社会人・逃亡
文字数 4,495文字
卒業の日を迎えた。
僕は、物語で何もなすことができなかった。デビューどころか、ひとつの物語も完成しなかった。僕は、僕を唯一僕たらしめるものですら、まともにできないのだ。
七年も書き続けて、ただ僕に残されたのは出来損ないの残骸だった。今になって、あの妖怪冒険物語を完成に導けばよかったと後悔する。僕の原点であり、物語を作りたいという最も純粋な思いの結晶だった。
それを捨ててしまったのも僕自身なのだ。
僕は社会に出る。
父に紹介された仕事は、近所の印刷会社の事務職だった。通勤も短く、拘束時間も少なく、危険な仕事でもない、しかし給料は安い、僕にぴったりの仕事だった。
買ってもらったスーツを着て、初めての出勤をする。
「ねえ春樹、ついていかなくてもいい?」
母が、不安げな眼で玄関に立っている。
「馬鹿を言うな。初日から春樹に恥をかかせる気か」
父が苦笑する。本当は父だって仕事に行っている時間なのだが、僕を見送るために少し行くのを遅らせているのだ。
不安なのも判る。心配させているのも判る。正直、それをうとましく思う。
しかし、両親をはねつけてひとりで立つ自信もなかった。
「……行ってきます」
僕はぼそりとつぶやくと、両親に背を向けた。
外に出ると、春とは思えない肌寒さが背中から忍びこんでくる。背を丸め、うつむきながらバス停へと向かう。新しい職場は、同じ市内でバスを使えば十五分程度の場所だった。
バス停には、僕と同年代ほどの若者が真新しいスーツを着て何人も立っていた。みんな緊張はしているものの、意志を眼にみなぎらせている。
僕だけが、運動会の前に腹痛を起こした小学生のような顔をしているのだろう。
やがてバスが来る。
重い足取りでステップを上がった。バスが出発する。屠殺場に連れて行かれる豚は、こんな気分なのか。
わずかな猶予はすぐに終わり、降りるべきバス停が来る。
僕は、身体が動かなかった。
行かなくてはと思う。しかし、心の中でどうしても嫌な気持ちが居座って、身体を動かしてくれない。
バスは再び動き始める。
途方もない安堵と罪悪感が押し寄せる。
まだ間に合う、引き返せると思いながらも、僕はバスに乗り続けた。
バスは終点の、私鉄の駅に到着する。降りざるを得ない。時計を見ると、仕事が始まる時間の五分前だった。
もうどうあっても遅刻だ。初日から。
僕は逃げるように電車に乗る。どこへ行くとも決めず、ただここから離れるために。
電車に揺られていると、スマホが鳴った。
母だ。
出られるわけもなく、僕は電源を切った。
やってしまった。
初めての旅立ちから、僕は逃げた。どんな顔をして、家に帰れるというのか。
電車は故郷を離れていく。行く場所も帰る場所もない。
昼食も取らなかった。
夕方になって、横になりたいほど疲れてきた。電車は二十四時間走っているわけではない。
僕は、行くはずだった会社の終了時間を過ぎていることを確かめた。過ぎてさえいれば、今日はもう行かなくていい理由があると思っていた。
電車を降り、逆方向の電車に乗り換える。
空腹を抱え、何も成せず、僕は帰っていった。
故郷の駅についたときは、すでに終電近くになっていた。駅前に人通りはなく、バスも終わっている。
僕は歩いた。アスファルトの道が、ぬかるみのように歩きにくかった。
バスで十五分の道のりは、歩くと一時間ほどかかった。
「ただいま」
玄関は、明るかった。父と母が、どたどたと走ってくる。
「どうしたの、春樹……職場から何度も電話があったのよ。全然携帯も出てくれないし……今までどこに行ってたの」
涙ぐむ母を押しのけて、父が前に出る。頬に熱い衝撃が走った。
僕は無抵抗に、玄関に崩れ落ちた。
「お前、仕事を舐めてるのか。責任感はあるのか」
僕は、女座りでうつむいていた。胸から何度も突き上げるものがあり、嗚咽とともに涙がこぼれる。
「あなた、何してるの!」
「今、俺は後悔してる。何でもっと厳しく育てなかったのかってな。もう遅いのか」
父はそれ以上責めることはなく、家の奥へ去って行った。
「ご飯食べた?」
母がいたわるように、尋ねる。僕は首を振った。
「お風呂入って、食べましょう」
「うん……」
ようやく僕は立ち上がり、部屋へと向かった。廊下から食堂を見ると、ごちそうの乗った皿がいくつも机の上に並べられている。ワインやビールの瓶も、何本か置いてあった。
