◆1

文字数 3,256文字

 健祐はいつもより早く帰宅すると、スーツも脱がず、そのままベッドにへたり込んだ。
 秋だというのに今日はやけに暖かな一日だった。雨粒が窓を叩く音に、仰向けのまま窓外を覗く。厚い雲が垂れ込めている。汗ばんだワイシャツが首を締めつけるのでネクタイを緩めた。
 しばらく何もかも忘れたかった。なのに、先週の屋台での一件が自然と蘇ってくる。
「もう嫁に行ってるかも」
 原田の言葉を遮って、自ら言い聞かせるように放った言葉が己の胸をえぐる。
 ──疲れた。
 このところ心から笑ったことがあるだろうか。作り笑いを覚えてしまった顔は、感情とは裏腹に柔和な表情を生み出す。ただ、油断して気を抜くと、微かに頬が痙攣することもある。だから相手に悟られないよう常に力を抜けないのだ。
「いつも笑顔で疲れない?」
 文は言う。いつも気遣ってくれるのは有り難いが、誰しも煩わしいときはあるものだ。
 健祐は文のことを考えてみた。
 小柄でも、すらりと伸びた長い脚がなまめかしい。均整の取れた肢体と可愛らしく愛敬を滲ませる丸顔。常に潤んだあの瞳で見つめられると、息苦しさで戸惑ってしまうこともしばしばある。快活で、何と言っても優しい。申し分のない女性だ。
 文を見るとき、必ず章乃を重ねてしまう。章乃もこんな女性に成長しているのだろうか。今は無性に会いたい。会って、肌に触れたかった。体の芯は疼き、この手で抱き締めたい欲求が突き上げてくる。
 ネクタイを引き千切るように外しながらベッドから飛び起きると、浴室へ向かった。脱衣室で着ていたものを全て体から剥ぎ取り、中へ入るなりシャワーのレバーを回して頭から冷水を浴びる。火照った体は急激に冷静さを取り戻していった。
 冷え切った体で部屋に戻った健祐は、章乃からの『最後の手紙』を手に取り、ベッドの上に胡坐をかいて読み返してみた。
 ──十七才の晩秋……
 読み終えたあと、しばらくぼんやりと字面を辿りながら考えを巡らせてみる。
 なぜ、章乃は自分の居場所を隠す必要があったのだろう。Y大学病院を退院したのち、どこで暮らしていたのか。あのアパートでも、故郷の街でもなく、今どこにいるのか。健祐には腑に落ちないことばかりだ。
 便箋を封筒の中に戻すと、ベッドから飛び下り、そっと机の上に置いた。同窓会の通知の日時を確認し、それも手紙の横に並べる。手紙の向こう側の章乃を見つめた。
「とうとう明日か」
 帰郷するか否かまだ決め兼ねていた。
 不意に視線を手紙から外すと、惑う心をおさめて消灯し、ベッドに潜り込んで静かに目を閉じた。

   *

 夕刻から降り続いた雨は、次第に激しさを増し、都会の喧騒と胸苦しさを一瞬消し去ってくれていた。なのに、今朝は日差しさえ騒がしい。
 健祐は床に上体を起こし、窓越しに外の景色を見やった。
 夕べはなかなか寝つかれず、寝返りを打っては、胸に去来する章乃への絶ち難い思慕を撥ね除けようと必死にもがくのだった。ぼんやりと窓を打つ雨を眺めながら頭を巡らすうちに、まどろんでいた。
 トラックの轟音に目が覚めると、窓外は薄らと白み始めていた。雨もいつしか止み、街は束の間の静寂に満たされている。枕元の時計は、あれからまだ一時間程しか経ってはいない。
 いつもは夢など殆ど見ない。いや、見ても直ぐに忘れて思い出すことさえ滅多にない。それだけ熟睡しているのだろう。外の賑わいも腹立たしいのだけれど、健祐は疲れ切っている。
 しかし、今朝はまざまざと思い出すことができる。浅い眠りがこれ程までに鮮明な夢を(いざな)うものなのか。それとも、その内容のせいなのか。脳裏に焼きついて離れようとはしない映像の断片を取り出してみた。

