第29話 レコード大賞

文字数 2,579文字

   十二月二十五日 木曜日
 目が腐るほど眠り、この一ヵ月の疲れを癒した。背骨の痛みはもうほとんどなかった。

 『ベストテン』の一位は近藤真彦だった。
 マナは五位に落ち、セット無しでバンド前で歌った。水色の衣裳が消え、俺の眼には何も着けていないマナが映った。
 この女の全てを知っている。優越感に憂鬱が混じった。こいつは一体誰の女なのだろう。


 久しぶりに智子の夢を見た。
 智子と別れて一年ほどして、彼女の兄から封書が届いた。
 中には写真が一枚入っていた。智子のものだと予測はついたが、見た途端に後悔した。
 その智子は、寝巻姿で庭のような所にいるのだが、目は虚ろで視点が定まっていない。尋常な精神でない事が一目で感じられる。青白い顔に紫色の唇を半開きにし、手入れを怠らなかった髪の毛も短く刈られて、寝癖さえ直していない。それは間違いなく智子であったが、俺の智子ではなかった。送った兄の悪意を察してぞっとした。
 狂人の姿を見るのは初めてだった。魂のない生ける屍、それが元女房だなんて。
 こうしたのは俺だ。一人の女が、俺のために地獄へ堕ちた。
 立っていられず、膝が砕けた。泣いている事に頬の感覚で気付いた。自分にはもう残っていないと思っていた涙であった。泣き虫のガキの頃に戻っていた。
 飼い犬を亡くした者がもう動物は飼うまいと思うように、俺は二度と女を愛さない事を誓った。





   十二月二十六日 金曜日
 もう一度三島へ行き、村木の墓を参った。
 最後まで打ち解けない男だったが、出会うタイミングによっては、気の合う仲間になれたかも知れない。
 山を下りる途中、三十代半ばの女と女子中学生の二人連れとすれ違った。女は中村晃子のような顔をしていた。二人は村木の墓の前で立ち止まった。
 村木の未亡人が、俺の挿した花を見てこちらを振り返る前に、石段を駈け下りた。



   十二月二十七日 土曜日
 後で聞いた知った事だが、この日黒崎龍が死んだ。
 リュウは山道をかっ飛ばしていて、カーブでハンドルを誤ったらしく、対向して来たダンプカーに踏み潰された。同乗していたひろみ夫人共々即死であった。


 ビルボード誌で遂に『スターティング・オーヴァー』がトップになった。レノンにとって、『真夜中を突っ走れ』に次いで二度目の一位獲得だ。
 そんな日、飛鳥健から電話があった。
「年が明けたら、フェニックス再結成の記者会見をやる。一月十日空けておいてくれ。また連絡する」
 この話は頭からきれいに消えていた。返答の言葉を選んでいるうちに、電話は切れた。
 不死鳥が舞い降りる映像が浮かび、すぐにフェードアウトした。




   十二月二十八日 日曜日
 三日間、マナをやめさせる方法を考えていた。
 スキャンダラスな秘密は、クミたちの手でほとんど暴露されていた。それでも支持を受けるほど図太いアイドルとなっているマナを壊滅的に堕とす方法とは…


 トルコ“フェニックス”に行った。MIEはいつも通りに迎えてくれた。
「もう来てくれないかと思いました」
「すまない‥」
「星さんにあやまられる事ってありましたっけ?」
 MIEは、俺をくわえていた濡れた唇を放して、明るく笑った。部屋で見た女を直木マナだと、彼女は気が付いただろうか。そんな事には一切触れず、いつもと変わらぬ手順でMIEは俺をいかせた。
「俺、バンドマンと言ってたけど違うんだ。汚れた仕事をしてる。いや、正確にはしてたんだ。今まで恥ずかしくて言えなかった」
「そんな事は関係ありません。ここで会う時はいつも裸でしょ」
 可愛い女だ。彼女の手をとった。
「この仕事、いつまで続けるの?」
「わかりません」
「つらくないのか」
 風俗の女にこんな事を尋ねるのは侮辱かも知れない。MIEは優しく顔をほころばせた。
「白馬の王子様でも現れて、連れ去ってくれたらいいんですけどね」

 連れ去ればいいのだ!
 そうすれば、全て終わらせる事が出来るのだ。
「どこか遠くへ行きたいですね…」
 まるで生まれ変わったように、もう一度始められる。
 Just like Starting Over.