「やっと春樹が自立したって、お父さん大喜びでね……春樹と乾杯するのを子供みたいに楽しみにしてたのよ」
頭に粘土が詰められたように重くなる。歩けなくなった。
次に湧いてきたのは怒りだった。
なぜ僕に期待するのか。
なぜ仕事をしなければまとも扱いしてくれないのか。
なぜ僕の好きなことを尊重してくれないのか。
「ううっ」
僕は部屋の中へ駆けこんだ。
「は、春樹」
母の声を背に、僕はスーツを脱ぎ捨てる。
ベッドに倒れ伏した。
泣いた。
僕が情けない。
父が怖い。
母が僕を子供扱いする。
未来が見えない。
そんな感情が渦のように混ざり合って、僕はひたすら声を上げて泣いていた。
僕が眼を覚ましたのは、もう朝の十時を過ぎていた。
二日目も、休んでしまった。そして、もう父は出勤している時間であることにほっとする。
腹が鳴る。二十四時間、何も食べていないのだった。僕はゆっくりとベッドを降り、食堂へと向かう。母が洗い物をしていた。机の上に昨日あった、ごちそうの山はすっかり片づけられている。
「あっ、春樹」
僕に気づいた母が、濡れた手を布巾でぬぐう。
「……おはよう」
「座っててね。すぐ用意するから」
僕は言われたとおり、キッチンの椅子に座る。朝の主婦向け情報番組が、テレビから流れていた。僕はほとんど見たこともない。
「お待ちどおさま」
母がトレーにご飯と味噌汁、それにハムエッグを乗せて僕の前に置いた。味噌汁は、僕の好きな青ネギがたっぷり入っている。
匂いにつられて、まずは味噌汁をひとくち飲んだ。ずっと空っぽだった胃に、熱い汁が流れこんでいく。ネギの香気も良かった。
僕は、あっという間に食べてしまった。二日目の仕事を休んでしまったことも忘れ、満腹のため息をほうとつく。
母が、コーヒーを置くと僕の前に座った。緊張した顔をしている。
「ねえ……昨日、お父さんと話したんだけど」
その言葉に、胃が絞られる。
「なに……」
「仕事に行けないなら、無理しなくてもいいわ」
「えっ」
思いがけない言葉に、驚く。
「お父さんは大反対だったけどね。でも、できないものはできないのよ」
「うん……」
拍子抜けしたような、情けないような、安心したような、複雑な気分だった。
「で、相談なんだけど」
「うん」
母は一度視線をそらした。
「精神科行ってみない? 今日」
「え……」
僕はコーヒーカップに手を伸ばした。さして重くもないのに、手が震えている。
「ちゃんと診断名がつけば、今は障害者雇用の仕事もあるし、できるようになってきたら、普通に働けばいいのよ」
母は早口で言った。
自分が、そう見られる存在になっていたことに、少なからず心が沈む。そもそも、通信制の高校にしか行けないこと自体、僕はそうだったのだ。
反発する気力はなかった。反発するということは、昨日の僕に挑まなくてはいけないということだ。とても、無理だった。
「うん……行くよ」
母がほっとした顔になる。僕は、まがりなりにも十八年以上生きてきた誇りや自負を、自分の手で伐り倒してしまったような気がした。
「じゃあ、さっそく行きましょ。着替えて」
「う、うん」
僕は、すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干した。
家に帰ってきたのは、もう夕方だった。
待合室で見た、落ち着きなくうろうろしている目のつり上がった若者や、口を押さえ続けるぼさぼさ頭の女性は怖かったが、先生は優しかった。
あせらずできることからやっていきましょう、と言われたのは嬉しかった。
不安になったら飲むようにと、錠剤が処方された。薬の効果を確かめるため、二週間に一度は通うことになる。
僕は、帰りに本屋に寄ってアニメ雑誌を買ってもらった。特集が神戸アニメーションだったからだ。部屋の机に座ってページをめくっていくと、眼にとまる記事があった。
神戸アニメーション大賞。
小説、シナリオ、漫画の三部門で募集をしていて、小説は神アニが創設したレーベルで出版される可能性があるという。そして、優れた作品はアニメ化されるのだ。
僕がかつて感動で泣いてしまった、あの女性型の人形が代筆をするアニメも、この神戸アニメーション大賞で創設史上初の大賞を獲った作品なのだ。
背骨がぶるりと震える。
楽園の神々に、僕の作品を読んでもらえるのだ。そして、僕の作品がアニメ化されるかもしれないのだ。
