末期癌

文字数 16,022文字

 俺はそのとき、トミーが訪ねてきてから2年も経ってないと感じていた。しかし、実際には5年半の歳月が流れていた。
 「ご無沙汰してます。実はおれ12月に末期の癌が見つかり6か月永らえたが、そろそろ治療も手詰まりとなったので知らせておきます」
 6月12日に、突然トミーからのSMSメールが届いた。
 ちょうどその日は、トミーもよく知る高校時代の仲間11名による親睦会が予定されていた。同窓会以来の顔合わせになる。
 いっしょに大学に通っていたクマが病で倒れたのがきっかけになり、互いにいつでも連絡を取り合えるようにしようと、2年半ほど前にLINEグループができた。
その半年後にクマは亡くなった。葬儀は本人の遺志で家族葬だった。近年はこうした葬儀が多く、親しくしていた者が集まる機会はさらに減っている。
 友人だけの三回忌を兼ねた親睦会をやろうと、仲間の一人がLINEのグループに呼びかけ、今回の会が成立した。
 俺は会場に向かうため、多治見駅への道のりを汗ばみながら歩いていた。
 とにかく驚いた。足を止めてその場で返信した。
 「ええ!どこに入院してるの?ちょうどきょう、例の高校時代の仲間と岐阜で会います。みんなに伝えていいかな?」
 駅に着き、改札口を通り過ぎたころ、着信の知らせが鳴った。
 「うん、伝えといて。すでに退院して自宅診療にきりかえました。もう、打つ手なしのようです。あとは痛みを抑えていくだけで、かえって安気な毎日です」
 「知らせてくれてありがとう。とにかく気を落とさないよう。いつものトミーでいてね。話したいことたくさんあるから、行けるときまで待っててください。末期って、どこの部位?」
 答えが返ってくるのに、少し間があった。
 俺は岐阜駅行の太多線に乗り込んでいた。
 「胃癌だよ。気はあまり落としてないよ。また、話し相手になってくれ。暇だ」
 「火曜日か水曜日に訪ねることはできるかな?ご家族の都合もあると思うけど」
 今度は比較的早く返事が来た。
 「月曜日、木曜日が訪問看護と診療の日で、あとは17日に野暮用ありくらいかな。ま、来る前にはSMSで確認してください。念のため」
 「了解です。痛みがないのがなによりだ。太多線はのんびり進んで心地いいです。12時にみんなと会う予定です」

 JR岐阜駅を出た。高層マンションやホテルもできて、駅から直接アクセスできたり、歩道専用の陸橋もできて、名鉄岐阜駅とのアクセスも便利になるなど、周囲の利便性は大幅に向上しているが、向かい側に広がっていたかつての繊維問屋街は大きく様変わりし、賑わいはない。通学でも利用した駅前から忠節橋まで通じていた市内電車はなくなり、軌道だったところも含めて、車のためだけの道路となって久しい。
あちこち顔を向けながら歩道を歩いていると、昔の感覚が蘇ってきた。
宴会場は岐阜駅から徒歩で10分ほどのホテルの10階にあった。
 マスク着用で登場した11名の参加者が、互いの顔を確認し合いながら、声を聞いては面影を呼び起こしていた。
 かなり余裕をもって着席できる広い部屋で、席ごとにテーブルの脇にアクリル板のパーテーションがあった。感染者数は時によって増減があったが、世間は「ウィズ・コロナ」という言葉がリードしていた。この会が開催できたのも世情の変化を踏まえてのことだ。
 席を変えては向き合った友人に、知ったばかりのトミーの病状を伝えた。みんな驚いていた。
 クマを偲んでの会ということと、久しぶりの再会ということもあって、親睦会は遠慮がちに始まった。2年前に亡くなったクマに、全員で哀悼の杯を掲げた。
 料理が揃いだして、ビールが何度かコップに注がれるようになると、知らぬ間につながりが昔に戻っていた。表情、態度、言葉遣い、話し方、何度繰り返してきたか分からぬ馬鹿話などなど、すべてが昔そのものだ。
 コロナ下で自粛を重ねてきたストレスを一気に発散するかのように、笑いの絶えない場所となった。知らぬ間に、アクリル板のいくつかはテーブルの端に追いやられていた。
 あたかもその場所が、青春時代にみんなで屯した喫茶店、麻雀荘、飲み明かした友人の家、居酒屋、ボーリング場、ゴルフ場などであるかのようだ。
 とにかくこの仲間は、高校時代からよくいっしょに遊んだ。
 仲間といっても、カチッとした枠があるわけではない。仲間の家族も入れば、ときには仲間の誰かの小、中学校の同級生や大学時代の友人も入る。誰の話をしていても、違和感なく話題のなかに溶け込んでいく。そんな感じだ。
 会を終えても、溜まりに溜まった話が語り尽くせず、二次会に向かい、そこで2時間ほど過ごし、夕方帰路についた。

