第３話 好きと嫌い
文字数 2,915文字
『お腹減ったな』
蝉が哭いている。
じわりと汗が額から頬を伝い、顎から机にポタリと落ちた。
現代に於いて、夏場の教室に扇風機もエアコンも無いのは如何なものか、と教科書で顔を扇ぎながらよく晴れた雲一つない蒼い空を恨めし気に眺めた。
他の生徒達は夏休みに入り各々自由な時間を過ごしていることだろう。しかし担任教師に呼び出された恭仁京上総は一人、誰もいない教室で出された数学の問題集を黙々と
最初こそ担任教師の遠藤頼子 が一緒に付いて数式を細かく教えてくれていたのだが、校内アナウンスが流れて職員室に向かったきり、まだ戻って来ていない。
それが十分前。
中学校に入学以来、数える程しか登校していない上総にとって一人で残りの問題を解くには、かなりの難題であった。
『早く戻って来ないかな』
元来数というものが苦手で、小学生の時掛け算ですら苦戦した子供なのだ。方程式なんてものを短時間で習得するのは無理難題を吹っ掛けられているようなものである。
結局、頼子が教室を出てから自力では一問も解けていない。
分からない上に暑さのせいで、完全に集中力は途切れてしまっていた。
開け放たれた窓から広い校庭が見える。
直に聴こえてくる、どこかの樹に張り付いているだろう無数の蝉が、自分はここにいるぞ、と矢鱈と主張していて余計に暑く感じた。
主張は五月蝿い。
五月蝿いから余計に集中力という存在は上総の頭の中から徐々に消滅していってしまう。
大きく溜め息を溢した。
ここには上総と大量の蝉だけ。
普段ならば運動部が元気な声を蝉に負けず劣らず張り上げて部活動を行っているのだが、校庭には人っこ一人いない。
先日起きた事件のせいだろう。
恭仁京が関わっている旨は伏せられているが妖絡みと報道され、得体の知れない不気味な犯行からか学生の外出は最低限に控えるという御触れが発令された。
暫くは部活動は行えないのだろう。
訳の分からない事件ではあるが、恭仁京の名が出ている以上自分の一族が関わっているかもしれないと思うと申し訳なくもある。
『大会とかどうするんだろ？』
部活動に所属していない少年には縁遠いもの。小学生の時も家業を継ぐために学校が終わったらすぐに帰宅して陰陽師の修行に入っていたから、部活というものに憧れすらある。
多分、いや絶対に、と上総は頬杖をついて広いグラウンドを眺めた。
『部活一度も入らないで終るんだろうな』
事件発覚直後に大老會に警察署のお偉いさんがわんさかやって来て會長と何やら話し込んでいたが、その内容が上総の耳に入ることは無い。
いつものことだ。
古の一族の当主である上総だが、結局はまだ中学生だからと話の輪の中に入れて貰うことは出来ないのである。
不満だった。
不満しかない。
輪の中に入れないのであれば、学校へ行かせてほしい。
大老會が上総に陰陽師の仕事に集中してもらいたいのであれば、中途半端に学校へ通わせるのではなくて、輪の中に入れてとことん仕事を与えてくれればいいし、仕事は非常に厳しい時もあるが上総自身本家を継ぐ覚悟はとうの昔に出来ている。
どっち付かずの大老會が、上総は気持ち悪かった。
大老會會長の藤堂美舟の考えも全く分からず、それはそれで不気味でしかない。
言うなれば、上総の行動を逐一見張っているような節がある。
従姉であり若いうちから大老會の會長を担う藤堂美舟は何かにつけ上総を目の敵にする。
なぜそんな目の敵にするのか。
それさえなければ、もっと頑張れるのだが。
再び大きく息を吐いて、机に突っ伏した。
『帰っちゃおうかなぁ』
仕事をしていれば大老會の視線があるが、目の前の仕事に集中して
よし、と上体を起こして机の横に掛けたバックを膝の上に乗せた。
ぱたん、と音を立ててノートを閉じると、廊下を小走りで駆けて来る足音が聞こえてくる。
漸く頼子が戻って来たのかとドアを見ていると、ガラリと元気よく開けた人物は全く知らない人間で上総は動揺を隠せなかった。
『えと、恭仁京？ ごめんな？』
端正な顔立ちの青年だ。
学校にいるということは教師なのだろうが、モデルか俳優のようなスラリとした細身の長身で甘いマスクは教師かと問われたら、全くそうは見えない。下手したら学生と名乗ってもなんら違和感も抱かないだろう。
青年は笑顔を崩さずに上総の前に立つと、何故か頭を撫でてきた。
『え？ え？』
『一人にさせてごめん。遠藤先生は急用で今帰られたよ』
