第2話 花音という女性

文字数 3,514文字

 もともとお互いに好意を持っていたことがわかり、二人の距離は急速に縮まっていった。毎週のようにデートを重ね、『恋人同士』になり、自然の成り行きとして身体も重ねた。隆一は花音に夜の仕事は止めてくれるようお願いし、花音も了解した。
 実際に花音と付き合うようになってみると、花音の印象はまた変わった。わかったことは、感情の起伏が激しいということだ。時に子供のように甘えてくるかと思うと、いきなり不機嫌になって怒り出したりするのである。しかも、一度不機嫌になると、何日もそれが続き、時には連絡すら取れなくなる。何度携帯に電話してもメールしても返事が来なくなる。当初から変わったところのある子だとは思ったが、ここまでとは正直思わなかった。
 それでも、花音には他の女性にない魅力があった。澄んだ球状の目はみずみずしく純真な心を写しているようで、見つめられると湖の底に引き込まれてしまいそうな感覚になる。明るさの陰にある危うさが花音から目が離せない理由なのかもしれない。
 感傷的で暗い情熱に彩られた恋の高揚感に満たされる。
「もしもし、隆ちゃん?」
 声の調子で、今日は機嫌がいいことがわかる。土曜日の午後、隆一は久しぶりの休日を自宅で掃除、洗濯に勤しんでいるところだった。
「ああ、花音ちゃん。どうした?」
 確か、今日はツアーの添乗員としてどこかへ行っていると聞いていたような気がするので、思わず『どうした?』と言ってしまったのだ。
「恋人からの電話に、どうした? はないんじゃない」
「ごめん、ごめん。今掃除していたところなんだ」
 花音の機嫌を損ねるのを恐れ、はぐらかすような返事をしておく。
「そうかあ。今日土曜日だから隆ちゃんお休みだよね」
「そうだよ」
「だったら、夕方からウチへ来ない?」
「行っていいの?」
 これまでも、花音の住むマンションの前までは送って行ったことがあるが、部屋へあがったことはない。隆一が部屋にあがるのを、花音がどことなく嫌がっている雰囲気があったため、何も言わずに帰っていた。一方、花音が隆一の部屋に来たことは何度かあった。
「あれ、隆ちゃん、ウチに来たことなかったっけ?」
「誰かと間違えてるんじゃないの」
 嫌な気分だった。あまりに自然な言い方だったのが余計に気になるし、実際に知らぬ男が花音の部屋に入っていく様子が目に浮かび憂鬱になる。
「ごめんなさい。ただの私の勘違いだから、そんなに怒らないで」
「わかったよ」
 納得していないが、納得したことにしておく。
「今日は花音が隆ちゃんのために、隆ちゃんの大好きなビーフシチューを作るから来て」 
 花音は、その派手な見た目からは想像がつかない料理上手だった。隆一の部屋に来た時は必ずなにかしら作ってくれた。そのどの料理も美味しかった。
花音の好きなワインを買ってマンションへ行く。初めてあがる花音の部屋を想像して見る。いかにも女の子の部屋らしく可愛らしく飾った部屋か、逆にモノトーンでまとめたシックな部屋かのどちらかであるような気がしていた。入口で部屋番号を押す。
「はい」
「隆一です」
「どうぞ、入って」
 機嫌は悪くなさそうだ。自動扉が目の前で音もなく割れた。こじんまりとしたエントランスの奥にあったエレベータで五階まであがる。角部屋の501号室の前に立つ。自分の恰好を今一度チェックしてからドアホーンを押す。
「は~い」
 花音の声がドア越しに聞こえた。しばらくすると、ドアが開き、水玉スリム模様のエプロンを身に着けた花音が現れた。
「いらっしゃい」
「おじゃまします」
 花音の後について、リビングへ入る。その瞬間、自分の想像が間違っていたことに気づかされる。落ち着いた色合いの北欧スタイルの、おしゃれな大人女子の部屋だった。
 白い空間に明るい色の家具、パステル調のポイントカラーを取り交ぜたおしゃれな北欧インテリア。ラグには幾何学模様が取り入れられているが、ベージュを基調とした色合いなので、奇抜な感じというよりは、落ち着いた雰囲気になっている。クッションカバーもすべて柄や色合いが異なっているが、淡い色調の空間に少しずつ個性を出している感じ。さらに、ミニ机の前に置かれた、からし色の椅子が絶妙なアクセントになっていた。
