第8話 新人賞
文字数 3,050文字
ホテルに戻って事務所に電話したが、ミス小野はレコード大賞部門賞発表ヘ行って留守だった。連絡が欲しいと伝言した。
七時からテレビでその中継を見た。
最初は新人賞。五組のノミネーションからマナが漏れることはないはずだ。河合奈保子『ヤング・ボーイ』、松村和子『帰ってこいよ』の後、マナの名が呼ばれた。
例えば身近にいる美人が、テレビのブラウン管を通した途端、魅力半減する事がある。テレビは少し太って見えるとも、粗が全部写るともよく言われる。つまりテレビで美人に見えるのは、実物は相当の美貌であるはずだ。そうでない人は、フジカラーのCMを真似るなら、“それなりに”しか映らない。
今『ゆれる想い』を歌うマナは、アニメーションの主人公がそのまま抜け出して来たかのようだ。今時は大学生もアニメに熱狂するらしいから、そういう層に支持されているのかもしれない。
世の若き男たちは、この汚れひとつ知らないような純真可憐な美少女を抱きしめ、守ってやりたいと思うのだろう。そしてきっと、妄想の中でこっそりあの白いドレスを脱がせてみたりする。たぶん彼らの想像では、彼女は抵抗もせず羞恥に涙を流すだろう。
だが、俺の脳裏には違う映像が駆け巡っていた。マナと、リュウや村木のベッドシーン。村木がカメラを構え、マナのヌードを撮る場面。『ゆれる想い』をBGMにカットバックした。
村木の部屋から拝借した数枚の写真を見る。
これだけの証拠があっても信じられないのだが、そこには楽しそうに戯れる愛人たちの姿がある。
二人の関係は、それからどうなったのか。今はどういう感情を持ちあっているのか。
そして、なぜ村木は写真を暴露しようとしたのか。
歌が終わり、客席のマナの家族にアナウンサーがマイクを向ける。
「おかあさん、マナちゃんはがんばり屋さんだそうですね。一言お声をかけてあげて下さい」
小太りだが、上品そうな笑みを終始浮かべた母親らしき女性にマイクが向けられた。確か母親は教師のはずだ。
「マナちゃん、おめでとう。あなたの夢だった一等賞まであと少し、がんばって必ず手に入れてね」
その隣で、新聞社勤めの生真面目そうな父親と、いかにもその息子という感じの兄が座っている。
「今度はおとうさん、お願いします」
「マナ、おめでとう。本当に良かったね」
二人とも堅いしゃべり方だ。舞台の上のマナが、きごちなく微笑みながら答える。
「ありがとうございます…」
この短いインタビューが、妙に不自然に思えたのは俺だけか。
両親の棒読みの台詞が気に入らないのではない。不良グループに入ってさんざん心配をかけた後、今度はやくざな芸能界入り。そんな娘に、そろって堅い職業に就く両親がこういう会場に来て、今のような言葉を掛けるだろうか。ひと嵐もふた嵐も吹き荒れた後の家の人たちとはこんなものだろうか。あるいは、こんな温和で平静な家庭において人並み以上に美しく生まれた娘が、なぜグレる必要があるのか。
残る二組は松田聖子と田原俊彦だった。聖子は母親に花束を渡され名セリフ「おかあさ~ん」を発して、これも後に伝説となるのだが涙を流さずに大泣きした。田原は歌唱力では候補中最低だったが、ジャニーズの強みで入賞した。
番組が終わって二時間たっても、社長からの電話はなかった。
つけっ放したテレビは、今日のドラフト会議で東海大の原辰徳が巨人の指名を受けた、と伝えていた。野球には興味がない。
昨日からの労働の疲れが睡魔となって襲ってきた。十一時過ぎ、抗しきれず、ビタミンを飲むのさえ忘れてベッドに倒れ込んだ。一分もしないうちに意識が消えた。
夢に智子が出てきた。十四年前の智子だ。
