楽炎の獄

文字数 4,159文字

 僕は、仕事帰りにホームセンターに寄った。
 金槌。包丁。チェーンソー。
 そういった品々を見ていると、神アニの受付で僕の物語を受け取らなかった女や、僕を追い出した警備員の顔を思い出す。

 金槌を手にとってみる。確かな重さが頼もしい。ぶんと軽く振ってみた。慣性で引っ張られる。これが脳天にヒットしたら、頭蓋骨だって割れるだろう。
 いつのまにか、口角が持ち上がっていたことに気づく。買い物かごに、金槌を入れた。釣具屋のコーナーは、包丁よりも刃の厚いナイフがよりどりみどりだ。

 見ているだけで、どきどきする。もちろん剥き出しで置いてあるわけではないが、今までにない高揚で身体が震えている。暴力に屈してきただけの僕が、初めて行使する側になる。小説など書いていないで、初めからこうすればよかったのではないか。
 最も刃の大きなナイフをかごに入れた。

 これだけは、何か物足りない。僕の怒りを表現するのに、金槌とナイフだけでは全然足りない。棚と棚の間を歩いていると、カー用品のところに来た。僕の目にとまったのは、消臭剤やカーナビではない。
 二十リットルのガソリン携行缶だ。

 ニュースで見たことがあるが、ガソリンを携行缶で買うときには身分証と使用目的の告知が必要なように法律が変わったらしい。身分証はマイナンバーカードがある。使用目的は山奥へ数日間のドライブとでも言っておけばいい。
 どうせ一回こっきりだ。

 僕はずっしりと重い、携行缶を買った。そして百円ライターも。
 家に帰り、大荷物を両親には判らないように部屋に運びこむ。
 机に座って、考える。
 携行缶をぶら下げて、神戸まで行ったら一発で職質されるだろう。大きなカバンに入れておき、給油は神戸ですればいい。ナイフや金槌も、剥き出しではなく巾着袋にでも入れておく。職質対策だ。

 どのようにしていこうか。
 あの女の顔を金槌で粉砕し、警備員の喉をナイフでえぐる。逃げられないように、下の階からガソリンを撒いて火をつける。僕が逃げないでおくことにすれば、極めて簡単だ。自分だけが生き残ろうとするから失敗するのだ。死ねばいい。

 ああ、物語を考えるよりも楽しいし、いくらでも想像が湧いてくる。人生で一度も他人を思いどおりにできなかった僕が、生殺与奪を握るのだ。これが至福でなくてなんだろうか。
 ベッドに、ごろんと横になる。残された日々がいとおしい。この日のために、僕の人生はあった。
 今日は、よく眠れそうだ。



 決行の日は、神アニに原稿を持っていった、屈辱の水曜日である。父のスポーツバッグを失敬して、携行缶と金槌、ナイフの入った巾着袋を入れる。十二月も半ばになっていた。
 僕が再び新神戸駅を降りたとき、すでに昼過ぎになっていた。幸いなことに、職務質問は一回もされなかった。僕は決意を秘めた力強い足取りで、調べてあったガソリンスタンドへと向かう。

 やはり店員は徒歩で携行缶を持ってきた僕に不審の眼を向けたが、僕は堂々とマイナンバーカードを出し本名を告げた。嘘を言ったのは、使用目的だだけだ。
 さすがに、二十リットルのガソリンが入った携行缶は重い。僕はガソリンスタンドを離れたところで、目立たないように缶をバッグに入れ直した。

「ふう……」

 路地裏で、息をつく。罪悪感よりも恐怖よりも、高揚が僕の心臓を打つ。
 初めて、他人を思いのままにする。生殺与奪を、僕が握る。
 中学生のころ、僕を思う存分打ちのめした不良たちは、こんな気持ちだったのか。それは癖になるだろう。

「よいしょ」

 重いスポーツバッグを、気合いを入れて担ぎ上げる。
 行こう。
 僕は、表通りに出て神アニへと歩き出した。携行缶の入ったバッグのひもが、肩に食い込んで痛い。息も荒くなってくる。運動などほとんどしたことのない僕の身体は、悲鳴をあげていた。

 やがて、見覚えのあるビルが見えてくる。
 まだ、僕は引き返せる。まだ、僕は何もしていない。
 僕自身に問う。
 このまま、屈辱と怒りで眠れぬ夜を幾千と過ごすのか。
 僕の作品を盗んだ神アニに、のうのうとアニメを作らせておくのか。
 それを、許せるのか。

 立ち止まる。
 もし、神アニを許すか、屈辱の未来に耐えられそうだと少しでも思えたのなら、引き返そうと思った。
 五秒、六秒。
 呼吸の音だけが大きい。
 一片たりとも、そんな気持ちは湧いてこなかった。

 僕は再び歩きだす。
 神アニの正面玄関まで来た。この前と、何ひとつ変わらない。
 正面玄関の自動ドアが開く。カウンターへと、ゆっくり歩いていく。

「いらっしゃいませ、どちらにご用件で……」

 あの女の顔が、凍りついた。僕はスポーツバッグをどすんと下ろし、すっかり凝った首をまわす。
 女の眼を、そろりと見上げた。

「この前、原稿を置いていきましたよね。どうなりました?」
「……っ」

 女は固まったまま、答えなかった。僕は構わず、バッグの中からハンマーとナイフを取り出す。もちろん、見せびらかすなどという野蛮なことはしない。カウンターの死角となって、女からは見えないはずだ。

