第7話 市原と更級の昔

文字数 4,225文字

 更級日記を読んだ後、千年前に作者である菅原孝標の女が過ごした上總国はどんな所だろうと思う。私もまだ行ったことのない土地は、思いがけない夢がありはしないか。日記で見えなかったことが分かったりするかもしれない。
 私は、千葉県には、偶に行ったことがある。昔は鴨川シーワールドというのがあり、白いイルカが記憶に残っている。また横浜から東京アクアラインで君津や姉の住む茂原も行った。しかし、市原のおよその位置も見当が付かない。更級日記の最初に市原の描写がある。面白そうだ。「あづま路の道の果てよりも、なお奥つ方」とはどんな所なのだろうか。
 私は福岡に住んでいるが、東京で私的な食事会があり、この機会に千葉県市原を訪ねてみた。東京駅から京葉線を使い、蘇我駅で内房線乗り換え、八幡宿駅という所で下車した。地名からして歴史がありそうだ。改札を出てきた中年のご婦人に、神社の場所を聞くと、「私もそちらの方角なので一緒に参りましょう」とおっしゃる。私は、旅先では積極的に土地の人達に話しかける。親切な地元の人々との出会いが、心に残る思い出を創ってくれる。
 ご婦人は「日本武尊が東征の折、この土地の岡で飯を奉られ、その香りが良かったので、飯香岡(いおか)八幡宮と名付けられたそうです。私は四十年前、この地へ嫁いできました。昔の仕来りが残って馴染めなかったわ。漸く最近、落ち付きました。にぎやかな祭りの飯香岡八幡宮は好きで、なにかにつけお参りに来ます」。八幡宿は、古い宿場町である。最近まで伝統や風習を守っている数少なくなった宿場町である。都会からきた彼女の苦労が想像できるようだ。地方ではそんな場所もまだ残っている。富士見塚という看板を指し「今は干拓され遠くまで建物が建っています。昔は、この八幡宮の傍までが海でしたから、富士山が見えたようです。富士は見ているだけで、心が清められます。その奥が八幡宮です。ごゆっくり」と説明し去って行った。
 立派な社殿で、横額には国府八幡宮とある。憧れの上総国府に来たのだ、と思った。社務所に明かりが見え、ベルを鳴らすと、上が白衣の中年男性が現れた。「更級日記を読んで、ここまで来てみました」と言うと、私の顔をじっと見て、物好きな人が来たという表情をした。しかし書棚から地図と分厚い歴史本をだし調べだした。「市原市には、更級という地名があります」とコピーし場所をマークしてくれた。更に、資料から更級日記や万葉集の東歌の箇所を捜し、複写してくれた。他の神社で神主に由緒など尋ねると、意外と冷たい対応をされ、「私は神道の専門家である。あなたは素人だ」とでもいうような対応の所があった。目の前の神官は、見知らぬ旅人に、的確な答えを提供してくれた。あり難い気持ちになり、市原が少し好きになった。
 「人々が担いだ神輿が、室町から江戸、現代のものが残っています。「柳楯」という名の神幸もありますよ」という。柳の枝で作った柳楯は神輿の原型といわれ、それを担ぎ「阿須波神社」を経由して飯香岡八幡宮まで九月に神幸するらしい。祭りを見たいが、遠くて無理のようだ。
 神官にもらった書類によれば、阿須波神社は、少し離れた市原地区にあり、万葉集の防人の歌が有名で、「葺垣の隈処に立ちて我妹子が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ」。意味は「葺垣の隅に立って、いとしい妻が袖もしぼるばかりに泣いていたのが思い出される」。素晴らしいきかな夫婦愛のうた。阿須波神社の北に「光善寺」があり、薬師仏があったという。源氏物語に憧れた孝標の女が拝んだ薬師仏では、という説もある。行ってみたいが、遠いようだし、ここで時間を使うと目的地まで行き着かない。夜には東京へ、戻らなければならない。
 五井駅舎は新しく、無人で無機質な感じである。更級に関する掲示物が見当たらない。観光客が喜ぶような華やかな時代の宣伝があると信じていた。五井という地名の意味はと、スマホで調べた。「行基という僧侶が、当地に五つの井戸を掘ったという古事に由来する」。駅の「東口」を出て暫く行くと、道路中央分離帯に「菅原孝標の娘のモニュメント」が待っていた。小雨の中、編笠を被った旅姿は、なぜか寂しそうだ。会いたいという私の夢が叶った瞬間だった。上総国司の下で、市原で働いた地元の人達も、国境まで見送ってくれ、行く人も帰る人も皆泣いて別れを惜しんだという。情愛ある市原、その末裔の方々もどこかに、今なお在まれているだろう。
 五井駅に戻ったが、雨でタクシーもない。バスは三十分後に市役所方面へ出発するという。人口二十万にしては交通便の悪い所だ。ゴルフ場が多く、大きな田舎町という印象である。市役所で、受付女性に尋ねると、困惑したように「更級日記の場所は分かりません」と返事する。観光課に訊いても「上総国府は何処だか分かりません」という。市原イクオール更級日記と私は想像していたのだが、すこし考え違いだろうかと思った。何故だろう。最近のネットの情報量はものすごく多い。それを見て、知らない者は、勝手に自分の中で想像を逞しくする。実際に行って見ると、小さな部分を強調し、あたかもそれがすべてであるような錯覚に落ちいることがある。
