岐路

文字数 4,987文字

 12月に入っても、日曜日は家業を手伝い、予備校に行くべき平日は、開店の10時から一人でパチンコ店の席に座る毎日が続いていた。
 トミーがかつて指摘したように、俺は押し寄せる不安から、逃避しようとしていただけかも知れない。
 その制御不能な自分について深く考え始め、次第に大学を目指すなら、心理学を学ぶべきだと思い始めた。
 師走が迫るあるとき、母にそのことを伝えた。父と相談したようだ。しばらくして父から受験すべき大学を逆提案された。
 なんでも魚問屋にある鰻の卸業者の息子が、その大学さらには大学院まで出たうえで、家業を継いでいるとのことで、同業者のなかでも一目置かれているとのことだった。やはり父はあとを継いでほしいのだろう。
 俺の乱れた生活に気付いても、小言も言わず味方してくれていた母も、「心理学はちょっとね」といい顔をしなかった。
 受験する意義を見出せないまま、相変わらずの悶々たる生活のなかで時間は過ぎた。
 結局、トミーは希望どおり東京の大学に合格し、俺は父が指示した地元の大学だけが合格となった。
 心のやり場がない俺は、「そこには行く気がないので、入学金は納めなくていい。国立二期校の試験も控えてるんで、退路を断って集中したい」と母に言った。
 母は高校教師でもあった親戚の人に頼み、いっしょに説得にかかったが、俺は同じ言葉を繰り返しただけだった。父が怒りに来るだろうと構えていたが、父と話し合うことはなかった。
 しばらくして、同じ大学・学部に合格していた中学以来の親しい友達ガオが、そこに決めたと電話してきた。
 俺はその言葉を待っていたのかも知れない。どうせ合格しないだろうと思っていた次の受験も止めた。母は入学金を収めた。
 4月に入り、ガオに加え、同級生のクマと3人で待ち合わせて大学に通い始めた。釈然としない大学生活がスタートした。
 3人でハイキング同好会にも入った。部室はなかったが、学食で先輩たちと顔を合わせ、語り合うのが楽しみだった。ハイキングに行ったことはあるが、主な活動は学食での交流と飲み会だった。
 最初のうちは、授業にも出席していたが、真面目な学生を見つけて頼めることが分かると代返をお願いし、授業をサボり始めた。
 大学付近には雀荘や喫茶店があって、そこで時間を潰すようになった。次第にそれも面倒になり、途中の繁華街で遊ぶことが多くなった。3人は、あと1単位落とすと退学勧告が届くという状態で1学年を終えた。
 トミーとは、東京から帰ってきた機会に会ったことがある。
 ただ、話した内容は覚えていない。

