(十二)私が生まれた日(山崎ハコ 一九九五年)

文字数 4,251文字

 一九八〇年八月十九日

 昨日詰まり八月十八日の夕方から雨になった。それは激しい雨だった。雨は夜中まで降り続いた。日付けが変わりしばらくすると、ぴたっと雨は止んだ。午前二時、だった。
 少年は急いで海辺に出掛けた。ただひたすら海雪を待つ為に。
 昨日即ち八月十八日、少年は詩を書かなかった。否書けなかった。いつものように書こうとして日記帳の白いページに向かったけれど、結局何も書けないまま一日が過ぎた。
 それは中学三年から継続して来た詩作が、遂に途絶えたことを意味した。けれど少年は少年なりに、書けなかった事実とその訳を受け入れていた。
「もう、来れないかも」
 昨日海雪が最後に告げたこの言葉、それがすべてだった。
 夜が明けても、海雪は現れなかった。
 少年は思い出したように、COUGARの周波数を風の放送局に合わせた。ところが聴こえて来たのは、ノイズだった。
 あれっ、何でだ。
 しばらくじっと我慢して聴いていたけれど、いつまで経ってもノイズのまんまだった。
 どうしたんだろ、一体……。
 少年は悪い予感に襲われた。
 もしかして、娘さんの身に何か……。
 そう思うと、海雪と同様、風の放送局のことが心配でならなかった。
 海雪さんも、風の放送局も大丈夫かなあ。
 けれど少年には、何ひとつ確かめる術はなかった。ただひたすら海雪が来てくれるのを、そして風の放送局がラジオで何か話してくれるのを待つしかなかった。
 少年は苛々しながら、COUGARに耳を傾けた。しかし結局、風の放送局は一日中ノイズのままだった。そして海雪も現れなかった。

 一九八〇年八月二十日

 少年は今日も、深夜から夜明けまでただひたすら海辺で待ち続けた。夜明けが訪れ、そしてCOUGAR。けれど風の放送局の周波数からは、やっぱりノイズしか聴こえて来なかった。海雪が姿を現すこともなかった。
 少年は落胆した。ため息も出なかった。
 やっぱり本当に、本当に海雪さんは……。
 少年は祈るような気持ちで、ただじっとCOUGARのスピーカーに耳を傾けた。しかし今日も、耳に馴染んだ風の放送局の声を聴くことは出来なかった。いざあの声が聴けないとなると、無性に寂しくてならなかった。
 それでも少年は、諦めなかった。
 今迄海雪さんがここに来た時は、必ず数日置きだったじゃないか。だったら昨日今日来なかっただけで、まだ諦める必要はないんだよ。
 少年は自分にそう言い聞かせた。
 よし、明日が勝負だ。
 少年は首を長くして、翌日の夜明けを待った。

 一九八〇年八月二十一日

 しかしあんなに待ち遠しかった夜明けが訪れても、結局何も変わらなかった。
 COUGARのスピーカーからは聴き慣れたあの風の放送局のお喋りが聴こえ、海雪もここにやって来る。そんな願いは、叶わなかった。
 COUGARからはノイズ。
 やっぱり駄目か。
 少年は諦め掛けた。ただ目の前の海の波音だけが、少年の耳に響いていた。

 一九八〇年×二〇一〇年の八月二十二日

 夜明け。
 悲観と絶望と諦めの中で少年は海辺の砂に腰を下ろし、ただ惰性からCOUGARの周波数を風の放送局にセットした。
 結果は予想通り、ノイズ。
 あーあ、やっぱもう駄目なんだ。
 そう思いつつも、少年はCOUGARのスイッチを切れずにいた。
 ところがしばらくしてノイズが消え、COUGARは一瞬無音と化した。
 あれっ、もしかして。どきどき、どきどきっ……。
 少年は胸の高鳴りを抑えつつ、耳をそばだてた。やがて無音の中から、何かが聴こえて来た。それは正しく、波の音だった。
 やったーっ。
 少年は思わず、ガッツポーズ。そして波音に混じって、遂にあの声が少年へと語り掛けて来たのだった。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年八月二十二日。やけに朝陽が目に沁みる、眩しい朝です』
 けれどその声を聴くなり、少年はどきっとした。なぜなら風の放送局の声は、震えていたから。
 どうしたんだよ、風の放送局のおっさん……。
 少年はじっと、放送に耳を傾けた。
『きみの詩を、読ませてもらいます』
 えっ、行き成り、詩かよ。やばい、やっぱり何かあったんだ、娘さんに。
『風が問いかける
 海がわたしに問いかける
 どうしていつも踊っているの
 だってわたし、踊りたいの
 わたしが踊っていた場所
 息を切らし、息が続く限り、息が止まるまで……。
 五月の風の中でわたしが踊っていた場所は
 だからもう、さがさずにいて下さい
 今も海が見える丘の上で
 誰にも知られず踊っているから
 光と風の中で、踊っているから
 もうわたしのことは、さがさないで下さい』
 さがさないで下さい、って。
 風の放送局の声は矢張り、沈んでいた。少年はじっと、COUGARを見詰めた。
『今、五月の風ってあったけど、きみは一九九一年五月八日生まれ、だった。そして二〇一〇年八月十九日、詰まり三日前、午前二時、きみは、死んだ』
 やっぱり、そうだったんだ。でも……。
 少年は素朴な疑問を抱いた。
 娘さんが一九九一年生まれって、勿論死んだのが二〇一〇年って言うのも変だけど、どういうこと。
 もしかして風の放送局、娘さんが死んだショックで、パニック状態だったりして。大丈夫かな。
『静かに、穏やかな笑みを浮かべながら、きみは息を引き取ったそうだね。そのことをママから電話で聞いた時、ぼくは不思議に悲しみを覚えなかった。なぜだろう。なぜなら、やっぱり今もきみは、この世界の何処かで確かに生きていると、そんな気がしてならないから、なんだと思う』
 風の放送局は、そしてしばし沈黙した。
 悲しみを覚えなかった、だって。この世界の何処かで確かに生きている、だって。やっぱ、この人、絶対おかしい。相当参ってんじゃないかな。
 少年は風の放送局のことが、心配でならなかった。潮風が不意に少年の頬を撫でるように、吹き過ぎていった。海水を含んだ、潮辛い湿った風だった。
『今朝はきみに、この曲を贈ります。山崎ハコ、私が生まれた日。曲が終わったら、いつもの波音に戻ります』
 いつもの波音に、か。
 風の放送局は、最後まで沈んだままだった。山崎ハコの歌が終わると、スピーカーからは直ぐに波の音が流れて来た。少年はCOUGARから目を離し、じっと海を見詰めた。
 風の放送局の娘さんが死んだ。みゆきさんが。みゆきさん……。
 少年は悪い予感に襲われた。
 もしかして、海雪さんも……。
 しかし本当に海雪が死んだのか否か、少年には確かめる術など何もなかった。
 たとえこれからずっと海雪がこの海辺に姿を現さなかったとしても、それでもやっぱり海雪が死んだなどとは思いたくなかった。ただ調子がずっと悪くて来れないとか、はたまた元気になって学校とか行くようになって、俺なんかの相手なんぞしてる暇がなくなったとか。或いは急に遠くへ引っ越してしまったからなのだと、少年はそんなふうに思いたかった。
 夜はいつのまにかすっかり明け、朝陽が眩しく海を照らしていた。気付いたらスピーカーからはノイズ、既に波の音すら終わっていた。後には目の前の海の、波音だけが残されていた。
 明日も放送やってくれんのかな、風の放送局。
 少年は心配しながら、そっとCOUGARのスイッチを落とした。