もう詳細には思い出せなかった、彼女の姿が甦る感じがあった。起きている時の意識や記憶と、夢のそれとは違う引き出しに入っているのかもしれない。
口説いても、口説いても落ちなかった智子が、ビートルズのチケットに動いた。
七月一日、公演二日目の武道館。演奏は全く聞こえなかったが、他人の黄色い歓声を聞くだけで智子は盛り上がっていた。
俺はつける限りのうそをついて、誠実な男を装った。レコードを聞きに、という言い訳で部屋へ連れ込むことに成功した。
そして、関係した。強姦に近かったかもしれない。彼女は処女ではなかった。
『ラバーソウル』の7曲目『ミッシェル』が流れていた。智子が抵抗をやめた頃、A面の演奏が終わった。レコード盤のラベルまでアームがすべり、針を乗せたままでターンテーブルは回り続けた。 俺たちの行為はBGMなしで続けられた。
アイ・ラブ・ユー
アイ・ラブ・ユー
アイ・ラブ・ユー
俺の中では、ポールの切ない歌声がリフレインしていた。
十一月二十七日 木曜日
けたたましい電話のベルに飛び起きた。受話器をとりながら、自分が三島のホテルにいることを、ゆっくりと思い出した。
一週間前と同じ声が怒鳴っていたが、最初がよく聞き取れなかった。
「ママ、おはようございます。新人賞入賞おめでとうござ‥」
「早く目を覚ましなさい!顔洗って、すぐに東京に戻って来るのよ。今すぐよ、いい?」
だんだん意識がはっきりしてきた。
「何かあったんですか?」
「おめでたい人ね、あなた。大変なピンチよ。あなたがもたもたしてる間に‥」
完全に目が冴えてきた。立ち上がって受話器を握っていた。
「今度はS社の『女性ナイン』よ。同じ写真。もう間に合わないわ、明日発売なの」
目の前が、ヒッチコックの映画『めまい』のように、ぐるぐると回り始めた。
「役立たず!能無し!クズ!」
四谷のオノプロ事務所にて、明日発売の『女性ナイン』をはさんで、ミス小野の前、虫のように小さくなっている俺がいた。
「一週間もあって何も収穫なし。あげくにこんな事態になって、いったいどうするつもり?」
村木の事は話す気になれなかった。今日勤め先で本人に裏を取るつもりだった。それが出来ていない状態で報告するわけにいかない。たとえ、どんなにコケにされようともだ。
「連中が嗅ぎつけてくるのはもうじきだわ。マナをどうする?」
そこに居るのは、オノプロの専務、マナのマネージャーで風間を除く二名、他にスタッフが数名。ミス小野の従兄で専務の小野秀一が、禿げ上がった後ろ頭をなでながら口を開く。
「とりあえず、二、三日身を隠そう。金曜いっぱいワイドショーから逃げ切れば、その間に手も打てるだろ。幸い、賞番組も十一月中はないし、歌番も録画は何とかなる。今日の『ベストテン』もキャンセルしよう」
「いいえ、『ベストテン』には出すわ」ミス小野が反論する。
「やめた方がいい。TBSを取り囲まれて、抜け出せなくなるのがオチだよ」
「今週の『ベストテン』でマナは一位なのよ」
「それは知ってるよ。でも、それとこれとは違うだろ」
「初めての一位よ。マナにその快感を味わせてやりたいの、どうしてもね」
社長の“どうしても”が出ると、たとえ氷河期が来ても事態は変わらない。皆、よく知っていた。
「わかりました、社長。じゃあ『ベストテン』の後のことについて、打ち合わせましょう」
チーフ・マネージャーの嶋がそう言った。
まだそこに立っている俺を振り返り、高慢知己で不愉快な顔を向けた。オノプロ一のキレ者とも言われるこの男は、入社こそ遅いものの年上で態度がでかい。背筋が伸び過ぎて、姿勢が反り返っている。しゃくれた顎が俺を指図した。
