◆1

文字数 8,212文字

 頭上には相変わらず、鉛色の雲が垂れ込めていた。
 文と共に同窓会会場の小学校を目指す。文はゆったりとした足取りであとをついて来る。さっきより少しばかり上流域の橋を渡り、たもとでふと健祐は振り返った。文の背後に、裾野まで紅葉した山が鮮やかに浮かび上がっている。山を見上げながら、文が追いつくのを待つ。
 文は傍まで来ると、健祐の視線の方向を見た。
「きれい!」
 感嘆の声を上げ、山に見とれる文と肩を並べてしばらく景色を楽しんだ。
 我が心も、今、あの山のように赤々と紅葉している。健祐はこれまでの自分を振り返ってみた。
 今までの人生は何だ。まるでこの雲のようだ。殺風景な色のない枯れた荒野にたったひとり取り残されたかのような人生だ。だが、今は違う。命の息吹を吹き込まれた、あの萌え立つ山のように、我が身もまた生命力に満ち満ちている。これ程までに生きる喜びに打ち震えたことがあったろうか。章乃をこの腕に抱くのだ。きっと、もう直ぐ報われるのだ。
「先輩」
 文の呼びかけに健祐は我に返った。反射的に首を回し、文を見る。
「幸せそうね」
 文は優しく微笑みかけてくれた。
「いや、その……」
 健祐は言葉に詰まり、しどろもどろな返答しかできない。
「なにも言わないで」
 いつもの穏やかな表情で、文は静かに首を横に振った。
「ごめんね」
「あら、先輩が謝るなんて、おかしいわ」
 文は笑って肩を竦める。「先輩、おめでとう。心から……ね」
「フミちゃん……」
 ありがとう、と言うつもりが、それ以上言葉は出なかった。
「さあ、行きましょうよ。私も先輩の出た小学校見てみたいわ」
 文はいきなり健祐の腕にしがみついた。「今のうち……ですもの」
 文の行為に動揺した健祐は、空いた方の手で首筋を掻く。と、文はその仕種を見るや、声を上げて笑いながらより一層健祐の腕を締めつけた。

