第4話 天使の消失

文字数 17,130文字

 突然の出来事だった。寝ている最中に天輪(ヘイロー)から呼び出しのコールが鳴り響いた。ベリルはパッと目を覚まし何事かと応答すると、呼び出しの相手はオルトルだった。
「おはようございます、何事です?」
 普段は文字メッセージで連絡してくるので、コールで連絡を取ってきたのは今回が初めてだった。定型を重んじるオルトルが例外的な手をとってくるということは、よほどイレギュラーな事態にあることは間違いない。
「急ぎワープポータル3まで来てください。服装は仕事用のものをお願いします。」
「…了解しました。すぐ行きます。」
 使ったことの無いポータルの指定に、服装の指定。やはり予想通り、イレギュラーな事態が起きていることは間違いなかった。寝間着から、普段の仕事で重用している探偵風コーディネートに着替え、走って家を出る。ワープポータル3まで近づくと、何か物々しい雰囲気を感じた。複数の人影も見える。そして到着した瞬間、ベリルは驚きのあまり叫び声をあげかけた。
「っ!?あー、お、オルトル様?いったいこれは…。」
「おはようございます。皆様がお待ちでいらっしゃいます。早く落ち着いて話を聞いてください。」
 ポータルを囲む人だかりの端に居たオルトルはベリルを咎めるが、ベリルとしてはとても落ち着いてはいられない。人だかりは全て高位の天使達だった。5級天使が1人、4級天使が1人、3級天使が2人、特務3級天使が1人、2級天使が5人。計10人の天使がじろりとベリルを見つめている。
「仕方がありませんね。皆様には私から紹介させていただきます。この者はベリル。元人間の知見をもって、今回の任務のサポートを務めさせていただきます。」
 オルトルは相変わらずの鉄面皮で、10人の天使達へ説明を始める。まだ動転しているので、代わって説明してくれたのはベリルにとってはありがたいことだった。
「なるほど、選抜理由は分かりました。私はゼヘキエル。当チームのリーダーを仰せつかった者です。あなたにもよき働きぶりを期待させてもらうわ。」
 10人の中央からズイと一歩抜け出た女性型の天使が、仰々しくベリルに挨拶をする。頭上に輝く大輪の天輪(ヘイロー)は彼女が2級天使であることを示していた。
「よ、よろしくお願いします、ゼヘキエル様。期待に沿えるようがんばります…。」
 その威容に圧倒されながらベリルがなんとか挨拶を返すと、オルトルが今度はベリルへと向き直った。
「急ぎの任務なので早速説明を始めます。まずは状況説明を。先ほど2人の2級天使の消失が観測されました。」
「え?」
 2級天使は下位の神に匹敵する権能と実力を持つ。それが2人同時に消失するなど、相当高位の悪魔でも関与していなければまずあり得ない、緊急事態にあたる。事の大きさがようやく分かったベリルは、自然と身が引き締まった。
「落ち着いたようですね。説明を続けます。消失が観測された世界を統治していらっしゃるナーベア神様の指揮の下、計52人による5つのチームが編成され事態の把握の任務が与えられています。」
「さっきも言ったけれど、その内の1チームが我々で、そのリーダーが私ゼヘキエルよ。」
 ベリルとしても特に異存は無かった。どれほど危険な相手が潜んでいるのか分からない以上、2級天使が現場指揮をとるのは妥当だった。オルトルが説明を続ける。
「現地では広く人間が活動しています。あなたには、その中でチームを人間らしく隠匿するサポートを仕事として与えます。報酬は3,000ポイントです。」
「隠匿…ですか。」
 ベリルは困り顔を隠せなかった。自分を含めて11人もの多人数がぞろぞろと動くのを隠匿した経験は無いし、出来る自信も無い。
「仕事は飲み込めて?オルトルも言っていたとおり事は急ぐ必要がある。早く向かうわよ。」
 ゼヘキエルが宣言し、周囲の天使達がワープポータルを開きかける。ベリルはそれに対して待ったをかけた。
「仕事は理解しました。なのでまず1つやっていただきたいことがあります。」
「聞きましょう。」
「服を着替えてください。この人数で全員真っ白な服はたぶん悪目立ちします。」
「そうかしら?まぁ現地慣れしたあなたが言うのであれば、従った方が賢いのでしょう。さて、どのような服装がいいかしら?」
 ベリルは天輪(ヘイロー)から現地の概要を確認して考える。かなり発達した機械文明で、向かう先はその都市部だ。その中で天使10人を隠匿できる迷彩は何か。深く考える余裕は無いので思いつきを言った。
「黒のビジネススーツにしましょう。それで、皆さんが会議と視察のために出張してきた企業幹部で、私は現地のコーディネーターっていう設定でどうでしょうか。」