「あんたにもやって欲しい事がある」
どうせろくな仕事じゃないだろう。
七時からテレビでその中継を見た。
最初は新人賞。五組のノミネーションからマナが漏れることはないはずだ。河合奈保子『ヤング・ボーイ』、松村和子『帰ってこいよ』の後、マナの名が呼ばれた。
例えば身近にいる美人が、テレビのブラウン管を通した途端、魅力半減する事がある。テレビは少し太って見えるとも、粗が全部写るともよく言われる。つまりテレビで美人に見えるのは、実物は相当の美貌であるはずだ。そうでない人は、フジカラーのCMを真似るなら、“それなりに”しか映らない。
今『ゆれる想い』を歌うマナは、アニメーションの主人公がそのまま抜け出して来たかのようだ。今時は大学生もアニメに熱狂するらしいから、そういう層に支持されているのかもしれない。
世の若き男たちは、この汚れひとつ知らないような純真可憐な美少女を抱きしめ、守ってやりたいと思うのだろう。そしてきっと、妄想の中でこっそりあの白いドレスを脱がせてみたりする。たぶん彼らの想像では、彼女は抵抗もせず羞恥に涙を流すだろう。
だが、俺の脳裏には違う映像が駆け巡っていた。マナと、リュウや村木のベッドシーン。村木がカメラを構え、マナのヌードを撮る場面。『ゆれる想い』をBGMにカットバックした。
村木の部屋から拝借した数枚の写真を見る。
これだけの証拠があっても信じられないのだが、そこには楽しそうに戯れる愛人たちの姿がある。
二人の関係は、それからどうなったのか。今はどういう感情を持ちあっているのか。
そして、なぜ村木は写真を暴露しようとしたのか。
歌が終わり、客席のマナの家族にアナウンサーがマイクを向ける。
「おかあさん、マナちゃんはがんばり屋さんだそうですね。一言お声をかけてあげて下さい」
小太りだが、上品そうな笑みを終始浮かべた母親らしき女性にマイクが向けられた。確か母親は教師のはずだ。
「マナちゃん、おめでとう。あなたの夢だった一等賞まであと少し、がんばって必ず手に入れてね」
その隣で、新聞社勤めの生真面目そうな父親と、いかにもその息子という感じの兄が座っている。
「今度はおとうさん、お願いします」
「マナ、おめでとう。本当に良かったね」
二人とも堅いしゃべり方だ。舞台の上のマナが、きごちなく微笑みながら答える。
「ありがとうございます…」
この短いインタビューが、妙に不自然に思えたのは俺だけか。
両親の棒読みの台詞が気に入らないのではない。不良グループに入ってさんざん心配をかけた後、今度はやくざな芸能界入り。そんな娘に、そろって堅い職業に就く両親がこういう会場に来て、今のような言葉を掛けるだろうか。ひと嵐もふた嵐も吹き荒れた後の家の人たちとはこんなものだろうか。あるいは、こんな温和で平静な家庭において人並み以上に美しく生まれた娘が、なぜグレる必要があるのか。
残る二組は松田聖子と田原俊彦だった。聖子は母親に花束を渡され名セリフ「おかあさ~ん」を発して、これも後に伝説となるのだが涙を流さずに大泣きした。田原は歌唱力では候補中最低だったが、ジャニーズの強みで入賞した。
番組が終わって二時間たっても、社長からの電話はなかった。
つけっ放したテレビは、今日のドラフト会議で東海大の原辰徳が巨人の指名を受けた、と伝えていた。野球には興味がない。
昨日からの労働の疲れが睡魔となって襲ってきた。十一時過ぎ、抗しきれず、ビタミンを飲むのさえ忘れてベッドに倒れ込んだ。一分もしないうちに意識が消えた。
夢に智子が出てきた。十四年前の智子だ。
