(十五)白いページの中に(柴田まゆみ 一九七八年)

文字数 6,135文字

 一九八〇年×二〇一〇年の八月三十一日

 また二十九日、三十日と風の放送局はお休みだった。そして遂に少年は、高三の夏休み最後の一日を迎えた。
 海辺の夜明け、少年はいつものようにCOUGARの周波数を、風の放送局にセットした。しばしノイズが続いた後、スピーカーからはいつもの声が、聴こえて来た。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年八月三十一日。早速ですが、きみの詩を、読ませてもらいます』
 また行き成りかよ、風の放送局。
 それでも少年は目を瞑り、COUGARに耳を傾けた。
『風
 わたしがなりたかったもの
 きみの頬を
 やさしく撫でてゆく風

 夜明け
 わたしがなりたかったもの
 いつもきみを包み込む
 夜明けの静けさで
 ありたかった』
 少年は目を開けた。
 海辺の夜明けは、今朝もまた静かだった。詩の余韻のままに、少年は感傷に浸った。
 この静けさの中に、ずっと包まれていたい。
 しかしその感傷を、風の放送局の一言が打ち砕いた。
『突然ですが、この放送を、今日で最後にしようと思います。ずっと聴いて下さった皆様、ありがとう』
 ええっ……。
 少年は胸が詰まった。
 予想していた結末であり、その方が良いと心の準備も出来ていた筈なのに、いざそうなってみると無性に寂しさが込み上げて来てならなかった。
『きみが旅立った日から、本当はもう直ぐに止めるつもりでいたんだけど、せめて夏が終わるまではと思い直してね。それで今日まで何とか、何日か抜けてしまったけど、続けてこれた。これもきみのお陰だよ、ありがとう。
 実際ぼくは、精神的にも肉体的にもずっとどん底の状態だったからね。でもきみの詩を読ませてもらうことで、きみに支えられ、ここまでやってこれたんだ。お陰で少しずつ立ち直っても来たみたいだし、もう何とかなると思う。あんまりいつまでも、きみに心配掛けても申し訳ないからね』
 どん底の状態かあ。大変だったんだな、やっぱり……。
 少年はじっとCOUGARを見詰めた。
『実はね、昨日不思議なものを見付けたんだよ。何だと思う。
 きみが去った日から、ぼくは毎日海にばかり出掛けていたんだけど、海岸に行く途中にあるプラタナスの並木、その中でも一番大きな、そう、きみが大好きだったあのプラタナスの木の下を通り掛かった時、急に風が強くなってね。そしたら葉っぱと共に何かが落ちて来たんだよ。何だろうと、目の前に落ちた物を拾い上げて見ると、それは一枚の葉書きだった。
 葉書き。
 もう何十年も経過しているのか、それはひどく黄ばんでいてね。もう文面は何が書いてあるのか、とても読めなかった。辛うじて表の宛名だけは、何とか分かった。
 そこには、
 風の放送局
 とだけ、記されてあった』
 えっ。
 少年は、どきっとした。
 それって、もしかして俺のじゃない。
 少年は目を輝かせ、COUGARをじっと見詰めた。
 すっげえ。もしかしてあの葉書き、届いたんだ。やっほーーーっ。
『詰まり、ぼく宛の葉書きということになるんだけど。ぼくは咄嗟に、きみのことを思った。きみが書いたものではないかと』
「ちゃうちゃう。それ、俺のだって」
 思わず少年は、COUGARに向かって呟いた。
『でもきみが書いたにしては、やっぱり余りに古過ぎる。じゃ一体誰から……。
 ぼくはその葉書きを手に海まで向かいながら、送り主が誰なのかずっと考えていた。そして……。
 そしてぼくは、悟った。
 これは、三十年前のぼくから、送られたものなのだと』
 ええっ……。
 何突然、訳の分かんないこと言い出してんの、おっさん。
 少年は何が何だか、ちんぷんかんぷん。
 三十年前のぼくって何だよ、それ。
 けれど風の放送局のお喋りは、整然と続いた。
『同時にぼくは、その頃ぼくが書いたひとつの詩を思い出した。その詩とは、例の千日間詩を書き続けたら運命の人にめぐり会えるっていう伝説の、あの千日目に書いた詩なんだけどね……。
 では、今からその詩を、きみに贈ります』
 はあ……。
 少年はぽかーんとした顔で、COUGARを見詰めた。
 一体どんな詩だって言うんだ。良し、聴かせてもらおうじゃないか、風の放送局さんよ。
 そして風の放送局が朗読する、COUGARから流れ来るその詩を、少年はじっと黙って聴いた。
『少女へ