「いいでしょう。アイオラ?服装の具体的な選定と、設定どおりに偽装するためのデータと小物の準備を。」
 ゼヘキエルに呼びつけた先に目をやると、小柄な女性体の4級天使に声をかけたようだった。呼びつけられた4級天使のアイオラはかしこまった礼をすると、両手を前にかざす。その間に半透明なスクリーンが現れると共に、表面を目で追えないほど無数の文字と画像が走り抜けていく。
 10秒ほど経ったかと思った途端にアイオラがかざしていた手をパッと大きく広げると、スクリーンが粉々にちぎれ、その欠片が周りの天使達の天輪(ヘイロー)に吸い込まれた。吸い込んだ側の天使達が各々の天輪(ヘイロー)に触れると、皮を剥くような滑らかさで着ていた服が端からするすると黒いビジネススーツに置換されていった。
「会社名はレグナ・コーポレーション。事業分野は新エネルギーの既存事業への応用のコーディネート。企業理念、社用ロゴ、イメージタレントも完備。ベリル?一応こちらの名刺のチェックを。」
 綺麗な軌道で投げ渡された名刺を見てみると、デザインもロゴも、添えられたキャッチコピーも数秒で作成されたとは思えないほど“それっぽさ”があった。
「問題ありませんね。」
「では改めて向かいましょう。ベリル、先陣を切りなさい。」
 ベリルは言われるがまま、ワープポータルの扉を開いて入っていく。鬼が出るか蛇が出るか、ベリルは不安をかき消せないまま転送されていった。

 転送先はオフィスビルの従業員出入り口だった。隣のビルとの隙間に設けられたものだったので、狭く暗い。そう考える内に後ろからグイと押され、ベリルはすんでのところで倒れそうになった。
「何をぼんやりとしているの。後がつっかえているので早く行きなさい。」
 押してきたのはゼヘキエルだった。その後ろでは他の2級天使がつっかえていて、怪訝な眼差しをベリルに向けている。ベリルは慌てて退くがその後もぞろぞろと天使が出てくるので、どんどん押し出されて結果的に転がされるような形でビルの隙間から飛び出した。幸い比較的人通りの少ない時間だったが、無様にビルの隙間から出てきたベリルと、その後から連なって出てくる10人の団体は明らかに奇妙で、周りの人間全ての目を惹いていた。
「これは…まずクローズな場の確保が必要ですね。ちょっと待ってください。」
 ベリルは天輪(ヘイロー)の一部を現地の携帯端末に変換させ、11人が人目を気にせず
居られる場所を検索する。ちょうどいいところに、少し歩けばレンタルオフィスがあったので、そこを目指すことにした。
 レンタルオフィスのあるビルに入り、受付担当者と挨拶を交わし、早速レンタルを申し出た。しかし、受付担当者は困り顔でそれはできませんと返してきた。
「申し訳ございません。当オフィスをご利用いただくには事前予約が必要となっております。」
「空きが無い訳じゃないんだろ?なんとかならない?」
 なおも受付担当者が断りを入れようとした瞬間、アイオラが急に受付にグイと進み出てくると、受付担当者の顔を鷲掴みにした。
「うわ、ちょっと!何やってるんですか!?」
「予約がある状態に改竄をするんです。」
 アイオラはそう言いながらもう一方の手で受付に置いてあるコンピューターに手を突き入れる。その手は水に浸すようにどぷりとコンピューターの中に入っていった。異様な光景を見られてはいないかとベリルは慌てて周りを見渡したが、幸い誰も周囲には居なかった。数秒そうしたのちにアイオラが手を引き抜く。受付担当者はしばし呆けた顔をしていたが、すぐに営業スマイルを取り戻した。
「お待たせしております。レグナ・コーポレーション様でございますね。2階のルームDをお取りしておりますので、エレベーターで上がって左に曲がった突き当たりまでお進みください。こちらはルームキーです。」
 うやうやしく差し出されたカード状の電子キーを受け取ると、一行はエレベーターに乗り込む。ベリルはたまたまアイオラと隣り合わせになったので、釘を刺しておくことにした。
「下の立場から言うのは申し訳ないんですが、今回の仕事は隠密に動くべきなんです。さっきみたいな目立つ行動は避けてくださいね。」
「しかし、あぁしなければ部屋は取れませんでしたよ?」
「それはそうなんですけど、せめて周りに見ている奴がいないことをよく確認してからでお願いしますよ。」
「すみません…以後気をつけます。」
 アイオラは身をすぼめ、しょぼくれた声で反省を口にする。どうやら情緒面は階級の同じオルトルと違って丁寧に造られているようだった。ベリルは他の天使達はどうだろうかと気を揉んだ。先ほどのアイオラの行動に誰も待ったをかけなかったことを考えると、あまり良い期待はできないだろうとしか思えない。