 大学2年に上がったころだったか、近所に住む幼友達と付き合いを始めた。
 彼女は働いていたので、最寄り駅から勤務先の最寄り駅までいっしょに通うことになり、ガオ、クマとは大学で顔を合わせるようになった。そのせいかどうかは分からないが、2年になると3人とも授業にはよく出席するようになった。
 彼女と俺は、3年の夏に結婚を決意した。
 もともと大学に通う意義を見出せなかった俺は、辞めて働くつもりだった。
 両方の親が集まった話し合いの場で、それを止めたのは父だった。
 「三宅が空いてるんでそこに住んで、生活費はお前が稼げ。大学は続けて4年で卒業すること。それが結婚の条件だ」
 彼女の父母も同調した。
 俺たちにこれ以上の選択肢があるはずはない。
 その後の父の動きは素早かった。
 約1か月後の秋分の日に、長良川に近いある神社での挙式と、父の同業仲間が経営する披露宴会場での披露宴が予定された。
 傷んでいた空き家も、伯父や従兄らの助けを得て三日で修復し、新居に相応しい佇まいとなった。
 披露宴は、両家の親戚や父の同業者、妻の会社の上司や友人、近所の人などと、俺の友人としてガオ、同じく中学以来の友人で進行役を引き受けてくれたタカ、そしてエレクトーン演奏で宴を盛り上げてくれたケイなどが主な招待客で、全部で60名程度だった。
 残念だったのは、トミー、ヨシ、ケン、クマ、ウノ、ヒビなど高校、浪人や大学時代の友人を招待することができなかったことだった。
 ところが、6、7人だったろうか、招待されなかった友人が、会場の外の通路に集まっていた。そのあたりが騒がしかったのが、新郎の席からも分かった。
 頃合いを見計らってのことだろう。
 その集団が突然会場内に入り込んできた。トミーが先頭だった。
 そして、トミーがタカのマイクを取り上げて話し始めた。
 「僕は呼ばれてませんが・・・」
 そのあとなにを話したかは覚えていないが、会場内は笑いに包まれていた。結果として宴を盛り上げ、俺の人柄の一端も紹介されることになった。
 互いの両親は、予定外の闖入者に慌てて椅子を用意させて、最後まで留まらせた。
 その友人たちが、長崎までの2泊3日の新婚旅行を岐阜駅で見送ってくれた。
 新婚旅行から帰ると、友人たちが手作りで企画した披露宴が予定されていた。
 それぞれの小学校、中学校、高校、大学の友人が集められた。7、80名?もっといただろうか。とにかくすごい数だった。トミーもいた。
 俺たちのために、苦労して準備してくれた宴だと分かっていながら、当の俺たち二人が少し遅れてしまった。家を出るときに父母もかなり気をもんでいたようで、父が俺に「何をしとる!」と毒づいた。集まってくれた友に大変な迷惑をかけた恥ずかしさを、いまでも鮮明に思い出す。
高校時代の親しい友人が数人で進行役をしていた。
 これほど多くの友人に囲まれて祝福される幸せな経験を得たことが、その後の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。それ以降、友人の結婚式でこうした宴会が催されたことは、俺が知る限りなかった。多くの友人が学生だったことと、幹事役の労を買って出てくれた大勢の友人がいたからできたことだ。
 結婚後、そうした友人の幾人かが三宅を訪ねてきた。
 夜は、塾や家庭教師のアルバイトをしていた俺は、毎日帰りが遅かった。家に入ると、友人が寝転んでテレビを見て待っていることもあった。
 年が改まって、妻は仕事を辞めた。
 そして、4年生になる直前に長女が誕生した。
 俺は責任感を強く意識するようになった。
 どう藻掻いても自堕落な生活を改めることができなかった俺だが、結婚によって大きく変わった。

 就職が話題になり始めたころ、トミーが東京から戻った機会に会い、就職先について語り合うようになった。
 土、日は家業の手伝いでバイト料を貰い、そのほかにも多くのバイトをこなして生活費は稼いでいたが、当然、安定した収入が得られる仕事に早く就きたいと思っていた。
 母も父も会社名さえ聞くことなく、黙って見ていた。あとになって思えば、魚屋以外にも色々手を伸ばした父も、商売を続けることに限界を感じていたのかも知れない。
 俺はガオやクマと話し合っているなかで、大手ファーストフード社を受けたいと思い始めた。
 トミーにそのことを話すと興味を示して、いっしょにそこの店舗の一つを訪ねて、店長から実際の待遇面や仕事のやりがいなどの話を聞いた。
 秋にガオ、クマ、トミーと俺の4人が、その会社の面接を受け、トミーと俺が内定の連絡を受けた。トミーも俺も、仕事でいっしょに切磋琢磨できるのを楽しみにしていた。俺は、(子供のころから商売に携わった経験が活きてくるはずだ。今度はトミーに負けられない)と期待を膨らませた。
 ところが思わぬことが起きた。俺がN市の職員採用試験に合格したのだ。
 N市なら自宅から通えることになる。父母は大喜びだ。家業の忙しいときに手伝うこともできるだろう。義父は国家公務員なので、妻の家族も公務員を勧める。
 妻ともよく相談し、結局、俺は公務員の道を選択した。
 トミーは落胆したことだと思う。

