高校生

文字数 5,884文字

 その後、僕は学校に行ったり行かなかったりを繰り返し、かろうじて卒業できる程度の出席は、吐くような思いをして実現した。僕に暴力をふるった連中は何の処分も受けずにのうのうと学校生活を楽しんでいたし、僕は遠巻きに見つめる侮蔑の視線と陰口で恥辱に身を焼かれながらの中学校生活だった。
 
 高校は、不登校の学生が社会復帰するための通信制の高校になった。
 早くも、人生から落伍したという事実を痛いほど感じていた。少なくとも、父のようにまともに働いて結婚をし、家庭を作るなどということが、僕には到底実現不可能なことに思えた。世の中の大多数が自然にできることが、僕にはできないのだ。

 五体満足な身体を持って生まれたのに、中学校時代の一度の暴力で、僕は立ち直れなくなった。死にたくなるほどの甘ったれだった。
 そんな僕が、社会に胸を張って生きられる可能性のあるものは、物語だった。僕は、小学五年生から妖怪小説を書き続けていた。八十ページの大学ノートは、すでに十冊を超えていた。

 終わらせるとか、誰かに読ませるとかそういうものではなくなっていた。僕が作った物語の世界で、誰にも傷つけられずに遊ぶためのものだった。キャラクター設定や世界の設定は泡のように追加され、忘れ去られ、相矛盾し、それでも僕はこの世界にいられることに満足していた。
 高校入学を機に、両親はパソコンを買ってくれた。父は引きこもりを加速しはしないかと難色をしめしていたが、母がネットでも人とつながるだけましと説得したのだ。

 僕の小説は、手書きノートからパソコンへと媒体を変えた。僕がまず最初にやったのは、このノート十冊分の妖怪小説をパソコンで打ち直してデータ化することだった。
 最初のノートを見返す。さすがに、小学五年生の文章は今と比べると稚拙だったが、初めて書いたときの高揚とそれを失ったときの悲しみを鮮烈に思い出した。あの勇者とロボットを描いた紙は、糊でノートに貼りつけている。ヒロインを描こうとして、あまりにもイメージを損なう画力だったので、何回も描き直したあげくに結局ヒロインの外見は絵として定まらなかった。

 打ち直していると、読みやすい表現にしたり句読点の位置を変えて読むリズムを整えたりできるようになっていることに気づく。何年も書き続けていて、僕はいつのまにか成長していたのだ。
 成長の実感は、僕の自己肯定感を少しだけ押し上げた。
 高校一年生の初夏の日曜日、僕はついにノート十冊分の妖怪小説をすべて打ちこみ終わった。

「やったあ……」

 文字数を見てみると、五十万字を越えていた。積み重ねれば、僕にはこれだけのことができるのだ。窓からの光は、すでに真昼の強さではない。時計を見ると、もう七時だった。

「ごはんよ」

 母が扉の外から声をかける。

「うん、すぐ行くよ」

 いつになく充実感に満ちていた僕は、上機嫌に返事をした。
 食堂に行くと、夕飯は蕎麦だった。ゆでて水切りした蕎麦をどんぶりに入れ、天かすを振ったものにつゆがかけてある。いわゆる冷やしたぬきというやつで、母の得意な手抜き料理である。
 父は、氷を入れたグラスに、日本酒を注いで美味そうに飲んでいた。

「春樹、今日はずいぶん元気じゃない」

 母が嬉しげに話しかける。

「ん、まあね」

 物語を書いているのは、両親には言っていなかった。

「何かいいことあったのか」

 父も微笑みをたたえて聞いてくる。今なら、言えそうだった。

「僕、小学校のときから小説書いてたんだよ。今までずっと。それが、五十万字あったんだ」
「すごいじゃない、お母さん全然知らなかった。春樹、そんな才能があったのね。高校生でデビューして賞とかとる作家もいるじゃない。春樹もそうなるかもね」

 母が昂奮する。かつて、記憶もないほどの褒められようだった。

「いや、そんなの判らないよ。まだ自分で書いてるだけだし」
「賞に出しなさいよ」

 母が嬉しそうにしているのとは対照的に、父は黙って蕎麦をつまみに酒を飲んでいた。

「趣味にしておけよ。そんなに甘いものじゃない。まともな仕事について、その余暇で人生を充実させるなら別にいい。だが、それで稼げると思うなよ」

 高揚していた気分に、一気に冷水を浴びせかけられた。人生から落伍しかかっている僕が、人生をまともにやれそうなか細い光明を否定されたのだ。

「……まともって何だよ」

 僕の声は、震えていた。

「いいじゃない、夢くらい見たって。お父さん、少しは言い方を考えてよ」

 顔がこわばる僕と、酒を飲み続ける父を、母は交互に見比べる。

「将来のことを考えろ。もうそういう年齢だぞ。売れるかどうかも判らない小説だけに頼って自立できると思ってるのか。書くなと言ってるんじゃない。稼げない男なんか誰からも相手にされないぞ」