(まぁしょうがない。そこまで含めてカバーするのが仕事なわけだし。)
 エレベーターが2階に到着すると、ベリルはチームに先立って受付で言われたとおりに部屋へ向かう。部屋は大きい会議向けに設計されているようで、11人が難なく入ることが出来た。ゼヘキエルが上座に座ると全員がぞろぞろと座りだしたため、ベリルもそれに倣って末席に座る。
「さて、拠点も確保出来たので早速任務に取りかかりましょう。カーネル?探査を始めてちょうだい。」
「かしこまりました。」
 ゼヘキエルが指示を出したのは誰なのかとベリルが思ったのと共に返事をしたのは、ベリルの対面に座っている5級天使だった。長い白髪をたくわえた老翁のような風体の、カーネルと呼ばれた天使はゆるやかな動作で目の前のデスクに両手を置く。すると複雑な見た目の紋章がカーネルを中心に大きく展開された。そして、カーネルが指先を何度も繰り返し細かく動かすと、記号や線が少しずつ動いたり、細部が書き換わったりと、随所で紋様が蠢くように変化していく。
「彼は情報収集に特化して造られた天使なんです。1分でおよそ半径10kmの範囲の情報を掻き集め、それを細かく分析して特定のものを探査するだけの能力があるんですよ。」
 横に座っているアイオラがベリルにそっと耳打ちしてくれた。実際のところベリルは何が起こっているのかよく分かっていなかったので、ちょうどいいタイミングだった。
 どれほどかかるのだろうとベリルは考えていたが、僅か2分でカーネルが指の動きを止めた。
「悪魔を1体検知いたしました。力は微弱のようですが、いかがなさいますか?」
 ゼヘキエルは唇に指を当てしばし思案し、そしてタンと勢いよく立ち上がった。
「もののついでです。討伐に向かいましょう。カーネルは引き続き探査を、そしてアルゴとクリソラは後詰めとして待機を。カーネル?反応があった場所の座標を私に送りなさい。」
 カーネルと、2級天使と3級天使をそれぞれ1人ずつ残して他の天使が一斉に立ち上がる。
「ベリルさん、何をしているんですか。行きますよ。」
「……?あたしも行くんですか?」
 てっきり自分も待機だと思って座ったままのベリルを、横からアイオラがつついてくる。とりあえず立ち上がりはしたが、ベリルはまだ半信半疑だった。2級天使が戦いに赴くのに、6級天使の自分が同伴する必要があるとはとても思えない。
「我々2級天使の力というものを、勉強として特別にあなたに見せてあげるのです。感謝なさい。」
 ゼヘキエルが威風堂々に言うので、疑問を差し挟む余地は無いということがやっとベリルも受け入れられた。
「座標は…なるほど、少々遠いわね。皆こちらに来てちょうだい。」
 3名の天使を残して、他の者がぞろぞろとゼヘキエルの周りに集まっていくので、ベリルもそれに着いていく。
「では、飛ぶわよ。」
 ゼヘキエルが指を軽快に鳴らすと、身体が砕けて飛んでいくような感覚が全身を走った。それはポータルを介さない転移魔法の副次効果だった。ホワイトアウトしていく意識の中、こんなことをする奴らを隠匿なんて出来る訳がないだろ、とベリルはこっそり悪態をついた。

 転移した先は、小さなバーの前だった。今はランチメニューを提供しているようだが、客はカウンターで飲み交わしている2人と奥の机でランチをとっている1人が居るだけだ。ゼヘキエルを先頭に店に入っていくと、店主は驚いた顔をしていた。
「いらっしゃいませ。8名様ですか?申し訳ないんですが奥のテーブル席で分かれて…。」
 店主の話を無視して、ゼヘキエルは3人の客を見渡す。そして瞬間移動と見紛うほどの早さでカウンターの奥側に座る小柄な客の側に回り込んだ。兎耳のカチューシャに、ポップな模様の入った黒い服、椅子に掛けている大きなリュックを見るに、一見すると大道芸人のようだった。
「初めまして。私は2級天使のゼヘキエル。あなたのような貧相な悪魔にとってはいささか格が…。」
 意気揚々と喋っていたゼヘキエルが急に固まる。その視線はグラスを掴んでいる左手に注がれていた。左手には牙を剥いた蛇を模した模様と、7の数字が刻印されていた。
「眷属級。」
 ゼヘキエルが固まった表情そのままに、凄まじい速度で手刀を放つ。しかし兎耳の悪魔はそれを難なく弾き飛ばした。間髪入れずゼヘキエルは蹴りを入れるが、兎耳の悪魔は大きく跳躍して躱してみせた。
「おやおや、2級天使が4人もおでましとは。いささか呑気にしすぎたかなぁ。」
