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文字数 6,035文字

 健祐は朝からそわそわしていた。
 夕べは早めに床に就いたものの、なかなか寝つくことができず、朝方うとうとしただけだった。五時過ぎには寝床から枕元の腕時計と睨めっこを決め込んでいた。六時にはロビーに出て、まだ明け初めぬうちから外の景色を眺めて長い朝をやり過ごした。
 今、ようやく窓の外は薄らと白み始めている。
「あまり早いのも失礼だしな」
 忙しなく何度も腕時計を確認しながら、時が過ぎるのを待った。
 しばらくすると、外はすっかり明るくなり、今朝は雲間から日差しも戻ってきた。また腕時計を見る。やっと七時半を回っていた。
「先輩、おはよう」
 程なくして、窓際に佇む健祐の背後で文の澄み切った明るい声がロビーに響いた。
「フミちゃん、おはよう。よく眠れた?」
 健祐も振り向き様に挨拶を交わす。
「ええ、先輩は……? 野暮な質問ね。眠られるはずないわね」
 健祐の人差し指が首へ伸びると、文がすかさず先回りをして自ら健祐の癖を真似たので、指で顎を撫で腕を下ろした。 
 文は肩を竦めながら笑い、窓際に寄って伸びをした。雲の切れ間から鮮やかな青空が覗くと、朝日が文の顔を照らす。その横顔にまた章乃を重ねる。
「先輩、朝食は?」
「モーニングセットでも、どう?」
「そうね、コーヒー飲んで、目を覚ましましょう」
 文に目配せしてエスコートすると、一階のレストランに入り、庭の景色が望まれる窓際のテーブルに向かい合った。席に着くや、即座に二十歳前後の若いウエイトレスが愛想のいい笑顔で近寄って来る。
「なになさいますか?」
 コップとおしぼりを二人の前に置くと、よく通る声で注文を聞いた。
「モーニングセット二つ」
 健祐はすかさず注文する。
「はい、かしこまりました」
 ウエイトレスは、一瞬、文の方に視線だけを向けて微笑むと、一礼して足早に戻って行った。
「今の人……」
「なに?」
「私たちのこと……どう思ったかしら?」
「どう……って?」
「恋人同士? 夫婦?」
「ええっ?」
「だって、私たちペアルックだし」
 文は黒のタートルネックセーターの胸元を引っ張りながら、顎をしゃくった。
 健祐は俯いて自分の着ているものを確認する。薄手の黒いハイネックセーターだった。
「ねえ、おんなじでしょ。誰が見たって……」
 文はゆったりとした動作でテーブルに両肘を突き、手を組んで顎を乗せると、上目遣いに健祐を見る。
 健祐は文の視線から逃れるように瞳を泳がせると、肩を竦め、水を啜った。コップを置きながら文を一瞥したら、薄ら笑っている。そのまま文は長い時間こちらに視線を注ぎ続けた。
 文の視線にさらされることに、どうにも息苦しさを覚え、何度か目を逸らすうちに、さっきのウエイトレスが視界を掠めた。視線を滑らせると、どうやらこちらに注文を運んで来るらしい。助け舟だとばかりにホッと胸を撫で下ろすと、目は自ずと腕時計の方へ向く。
 ウエイトレスはテーブルの横に立ち、二人の前に交互に注文を置く。仕事を終え、立ち去ろうとしたとき、文の声が彼女を呼び止めた。
 腕時計から文の方へ健祐の視線は移った。文は穏やかに微笑みかける。健祐もそれに応え、薄らと笑みを返した。
「あなた、ほかになにか注文する? オレンジジュースでもどう?」
 文の不意打ちにテーブルの一点を凝視し、固まっていると、文は苛立った素振りを見せた。
「グレープフルーツジュースも人気でございますが……」
 ウエイトレスは健祐に愛想のいい顔を向けている。