仕事などしている場合ではなかった。僕が僕であるためには、神アニ大賞を獲らねばならない。人生を賭けるに値する。
募集要項に眼を走らせる。締めきりは一ヶ月後だった。
やらなければならない。
急いでパソコンを立ち上げる。オープニング画面がもどかしい。
「くそっ」
机を叩く。
デスクトップ画面に散らばった、未完成の残骸を見る。
どうしたらいいのか。何を作ればいいのか。
少なくとも、途中で放り投げたこれらではない。
大賞を獲らねばならない。
今までやってきた、小説の書き方では僕はひとつも完成できなかった。
「うう……」
眼を見開いて、モニターを見つめる。
僕は何を書いてきたか。僕は何を面白いと思うのか。僕に何ができるのか。
テキストエディタを開いて、僕は過去の記憶を探った。
面白いと思った漫画、アニメ、小説。
自分がやろうとしていることが、小学校五年生のあのときと同じことに気づく。
「ああっ!」
キーボードを机の上から払いのけた。
真似ではない。いいとこ取りでもない。僕が、僕だけの力で作った物語が必要だ。
ボールペンをとって、プリンター用紙を広げる。僕の頭の中を全部書き出していく。
侍。妖怪。勇者。ロボット。高校生。超能力者。未来人。代筆人形。
樋口先生。課題。紙くず。不良。みぞおちに突き刺さる痛み。胃液の味。
不良に笑いかけるあの子。通信制の高校。小学生の作文。電車。会社。
バス。疲れた足。ごちそう。殴る父。甘やかす母。うろうろする男。
精神科。薬。
最後に、紙に書き散らかした単語を全部まとめてぐるっと円で囲む。
これが、僕か。
自分がみじめだった。ここから、どんな美しい物語が生まれるというのか。僕が涙したように、あるいは笑ったように、人の心を動かす物語が、借り物の話と形骸のような心から生まれるのだろうか。
眼を上げて窓を見ると、春の太陽が沈み掛かっていた。
夜が来て、朝が来る。僕が何も成さない間に、時間だけが過ぎていく。
明日が、怖い。
僕は、貧相な人生を書き写した紙をぐしゃぐしゃに丸めて捨てた。
それでも、何か書かなくては。未来に手が届かない。
床に落ちたキーボードを拾い上げ、僕は打ちこみを始めた。
僕は、物語で何もなすことができなかった。デビューどころか、ひとつの物語も完成しなかった。僕は、僕を唯一僕たらしめるものですら、まともにできないのだ。
七年も書き続けて、ただ僕に残されたのは出来損ないの残骸だった。今になって、あの妖怪冒険物語を完成に導けばよかったと後悔する。僕の原点であり、物語を作りたいという最も純粋な思いの結晶だった。
それを捨ててしまったのも僕自身なのだ。
僕は社会に出る。
父に紹介された仕事は、近所の印刷会社の事務職だった。通勤も短く、拘束時間も少なく、危険な仕事でもない、しかし給料は安い、僕にぴったりの仕事だった。
買ってもらったスーツを着て、初めての出勤をする。
「ねえ春樹、ついていかなくてもいい?」
母が、不安げな眼で玄関に立っている。
「馬鹿を言うな。初日から春樹に恥をかかせる気か」
父が苦笑する。本当は父だって仕事に行っている時間なのだが、僕を見送るために少し行くのを遅らせているのだ。
不安なのも判る。心配させているのも判る。正直、それをうとましく思う。
しかし、両親をはねつけてひとりで立つ自信もなかった。
「……行ってきます」
僕はぼそりとつぶやくと、両親に背を向けた。
外に出ると、春とは思えない肌寒さが背中から忍びこんでくる。背を丸め、うつむきながらバス停へと向かう。新しい職場は、同じ市内でバスを使えば十五分程度の場所だった。
バス停には、僕と同年代ほどの若者が真新しいスーツを着て何人も立っていた。みんな緊張はしているものの、意志を眼にみなぎらせている。
僕だけが、運動会の前に腹痛を起こした小学生のような顔をしているのだろう。
やがてバスが来る。
重い足取りでステップを上がった。バスが出発する。屠殺場に連れて行かれる豚は、こんな気分なのか。
わずかな猶予はすぐに終わり、降りるべきバス停が来る。
僕は、身体が動かなかった。
行かなくてはと思う。しかし、心の中でどうしても嫌な気持ちが居座って、身体を動かしてくれない。
バスは再び動き始める。
途方もない安堵と罪悪感が押し寄せる。
まだ間に合う、引き返せると思いながらも、僕はバスに乗り続けた。