 兎耳の悪魔がカウンターに着陸した瞬間、他の天使達が一斉に動き出した。3級天使がベリルとアイオラを抱えて店の奥、戦闘圏外まで運び、残った2級天使4人と特務3級天使が兎耳の悪魔へと飛びかかっていく。
「相手は“蛇の七位”!なんとしても仕留めなさい!」
 ゼヘキエルの宣言に、一気に天使達が殺気立つ。一方兎耳の悪魔は余裕綽々といった様子で、繰り出される攻撃を難なくいなし、躱す。
「ばれちゃってるんじゃしょうがないね。“蛇の七位”を戴く悪魔、このライトップの名誉にかけて少し本気を見せて差し上げよう。」
 悪魔がライトップと名乗りを上げた瞬間、ガラリと纏う雰囲気が変わった。微かにしか感じ取れなかった魔力が爆発的に解放され、離れているベリルですら震え上がるほどの圧が空間を支配する。底の見えない奈落に突き落とされるような恐怖を思わせる、重厚な圧だった。
 他の天使達も怯んだところに、ライトップがすかさず特務3級天使の前に躍り出る。特務3級天使は一歩反応が遅れ、左肩に爪を立てられて袈裟懸けにされかかる。胸の辺りまでメキメキと抉られたところで、ゼヘキエルがぐいと引っ張って致命傷は避けた。
「ドロウズ!どれでもいいので剣に!」
 ゼヘキエルがそう叫ぶと共に、引っ張られた反動で横に振り回されていた特務3級天使の身体が溶けるように形を変え、金に煌めく長剣へと変ずる。ゼヘキエルは反動を利用してぐるりと一回転して勢いよく斬りかかるが、ライトップは鮮やかなバックステップでこれも躱した。しかし他の2級天使がステップの軌道を読み、着地点で叩きつけを狙って待ち構えている。ベリルはこれは当たると思ったが、ライトップは叩きつけてくる腕を中心にまとわりつきながらするりと避け、肩の上で逆立ちすると逆に叩きつけて跳躍をきめた。だが、さらにもう1人の2級天使が跳躍した先にタイミングよく跳び上がり、大きく腕を振りかぶって強く拳をたたき込む。さすがに避けきれなかったようで、ライトップはバーの壁に叩きつけられた。
「やーるねぇ。【螺旋解き】。」
 ライトップが吐血しながらも唱えると、壁にライトップが触れた箇所を中心に渦巻くように亀裂が走り、ばらりと崩れる。その破片を足がかりにライトップはまた跳躍し、大通りへと逃げていく。
「逃すな!」
 ゼヘキエルの怒号に応じて他3名の2級天使が追いすがる。ベリル達も距離をとりつつ後を追う。攻撃の先陣を切って迫るのは先ほど殴りつけた天使だ。また距離を詰めようとした瞬間、ライトップが指2本を差し向けた。
「【狡兎挟み】。」
 唱えると共に天使の足下から巨大な黒兎がぬるりと湧き出し、大口をガチンと閉じてかぶりついて身動きを封じる。だがゼヘキエル達は構わずライトップに攻勢を続ける。
「おやおや薄情だね、っと。【茨の群体鳥】。」
 今度は黒い棘で形作られた大量の小鳥の群れが生成され、ゼヘキエル達へと飛びかかる。ゼヘキエルだけが特務3級天使が変じた剣を盾代わりにしてそれを凌ぎ、ライトップへと斬りかかる。
「まったくしつこいなぁ。【夜兎の機械人形】!」
 ライトップの背後から大きな兎の縫いぐるみが現れる。布地と機械を滅茶苦茶に継ぎ接ぎされたそれは耳障りな咆吼を上げると、振りかぶられた剣と激しい音を立ててぶつかり合い、弾いた。ゼヘキエルは苦し紛れに何発も白い光弾を放つが、ライトップも同じ数の黒い光弾を放って相殺しながら人混みの多い方へ逃げていく。だが意外にもゼヘキエルは逆方向へと跳躍した。一瞬怪訝な顔をしたライトップは、ハッと空を仰ぐ。その視線の先からは、巨大な矢が凄まじい速度でライトップへと迫っていた。
「神様までご参戦とはねぇ!」
 ライトップは縫いぐるみを咄嗟に動かし、矢に衝突させる。その衝撃波は周囲のビルをギシギシと軋ませるほどで、2級天使達も踏ん張っているのが精一杯だった。受け止めている縫いぐるみも端々が千切れ飛び、崩壊は秒読みの問題だった。遠くから眺めていたベリルは遂にやったかと思ったが、ライトップは縫いぐるみが崩壊するとすかさず黒く波打つ円盤を作り出し、なおも矢の勢いを受け止める。矢は円盤を歪ませるほど強くかち合ったが、強烈な金属音をまき散らしながら先端から潰れていき、ついにぐちゃぐちゃの塊になって地面に墜落した。
「ふぃー、さすがに危なかった。暇つぶしがてら遊んでただけなのに、こんな目に遭うなんてねぇ。」
 凌ぎきったライトップもノーダメージでは無かったようで、両手のあちこちが黒くひび割れていた。それを見たゼヘキエル達は討ち取ろうとじりじりと距離を詰めていく。
「仕方ない、情けないけどここは、」
 ライトップがだらりと両手を下げる。瞬間、その頭が歪に大きく膨らんだ。