 観光課の職員も「役所の北後方に国分尼寺跡があり、手掛かりがあるのでは」と言う。「私の知りたい場所ではないが、更級の糸口を捜しに行くか」と独りごとをもらす。現地に行けば、一部の情報でなく思いがけなく、こんなこともあったのかと新たなことを発見できることが多い。だから知らない土地へ行くのは、新しい発見があり面白い。
 信号待の人に尼寺跡を訊ねると「後ろの道をまっすぐ行って、多分右手の方角にあったはずです」と曖昧ながら教えてくれた。さんざん遠回りし、赤い回廊のある尼寺跡に着く。「上総国分尼寺跡」は広い敷地であり、復元された赤い回廊、芝生のなかに昔の礎石が見える。展示館は小さいが、天平の甍の展示や発掘状況のパネル、出土品の展示がある。係員は「市役所を建設の際、発掘調査をした所、芋畑から古瓦や土器などがざくざく出てきて、日本一広大な上総国分尼寺跡の大発見でした。国の補助もあり赤い回廊が十五億円かけ建設されたのです」と説明。立派な展示物には驚いた。三十年前に建設されたものだという。
 市原市では、この遺跡こそが重要であり、町のシンボルとして力を入れているのであろう。千年二百以上も前の、国分尼寺跡の発見は、大きなタイムカプセルを発掘した感動で町中が興奮したことであろう。更級日記の作者も、当時はまだ存在した国分尼寺を見たことだろう。残念ながら日記には市原の歴史物の描写はない。父の務めていた国府の庁舎のことも書いていない。新しく建造された市原歴史博物館へいった。尼寺跡の発掘品が多く並べられ、上総国府の情報はなかった。
「そろそろ駅に戻らなくては」とあせった。歴史博物館前から五井駅行のバスに飛び乗り、五井駅に戻った。駅の「西口」前の看板に「ようこそ更級の里、市原へ」という立て看板があった。
土産話はないかと、望みを託し、駅前に小さな観光案内所があった。案内嬢は市原の町と孝標の娘の話をしてくれた。情報やパンフレットも頂いた。最初に会っていれば、市原と更級日記のイメージが繋がる夢の世界になっていたのかもしれない。「まぼろしの上總国府を探して」という本を勧められ、買った。「国府の場所は、四か所に推定場所がある。車で行っても駐車場がない、貸自転車があるので、天気の日に、各所を回り体験できます」という。千年前の県庁が未だ解明されてない。菅原孝標は分からなくても、国司の役所跡は発掘してもいいはず。だが権力の衰退と、新勢力台頭で、歴史は変わる。構築物も根こそぎ消える運命のようだ。更級日記に詳しい人に、会って話を聞いただけでも、私の市原探訪の満足度半分以上が達成された気がした。
 福岡へ戻った私は、国府というものに興味があった。買った本の中に、「全国に六十ある国府跡の中で、最初に史跡として認められたのは、山口県防府市にある周防国府。その全域は八七〇メートル四方」という。防府市は、自宅から二時間あれば行ける所である。私は、関門橋を渡り、山口県周防市まで高速道路で車を飛ばした。市役所を尋ねると、「近くに防府文化財郷土資料館があり、そこに国府関連の展示もあります」と紹介された。
 資料館で作業着の女性に会った。尋ねると、誠に歴史に詳しい人で、国府については勿論、私の拙い歴史の疑問に対して、専門的なことを噛み砕いて、穏やかに説明してくれた。周防市の歴史のエキスパートなのだろう。市の主幹の名札を下げておられた。尼寺跡はまだ発掘されてないが、周防国府は発掘跡が、今は公園となっている。芝生のある木陰で若いママたちが子どもと遊んでいた。国府紹介の看板は随所に有る。国府の庁舎の250メートル先に、国司の役人が住んでいた所も特定されている。
 資料館の展示物を見ると、平安時代の区画に、「周防国府の長官として、清原元輔が幼い娘の清少納言とこの地で過ごしていた」とある。かの日本三大随筆の枕草子の清少納言が子どもの頃、父と一緒に住んでいたのだ。枕草子の中にも、その幼い頃の話しが描写されている。更級日記では孝標が上総国府の長官として娘と市原で過ごしていた。同じような境遇にあったのだ。 
 共に平安時代の貴族の人達である。なにか自分の中で、千年前の二つの国司家族の出来事を、偶然見つけたような歓喜を感じた。
 市原市役所の受付の女性は、更級日記の事を訊ねると当惑したような対応をした。理由が分かったような気がした。日記には市原で四年間過ごしたと、明白な事実が書いてある。しかし、生活拠点の上総国府は発掘されていない。日記以外に事実の裏付けがない。だから、市としても、この国府跡で仕事をしていたということを掲示出来ないのだろう。
 市原市も、是非、周防歴史館を参考にして、同じ程度の「孝標と娘の市原との関わり」を創作展示出来るのではないかと思う。更級日記を愛する人は市原だけでなく、日本に大勢いることだろう。国府跡の発見はかなり進んでいるようだし、孝標と娘の在りし日の姿を、推測の形ででも再現してほしい。市原歴史館の一角に、平安時代の更級日記の家族のレプリカでも製作展示してもらいたいと薬師仏に頭をこすりつけ御願いした。  
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