 親睦会の翌々日にトミーにメールした。
 「トミー、今朝の気分はどうかな?よければ、きょう2時過ぎころにお邪魔したいと思うけど、どうだろう。それとなにか食べたいものなどあったら、持っていくから教えて」
 30分以上は経っていた。
 「なにも食べれんのでマヂで手土産、気遣いは無用です。けっこう遠いぞ。場所に迷ったら電話してくれ。久しぶりだから楽しみにしてるよ」
 「了解しました。じゃ、午後に。よろしく」
 いったん終わりかと思っていたら、すぐに返信が来た。
 「ほぼ寝たきりでなにも接待できんが」
 トミーらしくない言葉だった。
 「やっぱり寝たきりか。無理するなよ。接待なんてとんでもない。久しぶりの再会、ものすごく楽しみにしてるよ」
 昼食を取って、すぐに車に乗り込んだ。
 自宅から一般道路を利用するルートでは一番早いものを選び、ナビの案内に従ったが、現地付近までですでに2時間近くかかった。
 根尾川と揖斐川に挟まれた農村地域の大きな集落に着くと、周辺に神社や寺、小、中学校や工場などがあった。
 トミーの自宅付近は、数メートル幅の狭い道路で不規則に区画されているので、車で走っていると方角が分からなくなった。表札も見当たらず迷って、結局、電話した。
 トミーは近所の状況を説明してくれた。
 それらしい場所を通り過ぎたように思うが、それでも要領を得ないでいた。
 「玄関は奥まっていて分からんが、玄関への通路の奥に駐車場があって、グレイのレクサスが置いてある。お前の車はその前の通路に置いてくれ」
 声が出にくいトミーは、説明に疲れているようだった。
 ゆっくり家を探しながら走っていると、俺が分かるようにと、傘をさした奥さんが自宅前の道路で立っていてくれた。花嫁姿以来の懐かしい容姿だ。
 通路が案内され、車を入れた。奥に車庫があり、レクサスが止まっている。左手側に和風の庭が広がっていて、その奥に玄関がある。
 奥さんは、玄関から入ってすぐ右手側の比較的広い部屋を案内した。かつては応接間だったろうと想像する。
 トミーはベッドの上で布団も掛けず、仰向けになったまま声を掛けてきた。
 「遠かったやろ。家探すのにも苦労したみたいやな」
 「ナビに住所を入れて指示どおりに来たつもりやったけど、途中から分からんようになったわ。奥さんが雨のなかを立っててくれたんで助かったわ。レクサスとはすごいな」
 「5年前やったか、お前のところに行ったとき、中古のレクサスで値打ちなのがあるんで、買い替えを検討しとるという話をしたやろ。それを買ったんや。80万円やで。おまけに5万キロちょっとしか乗ってないからな。安かったわ」
 俺はその会話を思い出せずにいた。
 「そうやったか」
 「まあ、座れや。お茶も飲んでくれ」
 着いてすぐに奥さんが、椅子の横にある小さなテーブルにお茶を用意してくれていた。
 互いにマスクをしているので顔の状態は分かりにくいが、ずいぶん痩せた感じだ。
 「足の筋肉がほとんどなくなってるんで、もう歩くことはできんな。体を起こすのも手伝って貰ってやっとや。しょうがないわ」
 「辛いな。足に少しでも筋肉つけて、徐々に動けるようにせんといかんな」
 そう言ったものの、お腹の異常な膨らみは、それどころではないことを暗示しているようだった。
 昨年12月に分かった段階で末期の胃癌と診断され、手術もできなかったようだ。
 「薬のおかげで痛みもないし、最近は吐き気も少なくなったんで、穏やかに過ごしとるよ。最後には寿司も食えるようになるんじゃないかと思い始めてるわ。俺なりにいろいろ調べて分析すると、もって10月までかな。年末年始までは持たんだろうな」
 少し掠れ声だが、いつもの冷静で淡々とした口調だ。返す言葉に戸惑った。
 (なんで、もっと早くに連絡をくれなかったんや)という言葉が頭をよぎったが、飲み込んだ。
 「生きる気力を持つことが大事なんやろうな。末期癌でも治ったっていう話はたくさんあるやろ。癌といっても、自分の細胞やからなあ。生き抜く強い意志があるかどうかは、大きいんやないかな。そのためにも、トミーには考える材料が必要なんやろうなあ。退屈してるか」
 「退屈なもんか。その窓から聞こえてくる鳥のさえずりや、風で木々が揺れる音なんか聞いとると気持ちいいぞ。いろんな気付きがある。もう助からんと思えば気楽なもんや。あれやらなあかんとか、これせなあかんなんて考えたって仕方がないことや。ただ時の流れに任せるだけや」
 俺の心配をよそに穏やかに答えるトミーは、すでに俺が知ることのできない境地に達しているのだろうか。
 そう言えば、トミーは自然の移り変わりや変化に、繊細な感覚を持っていた。
 高校3年のころに、こんな詩を書いていた。
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              春

