(九)ガラス越しに消えた夏(鈴木雅之 一九八六年)

文字数 3,215文字

 一九八〇年×二〇一〇年の八月十一日

 海雪とは既に、二日会っていなかった。COUGARのスピーカーからは、いつものように風の放送局の声が流れていた。
 海雪さん、前回は足が調子悪そうだったけど、大丈夫かなあ。
 少年は心配でならなかった。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年八月十一日。空は雲ひとつなく、とけてしまいそうな青空です』
 ふっわーっ。
 仰る通りの日本晴れで、こっちはもう眠くて眠くて欠伸が止まりません。とか言いたいところだけど、残念ながら雲しっかり浮かんでんですけど、風の放送局さん。
 少年は眩しい空を見上げながら、ため息を零した。
 しかもどでかい入道雲が、空に白インクを垂らしたみたいに広がってますよ。ま、いっか。きっと風の放送局さんの気分の話をしてんだろ。でオープニングの曲は何ですか。
『では今朝の一曲目。鈴木雅之、ガラス越しに消えた夏。どうぞ』
 すずきまさゆきって誰だ。それに最近知らない曲多いなあ、風の放送局。でもどっかで聴いたような歌声。
 少年は首を傾げながら、COUGARに耳を傾けた。すると人影が近付いて来る。
「おはよう」
 海雪だった。
「あっ、おはようございます」
 挨拶を済ませると、海雪はそのまま波打ち際まで歩いていった。海雪は立ち止まり、COUGARの歌に合わせて踊り出した。朝陽の中で白いワンピースの裾がくるくると回って、丸で白い妖精。海雪はサンダルも脱ぎ捨て、くるくるくるっと踊り続けた。穏やかな波が海雪の足を撫でてゆき、如何にも気持ち良さそう。
 海雪さん、今日は調子良さそう。
 少年は一安心。
 このままずっと、踊っていられたらいいのに。
 少年は祈るような気持ちで、海雪を見守った。
 曲が終わると、白いバレリーナは打ち寄せる波の中でぴたっと足を止め、海に向かって深々と会釈した。
「ブラボー」
 少年は拍手喝采。すると海雪は振り向いて、少年にも丁寧に会釈した。それから開口一番、こう言った。
「ねえ、今の歌、きみとわたしのことみたいだったね」
「えっ、そうだったっけ」
 少年は慌てて歌詞を思い出そうとしたけれど、生憎初めての曲で、上手く思い出せなかった。今更どんなところが、とも聞けず少年は沈黙した。
「冗談、冗談。それはさておき、ね、突然だけど、きみ、彼女いるの」
 えっ。
 少年は顔をまっ赤にして、照れ臭そうにかぶりを振った。
「そっか」
 海雪は波打ち際から引き返し、少年の横に佇んだ。
「気にしない、気にしない。まだ若いんだから。そのうちきみの前にもちゃんと、運命の人が現れるよ」
 運命の人かあ。あっ、そう言えば俺の運命の人って、海雪さんだったんだけど……。
 少年はすっかり忘れていた千日間の詩の伝説を、久々に思い返した。
「もしわたしで良かったら、なんて言いたいとこだけど、無理なんだ、わたし。ごめんね」
 ごめんね、って。俺なんかに、謝らなくていいのに……。
「そんなこと、全然いいから」
 少年はかぶりを振りながら笑ってみせたけど、ぎこちなかった。
「そうだ。ね、一緒に踊らない」
「えっ」
 海雪が少年をダンスに誘うのは、これが初めてのことだった。
「踊ろうよ」
「でも、俺やったことないし」
「いいから、いいから。力を抜いて、体が自然に動くのに任せればいいのよ」
「でも、無理だよ。俺、とろいし」
「大丈夫。だーれも見てないから」
 海雪は少年の手をぎゅっと握り、波打ち際へと誘い出した。BGMは海雪が歌う、渡辺美里の、男の子のように……。
 きらきらと煌めく波の中に、透き通った海雪の歌声が溶けてゆく。
 どきどき、どきどきっ……。
 握られた手を通して海雪の鼓動が痛い程に伝わって来るから、少年は胸が締め付けられる思いがしてならなかった。しかし海雪の手には情熱だけではない、病による高熱もまた確かに潜んでいた。それにしても海雪の手は痩せていて、白くて柔らかかった。