 貝殻、足跡、波の音、
 空の青さ、木漏れ陽、プラタナスの木陰、
 夕映え、夕立、虹、
 駅のホーム、街の灯り、花火、
 星座、ラヴソング、風のにおい、
 夜明けの静けさ……
 目印はいくつもある、この星の上に

 もしもきみが遠い国へ行って
 誰もきみの行方を
 知る者はいなくなっても
 きみが残していったすべてのものが
 やがてこの地上から
 永遠に忘れ去られた後にも

 ぼくは海の夕映えのきらめきの中で
 潮風と遊ぶきみの笑い声と出会うんだ
 きらきらと輝く波の中で
 いつも寂しそうにしているぼくの背中を
 叩いてゆく潮風にまじって
 ぼくの耳元でくすぐるように笑うんだ

 そしたらぼくは
 相変わらずだなって
 つぶやいてみる
 するとまわりの人は驚いて
 へんな顔でぼくを見るだろう
 だって、もうきみはこの星の上には
 存在しないことに、なっているからね

 だけどこの宇宙の何処を探しても
 こんなに青く澄んだ海は
 多分この星にしかないのだから、だとしたら
 あんなに海が好きだったきみが
 たとえ今、宇宙の果てをさすらっていても
 この大宇宙の何処を旅していたとしても
 時にはこの海辺に
 立ち寄ることもあるだろう

 だからいつきみが
 帰ってきてもいいように
 ぼくはいつも
 この星の上で、待っているから


 目印はいくつもある、この星の上に
 きみとぼくが
 大の仲良しだったことの証し
 きみとぼくとが
 寄り添って生きた目印は
 いつまでもこの星の上に残っている
 消え去ることなく
 幾千の人々が生き続ける、この星の上に

 目印はいくつもある、この星の上に
 この星の上で、ぼくたちが
 いつかまたやり直せるように
 時を越え再びめぐり会えるように

 目印はいくつもある、この星の上に……』
 そしてCOUGARは、沈黙した。
 ええっ。
 驚いたのは、少年。
 どういうこと、これ。
 ぽかーっと口を開けたまま、少年は言葉を失った。
 何だよ、これ。この詩、俺の、じゃん……。
 混乱する少年を置き去りに、けれどCOUGARのスピーカーからは、波の音が流れて来た。
 えっ、もうお終いなの……。
 少年は吃驚して、立ち上がった。
 ちょっと待ってくれよ、最後の放送だっていうのに、そりゃないよ。
 少年は思わず泣きそうになった。しかし放送はまだ、終わってはいなかった。波音をバックに、風の放送局の声が流れて来たのだ。
『この波の音の正体、何だと思う』
 えっ、そんなこと行き成り聞かれても。
 少年はCOUGARに向かって、かぶりを振った。
『これはね、カセットテープに録音したものなんだけど。まだきみが赤ん坊の頃、毎晩この音を子守唄代わりに、きみに聴かせていたんだよ。きみは覚えて、いないだろうけどね』
 へえ、そうだったのか。って、でもそんなこと今更言ったって、もう娘さんはいないのに。
 けれど風の放送局は、続けた。
『ではこの波の音は、何処で録音したものだと思う。一体何処の海の音なのか……。それはね、海の公園。このテープは、きみが生まれた日、海の公園で録音したものなんだよ』
 海の公園……。
 その時初めて、目の前の海の音と、COUGARのそれとがひとつに重なり、少年の耳へと押し寄せて来た。
 少年は目を瞑り、今ただひとつの海の音を聴いていた。少年は閃いた。
 もしかして、海の公園って、ここのこと……。

