小学生

文字数 4,701文字

「赤羽根君、ちょっと来て」

 担任の樋口先生に呼ばれたのは、小学五年生の秋の放課後だった。このときのことは今でも鮮烈に覚えている。
 僕の生涯最良の日だったからだ。
 なぜこの日が人生で最良と判るかと言えば、もう僕に心から喜びを感じることができる日は、二度と来ないからだ。
 僕を職員室に連れて行った先生は、コピーした原稿用紙の束を渡してくれた。見覚えがある。夏休みの宿題で書いた読書感想文だ。もちろん提出したのはコピーではない。

「先生ね、市に出す前にみんなの読書感想文を読ませてもらったの。あまりこういうことを言っちゃいけないんだけど……赤羽根君の感想文が一番素晴らしかったわ」

 脳天から、すうっと歓喜が突き抜けた。ひとりだけ特別に呼び出されて、わざわざ褒めてくれるという経験は一度もなかった。これほど真正面から疑いようのない賞賛を受けるのは初めてだった。

「……そう、ですか」

 嬉しすぎて、唇がうまく動かなかった。僕が題材に選んだのは、そのころ流行っていたアニメで、現代に蘇った侍の魂を持つ五人の少年たちが悪と戦うというストーリーをノベライズしたもので、お役所の選考委員ならこの本を選んだ時点でハネるようなものだ。

「赤羽根君が、物語に没頭して、登場人物に共感してたのがすごく伝わってきたし、受けた感動を素直に判りやすく書いていて、本当にすごいと思った。赤羽根君、文才があると思うわ」

 樋口先生は、少し昂奮していたのか、早口で頬がほんのりと染まっていた。

「もう読書感想文の結果は出てしまったけど、赤羽根君の文章は学校で良いとされるものとは別のところで評価されると思うの。ぜひ、十年後の赤羽根君の作品を読んでみたいわね」

 樋口先生の眼鏡の奥の瞳が、その言葉が本気であると物語っていた。

「はい……!」

 思えば、樋口先生と出会いさえしなければ、僕は楽園を地獄に変えるような真似はしなかったのかもしれない。
 僕は変わった。今までは、毎日ゲームをして、漫画を読んで、テレビでアニメを見るだけの生活だった。それ以外に何かしようなどと思わなかった。

 自主学習の課題というものが毎日あって、A4の紙に算数でも漢字でも好きな勉強をしていけばいい。僕は、それに物語を書くことにしたのだ。
 書いたものを、まずは樋口先生に見てほしいという気持ちもあった。
 家に帰ると、即座に勉強部屋にこもって机に向かった。

 何を書くかというのは、すぐに決まった。毎日のゲームや漫画やテレビから、印象に残っているところを抜き出して、ごちゃまぜにして書いていこう。
 僕がこの世に送り出した最初の物語は、勇者がロボットの仲間とともに、世界を征服しようとする妖怪を退治しにいく話だ。

 舞台は核戦争後の日本。最後に倒す妖怪は、図書館で借りた妖怪大辞典から見つけた、誰も見たことのないペルーの妖怪「ファニカ」だ。こいつは通常では考えられない現象すべての原因と書いてあった。
 そんな妖怪がすごく格好良くて、どうして舞台が日本なのにペルーの妖怪が来るのかなどとは考えもしていなかった。

 そして、登場人物のイラストも自分で描いた。勇者はそのときやっていたロールプレイングゲームの主人公に似ていた。頭がツンツンで何か鉢金のようなものを巻き、背中に剣を背負ってすり切れたマントを身につけている。
 絵はさして上手でもなかったので、一時間かけて描いた僕の勇者は、身体が斜めに傾いていた。

 ロボットは漫画に出てきた芋掘り専用ロボットをほとんど写した。こいつは姿よりもセリフや性格が好きだった。
 登場人物もできたところで、ふとどういう話にしていこうか考えた。手元には妖怪大辞典がある。一番カッコいい妖怪がラスボスだ。それ以外の妖怪をふたりで倒していき、最後にファニカと戦えばいいのだ。
 妖怪一体で、一日の課題にする。終わりまでの道筋もできて、僕は昂ぶっていた。