『はあ……』
『恭仁京が来てるって俺知らなくてさ、完全にスルーする所だった。遠藤先生も先に一言仰ってくれれば良かったのに』
話が読めない。
取り合えず頼子はもう来ないのは分かった。
が、目の前の人物は、さて誰であろう？
上総が不思議そうに首を傾げたのを見て、青年も上総の真似をするように首を傾けた。
『そうか、入学式で一度会ったきりだから覚えてないのも無理はないね』
彼の名は、如月 健司。
今年教師成り立てで一年三組の副担任を務めている彼は専門科目は理科の教師なのだと、丁寧に自己紹介をしてくれた。
『世間も物騒だし、今日はもう帰っていいよ。それに恭仁京には貴重な休みなんだろ？ 時間を無駄にしてごめんな』
彼がどこまで上総の仕事を把握しているか知らないが、さすがにある程度調べているようだ。恭仁京家は日本に住んでいる限り必ず耳にする一族で、陰陽師の詳細を知らなくとも自分の受け持つクラスに恭仁京がいれば、国から世間から良いも悪いも注目視されるだけに無駄に肩に力が入ってしまうらしい。過去の教師達は皆そうで、上総を腫れ物に触るみたいな接し方しかしなかった。
しかし、新人が成せる技なのか、目の前の青年教師は大分自然体に見えた。
笑顔が引き吊っていない。
今まで通り何を思われるか分からないから余り関わらないようにしたいのだが、この青年の笑顔、どうにも人懐こく無下に出来る空気ではない。
『休みに呼び出し食らうとは思いませんでした』
正直に述べると、健司は声を出して笑った。
『笑う所ですか？』
よく笑う健司を怪訝そうに見ていると、何度目かの頭を撫でられた。嫌いではないが、子供扱いされているようで好きではない。
健司がどの生徒に対しても頭を撫でているのであれば、些か問題も出てくるのではあるまいか？
上総の心の内を見透かすように、健司は笑いながら釈明を始めた。
『いや、恭仁京の頭の形が撫で心地良さそうで。綺麗な丸みだな』
『なんですか、それ？』
『悪い悪い、気に障ったなら謝るよ。失礼だった』
微笑みを向け、軽く頭を下げた。
『別に謝らなくても大丈夫です。ただ撫でられるの慣れてないから、びっくりしただけですし』
『そうか』
一瞬。
ほんの一瞬。
健司は淋しげな表情を見せた。が、直ぐに笑顔を上総に向けて、帰ろう、と促した。
蝉が哭いている。
じわりと汗が額から頬を伝い、顎から机にポタリと落ちた。
現代に於いて、夏場の教室に扇風機もエアコンも無いのは如何なものか、と教科書で顔を扇ぎながらよく晴れた雲一つない蒼い空を恨めし気に眺めた。
他の生徒達は夏休みに入り各々自由な時間を過ごしていることだろう。しかし担任教師に呼び出された恭仁京上総は一人、誰もいない教室で出された数学の問題集を黙々と
見て
いた。最初こそ担任教師の遠藤
それが十分前。
中学校に入学以来、数える程しか登校していない上総にとって一人で残りの問題を解くには、かなりの難題であった。
『早く戻って来ないかな』
元来数というものが苦手で、小学生の時掛け算ですら苦戦した子供なのだ。方程式なんてものを短時間で習得するのは無理難題を吹っ掛けられているようなものである。
結局、頼子が教室を出てから自力では一問も解けていない。
分からない上に暑さのせいで、完全に集中力は途切れてしまっていた。
開け放たれた窓から広い校庭が見える。
直に聴こえてくる、どこかの樹に張り付いているだろう無数の蝉が、自分はここにいるぞ、と矢鱈と主張していて余計に暑く感じた。
主張は五月蝿い。
五月蝿いから余計に集中力という存在は上総の頭の中から徐々に消滅していってしまう。
大きく溜め息を溢した。
ここには上総と大量の蝉だけ。
普段ならば運動部が元気な声を蝉に負けず劣らず張り上げて部活動を行っているのだが、校庭には人っこ一人いない。
先日起きた事件のせいだろう。
恭仁京が関わっている旨は伏せられているが妖絡みと報道され、得体の知れない不気味な犯行からか学生の外出は最低限に控えるという御触れが発令された。
暫くは部活動は行えないのだろう。
訳の分からない事件ではあるが、恭仁京の名が出ている以上自分の一族が関わっているかもしれないと思うと申し訳なくもある。
『大会とかどうするんだろ？』
部活動に所属していない少年には縁遠いもの。小学生の時も家業を継ぐために学校が終わったらすぐに帰宅して陰陽師の修行に入っていたから、部活というものに憧れすらある。