 それから少年は、日が沈むまで一日中ずっとそこにいた。なぜそうしていたかと言えば、待っていたから。海雪が来るのを、少年はただひたすら待っていた。
 いつか夕映えが空と海を紅く染め、やがて夜の帳が降りると空には銀河が瞬き、地には海沿いの街灯りや家々の灯りが点って、夜の闇を照らした。けれど少年は帰る家なき者の如くに、ぼんやりとただ海を見ていた。
 夜の海の静けさに、少年は人恋しさに襲われてならなかった。都会の人波に紛れながら、宛てもなく何処までも彷徨したい。そんな思いに、無性に駆られた少年は遂に、海を後にした。
 横浜の繁華街まで、少年は足を延ばした。バスで京浜急行の金沢文庫駅へ行き、そこから電車に飛び乗り、黄金町駅で下車。後は関内の商店街まで汗だくになりながら、黙々と歩いた。電車の中は酷く混んでいたし、歩いたのは、けばけばしいネオン瞬く風俗街だった。けれど少年は、何も目に入らなかった。ただ行く宛てもなく、雑踏の中を彷徨い続けた。
 あっ、もしかして……。
 人波に揉まれ、汗を拭いながらふと少年は、閃いた。
 海雪さんて、実は、風の放送局の娘さんなのかも。だってラジオだから漢字、分からなかったけど、娘さんの名前だって、みゆき、だったし。
 そうだ、きっとそうに違いない。だったら……やっぱり、海雪さんは死んだんだ……。
 ふっと涼しげな夜の風が、少年の頬を撫でていった。何処からか、風鈴の音が聴こえて来る気がした。薄っすらと、少年の目に涙が滲んでいた。
 それでも少年は、何かが心に引っ掛かってならなかった。海雪の死について、どうしても納得のいかない、何かが……。
 歩き疲れた少年は、伊勢佐木町商店街の通りにあるベンチに腰を下ろし、ぼんやりと通行人や商店の様子を眺めた。
 ふう、あちい。それに喉、渇いた。
 海岸と違って潮風が無く、街の中は蒸し暑かった。文字通りの熱帯夜だった。
 滴り落ちる汗を薄汚れたハンカチで拭いながら、少年はふと思った。
 風の放送局は、何だかんだとラジオで格好のいいことばかり言ってたけど、結局、娘さんは死んじゃったじゃないか。
 でも、もし……。そうだよ、もしお母さんに従って、娘さんがちゃんと治療を続けていたら……。
 ごくっ。
 少年は、生唾を呑み込んだ。
 娘さんは、今でもまだ生きていたかも知れない。娘さんは、まだ死なずに済んだかも知れないんだよ。それをあの風の放送局が、余計なことばっか言ってさ。娘さんを、無理矢理説得したもんだから……。
 少年の中に風の放送局に対する怒りが、俄かに込み上げて来た。
 そうだ、風の放送局のおやじ。あいつが全部悪い。あいつのせいなんだ。娘さんだって本当は、治療を受けたかったのかも知れない。それをあいつが説得するから、娘さん仕方なく従ったんだ。きっとそうだ。
 可哀想に、娘さん。と言うか、海雪さん。
 くっそう、俺は絶対あいつを許さねえぞ。
 風の放送局への怒りは更に激しく、少年の中に燃え上がった。帰宅しても、風の放送局への怒りは収まるどころかますます増幅した。
 そこで少年は、決意した。今後絶対、海へは行かず、深夜放送も、COUGARも聴かないと。
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