「晩ご飯よ」

 母が勉強部屋に入ってくる。せっかくこれから盛り上がろうと思っていたところに水を差された気分だったが、呼ばれてメシも食わずに何かしようというのは、僕にはできなかった。父が、厳しかったのだ。

「すごいお勉強してるのね」
「ん、まあね」

 母は嬉しそうだったが、僕のしていることは課題ではあるが勉強ではない。 キッチンに行くと、カレーライスが家族三人分並んでいた。父はすでに先に座って缶ビールを飲んでいる。僕が来たことに気づくと、父はテレビを消した。食事中にテレビを見ることは許されなかった。
 僕は最近始まった、未来人や宇宙人を高校で探す女の子が主人公のアニメを見たかったのだが、とても言えるものではない。父は、今どきは珍しいのかもしれないが、子供向けの娯楽にまったく興味を示さない人だった。

 テレビの下のレコーダーが予約録画を開始したしるしの赤ランプを確認し、僕はほっとしてカレーを食べていく。
 食卓は静かだ。うちの家族は食事のときにあまり喋らない。父は、もりもりとカレーを食べていく。僕より倍は速い。

「春樹、そろそろ空手を始めてみないか」

 残したビールを飲みながら、父が顔を向ける。

「ん……」

 否定も肯定もしない返事をする。本当は空手などしたくはなかったが、明確に答えて父を怒らせるのが怖かった。

「お父さんは中学から始めたが、本当に人生の役にたつ。別に他人を殴れというわけじゃない。自分の身体に強さがあるということが、本当に救いになるんだ」

 父はビールを飲んで、多少饒舌になっているようだった。父が空手を勧めてくるのは何回目だろう。僕は一度も明確に答えず、空手を始めないまま時を流していた。
 きっと父は、僕を軽蔑している。

「それはお父さんの話でしょ。春樹はお父さんじゃないもの」
「やってみなきゃ判らないだろう」

 母にまぜっ返されて、父の声が少し不機嫌になる。

「向き不向きがあるわ。勉強ができればいいじゃない。春樹はね、学校から帰ってきてからずっと勉強してたのよ」
「そうなのか」

 嬉しそうな母の声に、少しだけやましさを覚える。父もさすがに、勉強よりも空手をしろとは言わない。でも、僕がしているのは勉強ではない。
 カレーを食べ終わる。アニメは、明日父が帰ってくる前に見てしまおう。僕は、僕の中で生まれていた物語を形にしたくてたまらなくなっていた。

「ごちそうさま」

 僕はカレーの皿を流しに持っていくと、部屋に向かう。

「ほら、また勉強するのよ。さっきも机に向かっていたもの」
「机に向かっていたって、勉強するわけじゃないだろう。俺は勉強するふりしてエロ本読んでたぞ」
「お父さん、最低」

 僕が去ろうとすると、父と母の会話は気安いものになる。僕は父のように空手をやろうともしないし、エロ本にもそんなに興味はない。僕は男として父よりもきっと劣っているのだろう。
 でも、僕にはやりたいことがある。
 部屋に入って、机の前に座る。さっき生まれた、僕と一緒に僕の物語を旅していく道連れが、へたくそな絵になって僕を待っていた。

「よし……」

 軽く、鼓動が高鳴っていく。
 最初はどうしようか。
 ふたりが荒野を歩いている。
 妖怪の住処へと向かっている。

 何の妖怪にしようか。
 僕は妖怪大辞典をぱらぱらとめくって、適当なページで止めた。
 がしゃどくろ。
 戦争や野垂れ死にで葬られなかった者たちの死体が集まった巨大などくろ。
 いい。大きいし、荒野に出てくるには合っている。核戦争後の日本だから。

 ふたりが歩いている地面が、いきなり波打つ。
 荒野の砂に隠れていたどくろが、何十と集まってくる。
 がしゃどくろが姿を現して咆哮する。
 どくろは声が出せただろうか。まあいい。

