第4話 美也子の抱えているもの

文字数 5,121文字

 翌日から隆一は、自分の捉えた不安、混沌とした精神の澱のようなものの正体をつかむために動き出した。まったく思い当たる節がないわけでもなかった。まず、隆一は好美に会って確かめたいことがあった。
 久しぶりに店に顔を出すと、さっそく、好美が隆一のところへきた。
「今日は一人?」
「ああ、そうだよ」
「珍しいわね」
「たまには一人で飲みたいものさ」
「ふ~ん、怪しいものね。何か魂胆があるんじゃないの?」
 こちらが仕掛ける前に、好美のほうから鎌をかけてきたので、乗ることにする。
「わかっちゃった。実は魂胆あるんだ」
「やっぱりね。で、何なの?」
「悪い、ちょっと耳を貸して」
 何事かと、怪訝な顔をしながら片耳を隆一に近づける好美に隆一は囁いた。
「これを見ておいて」
用意してあったメモを差し出す。好美は無言でそれを受け取った。そこには『昼間に二人で会ってほしい。ただし、池田には内緒にしてほしい』という内容と、隆一の携帯番号とメールアドレスを記しておいた。好美がどういう意味にとらえたかはわからないが、彼女が自分に好意を持っていることを花音から聞いていたので、きっと連絡が入ると踏んでいた。
 案の定、好美は翌日の昼休み時間に電話をかけてきた。ちょうど、昼食を食べ終え店を出たところだった。
「もしもし、好美ですけど」
「ああ、どうも。昨日はお世話になりました」
 周りに池田もいたので、差しさわりのない返事をしておく。
「あっ、側に誰かいるのね」
「まあそうです」
「わかった。じゃあ連絡事項だけ言うね。昨日のメモのことだけど、OKだから、
 高山さんの都合のいい日時を私の携帯の留守電に入れておいてくれない」
「わかりました」
 それから二日後の午後二時、二人は青山の喫茶店で向かい合って座っていた。「どういう風の吹き回し? しかも池田ちゃんに内緒って。もしかして好美が池田ちゃんと付き合っているのを妬いている」
「ごめん。そういうことじゃないんだ」
 好美の落胆したような表情に気づき、自分のしたことの罪深さを思う。確かにあの文面からは勘違いしてもしょうがない。自分が悪いのだ。
「じゃあ何なのよ。わざわざ昼間に呼び出しておいて」
 明らかに怒っている。
「ちゃんと埋め合わせはするから堪忍して。実は花音のことなんだ」
「花音のこと?」
「そう。実は訊きにくいことなんだけど。好美ちゃんが花音のことを訳ありな女と言ったと島田さんから聞いたんだ。誤解しないでほしいのは、それを責めるつもりで今日ここに来たんじゃないんだ。ただ、その言葉の意味を教えてほしいんだ」
「島田さんって、私嫌いなのよね。私、そんなこと言ってない。本当のこと言うとね。もう一年くらい前に表参道で買い物してた時に、偶然花音を見かけたのよ。それで、声かけたんだけど、無視されたの」
「そんなことがあったのか」
「そう。それでね。その日店に出勤してきた花音にそのことを言ってやったの。ところが、花音は全然覚えてないって言うのよ。それで、何度も何度も謝るから、もういいって言ったわけ。そういうことがあったから、島田さんにあの子は少し変わっているって言ったことはある。でも、それだけ。その後も花音とは特別仲が悪かったわけじゃないし」
「そうか、ありがとう。へんなこと訊いちゃって、本当にごめん。今度必ず埋め合わせするから許して」
「それはいいけど。へんな期待して来た私も悪いのよね。でも、花音に何かあったの。大丈夫?」
「うん、さっき好美ちゃんが言ったように、花音って少し変わったところあるじゃない。だから、つい余計な心配しちゃうのかもしれない」
「それならいいけど。いずれ結婚とか考えてるの?」
「うん、まあね」
「羨ましい」
「好美ちゃんだって、池田がいるじゃないか」
「どうかな。私、池田ちゃんとは結婚しないと思う」
「そうか」
 そうとしか言いようがなかった。