「ね、手を上げて、わたしを支えて」
「えっ、こう」
 言われるまま少年が手を高く上げると、その手につかまりながら海雪がくるくるくるッと回転した。
 へえ、これってなんかロカビリーっぽい。ちょっと前に名画座で見た、アメリカン・グラフィティ、みたいだ。
 少年も踊り出したくて、体がうずうずして来た。
 はあはあ、はあはあ……。
 海雪の息遣いが鼓動と共に、少年の呼吸へと伝わって来る。海雪の額からは汗が滴り落ちていた。それはきらりと光りながら海雪の頬まで到達し、涙のようにも見えた。
 はあはあ、どきどき、はあはあ、どきどきっ……。
 ところが夢中で踊るふたりに、突然のアクシデントが襲った。足がもつれバランスを失った海雪が、砂の上にばたんと倒れたのだ。その拍子に海雪と少年の手は離れた。
「大丈夫」
 少年は急いで、海雪の横にしゃがみ込んだ。
「ごめん、平気平気」
 海雪はゆっくりと、自力で起き上がった。しかしその息遣いはまだ荒く、顔も青ざめていた。
 ぜいぜい言わせながら、そして海雪は突然、こう言った。
「ねえ、わたし、死にたくない。もっと生きたい」
 えっ……。
 少年ははっとして、海雪を見詰めた。
 やっぱり駄目じゃないか。
 少年は落胆した。
 現実に死を目の前にしている海雪さんに対して、俺や風の放送局のおっさんの屁理屈なんか、何の役にも立ちゃしないんだよ。まったく何の救いにもなってないんだよ。結局ただの戯言に過ぎなかったってこと。花だとか蝉だとか、さなぎとかヤドカリとか、水平線だとかってさ。偉そうなこと言ったって、結局……。
 俺とひとつしか違わない、まだ若くて綺麗な海雪さんが、たったひとりで死の恐怖と闘ってるってのに。俺なんか何の役にも立たない、何の力にもなれやしない、何にもして上げられないんだよ。俺なんかまったく、ただの無力な屑じゃないか。なあ、何とか言ってくれよ、風の放送局。お願いだから海雪さんを、助けて上げてよ。
 気付いたら少年の目から、涙が溢れていた。
 それを見た海雪ははっとして、少年をじっと見詰め返した。泣きそうな顔で、必死に笑みを浮かべながら。
「ごめんね、泣き言なんか言っちゃって。昨日の検査結果がね、ちょっと最悪だったから」
「検査結果」
「うん。でも、もう大丈夫だよ。だって、きみの涙を見たから、凄く勇気が湧いて来たもん。ほんとだよ、ありがとう」
 ありがとうって。俺、何にも……。
 気付けば風の放送局はいつのまにか終わり、COUGARからはいつもの波音が流れていた。
 ふたりは砂に腰を下ろし、肩を並べ海を眺めた。ただ黙って、じっと海を見ていた。
 このまま時が、止まればいいのに……。
 少年はただ、海雪と共にいつまでも海を見ていたかった。
 潮騒、目の前の海とCOUGARのスピーカーからとの混ざり合った潮騒の中で、海雪が歌い出した。それは少年も知っている、古い古い歌だった。少年は静かに目を瞑り、海雪の歌声を聴いた。
「いつかある日、山で死んだら……、母親には安らかだったと、男らしく死んだと父親には……」
 歌い終わると、海雪は少年に尋ねた。ちょっと不服そうに。
「何で、海で死んだら、はないの。それに、女らしく、もないし。ねえ」
 確かに、そう言われれば……。
 少年は答えた。
「登山の歌だからだよ、きっと」
「登山。あっ、そっか」
「それに女らしく死ぬって、どんなふうに」
 あっ、しまった。
 尋ねてから少年は悔やんだ。
 海雪さんに向かって、死ぬ、なんて言うなよ。ばかか、俺……。
 でも海雪は、少しも気にせず答えた。
「そうねえ。例えば誰にも知られず、ひっそりと散ってゆく、みたいな感じかな」
 ひっそりと散ってゆく、かあ。
 少年は密かに、ため息を零した。海雪はじっと、海を見ていた。
 膝抱えぼんやりと少年が波音を聴いている間に、気付いたら海雪はいなくなっていた。
 あれっ。もう帰ったのかな、海雪さん。
 砂浜には、海雪の足跡だけが残されていた。
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