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文字数 1,882文字

 立花健祐は、誰もいなくなった会議室の椅子に座り、背広の内ポケットから手帳を取り出した。今後のスケジュールを確認しようと開いたとき、一枚のスナップ写真が床に舞う。それを拾い上げ、しばらく見つめていた。
「あらっ、可愛らしい子ね。姪御さんかしら?」
 背後から三枝文(さえぐさ ふみ)の快活な声が飛び込んできた。
 健祐は一瞬ギクリとして、あたふたと写真を手帳に挟み直すと、背広の内ポケットに素早く戻した。
「いや、僕には……」
 身内など誰もいないよ、と言いかけたが、相手が悟ってくれるのを待った。
 文は幾分首を傾げながら笑って健祐の顔を見つめる。今の健祐の言葉の意味がつかめない様子だったが、いっときして合点すると、直ぐに申し訳なさそうな表情をした。
「まあ、ごめんなさい。私って馬鹿ね! そんなつもりじゃなかったんです」
「分かってる。いいんだよ、気にしなくても」
 健祐は文に笑顔を向けた。
「本当に、ごめんなさい」
 文は深々と頭を下げる。
 健祐は視線をテーブルの書類に落とし、構わないよ、という風に右手を二度振って見せた。
 気まずそうに文は右隣に座り、もう一度頭をペコリと下げると、自分の頭を拳固で叩く振りをして顔をしかめる。

   *

 三枝文は、同じ設計課の後輩で健祐より三つ下の二十四歳。
 小柄の細身で、目が大きく澄んでいる。初対面の相手は、文の取り澄ました態度やクールな表情に、どこか近寄り難い雰囲気をかもし出す女性だ、と印象を受けるだろう。そうやって故意に予防線を張っているときもあるし、固い女を装うことで気のない相手を遠ざける手段でもある。一旦打ち解けて気を許してしまえば、天性の大らかさで愛敬を振り撒いてくる。その誰からも好かれる快活な性格はいつも周りを和ませている。
 市内の県立工業高校の建築科を卒業後入社した。三年を超える実務経験の末、去年二級建築士の資格を取得したばかりだ。
 反面、こんな文にも辛い時期があった。
 父親が病で倒れ、長らく入院生活が続いていた。その看病疲れのせいで母親が急逝すると、悲しみの癒えぬまま、気丈にも文が母の代わりに父親の看病に当たった。
 しかし、母親の死から僅か五ヶ月後に、甲斐もなく父親も他界する。
 入社して間もない夏の盛りだった。
 当時十四歳の妹と二人残されてしまった。二十歳やそこらの若さで苦境に立たされた。その絶望感や喪失感を思うと、健祐は他人事(ひとごと)では済まされなかった。自分も似た境遇で育ってきたのだ。だから、文が会社を休みがちになったとき、文の自宅を何度となく訪ね、励まし続けた。
 健祐の熱心な心遣いが功を奏したのか、文は会社にも戻ってきた。いつしか笑顔も取り戻すと、次第に心を開くようになり、健祐に対する信頼も厚くなっていった。
 そういうこともあって、去年の春先、健祐が仕事中バケツ一杯程吐血して病院に担ぎ込まれたとき、文が入院中の健祐を献身的に看病してくれた。
 胃潰瘍だった。
 病室で麻酔から覚めると、文がベッドの横にいて見守ってくれていた。しばらくして声が出せるようになり、夢の話をしたら、あの無数の光は手術室のライトだと教えられ、緊急手術を受けたことをようやく理解できたのだ。
「大病患者の看病は慣れっこなの」
 死の淵を彷徨(さまよ)った健祐を、そう冗談めかして和ませてくれもした。仕事に復帰してからも何かと気遣ってくれている。
 そんな文の健祐に対する態度を見て、同僚たちは、健祐を『設計課社長』、文を『社長秘書』と呼んで揶揄(やゆ)している。
 そんなとき、健祐は首を傾げる。
 ──羨望? 
 ──嫉妬? 
 どちらにしても、彼らとて内心穏やかではない様だ。文に密かに心を寄せている者も少なからずいる。何せ社内随一の美人の誉れが高い才女を独り占めにしている訳だから。

   *

 文はさっきから隣で相変わらず口元に笑みを浮かべ、こちらの顔を見つめ続けていた。
 健祐はテーブル上の資料を整理する。時折、文の方に視線を送るだけで黙っていた。
「あのう……」
 健祐は無視した。
 文は、そんな健祐の態度に業を煮やしたのか、いきなり顔を覗き込んできた。
「あのう、どなたなんですか?」
 健祐は無言のままもう一度文に笑顔を向け、直ぐに視線を外した。資料を書類封筒に押し込みながら立ち上がり、小脇に抱えると、「お先に」とだけ言ってそそくさと会議室を出てしまった。
 窓から淡い秋の朝日が差し込んで、文の横顔を照らしていた。        
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