バスは終点の、私鉄の駅に到着する。降りざるを得ない。時計を見ると、仕事が始まる時間の五分前だった。
もうどうあっても遅刻だ。初日から。
僕は逃げるように電車に乗る。どこへ行くとも決めず、ただここから離れるために。
電車に揺られていると、スマホが鳴った。
母だ。
出られるわけもなく、僕は電源を切った。
やってしまった。
初めての旅立ちから、僕は逃げた。どんな顔をして、家に帰れるというのか。
電車は故郷を離れていく。行く場所も帰る場所もない。
昼食も取らなかった。
夕方になって、横になりたいほど疲れてきた。電車は二十四時間走っているわけではない。
僕は、行くはずだった会社の終了時間を過ぎていることを確かめた。過ぎてさえいれば、今日はもう行かなくていい理由があると思っていた。
電車を降り、逆方向の電車に乗り換える。
空腹を抱え、何も成せず、僕は帰っていった。
故郷の駅についたときは、すでに終電近くになっていた。駅前に人通りはなく、バスも終わっている。
僕は歩いた。アスファルトの道が、ぬかるみのように歩きにくかった。
バスで十五分の道のりは、歩くと一時間ほどかかった。
「ただいま」
玄関は、明るかった。父と母が、どたどたと走ってくる。
「どうしたの、春樹……職場から何度も電話があったのよ。全然携帯も出てくれないし……今までどこに行ってたの」
涙ぐむ母を押しのけて、父が前に出る。頬に熱い衝撃が走った。
僕は無抵抗に、玄関に崩れ落ちた。
「お前、仕事を舐めてるのか。責任感はあるのか」
僕は、女座りでうつむいていた。胸から何度も突き上げるものがあり、嗚咽とともに涙がこぼれる。
「あなた、何してるの!」
「今、俺は後悔してる。何でもっと厳しく育てなかったのかってな。もう遅いのか」
父はそれ以上責めることはなく、家の奥へ去って行った。
「ご飯食べた?」
母がいたわるように、尋ねる。僕は首を振った。
「お風呂入って、食べましょう」
「うん……」
ようやく僕は立ち上がり、部屋へと向かった。廊下から食堂を見ると、ごちそうの乗った皿がいくつも机の上に並べられている。ワインやビールの瓶も、何本か置いてあった。
「やっと春樹が自立したって、お父さん大喜びでね……春樹と乾杯するのを子供みたいに楽しみにしてたのよ」
頭に粘土が詰められたように重くなる。歩けなくなった。
次に湧いてきたのは怒りだった。
なぜ僕に期待するのか。
なぜ仕事をしなければまとも扱いしてくれないのか。
なぜ僕の好きなことを尊重してくれないのか。
「ううっ」
僕は部屋の中へ駆けこんだ。
「は、春樹」
母の声を背に、僕はスーツを脱ぎ捨てる。
ベッドに倒れ伏した。
泣いた。
僕が情けない。
父が怖い。
母が僕を子供扱いする。
未来が見えない。
そんな感情が渦のように混ざり合って、僕はひたすら声を上げて泣いていた。
僕が眼を覚ましたのは、もう朝の十時を過ぎていた。
二日目も、休んでしまった。そして、もう父は出勤している時間であることにほっとする。
腹が鳴る。二十四時間、何も食べていないのだった。僕はゆっくりとベッドを降り、食堂へと向かう。母が洗い物をしていた。机の上に昨日あった、ごちそうの山はすっかり片づけられている。
「あっ、春樹」
僕に気づいた母が、濡れた手を布巾でぬぐう。
「……おはよう」
「座っててね。すぐ用意するから」
僕は言われたとおり、キッチンの椅子に座る。朝の主婦向け情報番組が、テレビから流れていた。僕はほとんど見たこともない。
「お待ちどおさま」
母がトレーにご飯と味噌汁、それにハムエッグを乗せて僕の前に置いた。味噌汁は、僕の好きな青ネギがたっぷり入っている。
匂いにつられて、まずは味噌汁をひとくち飲んだ。ずっと空っぽだった胃に、熱い汁が流れこんでいく。ネギの香気も良かった。
僕は、あっという間に食べてしまった。二日目の仕事を休んでしまったことも忘れ、満腹のため息をほうとつく。
母が、コーヒーを置くと僕の前に座った。緊張した顔をしている。
「ねえ……昨日、お父さんと話したんだけど」
その言葉に、胃が絞られる。
「なに……」
「仕事に行けないなら、無理しなくてもいいわ」
「えっ」
思いがけない言葉に、驚く。
「お父さんは大反対だったけどね。でも、できないものはできないのよ」
「うん……」
拍子抜けしたような、情けないような、安心したような、複雑な気分だった。
