中学生

文字数 5,119文字

 中学生になった。
 僕の趣味は、小学生のときから変わらない。アニメを見ること、漫画を読むこと、ゲームをすること、そして物語を書くことだ。
 中学校になってから初めて会うクラスメートも多く、社交的とはいえない僕は、端的に言えば孤立していた。とはいえ、僕はひとりでする遊びが好きだ。僕の遊びを、誰かに邪魔されたくない。

 小学校のころは、アニメが好きだろうがゲームが好きだろうが別に何も言われなかったが、中学生になったらオタク扱いされるようになった。そんな陰口も聞く。
 腹は立つ。なぜ誰に迷惑をかけるでもない趣味を持っているだけで見下げてくるのか。学校になんか来ないで、ひとりでずっと本を読み、テレビを見てゲームをし、物語を書いていたかった。

 学校にゲームや漫画を持ってくるわけにはいかないので、休み時間には文庫本の小説を読んでいた。いわゆるライトノベルだ。冒頭で死んだ少年が、すごい力を女神からもらって異世界で活躍する物語だ。
 表紙は漫画ぽいし挿絵も多いので、学校に持ってきていいのかはよく判らないが、図書室にもラノベだけの段が一列あったりするので問題ないだろう。
 昼休み、給食も終わって男子は外でサッカーをしたり教室の後ろで格闘技ごっこをしたりしている。僕はそういった輪の中には一切入らず、本に没頭していた。

「その表紙、かわいいね」

 いきなり話しかけられて、はっと顔を上げる。
 入学したときから、クラスのアイドルになっていた女子だった。
 名前は……。
 罪人である僕に、彼女の名前を口にする資格はない。
 彼女は、違うクラスはもちろん、先輩からも注目の的だった。そんな彼女が、日陰の雑草のように本を読んでいるだけの僕に、声をかけてくるとはどういうつもりだったのか。

「え、あ、うん」
「面白い? それ」

 純粋な興味で、彼女は聞いているようだった。中学生になってから、僕のしていることを蔑む者はいても関心を持たれるのは初めてだった。
 不意に、胸の奥に押しこめていた渇望が、ぐうっと喉にせりあがってくる。

「うん、面白いよ。どこが面白いかというとね、この主人公は生きてるときは冴えないんだけど、異世界に行ったら無敵なんだよ。その落差というか、現世に復讐しているというか、そこがカタルシスなんだ。たぶんね、誰もが持ってる思い通りにならない世の中の不満を、異世界という現世に影響を及ぼさない場所で解放するのがスカッとするんだよ。それでね、主人公が異世界に転生するときに女神から力を与えられるんだけど、それが自分の想像したものを何でも形にする力なんだ。僕だったら……」

 ああ、僕は趣味を理解してくれる人と、思うさま語り合いたかったのだ。孤高を気取ってはいても、同好の士がいないことが寂しくてしょうがなかったのだ。
 僕の言葉は、詰まっていた下水道が解放されたかのように滔々と彼女にぶつけられていく。僕はしゃべることに夢中で、彼女の表情が変わっていくことに気づいていなかった。

「あ、あの……その本好きなんだね。じゃあね」

 僕の話の途中で、彼女は小さく手を振り引きつった顔で去っていった。僕はまだまだ話し足りなかったが、少なくとも僕の胸のうちを聞いてくれるひとがいたことに、永遠に続く曇り空から太陽がのぞいたような気分になっていた。
 明日は僕の方から彼女に話してみよう。

 ひどく前向きになった僕の傲慢を打ち倒されたのは、さっそく今日の放課後だった。
 僕は、校舎裏に呼び出された。僕を蔑む筆頭格であり、クラスではその悪さがなぜか女子に人気のある、いわゆる陽キャでウェイ系のやつらだ。こいつらの名前は、覚えておく価値もない。

「てめえ、あいつに話しかけんじゃねえよ」

 彼女のことだった。クラスのアイドルが僕と話していたことに嫉妬しているのだろう。

「話しかけてきたのは、彼女なんだけど」

 脛に激痛が走った。革靴のつま先で蹴り上げられたのだ。

「ううっ」

 簡単にしゃがみこむ。ずっと漫画とアニメとゲームを好み、物語を書いてきた僕は、喧嘩をしたことも他人を殴ったこともなかった。

「口答えしてんじゃねえ」

 今度は、脇腹を蹴り込まれる。足の甲まで、身体にめり込んだような気がした。経験したこともない痛みで、息ができない。

「ぐううっ」

 僕は地面に倒れた。

「早口でべらべら喋ってキモかったって言ってたぜ」

 嘘だ。僕をキモいと思うなら、話しかけてくるはずがない。
 しかし、初めて身に受けた本気の暴力に、僕の心は完全に折れていた。立ち上がることもできず、身体を芋虫のように丸めている。