 不意に風の放送局のお喋りが途絶え、その代わりに別の音が波音の中に響いて来た。
 それは風の音かと思ったけれど違った。それは、人の足音だった。
 確かに誰かが、こっちへ歩いて来る。はっとして少年は目を開け、足音のする方角に目を向けた。
 誰だろう、まさか海雪さん。
 しかし海雪ではなかった。そこに立っていたのは、ひとりの痩せた中年男だった。中年の男、だった……。
 なんか、変な人。
 それが男に対する、少年の第一印象だった。なぜなら男は明け方とは言え蒸し暑い八月の砂浜にいながら、なぜかコートを着ていたから。しかもどう見てもそれは、ベージュ色の女物のコートだった。サイズが小さいのを無理に羽織っているから肩幅が狭く、見るからに窮屈そうでならなかった。
 男の額から汗が滲み出ているのは言うまでもなく、見ているだけでこっちまで暑苦しくなってしまう重苦しさ、むさ苦しさを漂わせていた。おまけに髪はぼさぼさ寝癖で乱れ、髭はぼーぼー伸び放題。目は充血し、疲労した顔の表情はげっそりと憔悴し切っていた。
 なんか、危なそうな人っぽい……。
 とも思ったけれど、少年は男から目を逸らすことが出来なかった。なぜなら、男の方もじっと、少年を見詰めていたからである。
 砂浜に潮風が生まれ、風は少年の頬をくすぐるように撫でていった。潮風、風……。
 もしかして、この人。
 少年は閃いた。
 まちがいない、きっとそうだ……。
 少年は目の前の男が、風の放送局、だと悟った。

