(二)風の放送局

文字数 5,417文字

 一九七九年×二〇〇九年の八月十八日

 その夜も少年は海へと出掛け、例によって深夜放送を聴きながら詩作に耽った。いつしか夜明けが訪れ、ラジオの放送も終了。COUGARのチャンネルを適当に回して、何処もノイズなのを確かめると、少年はふわーーっと大欠伸。そのままゴロンと、砂浜に寝転がった。そしていつものように潮騒を子守唄に、さっさと眠りへと落ちていった。
 ところが突如、ゴロゴロゴローーッという轟音で、少年は叩き起こされた。雷。驚いたのなんのって少年は慌てて立ち上がり、どんよりと曇った夜明けの空を見上げた。
 するとピカッと上空に巨大な龍の如く一条の稲光が走ったかと思うと、間髪を容れずに雷鳴が海辺に響き渡った。それは大地を震わせた。ゴロゴロゴロッ、バリバリバリ、そしてドッカン。
 うへえ、こええ。
 少年は耳を押さえ、震え上がった。どうやらこの近くに落ちたらしい。すっかり目が冴え、寝ようなどとはとてももう思えなかった。少年は恐る恐る、辺りを見回した。ところがその時、我が愛しのCOUGARから何かが聴こえて来るではないか。
 何だ。
 見るとCOUGARのバンドはFMで、周波数は、77.0MHzだった。どうやらこのチャンネルで、何らかの電波をキャッチしたらしい。
 でも、変だな。
 少年が首を傾げるのも無理はなかった。なぜなら今迄この周波数で放送を受信したことなど、一度としてなかったからである。
 何だこりゃ、もしかして海外放送かも。
 訝しがりながら、また多少の期待を抱きながら、少年はCOUGARのアンテナを目一杯伸ばし、スピーカーに耳を押し当てた。
 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。
 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。
 耳に響いて来るのは、どうやら海の音らしかった。ノイズの聞き違いではないかとも思ってみたが、確かに海の音だった。
 それは穏やかな波の音だった。平凡な、何処にもありそうな、ありふれた海の潮騒。けれど聴いていると何処か懐かしい気もする……。
 時刻はとうに午前五時を回っている。夜明けの陽は既に空に昇り、海の波はきらきらと煌めいていた。目の前の海は穏やかで、まだ人影は海辺にひとつとしてなかった。波打ち際の潮騒とスピーカーからのそれとが少年の聴覚の中で微妙に重なり合い、やがて少年には区別がつかなくなった。
 ふわーーっ、ねっみい。
 二重奏の潮騒を聴いているうちに、少年の瞼はいつしか重くなった。ところが突如、COUGARの方の波音が途絶えてしまう。
 あれっ、どうしたんだろう。
 少年は身構えた。すると一瞬の沈黙の後、COUGARのスピーカーからは、人の声が聴こえて来たのである。
『JOKA―FM、こちらは……』
 確かに間違いない、人の声だ。
 眠気は吹っ飛び、少年は興奮した。その声は、男だった。しかも日本語ときている。
 ありゃりゃ、何だよ。それじゃ、日本の放送ってことかあ。なーんだ、がっかり。少年はちょっとずっこけ。
 でも、JOKA―FMって。JOKA―FMって何だよ。今迄そんなの、聴いたことねえぞお、俺。やっぱ怪しいなあ、この放送。もしかして海外放送ならぬ、海賊放送だったりして。こりゃ、やばあ……。
 少年の期待と緊張の中、COUGARの向こうの男性のお喋りは続いた。それは穏やかな口調で、ゆっくりと静かに、いかにも誰かに囁き掛けるような声だった。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇〇九年八月十八日。記念すべき風の放送局、放送第一回目の朝を迎えたよ』
 風の放送局だって。何だ、それ。けっ、キザな感じ。何格好付けてんの、このおっさん。
 おっさん。確かに中年男の声だった。でも何だか懐かしいような、何処かで聴いた覚えのあるような、そんな少年にとっては親しみを覚える声でもあった。
 それに。それにさ、二〇〇九年って何だよ、あんた。
 少年は、吹き出さずにはいられなかった。
 何寝惚けてんの、おっちゃん。日付けはまあ確かに、八月十八日でいいんだけどさあ、ねえ……。
 COUGARのスピーカーに向かって、少年は問い掛けずにはいられなかった。
「もしもし、風の放送局とやらの旦那。二〇〇九年って何ですか。今年はまだ一九七九年なんですけど。今日は一九七九年の八月十八日、まだこの世は二十世紀なんでっせ、あなた……」