 勇者は背中に吊った剣を抜き斬りかかる。
 ロボットはロケットパンチだ。
 がしゃどくろは、いくら斬っても撃っても動きを止めない。
 生きていないから。

 勇者の必殺技だ。どうしようか。超光裂破斬。いいね。
 剣が光り、斬られたがしゃどくろは粉々になっていく。
 ふたりはまた歩き出す。

 そこまで書いて、A4の紙がびっしりと埋まっていた。自分でも驚く。これだけの文字を、一度も止まることなく書き続けたのだ。
 それよりも、初めて僕の中に生まれた物語が、形となって世界に出現したことに、かつてないほど満足を感じていた。

「やった……」

 僕は、できあがった作品をクリアファイルにはさみ、ランドセルにしまう。時計を見ると、もう八時半になっていた。そろそろ風呂に入らないと母に叱られる。
 僕は、僕の物語を読みたいと言ってくれた樋口先生が、どんな風に僕を褒めてくれるのか、この上もなく楽しみになっていた。


 次の日、朝礼のときに自主学習の課題を出す。教卓の上に、みんなが一枚ずつ置いていく。僕は、樋口先生に褒めてもらえるかと思ってどきどきしていた。
 クリアファイルから、課題を取り出す。びっしりと、僕の初めての小説が書きこまれていた。少し、微笑んでしまう。

「おっ、すげえ書いてんじゃん、春樹」

 いきなり紙を取り上げられた。こいつの名前は、今も思い出すことを頭が拒否している。しかし、その後に起こったことは、生涯忘れない。

「か、返せっ」

 僕は、樋口先生のために書いたものが、誰かに見られることが我慢できなかった。そいつは課題に眼をやりながら教室を走り回る。僕は必死で、机と机の間を追いかける。

「なんだよこれ、マンガの話? 超光裂破斬?」

 顔が恥ずかしさで熱くなる。

「うるさいっ」

 伸ばした手が、課題の端をつかんだ。ぐしゃりと紙が潰れる。

「なんだよ」

 そいつは手を離さなかった。取り戻そうと引いた手に、ぞっとするような感触が伝わってくる。課題が、僕とそいつの手にふたつに別れていた。

「あ……」

 頭の内側から、衝撃が脳を揺らす。絶望が、嗚咽と涙になってほとばしった。

「うわあああ……」

 僕は膝をついて泣いた。

「わ、悪い……」

 そいつは、謝ったかもしれないが、僕には聞こえていなかった。
 ただひたすらに泣き続けた。

「悪いって言ってんだろ。いい加減にしろよ」

 そいつは僕の手から半分になった課題を奪い取ると、細切れにして窓から投げ捨てた。風に乗って、紙吹雪が散っていく。
 僕の初めての小説は、この世から消えた。



 そいつはその後樋口先生にこってりと怒られ、僕は課題を出せなくても不問にはなった。しかし、それは重要なことではない。

 放課後、重い足取りで家に帰る。ランドセルを勉強机の隣、いつもの位置に置く。机の上には、初めての活躍が消滅した勇者とロボットの絵が置いてあった。



 もう一度書こうか。そんな気持ちが心をかすめたが、とても昨日までの高揚した感情は湧いてきようがなかった。
 リビングに行き、父が帰って来る前に昨日録画したアニメを見ることにする。
 破天荒なヒロインに周囲が振り回されるドタバタコメディだ。

「ふふっ」

 初めての物語を失った悲しみで頭は鉛を詰めたように重かったが、テレビの中で繰り広げられる喜劇は、ほんの少しだけ僕の心を軽くしてくれた。
 エンディングまで見終わって、制作会社のロゴが画面に映る。神戸アニメーションという会社だった。僕の物語は、ただ頭の中身を紙に写しただけだったが、悲しみを癒やせるほどの喜劇はどうやって作っていくのか。

 僕は、テレビを消して部屋に戻った。そして机に向かう。
 あの勇者とロボットの絵を横に置き、妖怪大辞典を開き、物語を書いていく。もう誰にも見せることはしない。
 いつかどこに出しても恥ずかしくない物語ができたら、樋口先生だけに読んでほしい。それまで僕は、僕だけの物語を書き続ける。
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