 ***

『暑くないんですか』
 少年は恐る恐るわたしに向かって、声を発した。わたしは黙ってかぶりを振りながら、笑い返した。それからこう答えた。
「何でこんなものを着ているかって。こんな暑苦しい夏の朝に」
 少年はわたしの言葉に、素直に頷いた。
「このコートはね、あの子の、なんだよ」
 あの子……。
 そう、この一言だけで、少年には充分だった。それだけで、少年とわたしの心は通じ合った。わたしは、少年に続けた。
「あの子が去っていったあの夜の明け方、わたしはこの砂浜でうつらうつらしながら、不思議な夢を見たんだよ。あの子がこのコートを着て、病室の窓から飛び降りる夢だった。危なーい。わたしは急いで窓辺に駆け寄り、外を見た。何しろそこは、六階だったからね。ところが幾ら見下ろしてみても、あの子の姿は何処にもなかった。地面には落下していなかったんだよ。じゃ、何処に。何処だと思う。あの子はね、空中に浮かんでいたのさ。でも、どうやって。実はコートが翼に、姿を変えていたんだよ。それであの子は、空を飛んでいたって訳。丸で蝶のように、いやかもめのようにね。そのまま八月の空へと吸い込まれるかのように、あの子は飛んでいった。そんな夢だった」
 少年は黙って、わたしの話を聴いていた。
「だからこれを着ていると、あの子に会えそうな気がしてね。それでつい、あの日からずっと……」
 苦笑いを浮かべるわたしに、少年は尋ねた。
『じゃあなたが、風の放送局、なんですね』
 如何にも。
 わたしは黙って頷いた。すると少年は神妙な面持ちで、改まって言った。
『この度は、娘さんがお亡くなりになられ、とても残念でなりません』
 わたしは顔をまっ赤にして、かぶりを振った。
 今度は、わたしが少年に尋ねた。
 それはどうしても少年に聞いてみたかった、わたしが取った行動について少年がどう思っているか、どうしても確かめたかったことだったから。
 そして三十年前のわたし(であるこの少年)が、愚かで無力な今のわたしを、許してくれるかどうか、知りたかったからなのだ。
「わたしはあの子を、ちゃんと守って上げられただろうか。情けないことだけど、周りのみんなから非難されるとね、つい弱気になってしまうんだ。どうかすると死んでしまいたいとさえ、思い詰めてしまうんだよ」
 しかし問いが問いだけに返答に困った少年は、海に視線を移した。少年は海を見詰めながら、真摯に答えた。
『あなたは娘さんの為に、精一杯やったじゃありませんか』
「そうかな」
『そうですよ。一生懸命ラジオで語り掛けてたし、娘さんらしく生きて欲しいって祈って、奥さんに反対されても自分なりに一番いいと思ったことを娘さんに訴え、説得したじゃないですか。俺ほんと、感動しましたもん。娘さんだって喜んでたし、悔いはなかったと思います』
「だったら、いいんだけど」
『そうですよ。もし俺があなただったとしても、やっぱりおんなじことをしたと思います』
「そう言ってもらえると、凄く救われるよ。ありがとう」
 目頭を押さえながら、わたしも海を見詰めた。このままずっと、海を見ていたいと思った。時を止め、いつまでも、いつまでも……。ただずっとこのまま、少年と何も語らず、黙って海を見ていたかった。
 そう切実に願った。
 それがもし叶わぬことならせめて、夏が、八月が終わるまでと、祈りたかった。
 少年は尚も、わたしを励ますように続けた。
『だって人が死んだらどうなるかなんて、今のところ、誰にも分からないんですから』
「そうだね」
『例えば友だちの誰かが死んだら、それは悲しいし、ああもう会えないんだなあって寂しさも込み上げて来るけど、それはその子が何処か遠くへ行ってしまったっていう悲しさや寂しさとおんなじなんですよ。たとえ火葬されて灰になったとしても、それでもやっぱりその子の存在自体がこの世から消えてなくなってしまったっていうふうには、どうしても思えないんです。さよならを言う前に、旅に出てしまったとか引っ越しちゃったとか、そんな感じなんですよね。人が死んでも、結局その後どうなるかなんて分からないんだったら、だったら俺がこんなふうに勝手に思ったって、いい訳でしょ。あの子は死んだんじゃなくて、ただ、旅に出たんだって。海雪さんは……』
 海雪さんは。海雪さん、海雪……。
 少年の声に答えるように、その時突然、海から潮風が押し寄せて来た。砂浜に、風が起こった。
 か、ぜ、が、おこった。
 風はゆっくりと、少年とわたしの頬を撫でていった。風の中で、少年がわたしに囁き掛けた。
『聴こえませんか』
「何が」
 問い返すわたしには答えず、少年は耳を澄ました。
 ほら……。
 少年はわたしに微笑み掛けた。
 えっ。
 わたしも耳を澄ました。すると風の中で、確かに何かが聴こえた。
 その瞬間、
 少年とわたしは何も語らず、ただ黙って笑みを交わし合った。
 風は、こう歌っていた。

 ……まもってあげたいあなたを……。
 (※渡辺美里、男の子のように、歌詞より引用)

 わたしはコートを脱ぎ、祈るように、そっと砂の上に置いた。風は、少年とわたしの前を音もなく吹き去っていった。
 そして……そして、わたしは少年の前から消え、少年はわたしの前から姿を消した。
 一九八〇年そして二〇一〇年八月三十一日、それぞれの晩夏の朝へと……。

 後には砂の上のCOUGARと、海の公園だけが残された。海岸に沿って金沢シーサイドラインが走り、八景島シーパラダイスのブルーフォールも目と鼻の先。周波数をFMの77.0MHzに合わせても、COUGARのスピーカーからはもうノイズしか聴こえない。ただ海辺には、寄せ返す波の音だけがしていた。それから風……。
 今も九月の風は、白いページをめくっている。一九八〇年八月十八日の日付けで止まったままの日記帳の。
 その日も少年のCOUGARからは、柴田まゆみの、白いページの中に、が流れていた。
(了)
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