第28話 メリー・クリスマス
文字数 2,662文字
十二月二十四日 水曜日
所沢の朝は冷えた。霧が煙のように湧き上がる湖を見ながら『スモーク・オン・ザ・ウォーター』というディープ・パープルの曲を思い出した。
長い階段は心臓にこたえた。門を入ると、ささやかな寺が見えた。経を詠む声が聴こえる。俺たちは奥へ回った。
「あの人だ」
俺の指の先に、坊主たちに囲まれて読経する一人の尼僧がいた。その人は小柄で、頭を丸めているため年齢が読みづらいが、三十九歳としては少し老けて見える。頬の肉もやや弛んでいるが、くっきりとした瞳と鼻筋は若い頃の美貌を思わせる。ただ、その顔を斜めに走る赤い傷痕が、人を遠のける異様な気を放っていた。
「わたしのお母さん?」
その頬をスリムにした娘が尋ねた。
「刑務所を出てすぐにおふくろさんは出家したんだ。それから十二年間、ずっとここで仏様に仕えてる。自らの罪を呪い、犠牲にした家族の幸福を祈って、煩悩を遠ざけて一生を終える覚悟でいる。それが犯した過ちを償う唯一の道と信じてだ」
「七年も刑務所にいて、もう償ったんじゃないの」
「今もお前を苦しめてるだろ。彼女の罪は終わっていないんだよ」
「わたし、許す。苦しんでなんかいないもの。お母さんこそ、あんな瘍で人生めちゃくちゃじゃない…」
マナの目から丸い涙がぽろぽろと落ちた。声のトーンが上がった娘の口許に指を当てた。
「静かに。お勤め中だ、帰ろう」
「会えないの?」
「簡単に世俗の人とは会えないんだよ」
背を向けて帰る中途で一人の老女とすれ違った。『寺内貫太郎一家』で悠木千帆が「ジュリ~」とやってたような婆さんだ。マナの顔を見て立ち止まる。
「おや、あんた‥」
マナがぼんやりと振り返る。
「やっぱりそうじゃ。あんた、真情さまの娘さんじゃろ」
俺とマナは顔を見合わせた。
「おばあちゃん、真情さまってここの尼さんの名前かい?」
「ああ、一目見てわかった。目許が瓜二つじゃもの」
マナが身を乗り出す。
「お母さん、いや真情さまをよく知ってるの?」
「ええ、真情さまはここで一番心の優しいお方ですよ。いつも娘さんの自慢をしてらっしゃるんです。わたしの娘は歌を唄ってる、有名な歌手なんだって、テレビなんぞご覧にならないのによくご存じで、小さい写真を女学生みたいに持っておられるんです」
マナのからだが震えていた。母に駆け寄らないようにと、肩を押さえた。
遂に顔を伏せて座り込んだマナは、懸命に声を殺していた。小刻みに肩が痙攣して、堪え切れない嗚咽が鼻から時折漏れた。
「声を出して泣け。堪えなくっていい。お前はまだ子供だ。これからもずっと、あの人の子供だ」
ああ、という声を上げてマナが胸に飛び込んで来た。マナは涙袋に溜めた限りの水分を絞って、俺の皮ジャンを濡らした。
老女は黙って去って行った。姿が消えかけた所で俺は後を追った。マナから見えない所で、老女に封筒を渡した。
「ありがとう。マキちゃんにもよろしく」
「純な娘さんを騙すなんて、気が引けるわ」
「これで彼女も幸せになれる」
「たまには舞台も観に来てちょうだいよ」
「わかった。来年は必ず行くから」
アングラ劇団の名女優に空約束をした後、マナを連れて急ぐように寺から下りた。
カローラの中は空気が重かった。また黙ったラジオを殴りまくり、やっと歌い出したのは水前寺清子の『365歩のマーチ』だった。懐かしい歌に聞き入っていると、マナの方から話しかけて来た。
「いい歌だね。小さい頃にもよく聞いたけど」
子供の頃は分からなかった歌詞を、改めて聞いて感動してしまう事はよくある。人生の底に落ちている俺たちに、チータの歌は涙が出るほど有難い。俺の足跡にも綺麗な花が咲くだろうか。
「何も知らない頃が幸せだった…」
チータに比べ、何としおらしい声だろう。
「小学校二、三年の時、家を訪ねて来た女の人がいたわ。顔を半分隠して、鼻を怪我してるみたいだった。その人、わたしの顔をずーっと見てて、泣き出しちゃったの。今思えばあの人だったのかも」
その人はそれからすぐ、車にはねられて死んでいる。
知る必要はない。所詮俺たちがいるのは虚構の世界だ。大切なのは最後まで嘘を通す事で、真実は問題ではない。芸能界の先輩からのささやかな助言だ。
腕を振って足を上げて、休まないで歩け。
