第1話 出会い

文字数 3,939文字

酒を飲み始める父
学校のことを聞いてくる
その答えに怒り出し、それが合図のように毎夜虐待は始まる
 
真冬の風呂場
髪の毛を引っ張られ、水を張ったバスタブに、顔を思い切りつけられる
かろうじて息ができる程度に
 
他人には目につかないお尻やお腹を足で蹴り上げられ
悲鳴をあげるたびにその強さは増す
 
階段の上から落とされ、軽い脳震盪を起こす
口の中に手を入れられ、かき回される
 
痛みに丸めた背中を容赦なく叩かれ
「ごめんなさい」というと
余計に叩かれる
 
優しくて、唯一の味方だった兄までが虐待に加わり
ようやく部屋へ戻った私の身体を弄りはじめる
 
恐怖と、苦痛と、悲しみが
精神を崩壊させる
 
学校で神様がいると習ったけど
この世に神様はいない
 
家に帰りたくない
でも、他に帰るところはない
 
私を残して逝ってしまった母
おかあさん
助けて
 
 平成〇年11月21日午後4時45分頃、山梨県〇〇市の笹の山林の斜面で、近くに住むこの山林の所有者の男性(57)が人骨の入った旅行用の大型キャリ-バックを発見、警察に届け出た。〇〇署によると、遺体はほぼ白骨の状態で、着衣と見られる布なども付着していた。性別、年齢、死因や死亡時期などは不明という。
 
〇〇署では、死体遺棄事件として捜査を開始。22日以降に司法解剖を行って死因などを調べるとともに、身元の特定を急ぐ。
 
                                     山梨〇〇新聞

 濃い青に染め抜かれた空気の中、うっすらと雲が模様を描いて通り過ぎる。どこまでも高い空の中心から、太陽は何にも遮らずにまっすぐ降り注いでいる。
そんな空をさっきからずっと見上げている一人の女性。彼女にとっては、空だけが自分の味方だった。いつどんな時でも、根気強く生きてこられたのは空のおかげである。
 
