第7話 花音の闇の先

文字数 3,652文字

「もしもし、高山さん?」
「そうだけど、久しぶりだね、好美ちゃん。何かあった?」
 好美とは以前花音のことで昼間会った。その後、埋め合わせに店に行って指名をすることで、その節の埋め合わせは終わったはずだった。
「あのさあ、花音の様子がちょっとへんなんだけど、大丈夫?」
「どういうこと?」
「さっき、私のところに突然花音から電話があって、何か訳のわからないことを言ってるの。ろれつがまわってなかったから、最初はお酒でも飲んでいるのかと思ったんだけど、違う感じなのよね。でね、ひょっとしたら薬かもしれないと思って、高山さんに電話したのよ。なんか危険な感じがするから、行ってあげて」
「ありがとう。すぐに行くよ。本当に感謝する」
 電話を切った後、外出の理由をつくり会社を飛び出した。とるものもとりあえず駅まで走り、駅に着いたところで花音に電話してみる。出ないと思われたが、花音は出た。
「はい」
 好美の言うように明らかに声の調子がおかしい。
「花音、どうした。何があった?」
 返事がない。
「花音」
 もう一度語り掛けると、返事があった。
「隆ちゃん、私が産まれた理由を教えて?」
「何を言ってるんだ。花音おかしいよ。何があった?」
 それには何も答えない花音。
「隆ちゃん、私、もうダメかもしれない」
「何を言ってるんだ。とにかく僕が行くまで待ってろ。すぐに駆けつけるから、わかったな花音」
 だが、もう返事はなかった。
 部屋に飛び込んだ隆一が花音の姿を発見したのは、風呂場だった。花音は浴室に眠るように横になっていて、側には血のついたカミソリが落ちていた。すぐに隆一は花音の腕を見た。幸いにも傷は浅かった。恐らく薬のせいで、途中で止まったのだろう。すぐに救急車を呼ぶ。
 幸いにも花音の傷は深くなく、翌日には退院できることになった。病院へ迎えに行き、そのまま一緒に花音の住むマンションへ帰る。いつも見慣れている花音の住むマンションが灰色の波のように坂を埋めつくしていて、不気味に思えた。ようやくのことで部屋にたどり着く。花音の身体の傷はそう深くはなかったとはいえ、やはり精神的にはまだ癒えていない。とりあえず、ソファーに座らせる。
「隆ちゃん、ありがとう。私、幸せだった」
 病院から部屋に戻るまで、ずっと無言だった花音が初めて発した言葉だった。瞳をくるりときらめかせ、小さな笑顔も見せた。でも、それは、人を愛することに、ふっと疲れたような言い方だった。
 退院したばかりの花音はいつもより一回り小さくて細くて抱きしめると折れてしまいそうな感じだった。だから、そっと肩に手を回す。
「何で過去形で話すんだよ」
「隆ちゃんはまだ気づいていないけど、もうすでに過去形になっているのよ」
 花音と作ったたくさんの思い出が閃光のように突然に意識を貫く。
「何を言ってるんだ」
 あの書棚が目に入る。
 病院から処方された薬がテーブルの上で存在感を発揮している。
 花音のために用意したジュースを入れたグラスの側面を水滴がひとつ雨のしずくのような形になって流れ落ちた。
「もっとたくさん伝えたいことがあったような気がする」
 暗い記憶とともに葬ってしまった、遠く置き忘れてきた日々を慈しむような表情だった。
「花音、もう何も言わなくてもいいんだ。ゆっくり休んだほうがいい。そうだ、先生からもらった薬を飲もう」
「うん」
 睡眠導入剤と思われる薬を取り出し、花音に飲ませる。
「私、知ってるんだよ。何もかも」
 毅然とした言い方だったが、花音の声が次第に硬くなっているのがわかる。薬が効いてくる前に言わなくてはという思いがあるのだろう。
「何もかも?」
「そう」
 だが、それが何なのか、隆一には訊く勇気がなかった。
「もういいよ、花音」
 終わりの静けさを見届ける覚悟がまだ隆一にはできていない。
「いや、駄目。聞いて」
 カーテンの向こう側で人影が動いたような気がした。なぜか、きっと美也子に違いないと思った。
「私は幼い頃辛くて苦しくて耐えられない目に会ってきた。毎日が地獄だった。生きているという実感なんてまったくなかった。背をまるめ顔を両手で覆って泣くことすら許されなかった。そんな私の最初の味方はお兄ちゃんだったけど、お兄ちゃんはいつしか私をいじめる側に変わっていた。でも、塞がれた窓の向こうの細長い青空と誰だか知らない私より少し年上の女の子が私を救ってくれたの。空は毎日色や形や匂いを変えるけど、いつだって私の味方だった。辛かったらいつでも僕のところへ来ていいよって言ってくれてた。その空と同じように私の心が潰れそうになるのを優しく支えてくれた、そのお姉ちゃんのことを隆ちゃんは好きになったんだよね」
 どう答えたらいいのだろうか。
「いいんだよ。きっと今もここにいるよ」
 いびつな均衡の中で育まれた絆のようなものが、花音と美也子の間にはあるのかもしれない。
「わかった花音。でも、僕はその女性と同じように花音を愛している」
「そう。隆ちゃん優しいね」
「僕は本当のことを言っただけだ」
「そう。でも、隆ちゃん、私は消えちゃうんだよね」
「そんなことないよ。僕がそんなこと許さない」
「ありがとう。でも、私怖い」
 花音の身体がぐらりと揺れた。薬が効いてきたのだろう。そんな花音を部屋まで連れて行き、ベッドに寝かせる。花音はすぐに眠りについた。
 花音の言うように、この部屋に、いや今隆一の隣で寝ているであろう美也子に語る。『美也子、これで良かったのだろうか。君は今の僕でも好きと言ってくれるかい』美也子の透明感のある黒い瞳が隆一を見つめているように感じた。
 どれほどの時間が経ったろう。ベッドの横の椅子に座って花音を見守っていた隆一も疲れていたのだろうか、寝てしまっていた。気が付いた時は、もう午後9時を過ぎていた。喉が渇いた隆一は、飲み物を取りにキッチンへ向かおうとそっと歩き出した。その時、部屋の隅にあったゴミ箱を蹴ってしまった。中から紙のゴミが零れ出た。慌てて花音の様子を見るが、よほど疲れていたのか起きる様子はなかった。ゴミ箱を起こし、外に出たゴミを拾おうと思った時、丸まった紙が目に入った。それは、新聞記事のコピーを丸めたものであることが一瞬でわかった。そのままゴミ箱に戻すつもりで拾い上げたが、なんだかその記事が気になり、広げて見てしまった。