   ***

 健祐は神社へと続く長く暗い階段をひとり上っていた。進んでも進んでもなかなか辿り着かない。気づけば、いつの間にか上から階段を見下ろしている。
 すると背後から自分を呼ぶ声が聞こえる。
 健祐は振り向くが誰もいない。辺りを見回すうちに社殿の方から白い人影が現れる。顔は見えないが、章乃だと分かっている。
 声が語りかけてくる。耳を澄ましても、どうしても聞き取ることができない。
 白い影は消え、突然、暗闇から章乃の顔だけが浮かび上がる。
「アヤちゃん! なに?」
 健祐は章乃を追いかける。「アヤちゃん!」
 章乃は微笑むだけで、暗闇に消えて行く。

   ***

 そこで目が覚める。
 以前にも同じ夢を一度だけ見た。祖母の元で暮らし始めて二年目の、高校二年の大晦日だった。腕を枕に、机に顔を伏せてウトウトと居眠りをしていたときだ。誰かに呼びかけられて目覚めた。時計の針は丁度年が明ける午前零時を指していた。ドスンという音もした気がするが、祖母は聞いていないと言った。
「なにか意味でもあるのか?」
 恐らく章乃への思いの表れだろう。
 もう一度時計を見た。始発には間に合わないが、今から急げば昼過ぎには向こうへ着く。時計から目を逸らすと小さく溜息をついた。静かに体を倒し、再び仰向けのまましばらく窓外を眺めた。雲間から青空が覗いていた。風が雲を散らしている。
「行こう!」
 健祐は決心した。
 ベッドから飛び下りると、身支度に取りかかる。一応、どちらにしても用意だけはしておいた。一昨日の晩から予めバッグに荷物は詰め込んである。
 クローゼットから服を次々とベッドの上に放った。
 素肌にデニムのドレスシャツを着ると、黒に近いダークグリーンのスラックスに足を通した。ベッドの縁に腰かけ、黒い靴下を履いて、ウールの黒い厚手のジャケットを羽織りながら立ち上り、机の前に立つ。同窓会の通知と章乃からの『最後の手紙』をジャケットの内ポケットに丁寧に入れた。机上の財布をスラックスの尻ポケットに押し込み、鍵を右手につかむ。椅子の上の旅行バッグを左手に提げると、玄関に素っ飛んだ。
 玄関付近にかけておいた黒革のコートを、右手の人差し指と親指で摘まんで、バッグを提げた腕を少し曲げ、そこにかけた。カジュアルの黒い革靴を履き、玄関の扉を開けて外に出る。鍵をかけ、それをスラックスの右ポケットに突っ込むと、急いでエレベーターの前まで走った。
 下りボタンを押す。エレベーターは一階から上がって来る。五階を通り過ぎた。仕方なく一階まで階段を駆け下り、マンションの外へ出た途端、外気が頬を刺す。息も白い。
 歩きながら空車のタクシーを待った。マンションの前は交通量が多い道路だ。直ぐにタクシーはつかまった。ドアが開き、素早く乗り込むと、荒い息遣いで行く先を告げる。一瞬健祐の背をシートに押さえつけ、タクシーは滑り出した。健祐は吹き出た汗を右手の甲で拭ってひと息ついた。
 駅に着くと、ドアが開くのと同時に左足を車外に放り出しながら乗務員に札で二千円を手渡し、釣りは断った。下車して一目散に券売機の前まで急いだ。
 一万円札を挿入し、目的地までの料金ボタンを押す。釣りを拾い、財布に入れるのももどかしく切符を摘まむと、また走る。改札を済ませ、階段を駆け上り、ホームに出ると、時刻表を確認する。ホームの時計を見た。まだ十二、三分程の余裕がある。
 喉が渇いていた。自動販売機で清涼飲料水を買って喉を潤すと、噴き出た汗を手の甲で拭いながら乗降口の目印の所まで行ってバッグを足元に置き、列車の到着を待つ。
 程なくして列車がホームに入って来た。減速してゆっくりと軋みながら停止し、一瞬だけ静まり返り、ドアの開く音が鼓膜を揺する。
 乗降客の乗り降りもあまりなかったので、直ぐに乗り込むことができた。乗車すると右に折れ、乗降口から離れた中程の座席の床にバッグを置いてコートをフックにかけ、腰を下ろした。
 列車は三分間停車して出発した。次第に速度を上げ、車窓の風景が健祐の後方へ流れて行く。それを確認すると、腕組みをして遠くの景色に目をやった。
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