最終話

文字数 2,169文字

 八月十八日。わたしが記憶を取り戻してから一年が経った。
 今年も大勢のお客さんが海岸線へと集まっていた。屋台も去年と同じように騒がしく並んでいる。前年の三万発は多くの人が絶賛し、テレビやネットで大々的に紹介され、震災から四十年というのと合わせて一躍時の話題となった。花火大会の最後を飾った震災前を模倣した花火は終わってみれば批判的な声など一切なかった。逆に読みきれないほどの感謝の声が運営側に届いたという。
 おかげで今年も運営には力が入っていた。町おこしにも繋がるこの一大イベントは町全体を巻き込んで進んだ。
 わたしや今野さん、進藤先生もその一員だった。
 例えば、屋台の数を増やすために様々な案を出したり、花火の演目を変えるべきかといった話だ。また、去年の花火大会で感じた課題点も議題になった。混雑をどのようにすれば抑えられるか、花火大会後のゴミ問題をどうするかといった問題だ。規模が大きいからこそ改善点も山ほどあった。
 その甲斐もあって今年の花火大会はより快適なものになったと皆が胸を張って言えるものとなった。あとは実際に始まってみないと分からないが、この町に来てくれた人を落胆させることはきっとないだろう。
 それだけ準備したのにもかかわらず、わたしは屋台も出さずに彼女の元へと来ていた。今野さんは今年も鉄板から噴き出る煙を浴びながら焼きそばを作っているというので、少し申し訳ない。
 だが、約束は守らなければいけなかった。結婚しようというもう一つの約束を果たせなかったわたしにとって、これはもはや義務であり、使命だった。
 彼女は海岸線から少し離れた場所にいた。山よりは丘という言葉が似合う、わずかに地形が盛り上がった場所だ。一般道から小道が別れていて、そこを少し歩くと石畳の階段がある。二十段ほどしかない小さな階段で、両端には雑木林が生えている。どれも地面深くに根をはっているのだとよく分かるほど幹は太く、よく震災の時に流されなかったと感心する。それらの木々に青々しく茂った葉が夕陽を遮って、湿った空気がやけに涼しく感じた。
 のぼりきると、石畳は灰色と白色の綺麗な砂利へと変わる。今日が花火大会だからか誰もいなかった。周りは依然として雑木林に囲まれているおかげでそこは現実世界と隔離された別世界のようだった。海と常に隣り合わせなわたしにとってはなおさらだ。
 午後六時。水平線に夕陽が腰をかけはじめた頃だろうか。雲ひとつない青空は徐々に赤み帯びて、水色と淡い橙色の美麗なグラデーションを描いていた。
 持ってきた花束が汚れないようにそっと地面へと置いて、入り口に用意されている檜の水桶に水を汲むと、ゆっくりと奥へと進んだ。今日は去年みたいに走らなくてもいい。
 敷地の奥に彼女はいた。静かに眠る彼女の上にはまだ新しい墓石があった。「美波夏美」と達筆な字で深く彫られている。
 柄杓で頭から水をかけると墓石はよりその光沢を増した。
 墓石の前に置かれた花瓶には二週間前に供えた花が元気をなくしていた。毎日水やりをしにきているのに、あまり長くは保たないらしい。新しい花を持ってきてよかったと改めて思った。
 最後に線香をあげた。深緑色の線香からは独特の匂いを纏いながら潔く空へと舞っていった。この煙を通じて彼女がまたこの世に戻ってきていることを密かに願った。
 どれだけ時代や技術が進歩しても墓参りやお盆といった伝統的な行事に変わりはなかった。今こうして自分が誰かを想ってお参りしていると心から思う。こういうのは形にはならないが意味がある。彼女を想うこの気持ちは水や花、煙を通して伝わっているのだと不思議と感じるのだ。
 わたしは目を瞑り、手を合わせた。
 夏美、あの日から一年が経ったよ。君がわたしの記憶を呼び起こしてくれたあの日、今までいた世界がより立体的で現実的になった。喫茶店を建て、周りに友人がいても、夏美がいなかったこの世界はどこかぼやけて見えていた。でも、今は違う。全て君のおかげだ。
 目を開ければ彼女がいるのではないか、と子供じみた期待をしていたが当然彼女の姿はなかった。彼女の声も聞こえず、ただ海から届く爽やかな風で擦れる葉の音だけがこの場に響いた。
 それからわたしは座り込み、一方的に語りかけた。
 この一ヶ月間に話したいことは沢山あった。一人で営むちっぽけな喫茶店は去年の花火大会から徐々に人気を伸ばし、一日の来店数が三人だけなんてことはなくなった。そのせいか色々な話を聞く。若い人の悩みや年配者の笑い話。時には忙しすぎて辛いこともあるが、夏美に話す話題が増えて嬉しく思った。これできっと彼女も退屈しないだろう。
 遠くから女性の声でアナウンスが聞こえてくる。
 そろそろだ。
 わたしは語りかけるのを止め、南の方角に体を向けた。階段がある方向だ。
 雑木林に囲まれているこの場所は階段のところだけ景色が開けていて、そこから海が見えた。
 ほんのかすかな隙間からゆらゆらと揺れる波が見えた。
 西日は落ち、代わりに白い月と細かな星が姿を表す。地球圏を超えた遠い場所にあっても、しっかりと目にすることができた。
 それに対抗するように大きな花火が夜空を飾った。
 赤色の菊型の花火は海面にくっきりと映った。それはまるで彼女の薬指を輝かせた宝石のようだった。
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