   十二月二十九日 月曜日
 NHKホールでは紅白歌合戦のリハーサルが大詰めだった。
 楽屋裏のトイレ近くに潜んで、マナを待った。付き人なしでタレントを捕まえるならトイレしかない。
 やっと姿を見せたマナの前に立ちはだかる。メモを手渡す。
「三十一日の五時、成田?」
 マナは首を傾げた。
「希望通り、芸能界から葬ってやる。一緒に遠くへ行こう」
「でも、レコード大賞が」
「歌手、やめるんだろ」
 マナはためらいがちに頷いた。
「どこへ行くの?」
「とりあえずイギリス。あとはお前の好きな所へ行けばいい」
「そのまま、この世界から消えるのね。あなたはどうするの?」
「俺は失くす物なんて何もない」
 マナは「わかった」と言ってメモをしまった。
「ありがとう‥」
 小さな声を最後に聞いて、二人は離れた。


 S社の記者三枝は、声まで辛気臭かった。
「三枝ですが、どちら様でしょうか」
「元オノプロの後始末屋で星という者だ。特ダネをとらせてあげようと思ってね」
「特ダネ?」
「三十一日の午後五時に成田空港の国際線搭乗口で張れ。ビッグ・ネームのスキャンダルがとれるはずだ」
 それだけ告げて電話を切った。



   十二月三十日 火曜日
 七十八年木之内みどり、七十九年関根恵子、と恋人と逃避行して芸能界を捨てるケースが続いた。マナも前述の二人をしのぐ事件となるだろう。絶頂のアイドルの相手役が、顔も名もとっくに忘れられたGSの亡霊というのもナイス・キャスティングだ。
 リヴァプールには二度行った事がある。ビートルズが育った街だ。ペニー・レイン通りやアビイ・ロードの横断歩道を歩きながら、この街の住人になりたいと思いついた。根が日本人なもので決心がつかなかったが、今ならこの国に未練もない。

 飛鳥健に電話をしなければいけない。
 フェニックスは、所詮あの日に終わった夢だ。俺にとって、今は生まれ変わる時。それは過去に戻る事ではない。
 ビートルズは永久に再結成出来なくなった。フェニックスも伝説となるべきだ。勝手にそう結論付けた。片隅に残っていたスポットライトの夢は、ゴミくずと一緒に捨てられた。
 三十五歳大晦日、新しい女と再出発しようとしていた。荷造りとゴミ捨ては一日中かかった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

星ジョージ(35)  かつて一世を風靡したロックバンドのベーシスト。現在はオノプロ所属の探偵

直木マナ(19)    新人賞有力なアイドル歌手 本名 万藤真奈美

ミス小野(48)    オノ・プロダクションの女社長

風間(30)        マナの付き人

嶋  (40)    マナのチーフ・マネージャー

桑田(33)    フリーの芸能探偵

森元(42)    週刊誌『女性の友』編集長

三枝(29)    S社の雑誌記者

黒崎龍(19)      マナの中学時代のボーイフレンド

ひろみ(18)   リュウの新妻

村木伸介(39)    マナが高校時代アルバイトした喫茶店の店長

クミ(18)        デュオグループ『サファイア』の片割れ

岩井(20)        クミの恋人

MIE(25?)   トルコ嬢

藍智子(33)      ジョージが14年前結婚していたコーラスガール。当時19歳

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み