第3話 もう一人の花音

文字数 3,669文字

 それからさらに四か月が過ぎ、二人の関係はそれなりに深まっていた、と思う。
 「と思う」というのは、あくまで隆一の中での思いだからで、花音自身の気持ちが読めないからだ。花音は一緒に同じ時間を過ごし、楽しそうにしていても、いつも現実からすとんと抜け落ちた中で生きているようで、心の奥が見えてこないのだ。
 この頃から花音の海外出張が増えてきて、なかなか会えなくなっていた。花音の謎は深まるばかりだったけれど、やはり隆一は花音のことが大好きだった。 だから、隆一の頭の中では花音との結婚を意識し始めていた。そこへ向けて進めるためにも、一度ちゃんと花音と話し合いたいと思っていたのだが、それもまだ叶っていない。
 季節はじめじめとした梅雨を迎えていた。外出していると、汗が身体にべったりと纏わりついて、気持ちを苛立たせる。公園の噴水から飛び出した水滴のせいで街がにじんで見える。
 街行く人たちの無防備な後ろ姿から長い影が落ち、間もなく今日という日が終わる。
 隆一が事務所に戻り、残務整理をしている時だった。携帯に花音から電話が入った。慌てて廊下に移り、電話に出る。
「ねえ、隆ちゃん、今日誕生日でしょ。誕生祝い、ウチでしようよ。プレゼントも用意してるよ」
隆一は自分が今日誕生日だったことも忘れていた。しかし、それ以上に驚いたのは、今日花音は海外にいると聞かされていたからだ。花音からの電話はいつも突然のような気がする。
「嬉しいけど。花音ちゃん今日海外じゃなかったっけ」
「一日早く帰ってきた。もちろん、隆ちゃんのために」
「本当か?でも、嬉しい。で、何時頃行けばいい」
「う~んと、7時ごろに来て」
「わかった。何か買っていくものある?」
「何もいらない。手ぶらできて」
「OK」
会えなかったことでもやもやしていたり、イラついていた気持ちも、花音の機嫌のいい一本の電話で吹き飛んでいた。人の声ほど心を癒すものはないと思う。特に花音の甘やかな声は。
自分の机に戻り、帰り支度をしていると、課長の島田に呼ばれる。
「今日予定通りでいいか?」
 帰りに以前花音が働いていたスナックに課長を含めた数人で行く約束をしていたのだった。
「すみません課長、今両親から電話があって、急に家に来ることになってしまって」
 もっともらしい嘘をつく。
「なんだよ、それ」
「本当にすみません。なんだか重要な話があるとかで」
「まったく、しょうがないなあ」
 島田は隆一が花音と付き合っていることを知っている。池田が話してしまったからだ。島田が狙っているマミという子が以前花音と親しかったことから、隆一に口添えをしてほしいと言われていたのである。そんなこと、隆一の手を借りずに自分でやってほしいと思うが、上司であるため邪険にはできなかった。 それにしても、二人が付き合っていることを島田に教えた池田が許せない。
「池田によく言っておきますから」
 池田の席に行き、課長のことを伝え部屋を出ようとすると、再び島田に呼ばれる。急いで出たかったが、我慢して島田の元へ近づく。すると、島田は隆一の耳元で囁くように言った。
「あのなあ、池田の彼女から聞いたんだが、お前の付き合っている花音っていう女、訳ありらしいじゃないか」
「どういう意味ですか」
「俺も深くは知らんけど。でも、あの女には気を付けたほうがいいと思うぜ」
「ご忠告ありがとうございます。では失礼します」
 気分が悪い。隆一が急にキャンセルしたことが気に入らなかったから、敢えてあんな話を隆一の耳に入れたのに違いない。池田の付き合っている好美と花音とはあまり仲が良くなかったようだから、余計な入れ知恵をした可能性はある。けれど、『訳あり』とはどういう意味だろうか。水商売の同僚にありがちな好美の悪意なのだろうか。今度池田にも文句を言っておこう。
 思考が暗いほうに向かい、不快さを増殖させる。
 島田のせいで、余計な時間をとられてしまった。不愉快な気分を抱えたまま、急いで電車に乗り、駅からはタクシーを飛ばす。花音のマンションの前に着いた時には約束の7時を少し回っていた。しかし、まだ心の中には先ほどの不愉快な気分が残っていたため、いったん気持ちを落ち着かせるべく深く深呼吸をする。
 いつものように、ドアホーンを押す。
「は~い」
花音の声とともにドアが開かれた。その日のエプロンは花柄で、一段と可愛らしい。思わず抱きしめる。
「待って」