 父の言葉が、僕に否応なく現実を突きつける。

「お父さん、いい加減にして」
「母さんだって、俺が無職だったら結婚してないだろ」
「それはそうだけど、春樹がそうなるって決まったわけじゃないわ」

 僕をめぐって、父と母の声が高くなる。父は以前のように空手をやれと言う代わりに、将来のことを言うようになった。

「僕の将来は、僕が決める」

 絞り出すように、つぶやく。

「それは構わん。で、どうするんだ」

 酒を飲むと、父は普段よりも冷徹になる。逃げようのない問いが胸に刺さる。
 本当は、物語を書きたい。物語を書くだけで、生きていきたい。物語を書くことが、誇れる仕事になってほしい。父は、そんな僕の思いがまったく叶うはずのないものと決めつけているのだ。

「僕は……」

 喉まで出かかった思いが、詰まる。夢を現実で否定される痛みを、これ以上受けたくなかった。
 僕は、校舎裏で這いつくばったときに戦う気持ちを起こせなかったように、父に対して僕の夢をぶつける勇気もないのだ。僕は、何も変わっていない。

「……働くよ、普通に」

 できもしないことをその場しのぎで言えるほどには、成長していた。

「そうか、ならいい」

 父はさして興味もなさそうに杯をあおった。僕の言葉に真実がないことを見抜いているのだろう。

「そうお、夢を追いかければいいじゃない」
「無責任なことを言うな。将来は自分の家族を食わせていかなくちゃならないんだぞ」
「お父さんはつまらなさすぎるのよ」
「母さんはいつまでも春樹を甘やかすんじゃない」

 また、僕をめぐって言い争いが始まりそうだった。僕はすばやく残りの蕎麦をすすりこみ、箸を置く。

「ごちそうさま」

 逃げるように、僕は食卓を立った。
 早足で部屋に戻る。机に座って、頭を抱えた。

「ちくしょう……」

 たった二年後に、僕は高校を卒業する。大学に行けば、小説を書き続ける時間は与えられるだろう。しかし、僕は受験勉強のために小説を書く時間を削りたくなかった。
 残された道は、僕の書く物語が父を黙らせるほどの評価を得ることだけだ。
父の言うとおり、ちゃんと仕事ができればいいのだろうが、僕は自分がそういうことがちゃんとできない落伍者だということをよく知っている。

 僕が人間らしく一人前になれる唯一の手段が、物語で生きていくことなのだ。父は、僕がそうであることを頑として認めようとしない。どうあっても、僕に普通をやらせようとする。
 普通ができないことを、最も嫌悪しているのは僕自身だというのに。
 やるしかない。

 僕は、インターネットで公募の情報を探す。いろいろと調べているうちに、公募のほかにも小説投稿サイトで目に留まって出版というのも大きな流れであることを知った。
 僕の作品は、五十万字の妖怪小説しかない。しかも未完だ。五十万字の小説を受け入れてくれる公募はなく、小説投稿サイトから行くのが僕の勝ち目に思えた。

 人に読ませたこともない、僕の人生とともにあったこの物語が、どのような評価を受けるのかは予想もつかなかった。ただ、ほとんど祈るような気持ちで、この人生の集大成が道を切り開いてほしいと願っていた。
 最大手の小説投稿サイトに登録する。
 はたと、この物語にタイトルさえつけていないことに今さら気づいた。それどころか、物語のキャラクターにも名前がない。「少年」「ロボット」「少女」という記号で表しているだけだった。

 僕に才能があるかとか、自分で書いているうちは気にしたこともなかったが、初めて人に見せるときになって、そんなことさえ承知していなかった自分に絶望する。
 僕は、本当に何もできない人間なのか。そうではないと信じたい。自分の中に誇れる何かがあると確認したい。
 気力をふりしぼって、僕は物語と登場人物に名前をつけた。

 物語の名は……やめよう。今や、それを知らしめることに何の意味もない。
 僕は、登録した小説投稿サイトに、最初書いた自由学習のがしゃどくろ編を投稿してみた。いったい、どのような反応が来るのか、不安と期待で心臓が激しく打っていた。
 そんなに早く反応が来るわけもないのだが、僕の執筆はしばしばサイトのリロードで中断された。

 そして何十回目かのリロードのあと「感想が投稿されました」の表示が出た。
 僕は名状しがたい昂奮にとらわれ、急いで感想ページに飛んだ。
 そこに書かれていた感想は、たった一行だった。

「小学生の作文以下」

 最初は、その文字列の意味が判らなかった。
 もう一度読み返す。つまりは、僕の投稿した作品は、小学生の作文よりも劣るという意味だった。
 かっと、頭の中が煮えくり返る。眼の前が、怒りで白くなる。
 なぜ、僕の人生の集大成が、こんな評価を受けなければならないのか。僕がどれだけ人生を賭けて、これを投稿したと思っているのか。この感想を送った者は、人の心を持たない人非人だ。

