(十四)卒業写真(ハイファイセット 一九七五年)

文字数 3,047文字

 一九八〇年×二〇一〇年の八月二十八日

 二十六日、二十七日と風の放送局はお休みだった。COUGARからはノイズのみ。今朝も期待することなくCOUGARを風の放送局に合わせたけれど、やっぱりノイズだった。ところが少年がうとうとし出した刹那、さっとノイズが消えた。そして聴き慣れた声が。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年八月二十八日。穏やかな潮風の吹く夜明けです』
 天気は快晴で潮風も頬にやさしかった。でも風の放送局の声は、まだやっぱり何処か沈んでいるように思えた。
『きみの詩を、読ませてもらいます』
 今日も行き成り、娘さんの詩かあ。それにしても娘さん、がんばって詩を書いていたんだなあ。
 少年は感動を覚えつつ、COUGARに耳を傾けた。
『ここは
 銀河系、太陽系、第三惑星、地球の
 海と呼ばれた場所
 聴こえてくるのは、波の音
 潮騒がわたしの鼓動をやさしく包み
 波がわたしの涙を友のように慕い
 今夏の夜空のすべての星が
 わたしを見守っていてくれるので
 わたしはただもう絶望することも忘れ
 立ち尽くしているばかり
 ここは確かに
 銀河系、太陽系、第三惑星、地球
 今この星の上で
 確かにわたしも、生きているようです』
 生きているようです。絶望することも忘れ。絶望かあ……。
 少年はため息を吐いた。風の放送局はしばし沈黙し、そして語り出した。
『昨日、家に残っていたきみの荷物を、ママが全部運んでいったよ。ベッド、タンス、机、重いものは中身だけ持ち去って、後はそのまま置いていってしまったけどね。アルバムだって全部持っていった筈なのに、なぜかママ、慌てて本当に忘れたのか、それともわざと残して行ってくれたのか。机の引き出しを開けたら、きみの中学校の卒業写真が入っていたんだ』
 中学校の卒業写真……。娘さん、いや海雪さんは結局、高校卒業、出来なかったんだよなあ。
 少年はまた、ため息を零した。
『昨夜はがらーんとしたきみの部屋の中で、しばらく眺めさせてもらったよ。写真の中で、きみはやさしい笑顔を浮かべていたね。ママから聞いたけど、ママと病室で最後に話をした時きみは、ママにこう言ったそうだね。
「産んでくれて、ありがとう」
 いつのまにかきみは、ぼくたちを追い越して、ひとりでさっさと大人になっていたんだね。吃驚したよ。そして何よりも嬉しかった。ぼくたちの方が、よっぽどきみより子どもだったんだ。
 だからきみはぼくたちより先に、一足早くきみという人生を、卒業、していったのかも知れない、そんな気がした。そんなふうにね、ふっと思えたんだよ、自然にね。
 そしてきみは今、新たな命となって、この世界を、宇宙を、自由に飛び回っている……』
 風の放送局は沈んだ声で語り掛けていたけれど、急に声を詰まらせ黙り込んだ。
 もしかして、泣いているのかな。
 少年はじっと、COUGARを見詰めた。やがて風の放送局は、再び語り出した、ゆっくりと静かに。
『きみが去っていったあの夜、ママとの電話を終え、ぼくはひとりで深夜の海へと出掛けた。海へと向かうその間中ぼくがずっと思っていたことは、ぼくはきみにさようならを言わなかった、いや、ぼくはきみにさようならは言わなかった、ぼくはきみとさようならを交わさなかった、ということ。ただそれだけのことだった。
 海岸に着いて夜空を見上げると、そこには透き通るような満天の星が瞬いていた。きみが去っていった夜だというのに、海辺の星たちは、それは眩しく鮮やかに、所狭しと賑やかに饒舌に、それは余りにも美しくすべての命を包み込むように或いは照らすように、そしてこの海岸へと、いやこの地上へと降り注ぐように瞬いていたんだよ。