 じんちょうげの 香りの中で
 なにか するのは ばかげてるから
 しばらく このままで いたい

 冬が過ぎて 風はいつの間にか 暖かい
 カーテンを ふるえさせる風も
 もう冷たくはない

 じんちょうげの香りは
 どこまでも甘く
 それでいて 妙な淋しさがある
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 「トミーは詩人やから、昔から自然の変化に敏感やな」
 「みんな元気やったか」
 親睦会のことを尋ねてきた。
 まずはクマを偲んでの会だった趣旨を伝えた。死に至った病気の経緯などは語らなかった。
 トミーがポツンと言った。
 「俺の知ってる同級生では5人目かな」
 高校時代に事故で亡くなった者、学生時代、30代、10年ほど前に亡くなった者など、当時の愛称を挙げて語った。
 「そういうことを話題にせならん歳になったな。みんな元気やったわ。ただ同窓会のときと比べると、相当老けた感じに見える奴もいたな。もうみんなジジイや。あちこち席移して、相手変えては最近の健康状態や昔の悪事や馬鹿話で盛り上がっとったわ」
 「そりゃ、あいつらならネタはいっぱいあるわな。特にヨシはいろいろやってきたでな」
 トミーは高校3年に書いていた日記を、時々思い出しては読み返しているという。だから当時のことはやたら詳しい。
 とりわけ人気のあった女の子の名前を挙げて、美人コンテストをしたエピソードを話したり、JRCの後輩の女の子たちと我ら男部員との人間模様を思い出して話したりした。俺も口を挟んで、互いに大笑いした。
 トミーは『長良川流之介』というペンネームで小説、演劇のシナリオ、詩なども書いていた。部室にいたとき「読んでくれ」と手渡されて、その場で読んだ記憶がある。小説やシナリオの内容も、日記の延長線上にあるような、同級生の人間模様を素材にしたものが多かったように思う。「面白かった」と感想を述べると同時に、その才能を羨ましく思ったのを覚えている。
 下宿生活していた大学時代のカズの笑える、ちょっとエロチックなエピソードも語った。それも短い小説にしてあるとのことだった。その話の中で初めて、カズの下宿先がかぐや姫の『神田川』の歌詞そのままだったことを知った。
 「その箱に入っているから出して、ジョージも読んでみろよ。結構面白いぞ」
 体を起こすことのできないトミーは、目をベッドの足元側に向け、少し腕を動かして、指で示した。
 そこに雑多な物を整理したと思われる段ボールが並んでいた。その並びに蓋のないプラスチック製のしっかりした箱があった。ノートや印刷物の類が雑然と入っていた。
 「これのことか」
 トミーは頷いた。
 カズの笑い話は見つからなかったが、箱から2冊の日記と3冊の詩集を取り出した。それぞれをパラパラとめくって目を通した。
 日記は、交友関係や恋愛関係の悲喜こもごもが記されているようだった。
 詩集の1冊には『長良川流之介詩集1』と表題があったが、これは2冊の詩集にあった詩から抜粋して、きれいに書き直したもののようだ。その1冊をめくってみた。同級生との交友やJRCでの活動を通じて体験し感じたことや、そこから膨らんだイメージを描写したもの、好きな子への思いなどを綴った作品が多かった。
 研修旅行の一場面の詩で止まった。修学旅行の代わりになる旅行で、2泊は国立能登青年の家、最後の1泊が海岸沿いの旅館だった。
 最後の夜に、同級生の男女ほとんどが海岸に出て、好きな子の名前を呼び合おうとなって、一斉に叫んだ。そのあと、大きな岩の上に登り、一人がギターを手に伴奏するなか、当時流行っていたフォークソングなどを次々に合唱した。
 読むうちに、当時の風景が蘇った。
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            岩の上で

 海岸の大きな岩の上で
 うたを うたったりして

 風がびゅうびゅう吹いて
 でも・・・ あんまり
 寒くなんか なかった
 
 今 確かに ぼくがいて
 そして 確かに 友達がいる

 この実感こそ
 ぼくの求めていたものだった
 わずかな時間
 それはすぐ消えてしまう
 けれども この冷たい風の中での
 不思議な あたたかさは
 いつまでも 心の隅に残っているだろう

 暗やみの中に 友人の顔が浮かぶ
 白い波が 岩にくだけるとき
 あざやかな歌声が
 耳に入ってくるのだ

 遠くのあかり
 そして 潮風・・・

 ぼくの心は あたたかだった
     ********************

 「研修旅行は楽しかったな」
 詩を黙読し終えて、呟いた。
 「ああ。そう言えば、研修旅行のことも書いたな。あれはいい思い出やった。海岸の岩の上で、みんなで歌ったのが忘れられんわ」
 詩集の中間あたりに、当時の心情を象徴しているような詩も見つけた。
     ********************
             雪