鏡に映る自分たちの狂態に興奮しながら、激しく肉体をぶつけ合った。いたわる想いとは裏腹に、小さな尻を虐待的に突き上げた。時に俺の腹の上で踊り、時に股間に顔を埋めて、マナはベッドの上を縦横に転がった。
「ベッドの中で、あなた殺されるかもよ」
小悪魔が真上から俺にささやいた。呑み込まれそうな瞳を見つめ返して、死んでもいい、とつぶやいた。
「ねえ、お願いがあるの」
マナはタバコに火を点ける。いつか見た写真の光景だった。
「歌手をやめたいの」
「おふくろさんが誇りに思ってる歌手をか」
「もううんざり。毎日が生き地獄なのよ」
芸能界は憧れる世界であって、実際に棲む世界ではない。だからキャンディーズも、一度は「普通の女の子に戻りたい」と言った。
「さっき聞いた歌にお前が励まされたように、何万というファンがお前の歌に感動するんだぞ。展望台で覚えた神の境地をステージでいつも味わえる、こんな素敵な仕事を捨てるのか」
「素敵なのは舞台を見上げてる客席の方。歌手になりたかったのに、今のわたしって、まるでストリッパー。服を脱がされて、裸で歌ってる人形みたい」
美しい顔のマリオネットは、壊れたようにしゃべり続けた。
「立ち直れないくらいのショックを受けて、目茶苦茶になってこの世界から去りたいの。スキャンダルをもみ消すあなたなら、スキャンダルをでっち上げる事だって簡単でしょ」
マナの望みは、俺の手で彼女を葬る事だった。
フジテレビが近づいて来た。ラジオからジョンの『ハッピー・クリスマス』が流れて来る。
テレビ局裏の路地に車を停めた。二人の顔が合った。
「しばらく会えないかもね」
お互いの顔を目に焼き付ける。時間が止まった。
「ずっと見てるぞ、お前のこと」
スローモーションのように、ゆっくりとマナはドアを開けた。足を一本ずつ降ろした後、中にもう一度首を戻した。微笑みが弾けるように広がった。
「メリー・クリスマス!」
俺も答えた。
「メリー・クリスマス‥」
遠ざかって行くマナの後姿をいつまでも見送った。
知れば知るほど、歌とルックス以外何も取柄の無い女だ。そんな十九の小娘から、目を離せない自分が今さらながら情けなかった。
マナは最後まで一度も振り返らなかった。
所沢の朝は冷えた。霧が煙のように湧き上がる湖を見ながら『スモーク・オン・ザ・ウォーター』というディープ・パープルの曲を思い出した。
長い階段は心臓にこたえた。門を入ると、ささやかな寺が見えた。経を詠む声が聴こえる。俺たちは奥へ回った。
「あの人だ」
俺の指の先に、坊主たちに囲まれて読経する一人の尼僧がいた。その人は小柄で、頭を丸めているため年齢が読みづらいが、三十九歳としては少し老けて見える。頬の肉もやや弛んでいるが、くっきりとした瞳と鼻筋は若い頃の美貌を思わせる。ただ、その顔を斜めに走る赤い傷痕が、人を遠のける異様な気を放っていた。
「わたしのお母さん?」
その頬をスリムにした娘が尋ねた。
「刑務所を出てすぐにおふくろさんは出家したんだ。それから十二年間、ずっとここで仏様に仕えてる。自らの罪を呪い、犠牲にした家族の幸福を祈って、煩悩を遠ざけて一生を終える覚悟でいる。それが犯した過ちを償う唯一の道と信じてだ」
「七年も刑務所にいて、もう償ったんじゃないの」
「今もお前を苦しめてるだろ。彼女の罪は終わっていないんだよ」
「わたし、許す。苦しんでなんかいないもの。お母さんこそ、あんな瘍で人生めちゃくちゃじゃない…」
マナの目から丸い涙がぽろぽろと落ちた。声のトーンが上がった娘の口許に指を当てた。
「静かに。お勤め中だ、帰ろう」
「会えないの?」
「簡単に世俗の人とは会えないんだよ」
背を向けて帰る中途で一人の老女とすれ違った。『寺内貫太郎一家』で悠木千帆が「ジュリ~」とやってたような婆さんだ。マナの顔を見て立ち止まる。
「おや、あんた‥」
マナがぼんやりと振り返る。
「やっぱりそうじゃ。あんた、真情さまの娘さんじゃろ」
俺とマナは顔を見合わせた。
「おばあちゃん、真情さまってここの尼さんの名前かい?」
「ああ、一目見てわかった。目許が瓜二つじゃもの」
マナが身を乗り出す。
「お母さん、いや真情さまをよく知ってるの?」
「ええ、真情さまはここで一番心の優しいお方ですよ。いつも娘さんの自慢をしてらっしゃるんです。わたしの娘は歌を唄ってる、有名な歌手なんだって、テレビなんぞご覧にならないのによくご存じで、小さい写真を女学生みたいに持っておられるんです」