   *

 小学校は丁度この街の中央に位置し、小高い丘の上に建っている。二人は緩やかな坂を上って校門の前で立ち止まった。木造二階建ての古びた校舎はどこか郷愁を誘うものだ。健祐には目の前の校庭が、かなり狭く感じられた。
「こんなに、狭かったかな?」
 独りごちながら、ひと通り学校の佇まいを確認してみる。
 数年前の同窓会の通知によれば、この辺りは児童の数も激減し、小中学校の統廃合が進んでいる。健祐たちの中学も廃校となり、既に校舎も取り壊され、今は章乃が通っていた中学に統合された。この小学校も例外ではないのだが、土、日にはカルチャースクール等も催され、今では街の人たちの憩いの場として復活し、賑わいを取り戻している、ということだった。校舎はそのまま再利用され、解体は免れたという訳だ。
 門の横の看板に『(かみ)玉川中学校同窓会』の文字が、白地に黒々と浮かび上がっている。
「へえ、まるで映画のロケ地ね……」
「都会とは違うから」
 文は健祐を見て頷いた。
「これぞ、学校……って感じよね。なんだか懐かしい」
「おお、早いなあ」
 門をくぐって校舎の正面玄関へ向かおうとした二人は、ほぼ同時に声の方を振り返る。男が首を傾げている。ゆっくりと歩み寄って来ると、腕組みをしながら健祐と文を交互に見る。
 健祐も最初、誰だか分からなかったが、直ぐにクラスメイトの金子だと気づいた。
「金子! しばらく」
「ええっと、誰……だっけ?」
 健祐は黙って笑顔を向けた。
「その顔は……健祐……? 立花……か?」
 金子はしばらく健祐の顔をじっくりと観察していたが、眉根を寄せると、遠慮がちに尋ねた。
「ああ、そうだよ」
 健祐は大きく頷いて答える。
「立花か? 立花健祐か?」
 金子は満面の笑みで抱きついてきた。「おお、健祐!」
「どうしてた? 久しぶり。元気だったか?」
 お互い肩を叩き合い、無沙汰の挨拶を交わす。
「健祐! お前こそどうしてた? なん年振りだ? 卒業以来だから……」
 金子は指折り計算する。
「十二年だ」
 健祐がすかさず答えた。
「そうか。そんなになるか? 心配してたんだぞ皆」
「悪かったな」
「いいや、元気ならそれでいい」
 健祐が門の方を見ると、旧友たちの一団が現れた。
「金子! もう、来てたか」
 懐かしい顔ぶれが健祐の目前に続々と現れた。
「おい、みんな、誰か分かるか?」
 金子は、健祐の肩に手を添えて皆に問いかけた。次々に皆が入れ代わり立ち代り健祐の顔を覗き込んでくる。
「見覚えあるぞ……」
「立花だ。健祐だろう?」
 古賀が健祐の前に出て穏やかな口調で言った。
 健祐は古賀の顔を真っ直ぐ見てから静かに頷く。
「立花か?」
「立花君なの?」 
「どうしてた?」
 皆が一斉に叫んだ。
「みんな、元気だったか?」
 健祐は逆に聞き返した。
「おお、お前、元気そうじゃないか。黙っていなくなって、水臭いぞ、健祐!」
 誰かが言うと、また「そうだ」と斉唱した。
「ごめんな。急だったんだ。俺も心残りでな……」
「元気ならいい。よく帰って来たな……」
 いつもクールだった古賀が、声を詰まらせた。
 皆は健祐の周りを取り囲んだ。
「立花君、私……分かる?」
「変わってないね。清原さんだろう?」
「あら、嬉しい。そんなに変わってない?」
「健祐、お世辞上手くなったな!」
 誰かが叫んだ。
「なによ。立花君は、お世辞なんて言わないもん」
 皆が一斉に笑う。
「ところで、健祐。こちらは……嫁さん……か?」
 健祐の傍で、静かに笑っている文に金子が気づき、遠慮がちに尋ねた。
 健祐は戸惑いながら、文を紹介しようとしたら、文はすかさず自己紹介を始めた。
「わたくし、立花の秘書をしております三枝文と申します。どうぞよろしくお願い致します」
 文は深々と頭を下げる。「立花は、建設会社の設計課に勤務しており、優秀な一級建築士として、社内でも一目置かれる立場でございまして、現在、次長の重責を担っております。今回、弊社では、リゾート開発の計画がございまして、以前より、立花から、この街の自然環境や景観の素晴らしさを聞いておりましたもので、参考の為、このような街をわたくしも一度見ておくべきと、かねがね思っておりましたものですから、その視察を兼ねまして、立花に同行した次第でございます」
 一気に捲くし立てた文の意気込みに、皆呆気に取られていた。
「おおっ、秘書さん同伴とは、お前、偉くなったんだなあ」
 金子が言うと、誰もが文の方を見ながら感心した。
「では、次長。手前はこれで失礼させて頂きます。御用の向きがありましたら、ご連絡ください」
「いいなあ、美人秘書同伴なんて、羨ましいなあ」
「出世したもんだなあ。次長か……その若さで」
 勿論、健祐の部署にそんな役職などはない。
「そんな……」
 健祐は文を見ながら首筋を掻く。「それより、中に入ろう。寒いから」
「おお、そうだ。そうしよう」
 健祐の言葉に従い、皆それぞれ校舎に向かって足早に校庭を突っ切った。次々と校舎の玄関に一行は吸い込まて行く。
 健祐と文は校門をくぐった所で、しばらく皆を見送った。その場から誰もいなくなるのを待って、文は肩を竦め、健祐に向かって舌を出して見せる。
「僕も出世したねえ」
 健祐は苦笑する。「悪戯っ子め」
 文は健祐にウインクすると踵を返し、校門を出て行った。