 白い世界の お話は
 とても 静かな キミの夢

 赤いほっぺの 赤ちゃんの
 ひとみのように 澄んでます
 
 遠いかすかな 想い出の
 ひとっかけらの 雪の粒

 天までつもれ 白い粒
 町を ヴェールで 包みます

 小さな小さな 片想い
 雪にたくして キミの町

 ぼくの淋しい この部屋の
 外は きれいな 夢の国

 あとから あとから 舞い降りる
 雪は 誰かに 似ています

 きっと ぼくに 似ています
     ********************

 『オケイ』と題した詩は、シリーズものになっていて、『オケイ24』まで確認できた。
 1冊目の日記にもたびたび登場する同級生の女性だ。よほど好きだったのだろうが、付き合ったことはなかった。俺には「オケイ」という特定の女性というよりは、「あこがれの人」を象徴する名前として使われているように思えた。
 日記には、もっと多くの女性が登場している。
 「日記の方は、やたら女の名前が目に付くな。JRCの後輩や同級生の女の子の名前がいっぱい出てくるじゃないか。俺はあんまり覚えてないなあ」
 1冊目の後半は、JRCでの出来事や人間模様の記述が多くを占めているようだ。
 「女の子の後輩がたくさんできて、毎日の活動が楽しかったからな。好きな子もおったから、よう書いたわ」
 「なんとなくやけど、どんな子がいたか思い出すなあ。それにしても、よくこんなに細かく書けたなあ。大阪の従姉も登場しとるやないか」
 「フーミンとは別れて良かったんやと思う。お前はいろいろ気遣ってくれたけどな」
 フーミンは1冊目の終わりごろから2冊目にかけて登場している。
 俺はノートを膝に置いた。
 「親にも内緒で岐阜まで来たんで、よっぽど好きやったんやろうと思ったけど、お前が大学に行き始めて、すぐに別れたんやったな」
 「まあ、いろいろあってな。日記は、ちょっとやばいと思うとこを黒塗りにしたで、お前なら全部読んでも大丈夫だ。お前のこともいっぱい書いてある。小説書きたいんなら、俺が死んだら、これを引き継いでネタにしろよ。死ぬまではまだ俺も読むから渡せんけどな」
 日記を改めて開いてみると、確かにところどころに、黒塗りにした箇所がある。それと、読み返して説明不足と感じたのだろう、余白部分に鉛筆で解説が記してあるところもある。
 日記は高校3年の8月までで1冊。2冊目には8月から翌年大学に入ってから6月27日までの記録があるが、残りの3分の1は白紙だ。
 2冊目の最後のページに、気になる記述があった。
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 ジョージにも決して心を完全に許せないのかと思うとかなしい。
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 余白に鉛筆書きの解説もある。
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 ジョージから痛烈に本音をもらされた手紙を受け取った日が・・・(消印不明だが6/9ごろのもの)
 オレが人を見下しているように感じられると指摘された内容。今までそういう気持ちをジョージから聞いたことがなかったので。ずっとそう思われていたのかと思うと、やはりショックが大きかった。
 なお、この後のジョージへの手紙に対し、6/18付であやまりの返事があった。
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 俺には手紙を書いた覚えも、トミーから返事を貰った記憶もまったくないが、浪人生のとき書いていた日記の6月8日の記述に、トミーへの手紙を書いていたことが記してある。内容は書いてない。
 さらに日付を遡ってみると、5月19日にそのころトミーと手紙のやり取りをしていた記述があった。
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 トミーから手紙が来てすぐ返事を出した。
  俺は精神分裂症の気があるだって。
  あたってるかもしれんな。
  今の俺は狂ってる。
  心の奥に芽生えていた俺の得体の知れない感情、恐ろしい感情に気づいた。
  いや、やはり、それがどんなものかはわからない。
  しかし、恐ろしい。こんなはずではない。
  俺は自分がどんな人間かわかっていく気がする。
     ********************

 5月25日には次のように記した。
     ********************
 トミーは、やはり俺に似ている。
  しかし、苦痛を感じる。
  トミーは少しバカにするところがある。
  俺も気をつけなくては。
  拓郎さんの言わんとすることがだんだんわかりかけてきた。
  友達というのはむずかしい。
  いや、俺という人間が少しこむずかしい人間なのかもしれん。
  きっと、他人は俺をバカに思っているだろう。
  バカだな、確かに。
 (中略)
  トミーよ。むずかしい言葉を並べることはとても悲しいことですぞ。
  詩を作ろうと頭をひねるのも。
  自分で真剣にそう思ってないようなことを口にするのは無責任です。
  私をバカにしているのです。
  それが悲しいですぞ。
     ********************

 確かにトミーの心を傷つけるようなことを書いたり、言ったりしたようだ。
 トミーの日記の1冊目の裏表紙の内側には、大きなデザイン文字で、次のような誓いが記してあった。
     ********************
  信念に従って
   男なら
    でっかく
     生きたいよ
   常に新しい時代を先取りし、
   常に進歩前進する。
             Tomi
     ********************