「オラ、立てよ」

 ふたりがかりで、僕を両側から立ち上がらせる。

「顔は狙うなよ。後でうるせえからな」
「判ってんよ。行くぜ」

 太ももに、思いきり回し蹴りが入る。一瞬で感覚を失うほどの痛みだったが、倒れたくても両側から支えられているので倒れられない。

「オラッ」

 今度はパンチが、左右から腹に何発も叩きこまれる。背中まで突き抜けそうなパンチで、身体が浮き上がる。

「があっ」

 僕は溶けた昼食を、どぼどぼと地面に吐いた。

「うおっ、汚え」

 ようやく、両側の支えが離れて僕は倒れることができた。四つんばいになって、ねじれるほどの痛みに苛まれる胃の中身を、全部吐き出してしまう。

「あいつに二度と近づくんじゃねえよっ……と」

 腹をサッカーボールをのように蹴り上げられた。

「ぐがっ」

 僕は自分の吐いたものの上に、顔を落としてしまった。腹の筋肉が内側へ内側へと縮んでいく。息もできなかった。

「次やったら、今度は顔グシャグシャにしてやんよ」

 奴らは満足したのか、さっきのパンチがどうのこうの言いながら去っていく。僕の中に満ちていたのは、ただ恐怖と衝撃だった。ここで燃やす怒りがあるなら、僕はまだ立ち直れたのかもしれない。
 そんな底まで落ちきった僕に、さらなる追い打ちが現れる。
 彼女が、心底ほっとした顔であいつの腕にしがみついていたのだ。

 あいつらの言っていることは本当だった。彼女は、僕が胸のうちを思うさま打ち明けるという最高の喜びを、キモいと思っていたのだ。
 腹や脚の痛みさえ感じなくなるほど、心が黒く塗り込められていく。
 僕は、何によって救われるのだろうか。



 ようやく立てるようになった僕は、まず汚物にまみれた顔を洗った。その後、ハンカチを濡らして地面に転がったときの土汚れを拭き取った。少なくとも、ぱっと見では目立たない。
 先生に言えば、きっとあいつらは何らかの処分を受けるだろう。復讐されるのはもちろん怖い。だがそれ以前に、僕の恥をすべて先生に語らなくてはいけないのだ。ちょっと彼女に話しかけられて調子に乗って、キモがられて殴られる。しかもそのことを彼女に喜ばれたのだ。

 一生、言うべきではない恥だ。
 明日から、どの顔をさげて学校に行けばいいのか。
 どうせあいつらは言いふらすだろうし、彼女だって。
 僕が一生言えない恥を、明日になれば学校中が知っている。

 もう学校に行きたくない。
 誰も僕を知らないところへ行きたい。
 身体全体、指先までヘドロが詰まりきったような足取りで、僕は家に帰った。
 部屋に戻った僕は、机の電気スタンドだけスイッチを入れた。引き出しから大学ノートを出す。僕だけの物語が、綴られていた。

 小学校五年生のとき、誰にも見せないと誓った物語。勇者とロボットが、妖怪を倒していく物語。いつしか主人公たちは日本を脱出し、ヒロインの道連れが増え、三人の合体攻撃も習得し、倒した妖怪は百体を超えた。
 いつまで、彼らは旅を続けるのだろう。僕は、彼らの旅を終わらせられるのか。シャープペンシルを握り、続きを書こうとする。ヒロインが病に倒れ、主人公とロボットが治療法を探しに奔走する場面だ。

 僕は、ペン先を紙に当てて次の展開を考える。いつもなら、話の流れに沿った物語が、じわりじわりと生まれてくる。
 蹴られた足が、ひりつくように熱い。殴られた腹の肉が、びくりと痙攣する。闇が詰まった頭は、何も物語を生んでくれなかった。

「うっ……」

 耐えきれない涙がこぼれる。暴力が、僕から書く気持ちも奪ってしまった。
 母が、夕飯ができたと呼ぶ声が聞こえる。答えなかった。こんなざまを親に見られたくなかった。
 窓から差しこむ光は、すでに薄闇に覆われていた。