   *

 校舎の中に入ると、雰囲気は当時のままだったが、それぞれの趣味に合わせ、各教室は様変わりしていた。変貌を遂げた中で、健祐のクラスは絵画教室になっていた。その前を過ぎ、一番奥の教室に入ると、長テーブル四脚と椅子が設えてあり、ひと目で料理教室だと分かった。会場としてはおあつらえ向きな訳だ。
「さあ、みんな、どこでもいいから座って。あと十人ばかり来るけど、始めていよう」
 幹事の金子が張り切って音頭をとると、皆は思うがまま席に着く。
 テーブルにはアルコール類とつまみ、それにちょっとした料理が所狭しと並んでいる。それぞれの前にはグラスが伏せて置かれていた。
 健祐は後ろの入口から中に入り、右手の直ぐ傍の椅子に廊下側の窓を背にして座った。
 古賀が前の入口からこちらへ近寄ると、すかざず健祐の右隣に陣取り、健祐の前のグラスをひっくり返して、ビールの栓を抜き、注いでくれた。古賀が自分の分を注ごうとしたのを健祐は制して、今度は健祐が注いでやる。二人はグラスを目の高さまで持ち上げ、互いに視線を合わせると、一気に飲み干した。
「あれからどうしてた? 苦労したか?」
 古賀は健祐のグラスに注ぎ足しながら訊く。
 健祐もまた、古賀のグラスに注いでやる。
「いいや、それ程じゃ……祖母も死んで……」
 健祐は笑いながらグラスに手を伸ばした。「今は、ひとりだがな」
 古賀は健祐の話を黙って聞きながら、もうひとくちだけビールを口に含み、喉を鳴らすと健祐に顔を向けた。
「健祐。まだ、独り身か?」
「ああ」
 健祐は一旦古賀に向けた視線を外しながら小さく頷いた。目は既に消失したグラスの泡の幻影を見ていた。章乃の面影が自然と浮かび上がる。
「さっきの子は?」
「いいや、彼女は……」
「結婚相手じゃないのか?」
「まあな。お前は?」
「俺は、一昨年、息子がひとり」
「そうか、でかしたな」
 健祐は熱い眼差しを送り、旧友への心からの祝福を示した。
「お前も早く身を固めたらどうだ? 家族をつくれ。ご両親だって、お婆さんだって、それが一番気掛かりだろうよ」
 健祐は黙って頷いた。
 古賀はぶっきらぼうな態度が周りから随分誤解され易かった。強面の外見も手伝ったのは確かだが、深くつき合ってみると、情の厚い男だと分かる。それでもこの男の評価は二分していた。古賀を嫌いな奴はとことん嫌っていた。古賀の方はそんなことなど意に介しはしなかった。それが人間さ、と妙に悟り顔をしていた。その態度も一部の者からの(そし)りを被る要因でもあった。不思議なことに、健祐とはどういう訳か妙に馬が合った。古賀はいつも健祐のことを気遣ってくれ、健祐も古賀を思いやる、という風に友情を育んで行った。お互い気の置けない仲になったのだ。
 健祐は、ふと原田を思い出した。古賀と原田はどこか似ていると思った。もっとも、原田は古賀ほど物静かではないが、原田と仲良くなったのも、この不器用な旧友と重なるところがあったせいかもしれない、と健祐は今気づいた。
 前の入口から、賑やかな声が次々となだれ込んで来た。
「おっ、みんな来たか。ほら、席について」
 また、金子がよく通る甲高い声で張り切ると、席を離れ、教壇に立った。「これで、みんな集まったな。ちょっとひとこといいか? 伝言を預かってる」
 金子は、一度咳払いをすると、メモを取り出した。ゆっくりと教室を見渡す。
「もったいぶるなよ! お前の顔は見飽きた。早く読みなって」
 誰かが叫ぶと、一斉に笑い声で溢れた。
 金子は、もう一度咳払いをした。
「ええ、先生からの伝言だ。『皆、元気でやってることと思う。今日は出席できなくて申し訳ないが、ひとこと言っておきたい。人は年毎に、色々な意味で変わってゆくものだが、決してお互いの友情は壊すことなく、これからも育んでいってくれ。今日、出席した者もできなかった者も、尊い仲間であることに変わりはない。これから幾年か過ぎ、年を取って誰だか思い出せない者もいるかもしれん。だが、これだけは忘れないでほしい。確かに、あのとき、あの時代、共に過ごした仲間がいたことを。中村秀明(なかむら ひであき)』」