 いまの俺への忠告のようにも思えた。
 沈黙のなかを少し時間が流れていた。
 記憶の曖昧な俺は、個々の内容には触れずに答えた。
 「トミーのような文才はないから、小説は書けんけど、日記や詩集を引き継ぐのは引き受けるよ」
 知らぬ間に2時間が経過していた。
 (無理をさせてしまったかな)と少し心配になった。
 「6月下旬にアメリカに住んどる長女が帰って来て、嫁さんと3人で3泊4日の北海道旅行をする予定なんや。そのあと千葉に住んどる次女の家にも行く予定やから、7月はじめまでは来れんわ。帰ってきたら、北海道土産を持って来るわ」
 「そうか。楽しみにしとるわ」
 その流れで、もっと早く着けるはずの別の経路を教えてくれた。
 部屋を出ると、奥さんが出てきた。
 「きょうは本当に楽しそうでした。また来てやってください」
 「僕こそ、楽しい思いをさせて貰いました。二人で大笑いしましたよ。また来ますのでよろしく」
 雨は小止みになっていた。
 俺はトミーが教えてくれた経路で家路についた。
 車の往来が少ない山の中を通る心地よい風景の道だったが、掛かった時間はあまり変わらなかった。
 家に着いてから、LINE仲間に見たままのトミーの厳しい状況を知らせた。
 数名がコメントを寄せていた。

 訪問後の体調が気がかりだった俺は、その週の金曜日にSMSメールを送信した。
 「今朝の気分はどうかな?火曜日は話しすぎて疲れたやろ。なにか食べられるようになったかな?気分のいい日が継続することを祈ってる。会えるのが待ち遠しいよ」
 30分ほど経って、返事が届いた。
 「ここのところ薬のせいか、吐き気が少なくなってきたようだ。きのうも薬のおかげでよく寝た。あきらめるものと引き換えに得られるってわけだ」
 「よく寝て、食べて、活力が生まれれば奇跡も起こるかも知れん。自分の力を信じようよ」
 2時間ほど経っていただろうか。
 「まあ、死なんうちに(笑)、もう1回くらいは来てくれるとうれしいが、なにせ遠いからな。ありがとよ」
 俺はその言葉に(おやっ?)と思った。
 翌週にもメールを出したが、今度は2時間ほど待っても返事が来なかった。心配になって携帯に電話すると、トミーが出た。
 メールをうまく打てないようで、話すことならできるとのことだった。ただ、声の掠れが酷くなって、弱々しかった。
 「昨日、ケンがふらっと来て話してった。話すと少し元気が出るわ。楽しみに待っとるで。いつでもええから来てくれ」
 指が思うようにならないのは気がかりだったが、とにかくホッとした。

 次女宅から帰って二日目、7月6日が2回目の訪問日となった。
 その翌週には、親睦会で集まった仲間のうちの5人で、下呂温泉に宿泊する予定があった。タカが発案し、ガオがホテルの予約などをしてくれた。訪問はその前にしておきたいと思っていた。
 北海道旅行中に、ヨシがトミーを訪ねていた。トミーの痩せ衰えた姿に衝撃を受けたことを、LINEで知らせてきた。
 旅行から戻って、体にはなんの変化もなかったが、出発前に体温を測ったうえで車に乗った。
 再び、ナビを頼ってのドライブとなった。
 玄関で奥さんにささやかな土産を渡し、そのうち粉末のオニオンスープを指して、「これなら飲めるでしょうか」と尋ねた。
 トミーの部屋に入った奥さんは、「玉ねぎのスープだって。飲める?」と聞いた。
 トミーは無理だという仕草をした。前回よりさらに痩せていた。
 気になっていたお腹の膨らみはなくなっていたが、足がさらにむくんだように思えた。きっといい兆候ではないだろう。マスクも付けなくなっていた。息苦しくなるのだろう。声もさらに掠れ、小さくなっていた。
 それでも俺の顔を見ると、いつもの調子で話し始めた。
 「午前中にケンが来たわ。昨日、ケンから携帯にメールが来てたんで、返信しようと夜中に操作してたら、間違って電話のボタン押しちゃったんで、呼び出し音鳴る前に切ったけど、それが却っていかんかったみたいで、心配したケンが来てくれたんや。気遣って飲物持ってきてくれたけど、それも飲めんわ。氷を口に含むことしかできんようになった。氷で命つないどるわ」
 「それはいかんな。氷以外は受け付けんのか」
 「匂いがあるともうダメやな。まあ、氷舐めて生きとれや、ええやろ」
 医者の回診のときに、点滴は受けているのかと聞こうかと思ったときだった。ケンから奥さんの携帯に電話が入った。
 奥さんが携帯を俺に手渡した。
 要件は俺の携帯電話番号を教えてほしいということと、トミーの家の帰りに寄ってくれということだった。番号を知らせてから、夕方までに帰らなければならない用事があるので、寄ることはできないと答えた。
 奥さんは奥の部屋に戻った。

