(一)千日の詩の伝説

文字数 3,084文字

 幾度となく風が、白いページをめくっている。
 開け放した窓から吹き込んで来る潮風は、既に九月の風。潮辛さの中にも、ひんやりとした秋の気配を漂わせている。机の上に無造作に置かれたその日記帳は八月十八日の日付けを最後に途絶え、後は空白の海辺に波が寄せ返すばかり。寄せては返し寄せては返し、やがて風の沈黙と共に、終には静寂へと帰ってゆくのみ。
 まだ白いページの意味さえ知らなかった、十八歳、八月十八日。その日も少年のラジオから、柴田まゆみの、白いページの中に、が流れていた。
 この物語は、白いページの空白の波間に埋もれたひと夏の追憶にすら成り得ない、また或いは或る少女への鎮魂として、語られるものである。

(一)千日の詩の伝説
 少年は毎日、日記をつけていた。日記の舞台となるのは、横浜市は金沢区の海辺である。
 自宅からその海まで徒歩約十分。家の窓を開ければ潮辛さと共に潮風が押し寄せて来るし、二階にある少年の部屋の窓からは確かに海辺の景色も見えた。従って少年にとってその海は、ホームグラウンドのような場所だった。
 少年が日記帳に記していたのは、退屈な学生生活の日々の連なりなどでは決してなかった。少年がせっせと日記帳に毎日書いていたもの、それは、詩だった。
 ではなぜ少年は、一日として休むことなく詩作に耽っていたのか。それにはちゃんと理由があり、きっかけは少年が愛聴していたラジオの深夜放送、笑福亭鶴光のオールナイトニッポン、にあったのである。

 一九七七年十月三十日

 それは少年が中学三年の時のことである。その頃の少年は詩作に対して、まだそんなに熱心という程ではなかった。週に何回か、気が向いたら書くといった程度。
 笑福亭鶴光のオールナイトニッポンの番組の中に、読者から投稿された詩を朗読する、メルヘンコーナーがあり、時折り少年も投稿していた。しかし採用されたことは残念ながらまだ一度としてなく、没ばかり。
 その晩も、少年は同放送を聴いていた。ところが突如そのメルヘンコーナーの中で、少年の詩が読まれたのである。
 えっ、うそっ。
 眠気も吹っ飛び、少年は興奮し有頂天になった。
 やったーーっ、遂に読まれたぞ。
 少年は歓喜に浸りつつ、放送の続きに耳を傾けた。するとその晩のアシスタント小森みちこが、こんな話をしたのである。
「なんでもね、鶴光さん。千日間詩を書き続けたら、千日目の日、運命の人にめぐり会えるっていう伝説があるんだって」
「伝説、ほんまかいな。しっかし千日て、えろなごないかあ」
 へえっ、運命の人にめぐり会える。本当かなあ。でももし本当だったら……。
 少年は興味を抱いた。
 よし、挑戦してみるか。
 早速その日から少年は、日記帳を相手に詩作に精を出すようになったのである。
 これが少年が詩作を続けて来た理由であり、かつ誰にも告げたことのない少年の秘密でもあった。