「どっちにする? ねえ、あなたってば、聞いてる?」
 文は語気を強めた。
 健祐は左腕を下ろすと、文を見て目を瞬く。
 文は、一瞬、片方の口角を持ち上げ、ニヤリとすると、直ぐに不機嫌を装い、健祐に膨れっ面を見せた。
「なにか要らない?」
 文が念を押してきたので健祐は首を横に振った。
「奥様はほかにご注文はございませんか?」
 ウエイトレスは穏やかな口調でまた愛想のいい笑顔を文に向ける。
「そうね、主人も要らないそうだから、私もいいわ。ごめんなさいね、お引き止めして」
「いいえ、とんでもないです。奥様、なにかほかにございましたら、遠慮なくお申しつけください」
「ありがとう。そうします。あなた、ホントに素敵な笑顔なさるのね」
 文はさも感心した口調で褒め称えた。
「まあ、ありがとうございます奥様。それでは、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
 ウエイトレスは健祐にも目配せし、深々と頭を下げると、銀盆を小脇に抱え、弾むような足取りで戻って行った。
 文の行為に目を見開くと、当の本人は腰に手を当て胸を張り、こちらを見下ろす。
「えへっ、どう? こんなものよ」
 文はしたり顔だ。「先輩が時間ばかり気にするからよ。そんなに気にしなくても、章乃さんは逃げないわよ」
 心を見透かされていたことに狼狽した健祐は、照れ隠しにコップを握って水をひとくち啜った。文は、相変わらずしたり顔のままソッポを向いてトーストにかじりついている。
「先輩、早く食べましょう。早くしないと置いてくわよ。分かったの? 返事は?」
「あ、ああ……」
 文はまた上目遣いに、今度は少々睨みを利かす。丁度、女学生が若い新任教師でもからかうような悪戯な眼差しで。と、突然椅子から腰を浮かせながら顔を寄せてきた。
「あなた、早くなさい。章乃さん……」
 ねっとりした口調で言い放ち、いきなり怒号が健祐の耳を襲った。「逃げちゃうわよ!」
 健祐の肩が一度だけ小さく痙攣した。それを見て文は手で腹を押さえながら笑い出す。

   *

 九時半過ぎにホテルを出て章乃の家へ向かった。外気は肌を刺してきたが、日差しが眩しかった。
「いい天気になったわね。気持ちいいー」
 文は健祐の先に立って、胸いっぱい深呼吸をした。
 健祐は黒のジャケットの上に黒革のコートに袖を通しながら、顔に当たる朝日に目を細める。
「それにしても、私たち……黒ずくめね、今日は」
 ダークブラウンのスエードコートを厚手のタートルネックセーターの上に羽織ると、文は笑い出した。ハーフ丈のコートの裾から黒のストレートジーンズが伸びている。
「そういえば……」
 健祐は、改めて自分のいでたちを確認してみる。スラックスは接近して見ればダークグリーンだと分かるが、遠目には黒色と言っても差し支えあるまい。なるほど上下黒で統一されていた。
 文は健祐と自分を見比べ、またクスッと笑った。二人はお互いのファッションを確認し合いながら歩いた。
 章乃の家は、ホテルから二十分程の場所にある。ほんの二十分の短い道のりが今日に限って永遠の長さのようにも思われる。健祐ははやる気持ちを何とか抑えようと、歩きながら時折深呼吸を繰り返した。
 この青空が続く先に章乃はいる。彼女も健祐の訪問を心待ちにしているに違いない。お互いの心はいつまでも引きつけあっていると疑わない。恐らく父親の実家近くか、あるいはY大学近辺のあの街のどちらかに暮らしているはずだ。健祐はそう確信している。それを幸乃から訊けばいい。
 ──いつ、会いに行こう?
 ──いつ、会える?