 「痛みはあるんか?」
 「医者がくれる麻薬で凌いどるけど、やっぱ痛いぞ。きついわ。麻薬が体を蝕んでいくのが分かるのも辛いしな。まあ、どうしようもないさ。生きとるだけ有難いってことかな。でもなあ、あと1、2年頑張れと言われたら、ちょっと無理としか言いようがないわ」
 俺は頬がこけて、痩せ細って小さくなったトミーの体全体を、ぼんやりと眺めていた。
 「北海道はどこへ行ったんや」
 「函館、札幌、小樽や。函館は初めてやったんや。初日は晴れて、五稜郭や函館山に登って景色を楽しむことができたけど、二日目が大雨でな。その日は古い教会や寺を見てまわる街歩きを予定しとったんで、散々やったわ。昼、食事してから、特急に乗って札幌に向かったら、今度はその特急が八雲で大雨のため止まってな。8時間以上車内に閉じ込められたわ。結局、川が溢れる危険があってこれ以上進めないとかで、乗客全員が八雲から長万部までバス輸送になって、長万部から臨時の特急に乗り換えて、札幌に着いたのは翌日の1時半やったわ。えらい目に遭った。感染対策にうるさい嫁さんも娘も、かなり神経質になってたわ。電車のなかは換気してたし、ほかの乗客もマスクを外すことなく大人しくしてたんで、対策としては万全やったと思ってたけど」
 「そうか。そりゃ大変やったな。函館から札幌は遠いからなあ。それにいまは余計な神経も使わなあかんからな」
 「札幌でもちょっと降られたけど、小樽では晴れて、街を歩いてうまいもん食って帰ってきたわ」
 「俺も札幌には3回ほど行ったことがあったな。札幌ラーメン食べたかな。ビール博物館も行ったな。小樽も行った」
 トミーはゆっくりと思い出しながら、小さな声で語って、息をついた。もっと語りたいことがあるのだろうと思った。
 「北海道には何度か行ってるけど、全部仕事やったから、観光地をゆっくり見てまわることはなかったなあ。海外もあちこち行ってるわ。お前は出張ってことはないやろうから、海外はあまり行ってないんか」
 「ハワイと香港には行ってるぞ。ハワイは家族と何回か行ってる。俺はハワイが好きでな。空気が違う。気持ちいいんや。自然の流れのようなもんを感じるんや。香港はあかん。空気が悪いんや。なんとも嫌な臭いがしとった」
 やはり、かつての話しぶりのような勢いはなく、話が途切れた。少し待ってみたが、休んでるようだった。
 「ハワイも香港も行ったことないなあ。でも香港の空気は分かる気がする。寧波に行く仕事で上海空港に降りたとき、確かに空気が悪いと感じたな。ニューヨークやサンフランシスコでチャイナタウンを歩いたときは、なんとも言えん臭いがしてたわ。ハワイはそんなにええんか。いっぺん行ってみなあかんな」
 トミーは、ハワイに家族で行ったときの話を簡潔に話した。
 そのつながりで、すでに独立して生活し、仕事も中堅どころになっている3人の子どもさんの近況を手短に説明した。
 「みんな立派になって、仕事も忙しいんで、なかなか帰って来れんわ」
 トミーは寂しそうな様子もなく、淡々と語った。
 「病気で倒れたら、面倒見てくれるのは奥さんだけやと、よう分かったやろ」
 「まあな」
 短い沈黙があった。その沈黙のなかで、前回話しそびれたことを思い出した。
 「俺はさあ、人間という存在は場所だと思っているんだ。人間というより、生きとし生けるものと言ってもいいかも知れん。場所というのは、俺の定義では、つながりと関係性の相互作用の総体のことなんだ。まあ、ちょっと分かり難いやろうけどな。たとえば、体は細胞と遺伝子や細菌のつながりと関係性の相互作用でできていると言えるやろ?だから場所さ。心だって場所の積み重ねでできている。最初は親子の場所ができ、そのあと親戚や地域の人たちとの場所ができ、小学校、中学校、高校、職場というように社会にある仕組みでできている場所のなかで、つながりと関係性の違いによってそれぞれの場所のなかにさらに細かな場所が積み重なっていくんや。場所を積み重ねていくなかで生まれる相互作用によって変化し、育まれていく心のなかに、共通して流れている自己があるんやと思う。いまトミーに話すようなことじゃないかも知れんけど、俺の心には確かにトミーという場所があって、その場所にあるトミーを念頭にお前と向かい合っているときの俺がつくられている。嫁さんや家族との場所にある俺とはどこか違うんやと思う。