 二人用のダイニングテーブルには、すでにいくつかの料理が置かれているのが見える。
「いい部屋だね。センスがいい」
「ありがとう」
「あっ、これワイン」
「嬉しい」
 ワインを受け取ってキッチンへ向かう花音。二人用のダイニングテーブルに置かれていたのは、おつまみと思われる類の料理だった。
「すぐに、用意できるからソファーに座って待ってて」
 キッチンから声がする。
「わかった」
 隆一は改めて部屋を見渡した。壁一面に書棚がある。隆一は自分が本が好きなこともあり、他人の家に行った時は無意識に書棚の本を見てしまう。本を見ることで、その人がどんなことに関心を持っているかが端的にわかるからである。花音の部屋の書棚を見て、また隆一は花音のことがわからなくなった。
 ツアーコンダクターをしているので、旅に関する本が多いのはわかるし、料理好きなので料理に関する本があるのもわかる。また、この部屋のセンスの良さからデザインに興味があるとわかるので、多くのデザイン関連本があるのも納得だ。
 しかし、心理学や催眠療法、臨死体験といった医療関連の本も多く見られる。中には解剖学の本まであった。さらには、生物学、植物学に関する本、物理学や宇宙に関する本まである。単に好奇心が強いということなのかもしれないが、花音の思考回路が理解できなくなった。不吉な気配が鎌首をもたげ灰色の影を落とす。嫌な空気を追い払うように、気持ちを切り替える。
「お待たせ。これでとりあえず揃ったから、ワイン開けて」
 ワインを注ぎ、乾杯をする。
「このワインおいしい」
「そう、良かった」
 料理はどれもおいしかった。特にビーフシチューの味は最高だった。トロトロの牛肉は隆一の舌を唸らせた。食後はリビングに移りコーヒーを飲みながら会話をする。
「なんで今日、隆ちゃんを呼んだか、わかる?」
「えっ、ビーフシチューを作ったからじゃないの」
「もちろん、そうなんだけど、本当のところは、隆ちゃんがこの部屋に相応しいかどうかを確かめたかったの」
「どういうことだろう。僕のことは信用できなかった?」
「そういうこととは違うのよ。あくまでこの部屋に相応しいかっていうこと」
「わかりにくいね」
「私の感覚の問題だから、隆ちゃんにはわからないと思うし、口ではうまく伝えることはできないわ」
「それで、どうだったの」
「うん、仮免というところかな」
「なるほど。じゃあ、ちゃんと免許が取れるよう頑張るよ」
 本当は花音の言った『この部屋に相応しい』ということの意味がよくわかっていなかった。
「じゃあ、僕からひとつだけ質問していい?」
「どうぞ」
「あの書棚の本のことなんだけど」
「ん? 本?」 
 隆一の目線を花音が追う。
「そう。旅に関する本とか、料理に関する本がたくさんあるのはわかるんだけど、医療に関するものや心理学、物理学の本まであるんだね。あれって、みんな関心があるの?」
 さすがに、解剖学の本については触れなかった。
「ああ、あれね。特に意味ないよ。なんとはなしに買ってきたものだから」
「えっ、そうなの…」
 なんとはなしに、臨死体験の本や解剖学の本を買うものだろうか。だが、花音の顔を見ると、本当に『なんとはなしに』買ってきたという表情をしているので、それ以上は訊かなかった。
 この日を境に、花音が隆一の部屋に来るよりも、花音の部屋に隆一を呼びつけることが多くなった。だから改めて聞いたことはないが、どうやら、自分は花音の部屋に上がるための免許を得ることができたのだと勝手に思っていた。 そうした中で隆一は、書棚以外にもうひとつ疑問をもったことがある。
 花音は2LDKの部屋に住んでいる。それ自体、若い女の子にしては贅沢だと思うが、隆一が疑問に思ったのはそのことではない。隆一と一緒に過ごす中で、花音が出入りするのは一部屋だけで、もう一部屋には入ったことがない。 あの部屋は誰のための、どんな部屋なのだろうか?。
 どちらかと言えば神経質な隆一は、時に細かいことが気になる。気になり出すと深みに嵌ってしまい、とかくなんでも悪いほうに考えてしまう癖があった。 だから、気にはなるが、きっと、単なる思い過ごしだと思うことにした。
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