 潮風がぼくの頬をくすぐるように、そっと静かに吹き過ぎていった。その時ふっとぼくは、今頃きみはどの辺りを旅しているんだろう、そんなことを思った。本当に自然に、そんなふうに思えたんだ。強がりや慰めや気休めじゃなく、確かにそんなふうに思えたんだよ。
 それからぼくは夜明けまで、きみが好きだった海辺に佇み、そこから見える景色を眺め或いは夢想した。海の公園に沿って連なる街灯の光、金沢シーサイドラインの駅と駅とを結ぶ玩具細工のような無人電車の灯り、八景島シーパラダイスのイルミネーション……。
 ただぼんやりと、何も考えず眺めていた。きみとめぐり会ったことも、きみともう二度と再び会うことはなくなってしまったということも、みんなすべて忘れてしまってもいいと思う位、きれいな夜景を眺めていた。
 昔この街を愛していたひとりの少女がいたことを、そしてそんな少女の隣りでささやかにぼくが生きていたことも、みんな静かに忘れ去ってしまってもいいと思える位すべてが透明な夏の夜明け前だった。
 ぼくは、ぼくがきみの人生の卒業に立ち会えなかったことも、きみの旅立ちを見送れなかったことも、決して悔やんではいなかった。ただぼくは星がまだ幽かに残る空を再び見上げながら、きみにこう呟いていた、或いは自分に向かって。
 ぼくはきみに、さようならは言わなかった、と。
 それでは、この世界の何処かで、今もこの放送を聴いていてくれるきみに、卒業、おめでとう。今日はきみにこの曲を、贈らせて下さい。ハイファイセット、卒業写真』
 くーっ、何だよ。自分ばっか格好付けやがって、このきざおやじ。
 少年は風の放送局に嫉妬さえ覚えた。けれどスピーカーから流れ来る名曲にも耳を傾けずにはおれなかった。いや目を瞑り、聴き入ってさえいた。
 ねえ、風の放送局のおじさん。ハイファイセットって言えば、この曲の他に、海を見ていた午後、なんて名曲もあるけど知ってる……。
 そんなことを問い掛けながら目を開くと、少年は改めて目の前の海を見詰めた。
 でも少しは、立ち直ってくれてんのかな。こんな格好付けてんだったら、ねえ、風の放送局。
 あっ、そうだ。
 はっと、少年は閃いた。
 投書だよ……。
 少年はそして、自分に向かって頷いてみせた。
 うん、投書すれば良かったんだ。
 風の放送局っていう、放送局というか一応はラジオ番組なんだから、葉書き位受け付けてくれんだろ。その中で励ましの文章を書けば良かったんだよ。なーんだ、もっと早く気が付けば良かった。よし、善は急げだ、投書するぞーーっ。
 少年は真剣に文面を考えた。でも名文はなかなか浮かばなかった。
 ぼくは三上哲雄という高校三年の男子です。娘さんが亡くなられたと聞いて、とてもびっくりしています。そしてとても悲しいです。
 って、なんかだせえ。それに照れ臭いし。そうだ。
 少年は再び閃いた。
 下手な手紙より、詩なんかの方がいいかも。よし、詩を書こう。
 少年は葉書きに詩を書いて、それを送ることにした。どの詩にするかも直ぐに決まった。海雪と出会ったあの日、詰まり伝説の千日目に書いた詩だった。

 その日少年は早速葉書きを購入し、葉書き一面にぎっしりと詩を綴った。しかし困ったことにというか当然のことながら、宛て先が分からない。
 これじゃ肝心の風の放送局に届かないよ。我ながら、だっせえ。
 少年は苦笑いと共に、投書を諦めた。
 でも、折角書いたのに、何だか勿体無い。
 少年は空白の宛て先にでかでかと、風の放送局、と記すと、葉書きを紙飛行機にして思い切り飛ばした。海に向かって、腕が千切れる位満身の力を込めて。
 すると少年の詩を載せた紙飛行機は、潮風に乗り、何処までも何処までも飛んでいった。
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