多分、いや絶対に、と上総は頬杖をついて広いグラウンドを眺めた。
『部活一度も入らないで終るんだろうな』
事件発覚直後に大老會に警察署のお偉いさんがわんさかやって来て會長と何やら話し込んでいたが、その内容が上総の耳に入ることは無い。
いつものことだ。
古の一族の当主である上総だが、結局はまだ中学生だからと話の輪の中に入れて貰うことは出来ないのである。
不満だった。
不満しかない。
輪の中に入れないのであれば、学校へ行かせてほしい。
大老會が上総に陰陽師の仕事に集中してもらいたいのであれば、中途半端に学校へ通わせるのではなくて、輪の中に入れてとことん仕事を与えてくれればいいし、仕事は非常に厳しい時もあるが上総自身本家を継ぐ覚悟はとうの昔に出来ている。
どっち付かずの大老會が、上総は気持ち悪かった。
大老會會長の藤堂美舟の考えも全く分からず、それはそれで不気味でしかない。
言うなれば、上総の行動を逐一見張っているような節がある。
従姉であり若いうちから大老會の會長を担う藤堂美舟は何かにつけ上総を目の敵にする。
なぜそんな目の敵にするのか。
それさえなければ、もっと頑張れるのだが。
再び大きく息を吐いて、机に突っ伏した。
『帰っちゃおうかなぁ』
仕事をしていれば大老會の視線があるが、目の前の仕事に集中して
余計なこと
を考えなくて済む。よし、と上体を起こして机の横に掛けたバックを膝の上に乗せた。
ぱたん、と音を立ててノートを閉じると、廊下を小走りで駆けて来る足音が聞こえてくる。
漸く頼子が戻って来たのかとドアを見ていると、ガラリと元気よく開けた人物は全く知らない人間で上総は動揺を隠せなかった。
『えと、恭仁京？ ごめんな？』
端正な顔立ちの青年だ。
学校にいるということは教師なのだろうが、モデルか俳優のようなスラリとした細身の長身で甘いマスクは教師かと問われたら、全くそうは見えない。下手したら学生と名乗ってもなんら違和感も抱かないだろう。
青年は笑顔を崩さずに上総の前に立つと、何故か頭を撫でてきた。
『え？ え？』
『一人にさせてごめん。遠藤先生は急用で今帰られたよ』
『はあ……』
『恭仁京が来てるって俺知らなくてさ、完全にスルーする所だった。遠藤先生も先に一言仰ってくれれば良かったのに』
話が読めない。
取り合えず頼子はもう来ないのは分かった。
が、目の前の人物は、さて誰であろう？
上総が不思議そうに首を傾げたのを見て、青年も上総の真似をするように首を傾けた。
『そうか、入学式で一度会ったきりだから覚えてないのも無理はないね』
彼の名は、
今年教師成り立てで一年三組の副担任を務めている彼は専門科目は理科の教師なのだと、丁寧に自己紹介をしてくれた。
『世間も物騒だし、今日はもう帰っていいよ。それに恭仁京には貴重な休みなんだろ？ 時間を無駄にしてごめんな』
彼がどこまで上総の仕事を把握しているか知らないが、さすがにある程度調べているようだ。恭仁京家は日本に住んでいる限り必ず耳にする一族で、陰陽師の詳細を知らなくとも自分の受け持つクラスに恭仁京がいれば、国から世間から良いも悪いも注目視されるだけに無駄に肩に力が入ってしまうらしい。過去の教師達は皆そうで、上総を腫れ物に触るみたいな接し方しかしなかった。
しかし、新人が成せる技なのか、目の前の青年教師は大分自然体に見えた。
笑顔が引き吊っていない。
今まで通り何を思われるか分からないから余り関わらないようにしたいのだが、この青年の笑顔、どうにも人懐こく無下に出来る空気ではない。
『休みに呼び出し食らうとは思いませんでした』
正直に述べると、健司は声を出して笑った。
『笑う所ですか？』
よく笑う健司を怪訝そうに見ていると、何度目かの頭を撫でられた。嫌いではないが、子供扱いされているようで好きではない。
健司がどの生徒に対しても頭を撫でているのであれば、些か問題も出てくるのではあるまいか？
上総の心の内を見透かすように、健司は笑いながら釈明を始めた。
『いや、恭仁京の頭の形が撫で心地良さそうで。綺麗な丸みだな』
『なんですか、それ？』
『悪い悪い、気に障ったなら謝るよ。失礼だった』
微笑みを向け、軽く頭を下げた。
『別に謝らなくても大丈夫です。ただ撫でられるの慣れてないから、びっくりしただけですし』
『そうか』
一瞬。
ほんの一瞬。
健司は淋しげな表情を見せた。が、直ぐに笑顔を上総に向けて、帰ろう、と促した。
