第6話 美也子と花音と隆一

文字数 4,388文字

 会社の近くで夕食を済ませ、約束の時間に美也子の部屋へ行く。もちろん、花音の部屋には何度も行っている。同じ部屋なのに『美也子の部屋』へ行くという意識が、初めて女性の部屋へ行く時のような不思議な感覚を呼び起こす。 ドアホーンを押すと、中から美也子が出てきた。今日は隆一が訪れることが事前にわかっていたせいか、嫌な顔は見せない。かといって、歓迎するふうでもない。
「どうぞ」
「失礼します」
 勝手知ったる部屋にも関わらず、よそ行きの態度をとらなければならないのが、自分でもおかしい。
 通されたのは、いつものリビング。
「そこに座って待っててください。高山さん、コーヒーがいいですか、それとも紅茶?」
「すみません、コーヒーでお願いします」
美也子が二人分のコーヒーを持ってきた。
今日の美也子は、凹凸のあるピンクタック編みのニットと、体のラインが見えにくい総針編みのピンクストライプ柄をほどこしたスカートのセットアップというスタイルだった。いつもは、花音でいる時に美也子に変わるため、花音のファッションとしての美也子しか見ていなかった。今日初めて美也子本来のファッションを見た気がする。やはり、ファッションについても、二人の好みは違うことがわかった。花音はもっと可愛い系が多い。
「美也子さんもコーヒーが好きなんだ。花音と同じだね」
「彼女のことは知らないけど、私は昔からコーヒーが好きよ」
 不揃いの前髪が揺れる。花音もそうだっただろうか。
「隆一さんって、何が趣味なの?」
「う~ん、趣味かあ。これといってないんだよね。美也子さんは?」
「私も同じ」
 これまで会ってきた美也子とはまったく違う。最初は少し硬い表情だったが、今は柔らかいし、しなやかだ。会話も楽しい。普段の美也子はこうなんだろうと思わせる。いつの間にか、花音を意識の片隅に追いやっている自分がいる。
 ソフアー横のスタンドライトが美也子の横顔を浮き上がらせていた。美しいと思う。
「しかし、美也子さんって、きれいだよね」
  膝の上に置いたクッションカバーを弄んでいた美也子の手が止まる。
「何よ、急に」
「いや、前からそう思っていたんだけど。そいういう話なんか受け付ける雰囲気なんかなかったし。つけいる隙がないというか」
「私って、そんなにきつい女に見えました?」
 かすかに俯いた時に見えたまつげは蝶の触覚のように細く、長い。
「申し訳ないけど、そういうところがあるよね」
「はっきり言うわね。でも、それはしょうがないじゃない。出会いが出会いだから」
「まあ、そうだね。こんな出会いってまずないからなあ」
「驚かせてしまった?」
「そりゃあ驚いたさ。僕は花音の側にいたつもりだったのに、突然美也子さんが現れて、怒られて‥」
「そうよね。でも、私の立場に立って見てよ。いきなり目の前に、しかも自分の部屋に見知らぬ男がいるのよ。私だってものすごく驚いたんだから」
「そう考えると、なんかおもしろくない?」
「う~ん、おもしろいのとはちょっと違うかもしれないけれど、不思議な巡り合わせよね」
 部屋全体が温かく、柔らかな空気に包まれているようだった。美也子とこんな時間を持てることに幸せを感じていた。
「そういえば、花音との出会いも運命的だったからな。忘年会の二次会があって、僕は帰るつもりだったんだけど、友人がどうしてもというんでたまたま入った店に花音がいてさあ。一目惚れだったんだよね」
 美也子の笑顔はすっと顔の奥へ消えていた。だが、それに隆一は気づいていなかった。
「いつも、花音の話ばかりね」
 艶めかしさすら感じる深いため息だった。いつもの見慣れた部屋が、異空間に変わった。
「えっ」
 横を見ると、美也子の乾いた笑いを含んだ拗ねた顔に出会う。
「ごめん」
「私じゃダメなわけ」
 ひとり言のような細い声だった。
 思いもよらぬことを言われ、隆一は戸惑ったが、同時に自分の気持ちの中にある美也子の姿が浮かんだ。何度となく現れた美也子と接しているうちに、いつしか、隆一も、美也子を好きになっていた。そのことは前からわかっていた。だが、気づかぬふりをしてきた。今、美也子から告白され、押さえつけていた自分の気持ちが白日のもとに晒された。
「美也子さん。それを言われたら、僕はどうしたらいいかわからなくなってしまうんです。僕が愛しているのは、あくまで一人の女性なんです」
「そんなことは、私にとってはどうでもいいの。お願いだから、花音のことじゃなくて、私のことを見て。隆一さん、私のことが嫌い?」
 美也子の声はしっとりと潤っていた。
「いや、もちろん、そんなことはない。美也子さんと出会い、いろんなお話をする中で、美也子さんに惹かれていったことは事実です。だから美也子さんのことは好きです。だけど…」
 意識から追いやっていたはずの花音の顔が浮かぶ。自分はどう対応すべきなのだろうか。答えの出ないまま、きづまりな時間が流れていく。
「だけど、やっぱり花音のことが忘れられないのね」
 薄い唇がわななくように震えている。
「難しい質問です」
「私はいつまた隆一さんと会えるかわからないの。だから、花音と同じように、今日私を抱いて。いや、花音以上に私を愛して」
 そう言って、服を脱ごうとする美也子。
「待って、待って。お願いだから美也子さん、待って」
