第2話 事の始まり

文字数 1,692文字

 獣の臭いが漂った。
 消毒液独特の臭いのする病院内で、突如臭った獣臭は医師や看護師だけでなくそこにいる患者まで険しい顔色で鼻を摘まんでいる。
 市内でも一等大きい総合病院の待合室は、当然の如く老人達の憩いの場に活用されているのだが、この時ばかりはお喋りに夢中の老人達の鼻も敏感に獣臭に反応していた。
 『なんだろうねぇ?』
 『どこから臭ってくるんだろうね?』
 そんな会話が犇めき合った時、女の金切り声が院内に響いた。
 最初、映画かドラマの撮影かと、周囲の病院関係者は暢気に

光景を見ていたのだと云う。
 余りに非現実的過ぎて脳が追い付いてない。その場にいた誰しもが病院関係者と同じだったろう。
 事実、還暦近いベテランの女看護師が悲鳴を上げ助けを求めても、直ぐに手を差し出す者はいなかった。そして助ける前に看護師を見棄て、我先にと周囲に居た人間達は逃げ出したのである。
 何が起きたのか。
 (のち)に駆け付けた警察官に、現場にいた医師の一人が証言している。
 『私は……被害にあった看護師の一番近くに居ました』
 若い医師は頭から血を被り全身真っ赤に染まっていた。
 震える両手を握り締め、ポツポツと事実を述べる。
 『犬が。巨大な犬が突然現れたんです。そう、象位の大きさの巨大な白い犬が。牙を剥き出して、あれは明らかに妖怪だ』
 看護師と共に診察で次の病室に向かう途中、何の前触れもなく看護師の前に狼に似た真っ白で巨大な犬が出現した。呆気に取られ巨大な犬を見ていると、あろうことか巨大な犬は大きく口を開き、鋭い牙を見せながら看護師に人間の言葉で話し掛けたのである。
 しかし医師にとって問題は

ではなった。
 『妖怪だ、って直ぐに思いました。でも、うちの病院は人に害が及ばないように妖怪が入れない結界を貼っているんです』
 藤堂総合病院は滋賀県内でも有名な病院である。
 院長が陰陽師一族の恭仁京家を親族に持ち、こぞって妖怪絡みの病を持つ患者や怪我人が全国から訪れるため、考慮した病院側は大老會に頼み敷地に強力な結界を結んだ。結んで以降十数年、敷地内に妖怪が入った記録はない。
 また、足を踏み入れようものなら大老會所属の陰陽師達が駆り出され、妖怪に某かの制裁を加えることになっている。
 その状況下で巨大な犬は突如として現れたのだ。
 『おかしいでしょ? 恭仁京一族の恩恵を得ている病院に何故妖が現れるんですか? しかも陰陽師達は気付いていないんです』
 医師の話を聞いていた警察は直ぐに警察本部に連絡し、大老會に調査の要請をした。
 『それにおかしいですよ。何故あの妖怪は

を云ったんですか?』
 医師は頭を抱えて混乱している。
 『云ったんですよ』
 『何と云ったんです?』
 『恭仁京は何処だ? と』
 『何?』
 巨大な犬は看護師に尋ねたが、看護師は首を振るばかりで、恐怖で声を出せなかったのだろう。暫く犬は同じ質問をしていた。
 『恭仁京――確かに恭仁京と云ってました。他にも何か……なんだったか、聞き慣れない単語で』
 疑問だけが勝り、医師の頭の中には妖の言葉はそれ以外記憶に残らなかった。
 何度と同じ質問を繰り返した白い犬は答えを出せないと知ると、用済みとばかりに看護師の肩に噛み付いた。
 悲鳴が上がる。
 真っ赤な。
 血飛沫が清潔な病院内を舞う。
 『何故その看護師だけに訊いたんだ?』
 犬は回りに多くの人間が居たのにも関わらず、一人の看護師だけを標的にしていた。
 被害に遭ったのはベテランの看護師一人だけ。近くにいた医師は看護師の血をもろに浴びてしまった以外は傷一つ負っていない。 
 人間達が逃げ出した、がらんとした病院内で結界に触れることなく忽然と犬の妖は姿を消した。
 食いかけの肉片だけを残して。
 『どういうことだ? とにかく名前が上がったからには、あの恭仁京家にお伺いを立てねばならん、ということか』
 煙草を吸っていた敏腕刑事の一人が盛大に溜め息を吐いて、面倒臭そうに呟いた。
 




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登場人物紹介

恭仁京 上総


主人公。13歳。

陰陽師。

如月 健司


中学教師。

立花 壮介


純文学作家。

如月健司と幼馴染みで同居人。

妖怪・すねこすり


上総の友達。

キュ、しか云えない。

妖怪・烏天狗 右京


見た目は美しい女だが、中身は逞しい男。

妖怪・烏天狗 左京


姿を消し、呼ばれた時にだけ現れる。

恭仁京家が誕生してから主人に忠実だが、何故なのか誰も知らない。

藤堂 美嘉


上総のいとこ。

上総のスケジュールの一切を担っている非常に厳しい女性。

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