 今日は章乃本人には会えないことは承知だ。それでも健祐の胸は、はち切れんばかりに章乃への思いで膨らんでいた。いや、もしかすると、昨日、章乃の元へ幸乃から連絡が届き、この街へ帰って来ているのかもしれない。
 最早、健祐の心には章乃以外何者をも寄せつける余地などない。文が傍でしきりに何か喋っているが、健祐の耳には全く届かない。気もそぞろでその声を聞き流していた健祐に痺れを切らしたのか、文は健祐のコートの袖を引っ張った。
「ねえ、先輩、聞いてる?」
「ああ……」
「まあ、嘘ばっかし!」
 文は健祐の傍を離れ、先を歩きながら肩を竦めた。「仕方ないなあ」
 二人は川沿いの柳並木の歩道を下流に向かって歩いていた。柳並木は前方の橋の手前まで延び、左手には狭い一方通行の車道に面して古風な佇まいの木造家屋が秩序正しく連なる。
 先を歩いていた文が、土手沿いの木柵に両手を突いて川面を覗いた。
 健祐も文と同じようにして両手を突くと、対岸の遥か遠方を望み、章乃の家の方角を探る。
「健祐さん」
 健祐は呼びかけに、無言で顔だけを文に向けた。
 ほんの一瞬だった。健祐の唇に柔らかな感触が走った。人間の最も鋭敏な部位に余韻を残して、文の顔が遠ざかってゆく。
 文は何事もなかったかのように、また健祐の先を歩き出す。
 それから二人は無言のまま同じ道を辿った。

   *

 章乃の家の玄関先までやって来た。
 健祐はそこにしばらく佇むと、深呼吸をして呼鈴をそっと押した。家の中から幸乃の声がして扉が静かに開く。
「健ちゃん、よく来てくれたわね」
「ええ、約束だから」
「フミさん、だったわね。あなたも、どうぞ入って」
 健祐の後ろから幸乃に挨拶だけしてその場を去ろうとする文を、幸乃は呼び止めた。
「私は……」
 文は幾分表情を強張らせる。
「健ちゃんの傍にいてくださらない?」
「いいんですか?」
「ぜひ、お願いね」
 文が健祐をうかがう素振りを見せると、幸乃は躊躇いがちな文の背中に腕を回し、家の中へと促した。
「じゃあ、お邪魔させて頂きます。すみません、私のようなものまで……」
「いいのよ、さあ遠慮なさらないで」
 玄関先で健祐はコートを脱ぎ、先に上がると、文も背後で丁寧にお辞儀をしてあとに続いた。
 二人はまず居間へ通され、ソファに並んで座る。と、直ぐに幸乃は一旦その場を離れ、お茶を淹れて戻って来た。
「フミさんは、コーヒーがよかったかしら?」
 二人の前に湯呑みを置きながら幸乃は訊く。
「いえ、お構いなく。ご丁寧にすみません」
「いいのよ。可愛らしい人ね、フミさんは」
 健祐が文を見ると、その顔は紅潮している。
「健ちゃん、朝食は?」
「いや、さっき済ませたばかりだから」
 健祐は湯呑を口に運ぶと、ひとくち啜ってから話を切り出した。「おばさん、アヤちゃんは、今、どこに……?」
「フミさんは?」
「い、いえ……」
「なにか……お菓子でも用意しましょうね」
 そう言うと、幸乃はまたその場を離れようとした。
「い、いえ、すみません。私もお腹いっぱいなんです」
 慌てて文が断りを言う。
「なにも召し上がらない?」
「ありがとうございます。気を遣っていただいて……」
 文は幾分身を強張らせながら頭を下げた。
「そう、遠慮なさらないでね」
 幸乃は笑顔で文を見つめる。「ほんとに、可愛らしい方ね」
「の、のど……渇いちゃって……」
 幸乃の視線に息苦しさを覚えたのか、文は咄嗟に湯呑を握った。口に運ぶと、何度もお茶を啜る。
「おばさん、アヤちゃんは……」
 健祐はもう一度切り出した。が、幸乃はどこか余所余所しく、健祐とは一向に視線を合わせようとはしない。
「フミさん、飲み物でも?」
 相変わらず幸乃の視線は文にだけ向けられたままだ。