 一九七九年七月二十一日

 時は流れ、少年は高校二年生になっていた。その夏休み初日のことである。
 その夜は熱帯夜になった。少年は普段通り部屋でじっとラジオの深夜放送を聴いていたけれど、余りの暑さにとうとう音を上げた。少年の部屋にエアコンなどない。そこで少年は散歩でもするかと、こっそりそしてぶらりと家を抜け出した。
 向かったのは、例のホームグラウンドの海辺。少年はその日まだ千日の伝説の詩作すら済んでいなかったから、海を見ながら深夜放送を聴き、詩作もするつもりでいた。その為肩からラジオを下げ、手には日記帳とボールペンを携帯していた。
 ラジオといっても、安物小型の携帯ラジオの類ではない。そこには深夜放送大好き少年としての、ラジオに対する少年なりの拘りがあったのである。
 どんなラジオかといえば、NATIONAL製の初代COUGAR。色はピカピカの情熱的なレッドで、16センチの巨大スピーカーに、FM、中波、短波の3バンド受信機能を搭載したBCLラジオである。
 十分も歩けば、そこはもう海。プラタナスの並木が続く海岸沿いに、ぽつりぽつりと街灯が灯っていた。その仄かな灯りを通して、暗闇の中に広がる夜の海が見えた。耳には潮騒。波打ち際に寄せ返す穏やかな波の音が、絶え間なく少年の耳に響いていた。
 荒々しい潮風が少年の頬を叩いてゆく。部屋の中ではあんなに蒸し暑かったのに、ここでは風がひんやりと冷たく、半袖のTシャツ姿では肌寒い程だった。
 見渡す限り、水平線と海岸線が続いている。辺りに人影はなく、当然海の中にも見当たらない。少年はひとりぼっちで、海と向かい合った。砂浜を独占した気分だった。
 少年は乾いた砂の上に腰を下ろした。直ぐにCOUGARを肩から下ろし、でーんと自分の隣りに置いた。膝を抱え、じっと海を見詰めた。
 ボリュームを最大にしても、文句を言う者など誰もいない。海の景色に飽きると、少年はCOUGARに耳を傾けた。深夜放送の音声に混じって、波打ち際から聴こえ来る波の音は耳にやさしかった。見上げれば宇宙空間から零れ落ちんばかりの夏の星座群が、所狭しと夜空を埋め尽くし瞬いていた。
 満天の星、ラジオ、潮騒、海……。そのまま少年は砂に寝転がった。寝たけりゃ眠りに落ちても良し、そうでなきゃ起きていれば良い。だって今はもう夏休み。今日も明日も夏休みなのだから、寝坊も遅刻もない。少年はのんびりと自由気ままに、孤独な夜を楽しんだ。
 おっと。でもちゃんと、詩作も忘れんなよ。折角の千日間の伝説が途絶えちまうから、なあんてね。
 でも心配御無用。なぜなら詩を書くぞなんて力まなくとも、ただ海を見ているだけで不思議にインスピレーションが湧いて詩が浮かんで来たから。お陰ですらすらすらっと、次から次に、はい、詩の出来上がり。
 すげえ、もしかして俺って天才。
 なんて思いたくなる程、少年にとって海は、無限に詩を産む宝石箱のような存在だった。
 結局一晩中夢中で詩を書き連ね、気付いた時にはもう海辺には夜明けが訪れていた。
 えっ、まじかよ。
 COUGARに耳を傾けても、とっくの昔に深夜放送は終わっていた。焦ってどの放送局にチャンネルを合わせてみても、最早返って来るのはノイズばかり。
 しまった。
 家に帰らねばと少年は焦ったが、今頃になってどうにも眠くて仕方がない。
 あーあ、面倒くせえ。まだ夜明けだし、もちっとここで寝ていくか。
 少年はそのまま砂の上にごろり。夜明けの海の潮騒に吸い込まれるように、明け方の眠りへと落ちていった。それは何とも気持ち良くてたまらない。こうして少年は生まれて初めて、海岸で夜を明かしたのだった。

 このように少年にとっては青春とも魂の故郷とも呼ぶべき存在の海辺だったけれど、一九八〇年代後半に突入するや、少年の意に反し、その姿は激しく変貌を遂げていくのであった。

 一九八八年
 少年の海辺は、公園として整備され、海の公園、などと名が付される。

 一九八九年
 海の公園を取り囲むように海岸線に沿って、横浜新都市交通が運営する自動運転の電車、金沢シーサイドラインが開通する。それに伴い、海の公園南口駅と海の公園柴口駅とが設置される。

 一九九一年
 金沢シーサイドラインの市大医学部駅の前にある横浜市立大学医学部福浦キャンパスに、十階建ての附属病院が開院する。

 一九九三年
 同じく金沢シーサイドラインの八景島駅の直ぐそばにある人工島の八景島に、海の遊園地八景島シーパラダイスがオープンする。

 こうして少年の脳裏に刻まれた海辺の風景は、時代と人の波に押し流され、遥か遠い水平線の彼方へと消え去るのみなのであった。
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