 好美の話を聞いて、隆二はすでに自分の頭に浮かんでいたある言葉が現実味を帯びていることに気づいていた。それは、『二重人格』あるいは『多重人格』という言葉であった。これまでにも、そうした人を描いた映画や小説を読んだ記憶がある。それに、今回自分が経験したことや今日好美から聞いた話を合せると、その言葉に行きついてしまう。ただ、もしそうだとしても、素人の自分にはどうしたらいいかわからない。
 幸いなことに高校時代の同級生の一人が医者になっていることを思い出した。久しく会っていなかったが、彼を頼ることにした。
 友達とはありがたいもので、彼はさっそく会って相談に乗ってくれた。ただ、彼自身は内科医で専門外の内容なので専門の精神科医を紹介してくれることになり、その先生の予約をとってもらうことにした。だが、その先生は忙しい方のようで、一か月先の予約しかとれないという。それまでの間は、こういう本を読んでおくようにと友人から言われたので、とりあえずはそれを読んでいた。専門医に会うまでに事態が動かないことを願ったが、世の中思い通りにはならないものらしい。
 一週間後に、再びその女は現れた。今回は花音の部屋で寛いでいた時だった。だが、隆一もすでに何冊かの本を読んでいてそれなりの知識を持っていたので、今回は冷静でいられた。憤る彼女を宥めて、改めて自分の紹介をした後、彼女のことを聞いて見る。少し躊躇った後、彼女は口を開いた。
「私の名前は、田中美也子。年齢は27歳。仕事はフリーのグラフィックデザイナ-」
田中美也子と名乗る女性は、少し怒ったように言った。年齢は27歳というから花音より2つ上ということになる。隆一が本で読んで知ったように、同一人物でありながら、年齢も職業も違う。性格は最初に会ったときから、花音とは正反対であることがわかっていた。子供っぽくて甘えん坊で、いつも何か不安げな花音に対して、美也子と名乗る女性はまっすぐ前を向いた、意思の強そうな、しっかりとした大人の女性に見えた。見た目も、花音の目は少し垂れ気味で、それが優しい感じを与えているのに対し、美也子のほうは逆に少し釣りあがって見える。しかし、それだけではなかった。言葉遣いも、仕草も花音とはまったく異なっていた。
「田中、美也子さんですか。これからは美也子さんと呼んでいいですか」
美也子は、無言で頷いた。
「美也子さんは、グラフィックデザイナ-なんですね」
 さらに訊こうとする隆一に、冷たい視線を投げる美也子。
「そんなことより、私がまたここにいる理由を話せ、ということですよね」
「そうに決まっているじゃない。知らない男が2度も勝手に私の部屋にあがり込んでいるのだから」
「そうですよね。でも、私は勝手にあがりこんでいるわけではありません。この間も言いましたように、私はこの部屋に住んでいる桜庭花音さんという女性とお付き合いをしていて、今日も彼女に来てほしいと言われて来ているのです」
「ここは私の部屋よ。花音なんて人、私は知らない。いったい誰?」
 この後、隆一がとった対応が良かったのかどうかは、未だにわからない。まだ専門医に会えていなかったのにも関わらず、隆一は本で得た知識でわかったつもりになっていた。そのため、結果を急ぎ過ぎた。
「ですから、今回はちゃんと説明しますので聞いてください」
「わかったわ。説明して」
「美也子さんは、解離性同一性障害という言葉を聞いたことがありますか」
「知らない」
「そうですか。では、多重人格という言葉は?」
「それなら聞いたことがあるけど。で、それが…」
「非常に言いにくいのですけど、美也子さんと花音はその多重人格、病名で言えば解離性同一性障害という心の病に罹っていると考えられます」
「私が?」
「あなたが、というより、あなたと花音がといったほうがいいかもしれません。違う言い方をしましょうか。あなたと花音は同一人物です」
「何を言っているの。私は桜庭花音でもないし、そんな女なんて知らないって言ってるでしょう」
 眉の間に深いしわを刻み、瞳で深呼吸するようにゆっくりと目を見開き、強い言葉で言った。
「ごめんなさい。いきなり核心にふれてしまった私が悪いです。容易に信じられないのは無理もありません」
明らかに動揺している美也子を見て、隆一は続けた。
「私は医者ではありません。ですが、医者の友人から確認しました」