「捨てたんですか?」
「あ、あの……社の規則で」

 女の声が震えていた。

「捨てたんですか?」
「わ、私が捨てたんじゃありません! ゴミ回収業者が……」

 それ以上、言わせる必要はなかった。
 カウンターへ躍り上がり、右手に握ったハンマーを思い切り女の頭へ打ちつける。硬いものを割った感触が、高揚を跳ね上げた。

「うぐああっ」

 女は奇妙な声をあげると、カウンターの中へ倒れこんだ。かっ、かっ、と熱い力が全身をかけめぐる。僕は中へ飛び降りると、女の顔をめった打ちにした。
 最初の一撃は頭蓋骨だったが、こめかみや眼窩の骨はそれより薄く、簡単に女の顔はデコボコになっていく。

「あはっ……」

 無限に力が湧いてきていた。

「何しとんじゃワレェ!」

 あの老警備員が、僕の上か覆いかぶさってくる。左手に握ったナイフを、横に払った。

「んがっ」

 警備員の動きが止まる。手から血が流れていた。僕は、頭の中で何度も繰り返した動きで、警備員の喉を刺した。

「げぶっ」

 想像していたよりも、力が必要だった。僕は、全身の力をこめてナイフを柄まで警備員の喉に刺しこんだ。ナイフが栓になっていて、思ったほど血は飛び出さない。
 ふたりとも、まだ動いている。しかし、もう僕の邪魔をすることはできない。僕はハンマーを投げ捨て、ナイフは警備員の首に残したままにして、カウンターの外に出る。これからが本番だ。

 ずっしりと重い、携行缶をバッグから取り出す。ライターをズボンのポケットに入れる。缶の口を開け、どぼどぼとガソリンをこぼした。ツンとする臭いが鼻を突く。
 少しずつこぼしたまま、階段を上がっていく。ガソリンの尾が、僕のあとについてくる。このビルは五階建てだそうだが、下の階で火を付ければ上から逃げてくることはできない。一階に火を放てば、エレベーターで降りてきても外へ逃げることはできない。非常階段くらいは使わせてやろう。

 二階に上がると、大勢の人たちが机に向かってセル画の作業をしていた。しんと静まりかえっている。まだ一階の騒ぎには気づいていないようだ。
 ここが、僕の心を癒やしてくれた作品を作る、神々の楽園なのか。知識として、地味な作業だということは知っていたが、本当に静かだった。

「なんか、臭いな」

 男が顔を上げ、僕に気づいた。すぐに、怯えた顔になる。ガソリンの携行缶をぶらさげ、返り血を浴びた僕の姿を見て、怯えるのは当然だろう。

「あなた、何をしてるんですか」
「……僕は、神アニの作品で人生を救われてきたんですよ」

 僕がにっこりと笑うと、男はますますけげんな顔になった。周囲の人々も、作業をやめて僕の方をじっと見ている。

「それは、光栄です……」

 そう言いながら、男の視線は僕の持っている携行缶に注がれている。
 下が騒がしくなってきた。あの女と警備員の変わり果てた姿を確認したのだろう。

「あなたたちを、許しません」
「え?」

 僕は残りのガソリンをこぼしながら、部屋に入っていく。座っていた人たちが、一斉に立ち上がる。

「もう、誰も逃げられない」

 僕が歩を進めると、みんなは逃げていく。やがて、携行缶は空になった。
 一階のホールから二階まで、ガソリンをたっぷりと撒いた。火を付ければ、ここから一階まで火の海になり、その炎と黒煙は上の階まで舐め尽くすだろう。
 むせかえるような刺激臭に、僕は心から生を実感していた。

「みんな逃げろ! ガソリンだ!」

 誰かが叫ぶ。フロアは、いきなり大パニックになった。
 もういいだろう。
 神々の楽園よ、さようなら。
 ここは、誰も逃げられない炎の獄に変わる。

 僕は、携行缶を投げ捨てた。がらんがらんと缶が床を転がる。
 ポケットから、ライターを取り出す。
 ためらいなく、僕はフリントをカチッと回した。
 その瞬間、気化したガソリンに引火したのか、空中に炎の塊が現れた。炎はすぐに床へ燃え広がり、すばらしい速さで階段を降りて一階へ走っていく。

 フロアはまたたく間に炎に包まれ、僕の腰まで燃え上がって下半身を焼いている。
 人々が、怒号と悲鳴をあげながら狂ったように逃げ惑う。炎は黒煙をあげて、フロアを埋め尽くしていく。煙を吸って倒れる人、炎に巻かれて踊っている人、まさに地獄だった。
 この地獄を、僕が作り出したのだ。

「ああ……樋口先生」

 眼鏡をかけた優しい顔が思い浮かぶ。結局、あれから十年後の僕の作品は、読んでもらうことができなかった。
 いや、僕が見せなかったのだ。もし読んだら、樋口先生は褒めてくれただろうか。
 それは判らない。
 けれども今になって、すべてが終わる直前で、僕は心残りができてしまった。賞に出そうとかする前に、一度でも樋口先生のところに行くべきだった。

「帰らなきゃ」

 階段は、僕が付けた火で炎に包まれている。混乱が極まったフロアには、道路側に窓があった。
 僕は下半身を燃やされながら、ゆっくりと窓へ歩いていく。
 なにげなく、窓を開けた。

 すごい勢いで冷たい風が吹きこみ、一瞬後に爆風がどんと僕を押した。
 僕は、宙へ投げ出されていた。
 頼りない浮遊感のあと、全身に衝撃を受けた。
 頭が激しく揺さぶられ、僕は暗黒へ堕ちていった。
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