「ぷぅ。」
 膨らみが弾け、中から大量の小さな黒兎が溢れだした。天使達は咄嗟に黒兎たちに攻撃を放つが、あまりの数と多さと俊敏さに仕留められたのはほんの僅かだった。
「……終わりましたね。アイオラ!改竄と修繕の手配を始めなさい。」
 臨戦態勢を解いたゼヘキエルが、アイオラに指示を飛ばす。アイオラはすぐに天輪(ヘイロー)でどこかと連絡を取り合い、今後の方針について話し始めた。
「しかしまぁ、これがどうにか出来るなら…あたし今回要らなかったんじゃないかな。」
 矢の放たれた周囲の地表はでこぼこと隆起し、周囲のビルは窓ガラスが全て割れ、いくつかは傾いている。そして戦闘の始まったバーでは、壁一面がまるごと無くなったのを店主が途方に暮れて見つめていた。

 だが意に反して、その後もベリルには仕事が与えられた。まずゼヘキエル率いるチームと、他の被害状況を改竄および修繕する大勢の天使達のホテルの確保。そして人間に擬態するための装いと振る舞いの設定統合、さらに食事の手配。方々に手を回して、やっと一息つけたところでソファに身を投げた。部屋は一応男女型それぞれに分けられた、VIP用の豪奢なスイートルームだ。なんとなくテレビを付けてみたが、昼間にあった戦闘はニュースになっていなかった。改竄は見事に行われたようだ。
「ただいま戻りました。」
 そう思っていたところにちょうどアイオラが戻ってきた。ゼヘキエル達は天輪(ヘイロー)に指を添えてずっと小声で何か連絡を取り合っているので、ベリルだけが出迎えの挨拶をした。
「お疲れ様です。もう全部上手くいきました?」
「はい、何しろ目撃者が多かったので記憶改竄に手間取りましたが、漏れなく完了です。」
 アイオラがソファに向かうので、ベリルも一緒に腰掛けた。
「治療が必要な怪我もドロウズ様だけです。相手の力量を考えれば非常に被害は少ない。直接的にもナーベア神様のお陰ですね。」
「眷属級?でしたっけ。強かったですね。2級天使4人がかりと神様の援護射撃込みでもまるで歯が立ってなかった。」
 アイオラはベリルの顔を正面から見つめてくる。変人でも見るような微妙な表情をしていた。
「あの場で全員消失していてもおかしくなかった相手ですよ。」
「え。」
 思っていた以上の答えに、ベリルは固まった。
「眷属級とは、全ての悪魔の頂点に立つ4体の王、その直属の配下達です。強さはピンからキリまで差がありますが、今日対峙した“蛇”の七位はあなたも見たとおり、神様すら相手取れる実力者です。今回は向こうが逃げの一手だったので助かった、それだけなんです。」
 淡々と話すアイオラに対して、ベリルは心臓を鷲掴みにされるような恐怖を改めて感じた。
 2人がソファで沈み込んでいると、ゼヘキエルが突然大声を上げた。
「見つかった?早く情報をこちらに!」
 ゼヘキエルの天輪(ヘイロー)の一部が黄色くポンと一瞬輝く。ゼヘキエルはすかさずそこをタッチして画像を表示させる。ベリル達もそれを見にゼヘキエルの元へ駆け寄った。
「これは…これだけですか?」
 別の2級天使がゼヘキエルに問いかける。ゼヘキエルは首を縦に振った。
「これ以外は完全に消失していたそうよ。」
 画像に写っていたのは、手首から先だけだった。多少気になるのは、2つの手がそれぞれを握っていることだけだった。
 「ほぼ全壊…そしてあの眷属級が居たこと。おそらく彼らは奴に襲撃されたのでしょう。」
 ゼヘキエルの推測に他の天使も同調する。しかし、ベリルはどうにも腑に落ちなかった。一方そのシナリオで調査・検討を進めることは既定路線になったようで、ゼヘキエルはおもむろに背中から翼を出すと、バルコニーへと向かっていく。他の天使達も同じように続いていくのでベリルもそうしようとしたが、ゼヘキエルに待ったをかけられた。
「あなたやアイオラのような高度な戦闘に向かない者は原則待機よ。例の悪魔が逃げたと見せかけて待ち伏せしている可能性は、まだ排除できないもの。」
 そう言い含めると、バルコニーから次々と天使達が飛び立っていき、部屋にはベリルとアイオラだけが残された。こんなに堂々と飛んでいって大丈夫なのかとベリルはバルコニーから外の様子を見てみたが、すっかり日が落ちて夜になった街でわざわざ空を見上げている者はいなさそうだった。
「んー、待ち伏せ、ね…。」
 ベリルはどうにも悪魔の襲撃で破壊された、というシナリオが納得いかず、気晴らしに冷蔵庫にサービスで入っていた高そうな瓶ジュースを開けて、ソファに腰掛けがてらに一息に飲み干す。しかしどうにも気が晴れない。思い悩んでいると、アイオラが気を利かせて隣に座ってくれた。