嘘をついた。そんなつもりはなかったが、そう言わざるを得ない状況に自分で自分と美也子を追い込んでしまったのだ。この段階で二人が、いや二つ『人格』が解離性同一性障害に罹っているという確証を持っているわけでもなかった。でも、自分の言葉に信憑性を持たせるために、嘘は必要だった。
「あなたの言うことなんか信用できない」
 そういう美也子の目の中は、水底のようにゆらゆらと揺れている。
「そうですよね。では、話しを変えましょう。美也子さん、あなたのこれまでの人生の中で、自分の中にもう1人の自分がいると思ったことはありませんか」
美也子の表情の中にあからさまな戸惑いのようなものが伺える。
「そういうことは誰にでもあるでしょう」
そうは言っているが、美也子の中には思い当たる節があるように見えた。彼女は気付いてると、そのとき隆一は確信した。自分の中にもう1人の自分がいることを。それが、花音という名前であるかどうかは別にして。
「そうですね。確かに私にもそういう経験はあります。ただ、それはほんの一時です。それに対して、あなたにとってのもう1人はずっとあなたの側にいて、しかもあなたにとって、とても大事な存在のはずです」
美也子は黙ってしまった。黙ったということは、それを認めたということを意味する。やはり、美也子はもう1人の自分の存在に気付いていた。
しばらくして、美也子は自分の中に生き続けるもう一人の自分の姿について、空洞のような無表情さで静かに話し始めた。それは、想像を絶するおぞましい光景だった。
蛍光灯がのっぺり白い光で部屋を照らしている。
花音の、いや美也子の脱ぎ捨てたエプロンが影みたいに落ちた。
部屋がどんどん縮んでいくようだ。
 自分が小さかったとき、自分とよく似た女の子が毎夜、酒を浴びた父親に激しい虐待を受けていた。母親はすでに亡くなっていた。怖い~、痛い~、助けて~と泣き叫ぶその子を父親は無言で叩き続けた。時には、階段から突き落としたこともある。その子には、5つ年上のお兄ちゃんがいた。お兄ちゃんは、いつもその子に被いかぶさるようにして、父親の暴力からその子を守るようにしていた。しかし、父親は強い力で二人を引き離し、二人に対して虐待を続けた。父親が疲れて自分の部屋へと戻った後、お兄ちゃんは泣き続けるその子を抱きしめていた。その子にとっては、お兄ちゃんだけが味方だった。お兄ちゃんがいる限り、耐えることができた。しかし、ある日、そのお兄ちゃんが、その子の身体を弄んでしまった。その時から、その子にとって世界で味方は誰一人いなくなってしまった。毎日毎日、父親の暴力とお兄ちゃんの性的虐待を受け続けたその子が、鏡に写った私に助けを求めてきた。その子に良く似た私が、その子に代わって父親とお兄ちゃんの虐待のすべてを受けることになった。とてもそれは辛かったけれど、その子を守るために耐え続けた。そして、それは、中学2年の時まで続いた。
 美也子は涙ひとつ流さず、淡々と話した。だが、虐待の内容について語る時だけ顔を歪めた。美也子にとっても、それは心の底に降り積もった辛い記憶であり無残な思い出なのであろう。
 ほんとうの悲しみとは灰のように乾いて重さのないものなのかもしれない。
 解離性同一性障害となる人のほとんどが、幼児期から児童期に強い精神的ストレス(たとえば、心理的虐待、身体的虐待、性的虐待やネグレクトなど)を受けているとされる。花音、美也子の場合も同様であることがわかった。
「それで、その子は?」
「その子が大きくなって、父親と兄からの虐待がなくなると同時に、その子はいなくなっていたわ」
 その時、花音と美也子は全く別の「人格」に分かれたのだろう。美也子の性格がきついのは、辛いことだけを受けてきたからであり、その分精神的にはとても強いが、一方で考え方に曲がった部分も見られ、接しにくい女性であった。しかし、花音を守ってきてくれたのだと思うと嫌いになることはできなかった。きつい口調の中に、たまに優しさが垣間見えることもあるし。
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