平成〇年11月21日午後4時45分頃、山梨県〇〇市の笹の山林の斜面で、近くに住むこの山林の所有者の男性(57)が人骨の入った旅行用の大型キャリ-バックを発見、警察に届け出た。〇〇署によると、遺体はほぼ白骨の状態で、着衣と見られる布なども付着していた。性別、年齢、死因や死亡時期などは不明という。
 
〇〇署では、死体遺棄事件として捜査を開始。22日以降に司法解剖を行って死因などを調べるとともに、身元の特定を急ぐ。
 
山梨〇〇新聞

 
 花音が自殺未遂を起こしたことと、この事件が何らかの関係があるのだろうか。先ほど花音が言った「何もかも」という言葉がが気になる。「何もかも」の中に、この事件のことが含まれていたのだろうか。
 しかし、そもそもこの記事はどこにあったのだろう。美也子の部屋にあったのか、それとも、もともと花音の部屋にあったのか。
 花音でなくとも、美也子、あるいは他の人格の誰かが、この事件に関わっている可能性がないとはいえない。
花音は花音として生きている時間だけでなく、美也子として生きている時間も持つ。ひょっとしたら、他にも「人格」を持ち、それぞれが、それぞれの時間を送っていたのかもしれない。だが、それはあくまで一人の人間の『部分』であるとしたら、それが花音であろうと美也子であろうと、他の「人格」であろうと、一人の人間として、この事件に関わった可能性があるということになる。もちろん、これはまったくの推測に過ぎず、この記事はまったく別の意味を持つのかもしれない。迂闊な判断はすべきではない。しかし、記事を見てしまったことで、隆一の不安は違う意味で増幅していた。
『私が愛したのはいったい誰なのだろうか』
答えは出ない。
心の一部がしびれ、急に自分という存在が頼りなくなる。
 愛する花音を解離性同一性障害から救いたい。その一心でここまで花音の病気と戦ってきた。しかし、その結果、思わぬ事態に遭遇することとなってしまった。このまま美也子を病院へ連れて行き、美也子と花音の治療を始めることは、同時に二つの人格を持つ、隆一が愛する一人の女性の過去の暗い記憶を掘り起こすことになるのかもしれない、それはつまり、あの記事にあった忌まわしい事件との関係性を浮かび上がらせる結果となってしまうかもしれないのだ。もっと端的に言えば、最悪、犯人であることを証明することになるかもしれない。そんなことは自分にはできない。
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