「何か困っていますか?」
「困っているわけじゃないんですけど、ちょっとモヤモヤするんですよね。…これはあくまで勘にすぎないんですが、あたしは悪魔に襲われて破壊されたと思えないんです。」
 アイオラは少し驚いた顔を見せる。
「なぜですか?2級天使を、しかも2人も事前に気づかれず破壊するなんて、あの眷属級ほどの実力と隠蔽力が無ければ到底無理だと私は思います。」
「あの悪魔、『暇つぶしがてら』来てたって言ってましたよね。その程度の理由でわざわざ2級天使を狙うなんて割に合わないと思いませんか?実際その結果、こうしてあたしら援軍を大勢呼び込んで戦闘まで起きてます。リスクリターンが釣り合ってません。」
「その援軍も狩るつもりだったのでは?」
「だったらあたし達も壊しにかかってくるはずです。ですが向こうは逃げに徹した。」
 ベリルの意見にアイオラも揺り動かされたようで、腕組みして考え込む。だが結局アイオラも筋の通った結論は出せなかったようで、ソファの背もたれにだらんと身を預けて考えるのを放棄した。
「単なる気まぐれだったのではないでしょうか。悪魔は退廃的で享楽的な行動を好むというのが通説ですから。」 
「…そうも考えられますよね。あたし達を誘い込んで火遊びに興じたかっただけかもしれません。」
 しばしの間沈黙が流れる。それを破ったのはベリルだった。
「やっぱり気になるので、ちょっと調べてきていいですか?1つだけ心当たりがあるんです。」
「やめておいた方がいいのではないですか?ゼヘキエル様達がお戻りになられた時に、持ち場を離れたとして処罰されるかもしれませんよ。」
「1時間で済ませますから、どうか目こぼししてくれませんか。」
 アイオラは困り顔で引き留めるべきかどうか悩んだが、ベリルの“心当たり”とやらへの興味の方が勝ったようで、送り出してくれた。
「1時間だけですからね。」
 心配そうに部屋の出入り口まで見送りに来てくれたアイオラに軽く一礼して、ベリルはホテルの外へと向かった。

 ベリルが脚を運んだ先は昼間に来たバーだった。ベリルの“心当たり”は昼間に例の悪魔と酒を飲み交わしていた客のことだった。悪魔が遊び気分で来ていたなら、何か情報を漏らしているかもしれない。
 だがこれはかなり賭けだった。まず何も情報を漏らしていない可能性もあるし、そもそも目的の相手を見つけられるかも分からない。さしあたりバーのマスターに何か知っていないか聞いてみることにして、ベリルはバーのドアをくぐった。
「いらっしゃいませ。」
 マスターは丁寧な挨拶で出迎える。ベリルは率直に尋ねてみることにした。
「覚えてたらでいいんだけど、昼間にカウンターで飲んでた奴がいただろ?そいつについて何か知らない?」
 マスターは怪訝そうな表情を浮かべたが、ベリルは使い慣れた『浮気調査中の私立探偵』の嘘設定で切り抜けた。
「カルパさんか。ちょうどいい所に来ましたね。彼ならそこで飲んでますよ。」
 マスターが横を向いて顎で指した先に、確かにベリルが探していた相手が居た。顔がかなり赤く、相当酔っているようだった。ベリルはさりげなく近づいて隣に座った。
「隣いい?」
「あー、誰?まぁいいよ、どうぞ。」
 カルパと呼ばれた男性客はとろんとした眼で、ベリルのことを認識出来ているか少々怪しいほど泥酔していた。接触には成功したものの、まともに話を聞き出せるかはまた賭けだった。
「ちょっと聞きたいことがあってさ。昼間にも誰かと飲んでたろ?何喋ってたかとか覚えてないかな。」
 カルパは中空を見てぼんやりとしていたが、幸いにも覚えていたようだった。
「あぁ覚えてる。何しろ変な服装の子だったからね。…ビール一杯で手を打とう。」
「交渉成立だな。」
 マスターが飲み過ぎですよと心配するが、カルパは聞く耳持たない様子でビールを催促する。マスターは渋々といった様子でビールのグラスを出してくれた。カルパがぐびぐびとグラスを空にしていくのを見て、ベリルも少し心配になった。
「荒れてるな。」
「荒れてるのさ。昼間の子にも僕の愚痴ばっかり聞いてもらったんだ。よければ君も聞いてくれないか。」
 あっという間にグラスを飲み干して、カルパは机に肘をついてもたれかかった。
「いいよ。」
 こういう気の弱った人間につけ込むのは悪魔のよくやる手口だ。ベリルは何かが拾えるのでは無
ないかと重い、自分もカクテルを注文しながら耳を傾けた。
「実はね、この世界は終わっていたかもしれないんだ。しかも高い確率で。」
 穏当ならぬ話だった。ベリルは続きを促した。