 声にならない怒りが、頭から全身を駆けめぐる。
 確かに、このがしゃどくろ編を書いたのは小学校五年生のときだ。ならばせめて、小学生以下ではなく小学生並みと書かれるべきだ。五年生の僕でさえ、小学生以下だというのか。
 僕が唯一積み重ねてきたものが、あまりにもあっけなく一蹴されたことに、顔も上げられないほどの絶望を感じていた。

 もう、今日は書くことはできなかった。インターネットを閉じ、テキストアプリを閉じ、有料動画サイトを開く。月額でアニメがいくらでも見られるあれだ。
 僕は、小学生のころから心をつかんで話さなかった神戸アニメーションの作品を探す。新作があった。

 かつて兵器だった女性型の人形が、代筆をするという作品だった。
 戦うために、不必要な感情は設定されなかった人形。その人形が、代筆を通じて人々の心にふれ、己の心を育てていくという物語だった。
 僕はいつしか、涙を流しながら見入っていた。

 傷つくことがこれほど痛い心なら、僕は人形になりたかった。ヒロインが得ていくものを、僕は捨てたかった。
 この涙が、僕自身への哀れみなのか物語への感動なのか、渾然一体となって判然としなかった。そんなことはどうでもいい。

 この物語が、僕の感情を大きく動かしたのだ。ああ、昔からそうだ。神戸アニメーションの作品を見るときだけは、僕は楽園にいられる。この楽園を作った人々は、神々なのだろう。
 いつか、僕もひとの心を揺さぶる物語を作りたい。願わくは、神戸アニメーションの神々に僕の物語を映像化してほしい。いや、彼らの一員になれるのなら、小説という手段を捨ててもいい。

 今、僕がすべきことは何だろうか。ただ長いだけの妖怪小説をいつまでも抱きしめておくことか。心ない低評価の嵐に耐えて投稿し続けることか。
 僕は、どんな物語を書きたいのか。読みたいのか。
 この妖怪小説を、僕は読みたいのか。書くことだけで気持ちよくなって、そんなことは考えたことがなかった。

 僕は生まれ変わらなければならない。
 意を決した僕は、数年も書き続けてきた妖怪小説のテキストファイルを削除した。ゴミ箱からも消して、二度と復元できないようにする。
 書きためたノートを、PPロープで縛って紙ゴミ置場に持っていく。
 これで、僕がすがるものは何もない。こだわるものも何もない。
 新しい物語を、書いていくのだ。


もし才能というものがあるのだとしたら、僕には縁のないものだと知った。
 小説作法の本をたくさん読んだ。起承転結や、三幕構成という基本にしたがって、プロットを作ってみた。好きな小説を書き写してみた。
 しかし、満足いくものはできなかった。プロットが途中でつながらず、途中で止まってしまう。最後まで書き上げたものはなかった。

 なにより重大なことに、僕は何が面白いのか判らなかった。神戸アニメーションのような物語が作りたい。けれど、それは僕の物語ではない。
 何を書きたいのか、何を書けば面白くなるのか、何も光明は見えなかった。
 僕は作品とひとつも仕上げることができず、卒業の年を迎えていた。このままでは、社会に出なくてはいけない。初めての仕事を、初めて会う人々と、初めての場所でやっていかなくてはいけない。

 背骨がぞっと寒くなる。そんなことが僕にできるとは思えなかった。僕が何とか生きていく道は、物語を書くことしかないのだ。
 しかし、パソコンの中には出来損ないの物語がいくつも僕に見捨てられている。これが僕だった。中学生のときに不良に叩きのめされたくらいで、不登校になってしまうような腰抜けには、物語を完成させることなどできないのだ。

「ああ……」

 僕は机の前で頭を抱えて突っ伏した。もう夏休みが終わろうとしている。九月になれば就職試験が始まる。僕は、何も決められなかった。
 部屋の扉を、ノックする音がする。返事はしない。それでも無遠慮に扉が開く。

「春樹」

 父だった。窓の外は日が暮れかかっている。もうそんな時間になっていたか。

「……なに」

 けだるげに答える。以前ならこんな返事をしたら、それだけで叱られていたが、今はそんなことはない。父が僕を腫れ物扱いしつつあることに、自己嫌悪を抱く。
 父は息をついた。

「おまえ、就職先を決めたのか」

 判りきっていることを聞いてくる。

「ううん……」
「自分で決められないなら俺が決めてやる。それでいいな」

 早口で、父は言い切った。

「……判った」

 僕の返事に、父は驚いたようだった。だが、僕は自分の意志で、苦難と判っている未来に飛びこむ勇気はなかったのだ。父が決めてくれれば、失敗しても父のせいにできる。

「そうか」

 心なしか、父の声が軽くなっていた。部屋を出ていく足音も、軽やかだった。
 僕は絶対に、卒業までに物語で稼げるようにならなければならない。
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