 社会人となったトミーと俺は、引き続き別々の道を歩むことになった。連絡を取り合うことも滞りがちになった。
 トミーはチェーン店を転々としたようだ。
 俺に次女ができて数年後だったと思う。
 トミーは会社を辞めて地元に帰り、塾の教師となった。
 俺はそのことをあとになって知った。
 そして、ほどなくトミーは結婚した。
 披露宴に招待された俺は、祝宴として予定されていた友人ばかりで合唱する機会に、頼まれてもいないのに司会者からマイクを取り上げ、短くスピーチした。
 俺の結婚披露宴のときに、トミーがしたことを思い出していた。
 俺はトミーがとても多芸多才な人間だということを語りたかった。
 ところが、取り上げた例の一つが、場の雰囲気を壊すような余計なことだった。口に出した瞬間に後悔した。
 トミーの真似はとてもできないと痛感した。
 高校時代の仲間の多くは、20代後半から30代前半で結婚した。披露宴で顔を合わせれば、二次会へと騒ぎは続いた。
 トミーは参加しなかったが、忘年会は毎年のように催された。ボーリング大会やゴルフコンペもしていた。
 それぞれに子どもができると、忘年会は家族連れになり、キャンプやバス旅行もした。

 父母が離婚し、その四年後に母が亡くなったのがきっかけになって、俺は郷里を離れ、多治見市にある当時の新興団地に引っ越した。32歳だった。
 家の屋上からは、御岳山や恵那山をはじめ、連なった山々を見晴るかすことができる。
 幼いころから、金華山とそれに連なる山々に癒されて育った俺にとって、山の稜線が広がる風景は、居住地とする決め手の一つだった。
 その新築祝いということで、高校時代の仲間が集まってくれた。
 ただ、そこにトミーはいなかった。三十歳を超えたあたりからだろうか、トミーと話す機会はなくなっていた。
 トミーに限ったことではない。
 35歳を過ぎたころからは、毎年続けていた忘年会やゴルフコンペなどの行事がほとんどなくなった。
 それぞれの仕事上の事情や家庭の事情も影響したかも知れない。俺には東京への転勤という事情も加わった。
 個別に会う友人は何人かいたが、郷里から離れた俺には、昔から通い慣れた場所や店で仲間と顔を合わす機会もなくなり、自ずと疎遠になった。

 4分の1世紀ほどの歳月を経て、懐かしい顔合わせができたのは、58歳、59歳の年だった。我らの学年が高校の同窓会幹事となる年の前年と幹事年だ。
 同窓会は、長良川河畔の有名ホテルの広い宴会場で毎年催されている。ホテルの玄関から長良川の清流も金華山の雄姿も見える。
 幹事の一人となったカズが、かつての仲間に呼びかけた。カズと俺は小、中、高といっしょの幼友達だ。それまで同窓会には興味が湧かなかった俺も、2回とも出席した。トミーは1回目の同窓会には間に合わなかったが、2回目は最初から出席した。カズとトミーは高校、大学を通じての友人だ。
 前年の会への参加は、本番となる同窓会で落ち度があってはならないと、実際の運営方法を細かく視察するという趣旨だった。同級生で出席したのはそれほど多くはなかったが、かつての仲間はほとんど出席した。同窓会を「見た」あと、カズが呼びかけて二次会に向かった。
 トミーはそこに遅れて登場した。懐かしさいっぱいで、喜び合った覚えがある。
 翌年の同窓会には、カズの指示もあって、同級生全員への呼びかけコールを徹底した。さすがに大勢が駆け付けた。
 会は例年のごとく会長などの挨拶、幹事からの報告、議題の承認と議決などがあったあと、医学部教授として活躍している同級生が講演を行った。スクリーンに資料を映しながら、誰もが興味を持つ健康についての内容を、とても分かりやすく説明したのに、みんな感心した。
 そのあと、クラスごとに分かれて旧交を温め合った。俺のクラスでも男女合わせて、3分の1ほどは参加していただろうか。
 誰もが最初は苗字で探りを入れながら、知らぬ間にかつての呼び方に戻り、昔語りや家族の話などで花を咲かせた。
 卒業以来の女性の友達と話ができたのが、特に嬉しかった。男性は仕事を話題にする者が多く、あちこちで名刺交換が行われていた。
 クラスの違うトミーとは、そのあとの二次会でいっしょになった。
 カズがよく知る比較的大きなショットバーに、30人以上で押しかけたので、あちこちに話すべき友が散らばり、トミーとじっくり話すことはできなかったが、昔の語り口調で笑い合った。
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