「は、はい。いえ、お構いなく。お腹いっぱいで……」
 文は窮屈そうに断りを入れる。
「おばさん、どこなの? アヤちゃん……」
 幸乃は健祐たちの正面のソファに腰を下ろして、今度はテーブルの一点を見つめたまましばらく黙り込んでしまった。ようやく健祐に顔を向けると、静かに口を開いた。
「あの子は……」
 ひとことだけ発すると、幸乃は視線を外し、また沈黙を続ける。
「ねえ、おばさん」
 健祐は思い切って尋ねた。「アヤちゃん、もしかして……結婚してる?」
 幸乃は無言で首を横に振った。
 少々強張っていた健祐の身は緩んだ。思わず口から安堵の吐息が漏れる。
「アヤちゃんは、ここには……?」
 幸乃はもう一度首を横に振った。
「健ちゃん……章乃は……」
「やっぱりそうか。じゃあ、おじさんの実家なんだね?」
 幸乃はまたしばらく黙っていたが、健祐の気のせいなのか、どことなく躊躇いがちに語り始めた。
「健ちゃんに聞いてほしいの。章乃に頼まれたことがあって……」
「なんなの?」
 健祐の胸は躍った。思わず身を乗り出す。
 幸乃は徐に立ち上がると、居間の引き戸を開けた。
「健ちゃん、こっちに来て。章乃は向こうの部屋に……」
 健祐の直感は当たっていた。章乃はこの家にいたのだ。やはり既に戻って来ていたのだ。健祐を驚かせようとしているに違いない。健祐の唇が緩む。
「先輩、よかったね」
 その健祐の表情を読み取ってくれたのか、文が微笑みかけた。
 健祐は無言で文に笑みを送ると、幸乃に促されるまま立ち上がった。
「おばさん。アヤちゃん、やっぱり戻ってたんだね」
 幸乃は尚も無言だった。
「あの……恐れ入りますが、私もお会いしても……?」
「フミさん、健ちゃんの傍についていてくれる?」
 文は頷いて立ち上がり、健祐のあとに続いた。
 二人は、奥の和室に通された。部屋の奥には仏壇が置かれてあった。その横に、真っ青なワンピースがかけられている。ビロードか何かの光沢のある生地のようだ。
 幸乃は、座布団を用意して文に勧めたが、文は遠慮がちに部屋の出口近くの畳に、じかに正座した。
 健祐は、仏壇の前に座るよう促されるがまま幸乃の指示に従った。
 幸乃も少し離れて健祐の横に座ると、膝を立て仏壇の扉をそっと開けた。
 健祐はその行為の一部始終を見守っていた。
「おばさん、アヤちゃんは?」
 無言のまま健祐の顔を一度見て、突然、幸乃は畳に額をすりつけた。しばらくして顔を上げると、ハンカチで鼻と口を覆い、仏壇の傍まですり寄った。溢れる涙を拭いながら健祐の背中を何度も撫で、顔だけ幸乃に向いた健祐に謝り続ける。
「健ちゃん、ごめんな……さい」
 幸乃は声を詰まらせた。
「おばさん、アヤちゃんは、どこ……?」
 部屋の隅で文の嗚咽が聞こえる。
「フミちゃん。なんで……泣いてるの?」
 文は両手で口を押さえ、泣くばかりで何も答えない。
 ふと仏壇を見た。父親の遺影の横に、章乃の写真が並んでいる。健祐が肌身離さず携えているあの写真だった。
 健祐は部屋を見回した。ビロードのワンピースに目が留まった。鮮やかな青が朝日に映える。
「おばさん、アヤちゃんは、おじさんの実家だろう?」
「健ちゃん、本当にごめんなさい」
 幸乃はまた額を畳にすりつける。
「おばさん。なんで謝るの? なんで二人とも泣いてるの? アヤちゃんはどこ?」
 幸乃はゆっくりと上体を起こすと、ハンカチで目頭を押さえた。
「章乃は……いないのよ」
「分かってる。どこにいるの?」
「健ちゃん、章乃は……章乃は……」
 幸乃の目から次々と涙が零れ落ちた。
「アヤちゃんは……?」
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