。私は最低だ。
「無茶言わないでください。あなたは本当にずるい。もう未練はないのに。あなたが居るだけでやりたいことが何個も出てくる。結婚もしたかった。子供も欲しかった。一緒に旅行に行きたかった。それを全部出さないようにしてたのに。本当にあなたって人は罪な人間です」
「あと何日、何十日、何ヶ月、何年あるかも分からないじゃないか! 毎日、わたしはここに来るよ。絶対に。だから頼む。未練はないなんて言わないでくれ」
 わたしの言葉の後ろで最後の一発が派手な音とともに弾けた。
 静寂だけが室内に残った。
 何だか今までの出来事が夢のように思えた。手に感じる暖かな感触は夢の中の産物で、目を覚ませば煙のように天へと昇り、消え去ってしまう気がした。
「夏美?」
「どうしました?」
「いや、ごめん。なんでもない」
「終わっちゃいましたね」
「うん」
「来年も見られるでしょうか」
「きっと見られる。これから毎年一緒にみよう」
「はい……」
 外からは人の話し声が聞こえた。
 三階からの窓からは覗き込まないと流れるような人は見えなかった。ぼんやりと白く光る月に照らされた海だけが窓から広がっていた。
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