といいながらも花音も嬉しそうである。二人でもつれ合いながら部屋の中へ入る。ダイニングテーブルの上に夕食の準備がすでに7分方整っていて、あと少しで完成という感じだった。それに、花音が用意した誕生日ケ-キもテ-ブルに置いてある。
「隆ちゃんは、いつものようにソファ-で待ってて」
そう言って、花音はキッチンへ向う。しかし、その日は久し振りに会えた花音の側にいたかったので、手伝いをすることにした。これまでにも時々そうしたことがある。花音もそれを喜んでくれる。
「俺も手伝うよ」
「ほんと?」
振り向いて、嬉しそうな顔を見せる花音。手伝いとは言っても、隆一に料理ができるわけでもなく、花音の言われたとおりに鍋の中をかき回したり、お皿や出来上がった料理をテ-ブルに運んだりするだけだが、それでも二人で協同作業をしているようで楽しい。その間、仲良く話しをしながら、自分はなんとハッピ-なんだろうと思ったりしていた。
しかし、そんな気分から一瞬のうちに地獄へと突き落とされることになる。一体、何がきっかけなのかわからないが、花音は突然隆一のことを忘れた。一年近くも付き合っていて、しかも今の今まで楽しく会話しをしていたというのに、唐突に、
「あなた誰?」
と真顔で言われたのである。花音とは明らかに違う声が、ぴしゃりと部屋に響いた。音も匂いも失った風景が隆一の前に広がっている。あまりの衝撃に、隆一は何が起きたのかまったく理解できていない。たくさんの言葉を空気とともに飲み込む。隆一が言葉を形にできたのは、しばらく経ってからだった。
「隆一だよ、隆一。何を言ってるの」
そう言うのが精一杯だった。最初は花音が悪ふざけをしているのかと思った。しかし、その女性は続けてこう言った。
「何故、あなたここにいるの?」
硬く、尖った声だった。
そう言う彼女の顔は花音ではなかった。不思議なことに、その瞬間、それは花音ではなく明らかに全く別の女性であると、隆一にもわかった。単なる表情の違いとはまったく異なるのだ。決して言葉では説明できないのだが、違うことだけははっきりわかった。全く同じ姿をしているものの、そこに今の今まで話しをしていた花音はいなかった。
「何故って言われても。今日は僕の誕生日で、それを花音が祝ってくれるというので…」
「だから、花音って誰?」
そう言って、その女性はテ-ブルのほうを見る。
「そのケ-キはあなたが持ってきたわけ」
テ-ブルの上の花音が用意してくれた誕生日ケ-キを指して言う。
「いや、だから花音が…」
「あなた、他の誰かと間違えていない?」
事態が呑み込めない隆一はどう言っていいかわからない。まるで、不法侵入者のような扱いを受けている。隆一のほうこそ、何故という言葉を投げかけたかった。が、その女性はぼおっと立っている隆一に、マシンガンのように質問を浴びせてくる。あなたはいつここに来たのか、何をしにきたのか、鍵はどうしたのか、なんで自分の知らないあなたが私の料理の手伝いをしようとしていたのか等々。
隆一は、自分自身のことや花音のことを話し、さらに、これまでの二人の付き合いのことを話して思い出してもらおうとするが、まったく話しを聞き入れてくれない。それどころか、これ以上いると不法侵入者として警察に突き出すとまで言われ、隆一は止む無く帰ることにした。
自宅に戻った隆一は、しばらくして花音に電話してみることにした。つい先ほど自分の身に何が起きたのかを確認したかったのだ。しかし、なかなか出ない。切ろうと思った時に、花音の声が聞こえた。
「はい」
 いかにも機嫌の悪い声だった。そして、次に彼女が言った言葉に衝撃を受けた。
「なぜ、今日来てくれなかったの? 料理とケーキを用意していたのに」
 どういうことだ。隆一の頭の中は混乱するばかりだった。
「ちゃんと行ったじゃないか」
「なぜ、そんな嘘言うの? 来れないなら来れないって言ってよね」
 そういうと、電話は切られた。
 自分がおかしいのか、花音がおかしいのか。
 見慣れたはずの自分の部屋が歪んで見える。白い布に落としたインクのように、不安が心の中に広がる。
 さっきから隆一は夜の底で、部屋に差し込んだ月光が作った自分の影を見ながら、ただじっとしている。何かを絶え間なく分泌し続ける音が隆一の中で聞こえる。脳味噌の中を走っているか細い神経が一斉に痙攣を起こし、激しい目眩に襲われる。
 
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