互いが生きていて相互作用を続ける限り、その場所は変化を続けるから、その場所にある自分をなかなか見定めることができないんやけど、人の存在ってのは死によって変化を終えるから、その人とつながりや関係のある人との相互作用もなくなるやろ。ある意味でそこからが、生きている人にとって、死を迎えた人による場所を冷静に振り返る出発点になるように思うんや。俺のおふくろは52歳で死んだ。離婚して4年後やった。でもおふくろの場所は俺のなかに確かにある。だからとうにおふくろの歳を超えても、やはりおふくろとして存在しているんや。おふくろが死んだとき、もちろん親父はまだ生きていて、あれやこれやと嫌なことも言ってきたんで、おふくろについてた俺は冷静ではいられなかったけど、その親父が65歳で死んで、自分も親父の年齢を超えてみると、落ち着いて親父という場所を見つめ直すことができるようになってきた。それが俺自身を知る手立ての一つになると思えてきたんや」
 トミーが話しづらいのをいいことに、珍しく一方的な話をしてしまった。
 「なんかケンのようなこと言うなあ。死が迫ってくると、いろいろ気を遣うんかなあ。ケンは「南無妙法蓮華経」と題目を唱えていれば悟ることができるような話をしていったよ。日蓮は俺も少し勉強してすごい人やとは思ったけど、俺は親鸞の本願他力という教えの方がしっくりくるんや。親鸞は生きているいまこのときを幸せだと感ずることが大切やと教えてるんや。ジョージもいっしょやったか覚えとらんけど、ケンとは昔からよく議論したんや。ジョージの言う場所というのは、最終的には衆生とか縁という言葉に行き着くように思えて、仏教的な感じがするなあ」
 トミーが仏教に詳しいのは知っている。もっと語りたいのだろうが、息を継ぎながらの語りに、疲れているようだった。声も聞き取りにくくなっていた。
 「言いたいことは分かるよ。俺が場所という言葉に行き着いたのは、西田幾多郎の哲学を知ってのことだから。ただ場所に拘るようになったのは、生命科学や生物学、それから進化論の本を読むようになってからなんだ。俺ごときに西田哲学が分かるわけもないしね。俺は、宗教も信じている人にとっての場所の一つだと思っている。ただ、信じている人にとっては、どこまでもつながりが広がる可能性のある場所であったとしても、客観的な世界から眺めれば、宗教自体は場所ではなく、信ずる人を律するための固い殻を持った組織なんや。組織だから教えを普及して、拡大していくことが目的になるやろう。まずは相容れない信条に向かわないよう、信ずる人を留めておく仕組みが必要だし、拡大していくための仕掛けもあるんやろうと思うんだ。だから、信ずる人にとっては場所の一つであったとしても、組織の一員としてその枠を広げようとするから、その人に積み重なっているほかの場所をも支配するところがあるように思う。仏教のことはよう分からんけど、一つの哲学として見れば、囚われを失くして、いまを正していく心を希求するという感じなんで、無数に積み重なった場所から自己を見出すために、必要な考え方を与えてくれるのかも知れんとは思ってる」
 「そうさ。仏教にはすべてを包み込むような鷹揚さがあるんや。逆に一神教は排他的にならざるを得ないんや。なにせ絶対神やから。ほかの神様や仏様を認めるわけにはいかんだろ。かつては世界で起こる争いごとの大きな原因の一つが一神教をめぐるものやったんや。いまは共生とか言ってるけど、争いごとの底流にはそういう問題が潜んでいる場合もあるんやないかな」
 言葉を途切らせながらだが、トミー節が出た。
 俺そしておそらくトミーにも、かつてこうして人生の問題や悩みを率直に語り合った記憶が蘇っていた。かつてなら、話し始めれば止まらないトミーには、さぞ歯痒いことだったろう。
 「そうなんだよな。宗教が信ずる人の心を救うためだけに存在しているなら意義はあると思うけど、結局はその教えを広めていくことが目的になってしまうんだよな。なんせ組織だから。信者を増やして拡大し続けなきゃならない。それが軋轢を生む場合もあるんだろうな。まあ、あまり分かっていない人間が言うことじゃないかも知れんけど」
 ふと、思うようにならないトミーが地団駄踏んでいるのではという思いがよぎった。
 俺は腕時計を見る仕草をした。
 「あっという間に1時間以上過ぎたなあ。お前、少し疲れたやろ。無理はできんでな。俺も夕方に嫁さんが車使うんで、そろそろ帰らんといかんし」
 「疲れてなんかいるもんか。楽しいよ。元気出るわ」
 精一杯の言葉に感じた。