 しかし折角の少年の忠告も、COUGARの向こうの遥か彼方の相手に届く筈などない。従って甚だ不本意ながらも少年の望む西暦の訂正は成されないまま、放送だけが進んでゆくのだった。
 何だよ、面白くねえな。何で二〇〇九年な訳、この人。
 少年はあれこれと想いを馳せた。
 未来の放送のつもりで流しているのかな。格好付けて未来の放送局かなんかを気取ってんじゃねえの、このおっさん。それとも、もしかして……。
 ごっくん。
 少年は生唾を呑み込んだ。
 まさか。もしかしてこれ、本当に二〇〇九年の放送電波だったりして。えっ、うっそーーーっ。
 少年は改めて自らの愛機、COUGARの雄姿をしげしげと眺めた。
 こいつ、もしかして二〇〇九年詰まり未来の電波を受信しやがったのかも知れない。こいつ、未来からの電波もキャッチ出来る受信機だったりして。だったら、すっげーっ。でも、どうして急に……。
 少年は閃いた。
 そうだ。さっきの、雷だ。
 少年はついさっきの落雷のことを、思い出さずにはいられなかった。
 きっと、そうだ。理由はよく分からないけど、さっきの落雷のショックで、この辺り一帯だけ、時空間制約に微妙な狂いが生じたんじゃなかろうか。その為にこいつ、COUGARに未来の電波が飛び込んで来た。でなければ今迄一度も、このFMの周波数77.0MHzで電波を受信したことなどなかったのだから……。
 ごくり。
 再び少年は、生唾を呑み込んだ。
 本当に未来、二〇〇九年からの電波なのかな、これ……。
 少年は改めてCOUGARのスピーカーに耳を傾けた。
 そんな少年の興奮をよそに、風の放送局とやらのおっさんのお喋りは、さも当たり前のように穏やかに続いた。
『ママからとうとう、もうきみには会わないでくれって、泣かれてしまってね。参ったよ、実の父親だっていうのに。でも、残された可能性、例えば新薬とか新しい治療法とか、そういったものに縋り付きたい、たとえ望みはほんの僅か、いやむしろ絶望的だったとしても、それでも西洋医術にしがみ付きたい。それで駄目だったなら仕方ないじゃない、わたしはもう潔く諦めます。って言うママの気持ちは痛い程分かるし、きみ同様尊重もしている。だから……』
 言葉が詰まったのか、COUGARのスピーカーはしばし沈黙した。その沈黙を、海辺の潮騒が包み込む。
『だからね、ぼくはきみに会えない代わりに、ママには内緒で、この放送を始めることにしたんだよ』
 へえ、そうなんだ。
 少年はCOUGARに向かって、頷いた。
 何か複雑な事情でも有りそうだな、この人。
『だからくれぐれも、イヤホーンで聴くように、いいかな。よし。では前置きが長くなったけれど、これから毎日夜明けのひと時、深夜放送が終わってベッドの中で退屈で退屈で仕方のないきみの為に、そうだね、ぼくの想いっていうのかな、うん、そんな諸々のところを語ってゆこう、なあんて思ってます。だから良かったら、お付き合い下さいね』
 また沈黙が落ちて、けれど直ぐに再開した。
『なあんてね。ふーっ、やっぱ緊張するもんだね、マイクに向かうっていうのは。おかしいよね、リスナーはきみしかいないっていうのに。早いとこ慣れるように、がんばんなきゃ。良し、リラックスして、リラックスして……』
 リスナーはきみしかいないって、どういうこと。
 またもや少年の頭には、疑問符が浮かぶ。
 たったひとりのリスナーの為に、ってことか。くーーっ、なんか格好良すぎ、このおっさん。
『では、風の放送局開局記念の輝かしき第一曲目を飾るのは。勿論この曲、きみの大好きな、柴田まゆみの、白いページの中に、です。どうぞ』
 えっ。
 少年は、この曲の大ファン。
 さっすが、風の放送局さん。選曲は素敵。でも、でもさ……。
 お気に入りの曲を耳にしながら、腕を組み考え込む少年。
 でもやっぱり、海賊放送だよ、これ。絶対そうだ。だって。喋りはへっただし、ママとかきみとか、さっきから完全に内輪の乗りだしさあ。何なんだろ、この放送。
 そんなことを思いながら、少年は大欠伸。
 ふっわーっ、ねっみーーっ。詰まんねえ放送のお陰で、眠くなって来やがった。良し、ひと眠りするべ。
 少年は砂浜にゴロンと寝転がった。
 風の放送局でも海賊放送でも、どっちでもいいけど。ま、どうせ暇だし、他に放送やってないし。選曲だけは悪くなさそうだから、気が向いたら、これからも聴いてやるかあ。でも……。
 夢現の中で、少年は思った。