 金子は伝言を読み終えると、健祐を指差した。「それから、もうひとつ。今日は懐かしい顔が来てるぞ」
「だれ?」
 今、教室に入って来たばかりのひとりが健祐の方へ歩み寄って来た。
 健祐はゆっくりと立ち上がった。
「みんな、久しぶり」
 数人が代わる代わる健祐の顔を覗き込んできた。
 金子も健祐の元へ歩み寄ると、皆を押し退け、テーブル越しに健祐の前に立つ。
「みんな、分からんのか?」
「健ちゃん!」
 工藤公子が叫んで涙ぐんでいる。
 健祐は公子に微笑みかけた。
「立花?」
 皆はそれぞれ復唱する。
 健祐は皆に頷くと、公子に顔を向け、笑みを送る。
「キミちゃん、元気だった?」
 公子は首を縦に折ると、涙ぐんだまま健祐を見つめる。
「みんな、健祐はな、秘書同伴なんだぞ。しかも美人だぞ、どうだ!」
 金子は得意げに説明する。
「金子! お前が自慢してどうする」
 金子の背後で、笑い声が聞こえる。
「へえ! 出世したんだなあ……立花なら当然か」
 皆、一同に口を揃える。
 古賀は健祐の隣で静かに微笑んでいる。
 既に校庭で対面を果たした旧友もまた声を出して笑っている。
 今来た連中が健祐を取り囲むと、健祐は銘々と無沙汰の挨拶を交わした。
「健祐、会いたかったぞ」
「立花君、久しぶりね」
 懐かしい顔が皆、表情を綻ばせている。
 ようやく再会の儀式が終わって、それぞれが席に着いた。健祐の正面には公子が座った。
「健ちゃん、立派になったわね。アヤちゃんも……」
 公子は言葉を詰まらせた。「……一緒だったら……どんなに……」
「工藤」
 古賀は首を横に振りながら穏やかな声で公子を制した。
「健ちゃん……」
 公子の目から次々と涙が零れる。
 健祐は公子に優しく微笑んだ。
「分かってる。さっき幸乃おばさんに会って来たよ」
 健祐がそう言うと、公子は顔を両手で覆って嗚咽する。
「工藤。今日ぐらい、湿っぽいのはよそうぜ。仕方ないじゃないか」
 古賀は公子にグラスを握らせると、ビールを注いだ。「こいつが一番会いたかったはずだしな」
「そうね、ごめんなさい」
 公子は涙を拭いながらグラスに唇をつけると、ひとくち飲んでテーブルに置いた。
「構わないよ。僕は大丈夫だから」
「アヤちゃん? 古賀、アヤちゃんって、田代章乃のことか?」
 古賀の隣でほかの連中との話に夢中だった波瀬(なみせ)が、章乃の名を聞いた途端、割り込んできた。
「田代章乃か……懐かしいなあ。立花には申し訳ないけど、俺の初恋だからなあ」
 波瀬の周囲の者も話に加わる。
「おい、田中よせ! 健祐の前で」
 古賀が田中をたしなめる。
「そうだった。ゴメン立花。でも会いたかったなあ、天女に……」
 田中は肩を落としながら溜息をついた。「雪の羽衣をまとって……」
「俺も、好きだったのに」
 波瀬もがっくりと肩を落とした。
「お前ら、もうよせ! 酔ってきたな」
 古賀は二人を一喝した。
 そのやり取りを無言で聞いていた公子が、声を震わせ泣き始めた。
「まったく、仕様がねえ奴らめ!」
 古賀は舌打ちして首を何度も横に振る。
「ごめんなさい……」
「分かったから、もういいだろう。久しぶりに会えたのに、今日は楽しもうぜ」
「そうよね。ゴメンね、健ちゃん、飲もう」
 公子は笑顔をつくると、ビールビンを両手で持ち、健祐の前に差し出した。
 健祐もそれに応え、グラスを傾けるのだった。
 それにしても章乃母娘が戻って来たことを、なぜ公子は知らせてくれなかったのか。喉まで出かかったが呑み込んだ。最早そんな些細なことなどどうでもいい。章乃は健祐の直ぐ傍にいるのだから。