 隆一は服を脱ごうとしていた美也子の手をつかみ、美也子の肩を抱きしめた。強く、強く。愛していると言いながら。き~んと耳の奥が痛くなるほどの静けさの中で、いつの間にか降り出した雨が窓を叩く音が聞こえる。
 次の瞬間、美也子の顔が、突然花音に変わった。
「隆ちゃん、痛いよう」
「あっ、ごめん、ごめん」
 慌てて肩から手を離す。
「なんか嬉しいけど。でも、どうしてここにいるの。今日約束してたっけ」
「ああ、そうだよ。電話もらったじゃないか」
「そうだっけなあ」
 怪訝そうな顔をする花音。初めての逆転現象に、隆一は困惑するが、なんとか対応できた。つい先ほどまでの状況を考えれば、救われた気分ではあった。
「花音のほうが、話があるって言ってたんじゃないか」
「う~ん、覚えてないな。最近、私どうかしてるんだよ。記憶なくすことが多いし」
「そうなんだ。自分でもわかるの?」
「うん、家に帰った時、ずいぶん久しぶりな感じがしたり、自分で買った覚えのないものが部屋にあったりするんだ」
「そうか。疲れてるんじゃないか」
 解離性同一性障害に罹かっている人は複数の『人格』を持つことが多い(人格の解離という)。それはあくまでも同じ人間の『部分』ではあるのだけど、それぞれ別の『人格』として存在することがある。
 その人の『もともとの私』を主人格あるいは基本人格といい、その主人格から切り離された人格を交代人格という。他の『人格』に移行している間は、その間の記憶が途切れることがあるという。なので、花音の話は頷ける。過去には16の人格が認められた例があるというから驚きだ。
 『人格』間の関係でいえば、別の『人格』について気づいている場合もあれば気づいてない場合もあるらしい。美也子と花音の関係でいえば、美也子は花音の存在に気づいているが、花音は美也子の存在を知らない(知らないふりをしているのかもしれないのだが)。また、どちらが主人格なのかも、本当のところわからない。どちらも交代人格という可能性すらあると、医者は言っていた。
「ねえ、隆ちゃん、私気になってることがあるんだけど」
 顔が暗くなった。くぐもった声は嫌な予感を想像させる。空気が急速に蒼ざめる。
「何?」
「隆ちゃん、最近、私以外に誰か好きな人できたでしょう?」
「どうした。そんなことまったくないって」
「そうかなあ。そんな気がするんだけど。女の勘ってバカにしちゃいけないんだよ」
 自分を否定するような、寂しそうな声だった。花音からは孤独な影が漂っている。背中が心なしかゆがんで見える。
 一層強まった風雨が木の枝を揺らしているのが部屋の中にいてもわかる。今日の昼間は、雲ひとつない偽物のような青空だったのに、風景は一瞬で変わる。
 花音は美也子の存在を知らない。にもかかわらず、どこかで感ずるのだろうか。美也子から聞いた、花音が子どもの頃に受けたという虐待のことが頭に浮かぶ。花音にとってその傷はまだ癒えてないと思われる。今の花音は、隆一からも裏切られたという思いなのかもしれない。そんな花音の気持ちを思うと切ない。なんとしても、花音を守りたい。しかし、耳朶には美也子の『やっぱり花音のことが忘れられないのね』という言葉が蘇っている。
「花音、僕の顔をちゃんと見て」
 少し拗ねた表情を浮かべながらも、隆一の顔を覗く。
「いいかい、花音。僕を信じるんだ。僕は花音を全力で愛してる」
 先ほど美也子に対して言った『愛してる』も、今花音に対して言った『愛してる』も、隆一にとってはともに嘘ではなかった。本来一人の人間に対しての愛情表現なのだから、間違ってはいないはずでもあった。しかし、隆一の気持ちは激しく揺れ動いていた。はからずも、花音と美也子と自分との間に三角関係のようなものが生まれてしまっていることに慄然と立ち尽くす。
 医者によれば、最終的な治療方法は、人格を統一、つまり複数の人格を1つの人格に集約するという方法。もう1つは、1つに集約するのではなく、その人にとって必要な人格とそうでない人格にわけ、必要でない人格を徐々に減らしていくという方法が主にとられという。しかし、隆一は、花音も、美也子も「人格」としてではなく別の人間として接している。だから、人格を統一するということは、花音か美也子のどちらかを消すことになる。それは、自分の心を裂かれるようなもので、あまりにも辛い選択であり、とてもできない。花音も、美也子もすでに隆一にとってはかけがえのない存在になってしまっている。
 その日は、泊まっていってほしいという花音の願いを宥めて、夜遅く帰宅した。心の整理ができないまま泊まり、花音を抱くことはできなかったからだ。 翌日、精神科医に電話すると、それでは彼女を連れてくるようにとのことだった。しかし、美也子と会わなければ予約の日を決められない。美也子の連絡先は聞いていたので、何度か電話とメールを入れてみるが返事はこない。先日、ああいう不自然な別れ方をしてしまったせいかわからないが、隆一のほうではどうしようもないので、とにかく連絡を待つしか方法がなかった。花音もその後何も言ってこなかった。だが、思わぬ人からの電話で事態は動くことになる。それは、好美からの電話だった。
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