「春樹、何してんだ」

 父がいらついた声で、ノックもせずに入ってくる。嗚咽を止めなければと思えば思うほど、意に反して肺は涙をしゃくりあげる。

「春樹……どうした?」
「なんでも……ないっ」

 僕は泣き顔を見られないように、断固として机に突っ伏した。ここまでみじめの底に落ちた僕を、父はさらになぶろうというのか。

「言ってみろ」

 父の声からいらつきが消えた。僕はそれでも答えなかった。

「いじめられたのか」

 僕は答えなかった。

「殴られたのか」

 僕は答えなかった。

「やり返したのか」

 僕はひときわ大声で泣いた。

「なあに、大きな声で……」

 異変に気づいた母も、部屋に入ってくる。どうしてみんな、僕の恥を暴こうとするのか。

「……どうしたの?」

 母が、不安げな声で尋ねてくる。声が震えていた。

「知らん。何も答えてくれない」
「ごはん、食べないの」

 腫れ物にさわるように、おそるおそる母が聞く。
 僕は、泣きつづけたまま、首を振るだけだった。

「落ち着いたら、食いに来い。それから、話してくれ。お父さんとお母さんに話してくれれば、これ以上悪いことにはならない」
「あなた、春樹を放っておくの」

 母の言葉が尖る。

「出てけ!」

 泣き伏せたまま、叫ぶ。

「行こう」
「あ……」

 父と母は部屋から出ていった。父の言葉は、安心感があった。この恥をさらせば、あとは父と母がなんとかしてくれる。
 それだけは嫌だった。
 僕は今まで、空手をやれという父の願いを拒否してきた。強くなろうとすることに興味もなかった。何を今さら、父が正しかったと言えるのか。

 だからといって、僕には恥に耐える度胸もない。再び、あいつらの前に立つ勇気もない。ただ、学校に行きたくない。誰にも会いたくない。この部屋から出たくなかった。
 いつのまにか、部屋は闇に沈んでいた。僕は夕飯に行かなかった。
 明日はどうするのか。いつまで、このままで居続けるのか。
 この部屋の中と同様に、明日が見えない。
 そのとき、扉がノックされた。僕は答えない。

「入るぞ」

 父が扉を開け、部屋の電灯をつける。

「こっちを向け」

 父の呼びかけを、僕は無視した。普段なら決してそんなことはしないが、今の僕は気力が枯れ果てていた。

「ふう……まあいい」

 父にしては、ずいぶん辛抱強かった。

「俺も男だからな、だいたい判る。コテンパンにやられたな。ひとつも反撃もできずに」
「ううううっ」

 校舎裏で、ただ恐怖と痛みに身体が麻痺していた屈辱を思い出し、涙が溢れてくる。

「まあ俺が空手を始めたのもな、中学のときにコテンパンにやられたからだ。その日家に帰ったらな、近くに道場ができたってチラシがあったんだ。運命だと思って、その日に入門したんだ」

 初めて聞く話だった。父は、自分の恥ずかしいところをほとんど話す人ではなかった。

「だから、痛い目に遭ったかもしれんが、これもいいきっかけだ。空手を始めて変わってみろ」

 僕は、くるりと父に振り向いた。父は、少し驚いた顔になった。

「結局それなの? 僕はお父さんじゃないんだよ!」

 遠慮をする余裕も、その後何が起こるかを予想する知恵もなかった。かっと湧き上がった思いを、とどめることができなかった。
 父の唇がへの字に持ち上がり、眼がすっと細められる。怒ったときの顔だった。
 僕は、父と長い間無言でにらみ合っていた。身体が、昂奮なのか恐怖なのか、ぶるぶると震えている。
 やがて、父はほうっとため息をついた。

「判った……そうだな。ひとつ、春樹がこれからどうしたいのかだけ教えてくれ」
「学校になんか行きたくない……! 誰にも会いたくないよ!」

 父の眉間に皺が寄る。怒っているのかと思ったが、それは父が僕を哀れんでいるのだとすぐに理解した。

「そうか……とりあえず、明日は休んでいいぞ」

 父の口から出るとは思えない、優しい言葉だった。

「その後のことは、その後決めよう」
「……うん」
「メシだけは、食え。母さんが心配する」

 そう言い残すと、父は部屋から出て行った。
 安堵の感情のすぐ下に、冷たい確信があった。
 父は、僕を諦めたのだ。
 僕は、父の期待になにひとつ応えられない存在なのだ。
 一生、その思いを抱えて生きていかなくてはならないのだ。
 どうやって生きていけばいいのか、何も判らなかった。
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