もう詳細には思い出せなかった、彼女の姿が甦る感じがあった。起きている時の意識や記憶と、夢のそれとは違う引き出しに入っているのかもしれない。
口説いても、口説いても落ちなかった智子が、ビートルズのチケットに動いた。
七月一日、公演二日目の武道館。演奏は全く聞こえなかったが、他人の黄色い歓声を聞くだけで智子は盛り上がっていた。
俺はつける限りのうそをついて、誠実な男を装った。レコードを聞きに、という言い訳で部屋へ連れ込むことに成功した。
そして、関係した。強姦に近かったかもしれない。彼女は処女ではなかった。
『ラバーソウル』の7曲目『ミッシェル』が流れていた。智子が抵抗をやめた頃、A面の演奏が終わった。レコード盤のラベルまでアームがすべり、針を乗せたままでターンテーブルは回り続けた。 俺たちの行為はBGMなしで続けられた。
アイ・ラブ・ユー
アイ・ラブ・ユー
アイ・ラブ・ユー
俺の中では、ポールの切ない歌声がリフレインしていた。
十一月二十七日 木曜日
けたたましい電話のベルに飛び起きた。受話器をとりながら、自分が三島のホテルにいることを、ゆっくりと思い出した。
一週間前と同じ声が怒鳴っていたが、最初がよく聞き取れなかった。
「ママ、おはようございます。新人賞入賞おめでとうござ‥」
「早く目を覚ましなさい!顔洗って、すぐに東京に戻って来るのよ。今すぐよ、いい?」
だんだん意識がはっきりしてきた。
「何かあったんですか?」
「おめでたい人ね、あなた。大変なピンチよ。あなたがもたもたしてる間に‥」
完全に目が冴えてきた。立ち上がって受話器を握っていた。
「今度はS社の『女性ナイン』よ。同じ写真。もう間に合わないわ、明日発売なの」
目の前が、ヒッチコックの映画『めまい』のように、ぐるぐると回り始めた。
「役立たず!能無し!クズ!」
四谷のオノプロ事務所にて、明日発売の『女性ナイン』をはさんで、ミス小野の前、虫のように小さくなっている俺がいた。
「一週間もあって何も収穫なし。あげくにこんな事態になって、いったいどうするつもり?」
村木の事は話す気になれなかった。今日勤め先で本人に裏を取るつもりだった。それが出来ていない状態で報告するわけにいかない。たとえ、どんなにコケにされようともだ。
「連中が嗅ぎつけてくるのはもうじきだわ。マナをどうする?」
そこに居るのは、オノプロの専務、マナのマネージャーで風間を除く二名、他にスタッフが数名。ミス小野の従兄で専務の小野秀一が、禿げ上がった後ろ頭をなでながら口を開く。
「とりあえず、二、三日身を隠そう。金曜いっぱいワイドショーから逃げ切れば、その間に手も打てるだろ。幸い、賞番組も十一月中はないし、歌番も録画は何とかなる。今日の『ベストテン』もキャンセルしよう」
「いいえ、『ベストテン』には出すわ」ミス小野が反論する。
「やめた方がいい。TBSを取り囲まれて、抜け出せなくなるのがオチだよ」
「今週の『ベストテン』でマナは一位なのよ」
「それは知ってるよ。でも、それとこれとは違うだろ」
「初めての一位よ。マナにその快感を味わせてやりたいの、どうしてもね」
社長の“どうしても”が出ると、たとえ氷河期が来ても事態は変わらない。皆、よく知っていた。
「わかりました、社長。じゃあ『ベストテン』の後のことについて、打ち合わせましょう」
チーフ・マネージャーの嶋がそう言った。
まだそこに立っている俺を振り返り、高慢知己で不愉快な顔を向けた。オノプロ一のキレ者とも言われるこの男は、入社こそ遅いものの年上で態度がでかい。背筋が伸び過ぎて、姿勢が反り返っている。しゃくれた顎が俺を指図した。
「あんたにもやって欲しい事がある」
どうせろくな仕事じゃないだろう。