その8 天使の再訪

文字数 2,396文字

 その日は、凛花といっしょには帰らなかった。
 そういう日が一日くらいあったっていいだろう。これまでにだって、諍いを起こした末に何度かあった。
 俺はマンションのエントランスを抜け、エレベーターで五階まで昇り、自室の鍵を回した。
 ドアノブを握ると、やはり昨日の「違和感」がまたやってきた (時枝は、俺のことを霊感が弱いとか言ったが、あんがい人よりあるんじゃないのか?)
 俺はドアノブを回し、ドアを引いた——

 「オゥ」と男——天使のオッサンは、俺に片手を上げて笑った。
 オッサンは、キッチン・テーブルの前に昨日と同じように座っていた。やはり、暗緑の着物を着ていた。
 「またアンタかよ」俺は露骨に、眉根を寄せてみせた。
 「『また』とはご挨拶やな」と男は答えて、ニヤニヤと笑った。「俺は君を、助けに来たんやぞ?」
 「昨日言ってた、『俺が一年後に死ぬ』って話か——」俺はおもむろにカバンを床に下ろした。
 「そうや」
 「帰ってくれ」と俺は言った。
 「君、自分の立場をわかっとるんか?」とオッサンは言った。「死んでもええっちゅうんか?」
 「信用してないんだよ、その話を——」俺は冷蔵庫から、烏龍茶のペットボトルを取り出した。
 「ほーん、そうか」と天使はまた笑った。「まぁ、もっともな話やな……。俺が君の立場やったら、やっぱしそう言うと思うで」
 「ご理解いただき、幸いです」俺は烏龍茶をコップに注ぎ、それを一気に飲み干した。
 「まぁ、待ちィや」天使は長い脚を組み替えて言った。「こっちは君に頼みがあんねん」
 「頼み?」俺は空になったコップを、キッチンの流し台のなかに置いた。
 「せや」と天使は答えた。「幽界——つまりあの世で、ちょっとトラブルが起きとんねや」
 「トラブル?」
 「細かいことは、省くけども——」と天使は言った。「君、プラトンの『国家』は読んだことあるか? そのなかの『エルの物語』は?」
 「ねェよ」と俺は言った。てゆうかまた、プラトンかよ……
 「まぁ、簡単に言うとや——」と天使は続けた。「エンマみたいなのが、あっちにはおんねん。ほんで、死んだ人間らを『裁きの間』っちゅうとこで選り分ける。こっちの言葉で言うんやったら、天国行きか、地獄行きかにや」
 「天国と地獄ねェ」と俺は言った。「いいことをすれば、天国に行けるのか?」
 「いや」と天使はニヤッと笑った。「波動や」
 「波動?」
 「波動の高低によって、死後の行き先が決まる」と天使は言った。「日ごろの行いによって波動は上がり下がりするから、君の言うように生前のそれとも言えなくもないわな」
 「俺のそれは?」と俺は尋ねてみた。
 「えっ?」
 「俺の波動は? 高いのか低いのか?」
 「秘密や」と天使はまた笑った。
 「なんでだよ!」
 「あっちでそう決められとるからや」と天使は答えた。「規則なんや。むやみに現界——こっちの人間にそのことを教えたら、慢心したり、あるいは不貞腐れたりして、結果的に波動を落とさせることにもなりかねんからな」
 俺は黙っていた。
 「まぁ、人類全体の波動は上がっとる傾向にはある。少しずつやけどな……」
 「ほんで、話を戻すけども——」と天使は続けた。「その場所でトラブルが起きた」
 俺は黙っていた。
 「毎日、大量の魂たちが幽界にはやってくる。現状ではその魂たちを捌き切れん。向こうでは長蛇の列ができとる……。ほんで俺たち天使が、現界の人間たちの死をいっとき食い止めに来とるんや。こっち側の人間の手を借りつつな……」
 「それでアンタが俺にそれを頼みに来た……と?」
 「そういうことや」
 「断る」と俺は答えた。
 「なんでや!」と天使は顔をしかめた。「お前、死んでもええんか?」
 「さっきも言ったけど、俺はアンタの話をハナから信用してないんだよ」と言った。「ついでに言うなら、アンタの存在自体もな」
 「じゃあ、俺は何なんや?」と天使は言った。「今、君の目の前におる俺は?」
 「幻覚か何かだろ」と俺は言った。
 「もしそうやったとしたら——」天使は言った。「君は、何かの病気っちゅうことになるな?」
 「病気?」
 「そうや」と天使。「つまり君は、脳に何か異常を抱えとるっちゅうことになる。俺の存在を——つまり、天使の存在を認めんっちゅうならな……」
 俺は黙っていた。なんだかやり口が汚ないな……
 「アンタがもし、俺の幻覚じゃなかったとしてもだ——」と俺は言った。「つまり、アンタが本当に天使か何かだったとしても、俺がアンタの話を信用する理由はやっぱりない。つまり、『俺が一年後に死ぬ』とかいう、諸々のことをな」
 「なるほど」と天使は言った。「なるほど、なるほど……」
 テレビ点けてみィ、と天使は続けて言った。
 「えっ?」
 「テレビや」
 「何でだよ?」
 「作家のM瀬が亡くなるで」と天使は言った。「今日の晩死ぬと、リストにあったからな」
 M瀬は俺でも知っていた。ノーベル賞作家だ。たしか、日本人で四人目の……
 俺はリビングまで行き、リモコンをテレビに向けた——
 『先ほど作家のM瀬M司さんが、心不全で病院で亡くなりました。96歳でした』
 アナウンサーが神妙な顔つきで、そのことを淡々と告げていた。
 「調べれば、予測はつくだろ……」俺はテレビを眺めながら言った。内心では少し驚いていたが……
 「M瀬が入院しとった情報は、世間にはまだ出回っていなかった筈やで」と天使は言った。「少なくともマス・メディアは、その情報を流してはおれへんかった……」
 俺は黙って、テレビを眺め続けていた。ニュースは天気予報に切り替わっていた。明日は曇りになるとのことだった。ところによっては雨——
 「まぁ、ええわ」と天使は椅子から立ち上がった。「ほなら、ついて来い」
 「え?」と俺は、天使のほうに顔を向けて言った。
 「ええから来い」と天使は答えた。「見せたいもんがある」
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