「僕は国立航空観測局に務めていてね。2週間前のことだ。この星の地表を破壊し尽くすのに十分なサイズの隕石が向かってきていることが分かったんだ。衝突確率は87%もあった。でもこんな話、どこでも聞いたことが無いだろう?」
 ベリルは今日来たばかりなので無論何も知らないが、適当に相槌を打った。
「報道規制さ。世界は87%の確率で終わります、って発表したら世界中が狂乱するだろうから内緒にしておこうってお偉いさん方は決めたんだ。当然僕ら職員にも箝口令がしかれた。この2週間僕は気が狂いそうだったよ。もうすぐ世界が終わる、皆死ぬ。なのに世界は普通に回っている。僕だけが絶望しているんだ。孤独だよ。何もかもぶちまけてめちゃくちゃにしてやりたい衝動に何度襲われたことか。」
「でも、実際には終わらなかった。」
 ベリルは疑問を差し挟む。カルパは“終わっていたかもしれない”と語ったし、今世界はこうして普通に存在している。
「僕らは13%の当たりを引いたんだ。隕石は奇跡的に直撃軌道から逸れた。それが分かった瞬間の喜びは間違いなく人生最大だったさ。でもその後が最悪だった。」
「なんで?皆の世界は無事、ハッピーエンドじゃん。」
「そうだね…やつあたりかな。僕があれだけ絶望していたのに、世界は何も変わらなかった。そうしたら僕の存在は何なんだ?何で生きているんだ?って考えちゃたのさ。そうしたら何も知らないで幸せに生きている人達が腹立たしくなってね…。」
 哲学的な話だとベリルが返答を考えている内に、カルパは俯いて、シパシパと瞬きをせわしなくするようになった。酔い潰れる兆候だ。ベリルは急いで聞くべきことを聞き出しにかかる。
「それで、その話を聞いて昼の奴はどんなことを言ってた?」
 カルパは俯いていた頭を少し上げて、また中空を見つめる。どうやら思い出そうとする時の彼の癖のようだ。
「えーと…なんだか抽象的な話だったな。神様がどうとか。」
「神様?宗教の勧誘でもされた?」
 なるべく気のない風を装いながら、ベリルは内心喜んでいた。真相に迫る情報が取れるのではないかという期待感が否応にも高まる。
「いや、勧誘じゃなかった。むしろ逆だったかな。神様は人が困ってるのを眺めて腹を抱えて笑ってるんだ…みたいな。無神論?いや違うか…。」
「その後は?」
「その後か…ごめん。たぶん酔い潰れたんだ。覚えてるのはそこまでだ。」
 カルパはまた俯く。おそらく酔い潰れたのではなくて、そのタイミングで天使が襲来し、そこ以後の記憶は改竄されて無かったことにされたのだろう。ベリルは少ないながらも1つの確信を得た。やはりあの悪魔は何か具体的な目的を持ってきたのでは無い。本当に遊んでいたのだ。
「どうもありがとな。」
 ビールとカクテル代をマスターに渡し、ベリルはホテルに戻る。10分ほど歩いたところで、ふと仮説が1つ思い浮かんだ。
 遊ぶ悪魔。87%の世界の終わり。握りあった手と手。断片的な情報が頭の中で緩やかに繋がる。だが、重大な問題があった。根拠が無い。
「……聞いてみるか。ダメ元で。」
 ベリルは早足でホテルへと戻った。

 戻ってみるとまだゼヘキエル達は帰ってきていなかったので、アイオラに2つのことについて質問をしてみた。しかしアイオラは首を横に振った。
「すみません、どちらも私では分かりかねます。」
「そうですか…。」
 ベリルは渋い顔になる。そうなると残った手はゼヘキエルへの直談判くらいしか思いつかない。しかしあの高圧的な天使がベリルのような階級の低い天使の話に耳を傾けるかどうかは
、あまり期待できなかった。
「私がゼヘキエル様に取り次いでみましょうか?私は直属の部下ですから、ある程度は聞いてもらえるかもしれません。」
「いいんですか?それはすごく助かります。」
 思わぬ助け船に、ベリルは安堵する。アイオラはにこやかに微笑んで応えた。ベリルは上司のオルトルを思い出す。同じ4級天使でもずいぶん接しやすさが違った。神様はもう少し天使の造りの巧拙に気を配るべきだと思わずにはいられなかった。
 1時間ほどやることもなくぼんやりとしていると、ゼヘキエル達が舞い戻ってきた。得てきた情報を整理するために話し合いが行われ、終わるとゼヘキエルは椅子に優雅に腰掛けた。そこを見計らってアイオラが近づいていき、ベリルの代わりに質問をしてくれた。ゼヘキエルが一瞬じろりと目線を寄越してきたのでベリルはひやりとしたが、結局一通り質問には答えてくれたようだった。
「質問2つのうち1つはお答え戴きました。消失されたお二方の勤続は約150年だそうです。長い方ですね。」 
「なるほど。」
 ベリルは納得し、アイオラは困惑する。彼女にはその問いの意味が分からないのだ。