 俺はベッドの上でほとんど身動きができないトミーの姿から目を外し、何気なく部屋全体を見回した。
 ベッドの足元側の段ボール箱などの奥に、拘りの音響機器、大きめのスピーカー、プリメインアンプ、レコードプレーヤー、CDプレーヤー、カセットデッキが入ったラックがある。ガラス戸のついた棚にレコードもたくさん納まっている。どれもおそらく長い間使っていないだろう。
 ベッドの右手側には本棚のようなラックがある。一部に雑多な本が納まっているなか、ひときわ目を引くのが懐かしいフォークソングCDの数々だ。
 かつてはレコードでいっしょに聴き、歌った吉田拓郎、かぐや姫、井上陽水もあった。ただ、圧倒的な品揃えを誇っているのが、赤い鳥、紙風船、ハイ・ファイ・セット、そして山本潤子のものだ。
 トミーのことをよく知っていると思っていた俺には意外だった。それとも記憶から抜け落ちたのだろうか。
 CDラックの前に腰高の台があって、CDプレーヤー付カセットデッキが置いてある。
 体を起こせたときは、手を伸ばして操作し、これで音楽を聴いていたのだろう。いまではCDを取ることも、デッキのスイッチを押すことも無理に違いない。
 ベッドの枕側の背後が窓になっている。トミーはこの窓から、風で木々が揺れる音や、鳥の様子を想像しながら、さえずりを聴いている。
 「赤い鳥のCDがこんなに揃っているのは、珍しいじゃないか。お前から赤い鳥のこと聞いた覚えはないけどなあ」
 「ほとんど揃えたつもりや。そのなかのコンプリート・コレクションはレアもので2万円以上出してネットで買ったんや。5人のハーモニーがとてもきれいなんや。ほかの誰がやってもあの美しいハーモニーはできん。5人でないと駄目なんや」
 俺はトミーの言葉を嚙み締め、なんとか聞き取っていた。
 音楽センスも鋭い、トミーらしい評価だ。何ケースも入っているコンプリート・コレクションの最初の1枚を取り出してみた。
 「あれ?英語の曲もあるじゃない」
 「うん。赤い鳥は子守歌やフォークソングのほかにもソフトロックと言われる曲も歌ってるんや」
 「へえ、そうなんや。知らんかったわ」
 トミーは赤い鳥のメンバーとその成り立ち、その後、紙風船とハイ・ファイ・セットそしてハミングバードに分かれた経緯を、呼吸を整えながら、力を振り絞って説明していた。
 「やっぱ赤い鳥で一番は、『竹田の子守唄』やなあ。部落問題が絡んで放送禁止になったこともあるけど。お前知ってたか?」
 「聞いたことあるような気がする」
 「歌を聴きゃ、その美しさや純粋な気持ちが伝わるはずなのになあ。おかしな話やったわ。なんか、ちょっと聴きたくなったなあ」
 「どれに入ってるんや。取り出して、かけたるわ」
 トミーはしばらく悩んでいた。
 「コレクションはすぐに曲が出てこんからあかん。俺のベッドの右手のカセットデッキの横に並んでるCDのなかに、山本潤子のゴールデン・ベストがあるやろ」
 これもわずかに手を動かして示しながらの説明で、かろうじて聞き取っていた。
 しばらく探して、「GOLDEN☆BEST山本潤子(赤い鳥/ハイ・ファイ・セット)」を見つけた。
 最初の曲が、赤い鳥の「竹田の子守唄」だ。
 「これか?これをかければいいんやな?」
 トミーは頷いた。
 デッキのCDプレーヤーを開けCDを入れると、しばらくして穏やかな前奏のあと、山本潤子の澄み切った美しい声が流れてきた。赤い鳥の時代のものだ。
 トミーは目を閉じていた。
 歌が少し進んだところで目を開けた。
 「ジョージは、この曲を初めて聴いたんはいつや」
 声が少し落ち着いていたように感じた。
 「高校生のときかな?よく覚えとらんけど、歌うようになったのは高校からや」
 「俺は中学生のときや。このハーモニーに感動したなあ」
 「お前らしいな。お前もハモるのうまかったもんな。そうや、高3のとき、みんなでバンド演奏の真似事したことあったやろ。あのとき、俺はトミーがベースを弾けるのにびっくりしたんや。聞いたら、初めてやって答えた。覚えてるか?」
 「そんなことあったかなあ」
 曲が二人だけの空間を心地よく包んでいた。
 若いころはこうした機会がよくあった。ただ、この曲をいっしょに聴いた記憶はない。
 「この5人でないといかんのや。正確には二人と三人かな。絶妙のバランスなんや」
 トミーは説明を続けていた。ただ休みながらの声が一層小さくなっていた上に、初めて聞く内容なので理解できずにいた。
 俺は聞き直すことなく、ただ頷いていた。
 次の歌が少し流れたタイミングで言った。
 「もう2時間を超えちゃったよ。そろそろ帰らんと、嫁さんに叱られるわ」
 「ああ、そうやったな。よろしく言っといて」
 「トミー、疲れたやろ。声がかなり掠れてるぞ」
 「まあ、こんなもんやろう」
 「また来るで、元気にしとれよ」
 「ああ、楽しみにしとる」
 帰る雰囲気を察知したのか、奥さんが部屋に来た。
 「長居してしまってすみません。疲れて容態に影響しなければいいですが」
 奥さんと二人で玄関先にいた。
 「帰られたあと、きょうは楽しかったと言ってます。元気が出るようです。会えるのを楽しみにしてますから。ありがとうございます」
 「また来ます」
 トミーにももう一度大きな声で、「また来るでな」と声を掛けて家を出た。
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