 きみ、ってお子さんのことみたいだけど、なんかかなり深刻そう。治療法とか、絶望的とか、諦めます、とか。他人事ながら、妙に気になるなあ。
 曲が終わり、COUGARからは再び風の放送局のトークが。その内容は矢張り、深刻そのものだった。
『今迄きみには、幾度となくこう話して来たね。もしもぼくがきみの立場だったら、いやぼくがきみだったなら。今日もまた言わせてもらうけど、ぼくがきみだったなら、ぼくはね、もうこれ以上化学治療も検査も放射線も一切受けずに、自由に生きてゆくだろう』
 おいおい、どんだけ深刻なんだよ。というか全然面白くないんだけど、この放送……。
 そう思いつつも少年は、COUGARのスイッチを切ることが出来なかった。それは語り手の熱意が、少年にも伝わって来るからに他ならなかった。
『なぜならぼくはね、ぼくの命が、ぼくの鼓動も呼吸も血液もそして心もみんな、この宇宙の中の一部なのだと信じているから。だってぼくは、ぼくの意思で生まれて来た訳でもなければ、ましてやぼくの意思で死んでゆくのでもない。詰まりぼくはこの宇宙の中でこの宇宙によって生かされ、そしてこの宇宙の中で死んでゆく。ただそれだけのことなんだよ。
 やがてぼくに死が訪れる時、ぼくはまたこの宇宙へと還ってゆくだけなのさ。あたかもぼくの死さえ、宇宙の中のひとつの神聖かつ神秘なる現象であるかのようにね。だから人は小宇宙と呼ばれているんだよ。
 ぼくもまたひとつの宇宙であるかの如く、ぼくの命は冒し難き神秘に満たされ、それは遥か人智を超越するものなんだ。例えばあたかも無数の星々が煌めき存在しながらひとつの宇宙を成しているように、ぼくの中の無数の細胞が煌めき存在し調和することで、ひとつのぼくという生命体を形成しているんだよ。
 だから、話を戻すけれど、ぼくがきみなら、ぼくはぼくの中の癌細胞のみを破壊し除去することで治癒するなどと謳う、西洋医術を決して信じることは出来ない。なぜならぼくという宇宙の調和を、完全に無視しているのだから。だからぼくは西洋医術の一切の治療を拒絶する、という結論に至るのみ。もしその為に死んでしまうというのなら、ぼくはそれでも一向に構わない。大いなる歓喜の中で自らの死を受け入れ、この命の終わりを静かに受け止めるだろう。
 でもぼくが死ぬ時、宇宙は、ぼくを限りなく愛してくれるだろう。なぜって。なぜならぼくは、宇宙からもらったそのまんまの命の姿で、再びこの宇宙へと還ってゆくのだから。星々が、銀河の瞬きが、風が、海が、大地が、草や木や花がみんな、そしてぼくの死をやさしく包み込んでくれるだろう。
 だからぼくが死ぬ時、ぼくは何も恐れることなく、そして一切の悲しみもまた存在しないのさ』
 ふっわーっ。やっぱ、ねっみーーっ。何だか理屈っぽいし、難し過ぎてさっぱり分かんないや、この放送……。
 少年は大欠伸。
 でもやっぱり、きみって子がかなり深刻そうなのだというのは良く分かった。癌細胞とか、死んでしまう、とか、ぼくが死ぬ時、とか。何か余程深刻な状況に置かれているらしい。他人事ながら、心配せずにはいられない。
 でも。うん、でも、そうなんだよなあ、やっぱり……。俺が幾ら心配したところで、どうなるもんでもないんだよ。
 ふう、やっぱ寝ちまおう。
 少年は、いつのまにか眠りに落ちていった。

 目に沁みる朝陽と穏やかな波音に、少年ははっと目を覚ました。
 ふう、あっちーーっ。
 少年は汗びっしょり。COUGARのスピーカーからは最早男の声も音楽も聴こえず、代わりに波の音がしていた。
 放送、終わったのかな。風の放送局だったっけ。って何処が風だよ、格好付けて波の音なんか流しやがって。これじゃ風じゃなくて、海の放送局じゃないか。こっちは海辺でラジオ聴いてんだから、波の音なんぞ間に合ってますっての、まったく。でも……。
 少年は物思いに耽った。
 何処の海なんだろう、この海の音。
 COUGARから聴こえ来る波音は、今少年のいる海辺のそれに吸い込まれ、少年の中でひとつになる。
 似てるけど、違う気もする。録音テープか、それともライブで流しているのか。この波音も、子どもに聴かせる為に流しているのかなあ。海が好きな子なのかも知れない、きみって子。うーん、やっぱり気になる……。
 しばらくするとCOUGARのスピーカーからは波の音さえ失われ、ただノイズだけが残るのみであった。
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