「で、相談なんだけど」
「うん」
母は一度視線をそらした。
「精神科行ってみない? 今日」
「え……」
僕はコーヒーカップに手を伸ばした。さして重くもないのに、手が震えている。
「ちゃんと診断名がつけば、今は障害者雇用の仕事もあるし、できるようになってきたら、普通に働けばいいのよ」
母は早口で言った。
自分が、そう見られる存在になっていたことに、少なからず心が沈む。そもそも、通信制の高校にしか行けないこと自体、僕はそうだったのだ。
反発する気力はなかった。反発するということは、昨日の僕に挑まなくてはいけないということだ。とても、無理だった。
「うん……行くよ」
母がほっとした顔になる。僕は、まがりなりにも十八年以上生きてきた誇りや自負を、自分の手で伐り倒してしまったような気がした。
「じゃあ、さっそく行きましょ。着替えて」
「う、うん」
僕は、すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干した。
家に帰ってきたのは、もう夕方だった。
待合室で見た、落ち着きなくうろうろしている目のつり上がった若者や、口を押さえ続けるぼさぼさ頭の女性は怖かったが、先生は優しかった。
あせらずできることからやっていきましょう、と言われたのは嬉しかった。
不安になったら飲むようにと、錠剤が処方された。薬の効果を確かめるため、二週間に一度は通うことになる。
僕は、帰りに本屋に寄ってアニメ雑誌を買ってもらった。特集が神戸アニメーションだったからだ。部屋の机に座ってページをめくっていくと、眼にとまる記事があった。
神戸アニメーション大賞。
小説、シナリオ、漫画の三部門で募集をしていて、小説は神アニが創設したレーベルで出版される可能性があるという。そして、優れた作品はアニメ化されるのだ。
僕がかつて感動で泣いてしまった、あの女性型の人形が代筆をするアニメも、この神戸アニメーション大賞で創設史上初の大賞を獲った作品なのだ。
背骨がぶるりと震える。
楽園の神々に、僕の作品を読んでもらえるのだ。そして、僕の作品がアニメ化されるかもしれないのだ。
仕事などしている場合ではなかった。僕が僕であるためには、神アニ大賞を獲らねばならない。人生を賭けるに値する。
募集要項に眼を走らせる。締めきりは一ヶ月後だった。
やらなければならない。
急いでパソコンを立ち上げる。オープニング画面がもどかしい。
「くそっ」
机を叩く。
デスクトップ画面に散らばった、未完成の残骸を見る。
どうしたらいいのか。何を作ればいいのか。
少なくとも、途中で放り投げたこれらではない。
大賞を獲らねばならない。
今までやってきた、小説の書き方では僕はひとつも完成できなかった。
「うう……」
眼を見開いて、モニターを見つめる。
僕は何を書いてきたか。僕は何を面白いと思うのか。僕に何ができるのか。
テキストエディタを開いて、僕は過去の記憶を探った。
面白いと思った漫画、アニメ、小説。
自分がやろうとしていることが、小学校五年生のあのときと同じことに気づく。
「ああっ!」
キーボードを机の上から払いのけた。
真似ではない。いいとこ取りでもない。僕が、僕だけの力で作った物語が必要だ。
ボールペンをとって、プリンター用紙を広げる。僕の頭の中を全部書き出していく。
侍。妖怪。勇者。ロボット。高校生。超能力者。未来人。代筆人形。
樋口先生。課題。紙くず。不良。みぞおちに突き刺さる痛み。胃液の味。
不良に笑いかけるあの子。通信制の高校。小学生の作文。電車。会社。
バス。疲れた足。ごちそう。殴る父。甘やかす母。うろうろする男。
精神科。薬。
最後に、紙に書き散らかした単語を全部まとめてぐるっと円で囲む。
これが、僕か。
自分がみじめだった。ここから、どんな美しい物語が生まれるというのか。僕が涙したように、あるいは笑ったように、人の心を動かす物語が、借り物の話と形骸のような心から生まれるのだろうか。
眼を上げて窓を見ると、春の太陽が沈み掛かっていた。
夜が来て、朝が来る。僕が何も成さない間に、時間だけが過ぎていく。
明日が、怖い。
僕は、貧相な人生を書き写した紙をぐしゃぐしゃに丸めて捨てた。
それでも、何か書かなくては。未来に手が届かない。
床に落ちたキーボードを拾い上げ、僕は打ちこみを始めた。