第5話 流れに生きる

文字数 3,744文字

 令和五年五月、東京の土産を持って、妻と共に妹の嫁ぎ先へ伺った。義弟のY氏は七九歳で年金に加え不動産所得もあり、満ち足りた毎日を二人で過ごされている。年に何回か、お互いの家を訪ね、夫婦四人で雑談に花を咲かせ、二時間ほどよもやま話を楽しむ。
 四人がそれぞれ、得意の話を投げかけ、返す。キャッチボールの会話は、互いが、似たような境遇にあるから同調できるのだろう。人の悪口は言わない。相手の話の腰を折らず聴き手にまわるのも、心得ている。コーヒーを飲み、菓子を賞味して、高齢者たちの時間が、ゆっくり過ぎていく。親しく交際する間柄というのは、直ぐには手に入れられないものだ。お互いの性格や人生経験において、波長が合う感覚を持てる人との出会いによるものだと思う。
 妹とは血縁があるし、その夫と私は年も一つ違いである。結婚し、子供ができ、育てていき、成長した子供達が恋愛し結婚した。親との悲しい別れもあった。同じような経験を、長い人生過程において、お互いが、その時々の人生の節目で付合ってきた。
 四人は、雑談に夢中になった。「あ!もう二時間も経ってしまったのね。もうお暇しなくては」と妻が切り出す。「また会いましょう」と言いながら、外へ出て見送ってもらう。義弟夫婦は、律儀というか丁寧である。我々の車が、信号の変わるまで、外で手を振り見送ってくれる。いつまでもあなた方を歓迎しますという心の表現なのだろう。我々は満足し、「楽しかったね」と話しながら、帰って行く。付合いの繰り返しが、記憶の楽しいアルバムに残る。お互いの時折の繋がりも五十年が経ってきた。
 我が家の仏壇に父母の位牌がある。妹は彼岸と盆には、必ず夫と共に、お線香を上げに来てくれる。義弟のY氏は七年前、胃癌となり大手術の後、克服し、日々の体操と散歩をかかさず、健康に気を使っている。ほとんど完治したのだが、食が細くなり体重も減少し、だぼだぼズボンが可哀そう。月二回ほど、近況報告のメールと写真を、自分の娘たち送るようで、わが家にも届く。
 今年のお盆には、わが家の仏壇に二人で参りに来るはずだった。しかし、Y氏は来なかった。妹は、夫の近況を、「六月から肺炎を起こし、入院している。コロナは去りつつあるけれど、病院で面会は制限され、家族以外は会えず、時間も三十分と決められている。気胸という厄介な病気になったようだ。肺に穴が開いて空気が、胸腔内に漏れ、肺を圧迫するらしい。空気を充分取り入れられなくなり、息苦しくて、救急車を呼び、入院となったの」と語る。彼は気胸の病気を数年前から何回も患っている。飛行機に乗ると肺が圧迫され危険があるからと、好きな海外旅行も出来なくなったと嘆いていた。妹は、「今のところ本人は元気だし、口も達者なので安心しているわ」と明るく話す。見舞いは制限されているが、個室であり、スマホで相手の顔を見ながら喋る事もでき、心の触れ合いに役立っている。
 家族が入院すると生活のリズムが変わる。病人のことが常に気がかりで、頭から離れない。病人は、一日中ベッドで寝て居なければならない。家族が見舞い、元気づけることが、一番の薬になると思う。
 秋の彼岸になった。もう退院しているはずと、私は思った。しかし、Y氏は、今回も家に来なかった。仏壇に参った後、妹は、「今いる病院は肺の外科手術ができないのでK病院へ救急車で移ったの。こんども大病院であるけれど、面会は短く家族以外はできない」という。コロナの活動もまだ続いている。私も妻も、Y氏のお見舞いにも行きたいけれど無理のようだ。三ヵ月に一度は、会って近況報告会で盛り上がっていたのに、会えないと猶更、淋しい。病に打ち勝ってもらい、元気な体になってもらいたい。
 「多分、年末までには、手術も上手くいき、元気に家に戻って来ると思うの」と、大病院の施術に期待し、妹は明るい表情をしている。車の免許がない妹は、毎日電車で黒崎まで行き、見舞う。夫は、毎日顔を見て、話をしたいと希望するらしい。
 入院すると、平凡な日常が、いかに重要だったか、楽しかったか、思いめぐらす。不治の病というほどのことはないはずだ。医師の診断処方に従い、安静を続けるのが、最善の策だと思う。
Y氏は、入院が長くなり体力が衰えたことを自覚したようだ。退院した後の快適な介護生活を考え始めた。長くなった闘病から、心を紛らわすためにもいい考えだと思う。