マナのからだが震えていた。母に駆け寄らないようにと、肩を押さえた。
遂に顔を伏せて座り込んだマナは、懸命に声を殺していた。小刻みに肩が痙攣して、堪え切れない嗚咽が鼻から時折漏れた。
「声を出して泣け。堪えなくっていい。お前はまだ子供だ。これからもずっと、あの人の子供だ」
ああ、という声を上げてマナが胸に飛び込んで来た。マナは涙袋に溜めた限りの水分を絞って、俺の皮ジャンを濡らした。
老女は黙って去って行った。姿が消えかけた所で俺は後を追った。マナから見えない所で、老女に封筒を渡した。
「ありがとう。マキちゃんにもよろしく」
「純な娘さんを騙すなんて、気が引けるわ」
「これで彼女も幸せになれる」
「たまには舞台も観に来てちょうだいよ」
「わかった。来年は必ず行くから」
アングラ劇団の名女優に空約束をした後、マナを連れて急ぐように寺から下りた。
カローラの中は空気が重かった。また黙ったラジオを殴りまくり、やっと歌い出したのは水前寺清子の『365歩のマーチ』だった。懐かしい歌に聞き入っていると、マナの方から話しかけて来た。
「いい歌だね。小さい頃にもよく聞いたけど」
子供の頃は分からなかった歌詞を、改めて聞いて感動してしまう事はよくある。人生の底に落ちている俺たちに、チータの歌は涙が出るほど有難い。俺の足跡にも綺麗な花が咲くだろうか。
「何も知らない頃が幸せだった…」
チータに比べ、何としおらしい声だろう。
「小学校二、三年の時、家を訪ねて来た女の人がいたわ。顔を半分隠して、鼻を怪我してるみたいだった。その人、わたしの顔をずーっと見てて、泣き出しちゃったの。今思えばあの人だったのかも」
その人はそれからすぐ、車にはねられて死んでいる。
知る必要はない。所詮俺たちがいるのは虚構の世界だ。大切なのは最後まで嘘を通す事で、真実は問題ではない。芸能界の先輩からのささやかな助言だ。
腕を振って足を上げて、休まないで歩け。
鏡に映る自分たちの狂態に興奮しながら、激しく肉体をぶつけ合った。いたわる想いとは裏腹に、小さな尻を虐待的に突き上げた。時に俺の腹の上で踊り、時に股間に顔を埋めて、マナはベッドの上を縦横に転がった。
「ベッドの中で、あなた殺されるかもよ」
小悪魔が真上から俺にささやいた。呑み込まれそうな瞳を見つめ返して、死んでもいい、とつぶやいた。
「ねえ、お願いがあるの」
マナはタバコに火を点ける。いつか見た写真の光景だった。
「歌手をやめたいの」
「おふくろさんが誇りに思ってる歌手をか」
「もううんざり。毎日が生き地獄なのよ」
芸能界は憧れる世界であって、実際に棲む世界ではない。だからキャンディーズも、一度は「普通の女の子に戻りたい」と言った。
「さっき聞いた歌にお前が励まされたように、何万というファンがお前の歌に感動するんだぞ。展望台で覚えた神の境地をステージでいつも味わえる、こんな素敵な仕事を捨てるのか」
「素敵なのは舞台を見上げてる客席の方。歌手になりたかったのに、今のわたしって、まるでストリッパー。服を脱がされて、裸で歌ってる人形みたい」
美しい顔のマリオネットは、壊れたようにしゃべり続けた。
「立ち直れないくらいのショックを受けて、目茶苦茶になってこの世界から去りたいの。スキャンダルをもみ消すあなたなら、スキャンダルをでっち上げる事だって簡単でしょ」
マナの望みは、俺の手で彼女を葬る事だった。
フジテレビが近づいて来た。ラジオからジョンの『ハッピー・クリスマス』が流れて来る。
テレビ局裏の路地に車を停めた。二人の顔が合った。
「しばらく会えないかもね」
お互いの顔を目に焼き付ける。時間が止まった。
「ずっと見てるぞ、お前のこと」
スローモーションのように、ゆっくりとマナはドアを開けた。足を一本ずつ降ろした後、中にもう一度首を戻した。微笑みが弾けるように広がった。
「メリー・クリスマス!」
俺も答えた。
「メリー・クリスマス‥」
遠ざかって行くマナの後姿をいつまでも見送った。
知れば知るほど、歌とルックス以外何も取柄の無い女だ。そんな十九の小娘から、目を離せない自分が今さらながら情けなかった。
マナは最後まで一度も振り返らなかった。