   *

 健祐は校門を出て、緩やかな坂を下り切ったところで皆に別れを告げた。健祐と古賀と公子の三人がその場に残った。
「健ちゃん、たまには連絡ちょうだいね。私もまた連絡するからね」
「そうだぞ、顔見せに来いよ」
「ああ、ありがとう」
 健祐は二人と交互に手を取り合った。
「いつ戻るの?」
「明日の夕方には……」
「そうか、見送りはできんが、無理せず、しっかりやれよ」
 殆ど感情の起伏を見せない古賀が語気を強めた。「疲れたら、いつでも帰って来い。ここがお前の古里なんだぞ、いいな」
「健ちゃんに会えて本当によかったわ。また近いうちに会いましょうね」
「そうだね、近いうちにね」
「きっとよ」
「ああ、きっと」
「じゃあ、俺たちは行くが、気をつけて帰れよ」
「健ちゃん、名残惜しいけど……元気でね」
「キミちゃんもね。また必ず帰るよ」
「うん」
 古賀は公子の肩に軽く手を添え、「行こう」と促すと、健祐に手を振りながら公子を従えて、街灯の薄明かりの下を歩き出した。
 二人の後姿を見送っていると、突然公子が健祐の元へ駆け寄った。
「健ちゃん……あのね……アヤちゃんのこと……ごめんなさい……」
 公子は歯切れの悪い口調でまた涙ぐんだ。
「なに? キミちゃんに謝られることなんて、なにもないじゃないか」
 まだ何か言いたげな顔で、公子はしばらく健祐を見つめ続ける。健祐も微笑んで優しい眼差しを送った。
「……元気でね」
 公子は両の掌で涙を拭うと、ひとことだけつけ足して小走りに古賀を追いかけた。
 途中二人は、別れを惜しむように、何度も健祐を振り返った。
 二人の後姿を見えなくなるまで見送った。二人が去ったあとも宴の余韻に浸りながらその場に留まり続け、ようやく逆方向へ足を向けると天を仰いだ。いつしか、雲間から、星の瞬きが零れていた。風が次第に雲を散らしている。
「今夜は冷え込みそうだ」
 独りごちながら、ゆっくりとホテルへの道のりを辿った。
 今日は来てよかった。しみじみとそう思った。やはり古里の仲間たちとの語らいは楽しく、久しぶりに心から笑ったような気がする。当然それだけではない。章乃との再会のときが刻々と迫っていたせいもある。だから余計に心躍ったのだ。
 ふと、さっき耳にした旧友の言葉を思い出した。
 天女。雪の羽衣。
 ──なんのことだ?
 健祐には皆目見当もつかなかった。が、そんなことなどどうでもいい。それより、明日、章乃の家を訪問する。そのことで健祐の頭はいっぱいになった。余計なことを考える余裕はない。章乃に会えるかもしれない。そう思っただけで、全身が熱くなるのを覚える。
 晩秋の夜風が体を貫こうとも、健祐は真っ直ぐ前を向いて大地を踏みしめながら歩くのだった。

   *

 ホテルに戻ると、文はロビーのソファに座って雑誌を読んでいた。
 健祐は足音を忍ばせながら文の正面のソファに静かに腰を下ろした。文は俯いて居眠りをしている。
 穏やかな寝息を立てる文をしばらく見ていたら、ようやく浅い眠りから目覚め、口を右手の甲で隠しながら欠伸をした。目前の健祐に気づいて睨む。
「いつから、そこに?」
「たった今」
「レディの寝姿を覗くなんて、いやらしい!」
 文は健祐にアカンベーをして見せた。
「美人秘書さん、寝るなら部屋に戻った方がいいですよ」
「そうね、美人が台無しだわ。こんな姿、覗かれるなんて」
「おやおや、自惚れが強い秘書さんだこと」
「もう! なんとでも言えばいいわ」
 文はもう一度睨み返した。
「怖い怖い、この美人秘書さんは」
 文は一度そっぽを向いて健祐の方に向き直ると、脚に肘を乗せ、両手で頬杖を突いた。
「それより、同窓会、どうだった? 楽しかった?」
「ああ、来てよかったよ」
「そう、よかったわね」
「ありがとう、フミちゃん……」
「私、お礼言われる筋合いはないと思うけど……まあ、折角だからありがたく頂戴しておきましょう」
 お互い顔を見合わせて笑った。
「そろそろ部屋に戻ろうか。風邪ひくよ、こんな所でうたた寝なんて」
「そうね、そうしましょう。明日は早いから。ご一緒しますんで」
「どこに?」
「決まってるでしょ。とぼけちゃって。私も見届ける義務、あるもの」
「そんな義務は……ないと思うけどなあ」
「いいの。どんな女性か、会ってみたいわ」
「仕方ないなあ」
「決まり!」 
 文は立ち上がり腰に手を当てると、人差し指で健祐を部屋に促した。「さあ、早く寝なさい。明日は早いですよ」
「はいはい、美人秘書さんの言いつけは絶対だからね」
 二人はロビーでの(いさか)いをおさめると、それぞれの部屋に戻って行った。
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