 「二階の寝室に上がるのは、辛くなるから、一階の仏間にリクライニングベッドを買い、備えたい」と言う。今の世の中、便利なスマホがある。ネットで商品を注文し、自宅へ届けてもらうことが出来る。画面で商品を見定め、好みのベッドを購入、自宅に搬入させた。場所を指示し、動画を見て確認。思い描いたものが現実となり満足な顔をするという。「夫の望むことをすべて叶えてやりたい」と、節約家だった夫の贅沢を歓迎した。ベッド脇で食事のため洒落た木製机と椅子。薄型大型テレビもベッドから見える壁に取り付け。デジタルの大時計。枕元に本棚。次々と新品の家具が搬入される。居間を通して総ガラスの向こうの外庭が見えるように、境の引戸も外した。庭師の手入れした和の世界がひろがる。背景の青空を眺めると、おおらかな晴れた気持ちになるだろう。
 思い描いた、暮らしやすい介護部屋は整った。一日も早く主人が戻るのを待っている。妻は、病院とは一味違う、心の籠った介護を行いたいと待ち構えでいる。
 秋の彼岸。我が家へ来た妹と、私と家内の三人で、Yさんの話で盛り上がった。大病院での手術で、肺の悪い所を治してもらい、老後の快適な生活を堪能することに、意欲満々である。年末には四人で、あの愉快な茶話会が楽しめるに違いないと語り合った。
 十一月一日、妹から電話があった、「見舞いに行くと、夫は『看護婦さんの応対が悪い』と、術後の不調もあり、自分の思い通りにならない歯がゆさに怒って不満話をぶっつけてきた。妹のスマホに電話が入り、十五分ほど席を外した。戻ってみると容態が急変していた。飛んで来た医者や看護師も救命措置をした。看護師さんが『Yさーん。聞こえますか』と叫ぶが反応がない。私が『おとーさん。がんばって』と耳元で、叫ぶと。『はーい』と答えてくれた。それが最後だったの」と涙声で語る。数日前、「俺はもうだめかもしれない」と、覚悟の言葉を伝えていたという。
 半年前に会ったとき、にこやかに喋りまくり、動作もなんの問題もなかった。急にこの世を去るなど想像も出来なかった。交通事故ならば、突然ということもある。気胸の手術で急性呼吸不全になる。素人には考えられない。もし、手術しないでいたなら、病と闘いながら生きながらえたかもしれない。「医者の手違いもあったのでは」と妹も疑う。手術前に、危険に対する誓約書を書かされたのは確かである。しかし、妻としては、戻って来ると信じていたのに、医者を訴えてやりたい思いがあったという。生き続けたいと、手術を患者が希望した。医師は危険が伴うと説明。重大な人生の分かれ道。望みを託した現代医術に裏切られたようで、「まだ会いたかった」と、やるせない気持ちが残る。
 Y氏が、元気な頃、没後の身の回りの処理を六五ページの書類にし、妻へも説明したという。几帳面で賢い彼の性格が、葬儀の手配から相続での混乱を避ける道標まで配慮させたのだろう。三人の娘達は、それぞれ結婚し、いい家庭を作り上げている。Y氏が欲しかった男の跡継ぎは出来なかった。しかし三人娘は結婚し、男六人女二人の孫を授かった。家族で集まると十六人の大勢の写真が、壁に飾ってある。満足したことだろう。
 家族葬で、私と妻も参列。コロナ禍での自粛もあり、久しぶりに妹の孫たち全員と五年ぶりに再会した。心身とも成長し、学生服や社会人の姿は見違えるように大人びていた。娘や孫たちは、Y氏の面影が残っている。Y氏はその成長を見ながら満足な時の流れを過ごしたのだろう。
 しめやかに通夜、葬儀と二十人ほどの参列者のもと、浄土宗で行われた。棺桶の中のY氏は、やせ細った色白の老人の顔だった。体重も減り、骨と皮だけのような知り合いの顔。動かなくなった体。火葬場での白い骨。存在を意識するとき、人は自分を感じる。
 時の流れは、留まらない。さっき喜んでいた現実の光景は、脳の記憶には残っている。しかし、現実は流れ去ってしまい、戻ることはない。流れに乗って舟が下るように去って行く。今日の出来事の続きが、また翌日も起こり繋がっている感覚がある。と考えながら生きている。それは続きではなく、時の流れを錯覚した現象ではないだろうか。
 物語の続きが考えられなくなると、人生は終わる。流れを楽しみながら生きていくことが、幸せな多くのことを経験できるような気がする。
 葬儀が終わり十日後、妹の家に伺った。仏壇に線香をあげ、心から彼の冥福を祈った。
 Y氏の部屋には、買ったばかりのベッドやテレビ、机。居間を通して庭の景色青空まで見える。亡くなった当日、遺体をベッドに一晩寝かせたという。魂は、四十九日まで、思い出多き家へ留まり、現世とお別れの時を楽しむ。そして浄土へと旅立っていく。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み