店内に数人いる客のところを回った後、高山隆一の前に立った桜庭花音が、涼やかな表情でタバコに火をつける。
真面目だけが取り柄とみんなに言われる隆一が花音と出会ったのは、忘年会の二次会が花音が働くスナックで行われたからだ。当時、店には三人の女の子がいたが、隆一は一瞬で花音に恋に落ちた。同僚たちからは、水商売の女なんかにアプローチしたって、どうせいいカモにされるだけだからやめろとさんざん忠告を受けたが、それを無視した。
どうしても付き合いたいと何度も店に顔を出したが、その後花音とはなかなか出会えなかった。アルバイトで働いていた彼女が店に出るのは不定期だったからだ。せいぜい週に一日か二日しか店に出ないという。しかも、気まぐれな性格なので、いつ出るかはマスターですらわからないという。
隆一が花音に惹かれたのは、ただ美しかったからではない。一見柔らかな笑顔はもろく危うげで、その裏に底なしの孤独感が隆一には見えたのである。子供の頃に母親を亡くしている隆一は、明る過ぎる女性は苦手であった。花音の放つ寂しげな光は、奇妙な磁気となって隆一を強く惹きつけた。
花音の情報を得ようと、マスタ-に昼間は何をしているのかと聞いても、わからないという。その後、何度か店で出会うようになっても、隆一との会話に発展はなく、一向に前には進まなかった。美人で、25歳にしては妖艶で秘密めいたところがあり、客の中にも花音ファンが多かったことも、その要因だったかもしれない
実際に付き合うことができたのは偶然街中で出会ったことがきっかけだった。その日、隆一は客先での会議が終わり、自社へ戻るため新宿の通りを歩いていたところだった。
真夏の太陽が、白く光るアスファルトに濃い影を落としている。あまりの暑さに、日に照らされたおもての光景は静止しているように見えた。考え事をしながら歩いていた隆一に、ビルから出てきたスーツ姿の一人の女性が近づいてくる。しかし、隆一は知らない女性なので無視する。そして、その女性の前を通り過ぎようとした時、声をかけられた。
「高山さんですよね」
「はい、そうですが」
 よく顔を見ると、花音だった。夜の顔しか知らなかった隆一には、それが花音だと気づかなかったのである。
「ああ、花音さんですか。ぜんぜん雰囲気が違うのでわかりませんでした」
「そうですよね。私、昼間のお仕事の時は、お化粧は控えめにしてるから」
 化粧だけでなく、髪型も違った。スナックで働いている時は、いつも髪をひっつめにしていたが、今は下げている。その分、若く、幼く見える。
「もしお時間あるようでしたら、お茶でもしません」
 隆一が言う前に花音が言った。隆一にしてみれば絶好のチャンスだった。何度スナックに通っても、隆一に関心を示すことすらなかったのだから。
「ぜひ。僕のほうは会議が終わって帰るところですから」
「良かった。私も今もそのビルで打ち合わせが終わって家に帰るだけです」
 花音が指さしたビルは大手旅行代理店のビルだった。隆一が時々行く喫茶店が地下にあったので、その店まで一緒に歩く。何か会話をしなくてはと思うが、もともと口数の少ない隆一は何を話せばいいかが浮かばない。
 人々の歩く靴音が低く響いている。なぜか、既視感を覚える。
 彼女からかすかに漂う香水の香りは隆一にある女性を思い起こさせた。それは、ある日突然何の理由も告げずに同居していたマンションの部屋から消えた女性のことだった。彼女がつけていた香水の香りに似ている。同じような事には二度と会いたくないと思っていたのだが…。
「あっ、ここです」
 ようやくたどり着いた。
 喫茶店で向かいあって座り、改めて花音の顔を見る。スナックで働いている花音はどこかで人を拒絶しているような底なしの孤独感が伺えたが、目の前にいる花音は清純な明るさと可愛らしさしか見えない。二人ともコーヒーを頼む。
「花音さんもコーヒーが好きですか」
「はい」
 話の接ぎ穂が見つからず、とりあえず隆一は水を飲む。
「あの~」
 二人同時に話し出した。そのことのおかしさに、二人して笑う。
「高山さん、どうぞ」
「じゃあ、僕から。花音さんは先ほどの旅行会社で働いているんですか?」
「いえ、実は私、フリーのツアーコンダクターをしていまして。今日はあるツアーの打ち合わせがあったんです」
「へー、そうだったんですか」
 社員ならわかるが、フリーという点がちょっと意外だった。そういう独立性が高い女性には見えなかったからだ。
「そうは見えないでしょう」
 こちらの思いを見透かされたようだ。
「いえ、そんなことはありません。でも、フリーという点はちょっと意外だったかな」
「そうかあ、やっぱりそうですよね。私って頼りなく見えるみたい」
「スナックでは意思が強そうに見えたけど…」
「ああ、それはマスターに隙を見せるなと言われているからです」
 店で愛想がないように見えたのは、意識してそうしていたと初めて知る。
「そうだったんですね。そもそもなかなか会えないし、声をかけてもほとんど会話をしてくれないし。マスターに訊いても何も教えてくれないし」
「それもマスターの戦略なんです。敢えて謎多き女になれというのが口癖なんです。そのほうがお客様は何度も来てくれるって…」
「なるほどなあ。僕だけじゃなく、みんなすっかりマスターの戦略にはまっていたわけですね」
「すみません」
「花音さんが謝ることじゃないですよ。店での花音さんを見ていると、僕のことなんかまったく眼中にないように思ってたから、今日花音さんのほうから声をかけていただいて驚いているんです」
「私、高山さんが初めてお店にいらっしゃった時から、ずっと気になっていたんです。だから、マスターにお願いして高山さんの情報を教えてもらっていたんです。実は、今日お会いできたのも偶然ではないんです」
「えっ、どういうことですか?」
「同じ会社の池田さんから事前に聞いていたんです」
「池田?」
 すべて理解した。池田は高山の同僚で、一緒に飲むことも多い。当然、花音の働く店にも一緒に出掛けている。そして、先ほどまでの会議にも同席していた。会議終了後、事務所に帰るといった高山に対し、池田は寄るところがあるということで、ビルの出口で別れたのである。あの後、池田は花音に連絡したのだろう。
「ごめんなさい」
 そんな手の込んだことをせずに、ストーレートに言ってくれればよかったのにと思いながら、花音がいじらしく思えた。
「いやいや、それも驚いたけど。でも嬉しいですよ。僕も初めてあのお店に行って、花音さんに会った時、一目惚れしたんですから」
「本当ですか?」
「どうせ、池田から聞いているんでしょう」
「はい」
「素直でよろしい。ちなみに池田は好美ちゃんが大好きなことは知っているよね」
「はい。もちろん、それも知っています。好美ちゃんと池田さんはとっくに付き合っています」
「えっ、そうなの。参ったなあ。池田のヤツ、僕には何にも話さないくせに」
「きっと、照れてるんだと思います」
「まあいいか」
「ということで、高山さん、私と付き合ってください。それがさっき私が言いたかったことです」
 そう言って、右手を隆一の顔の前に差し出す。握手をすることで、認めてほしいという意味なんだろう。これまで、女性のほうから付き合ってほしいなんて言われたことや、こんなストレートな告白を受けた経験のない隆一は少し戸惑ったが、もともと自分が一目惚れした相手だったので、花音の手を握った。すると、花音は左手を添え、両手で高山の手を包むようにして言った。
「嬉しい」
 
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