「もう1つについてはこの場では確認出来ないので、調査後にご連絡いただけるとのことです。」
「ありがとうございます。」
 そこさえ分かれば、ベリルの疑問は解消できそうだった。もうすることも無いので寝ようかとベッドに向かおうとすると、ゼヘキエルに呼び止められた。
「ベリル!お待ちなさい。招集が来ています。」
「招集?誰からですか。」
 振り返って応えてみるとゼヘキエルは腕組みしてベリルを睨んでいた。どうやら気にくわないらしい。
「ナーベア神様からです。」
「へ?」
 全く予想していなかった事態に、ベリルは間抜けな声を漏らした。
「あなたが調査を願い出た件について、直接お話をされたいそうです。急ぎ向かいなさい。」
 ゼヘキエルが天輪(ヘイロー)の前部に指を添え、弾くように部屋のドアへ指を差し向けると、ドアが端から薄い蒼色に、まるでさざ波が流れるように浸食されていく。数瞬後には海を思わせる美しい濃淡ある蒼いドアに変わっていた。
「ホントに?あたし単騎で行くんですか?」
 神様とのサシでの対話。ベリルは緊張で部屋ごと揺れているような目眩を覚えた。この際ゼヘキエルでもいいので付いてきて欲しいと思ったが、逆にゼヘキエルは2級天使たる自分が呼ばれなかったことが不服なようだった。
「そうです。1人でとのご指名です。何をだらだらしているのですか?」
 ゼヘキエルが強く威圧し始める。周りを焼き焦がすような強烈な圧に、他の天使達も怯え始めた。
「す、すみません!すぐ行きますから!!」
 これ以上は収集がつかなくなると咄嗟に悟ったベリルは慌ててドアを押し開け、その先へと踏み出した。

 進んだ先に広がっていたのは意外な光景だった。神様の部屋なので荘厳でいかめしい玉座の間を想像していたが、荘厳さの欠片もない部屋だった。
 そこそこの広さの部屋に大小のモニターがあり、その下や横にある棚には雑多な本やフィギュア、砂時計、複雑な造りの銀細工など様々モノが無秩序に置かれていた。部屋は薄暗く、モニターの明かりが煌々と部屋に明かりを投げかけるその中心で神様が、ナーベアがデスクチェアのに座ったまま伸びをしていた。
「やぁいらっしゃい。ボクがナーベアだ。椅子はいるかい?」
 見た目は普通の青年だった。セミロングの黒髪に、縁なしの眼鏡に、無地の白いTシャツと蒼いチノパンという服装からは、神様と聞いて連想するような威厳は微塵も発せられていない。ベリルが萎縮しすぎないようにあえて抑えてくれているのだろう。唯一特徴的なのは、右手の肘から先にもう1本腕が生えていることぐらいだった。
「ありがたいお言葉ですが、結構です。このまま話を伺わせていただきます。」
 以前上司のオルトルがそうして上の者に謙遜していたのを真似て、ベリルも辞退した。
「そうかい?なら早速話を始めよう。まず、君の調査依頼の結果からだ。」
 頭の後ろで組んでいた手を顔の前で組み直すと共に、目つきが別人のように鋭くなった。真剣な話をするという合図。ベリルは息を呑んで静かに次の言葉を待った。
「君の考えたとおりだった。隕石の衝突率に改竄が行われていた。本来の衝突率は87%じゃない、91%だ。衝突しない確率は0ではなかったし、天使の消失に気をとられて確認などすっかり忘れていたよ。」
「当たっていましたか。」
 そうであるならば、ベリルが立てた仮説は信憑性を増す。
「この事実と2人の消失、これが原因と結果の関係にあると仮定すれば、ボクにも今回の事件のおおよそが察せられる。その答え合わせがしたくて、君にはここへ来て貰った。君の推理を聞かせてほしい。」
 ベリルは少し黙り込む。ナーベアも黙ってベリルが口を開くのを待った。
「…推理と言うほど大層なものではないんです。あくまであたしが立てたのは仮説です。それも割と無理のある。それでもいいでしょうか?」
「構わない。聞かせて貰おう。」
「分かりました。では、あたしの仮説を言います。“2人の天使は、4%の確率をねじ曲げるためにその身全てを捧げ、自壊した”。…いかがでしょうか。」
 ナーベアは2本の右腕でトントンと額を叩き、そしてため息をついた。
「答え合わせは成功だ。ボクもそう考えた。」
 ナーベアがため息をつくのも無理はなかった。ささやかではあるが、天使から神への反逆行為なのは間違いない。ベリル1人を呼んだのも、まだそのことを外部に公表するかどうか決めかねていることもあってなのだろう。
「しかし謎だね。どこからその仮説に辿り着いた?なぜ改竄の可能性に気づいた?」
「きっかけは3つあります。」
 ベリルはゆっくりと思い返しながら説明を始めた。
「まず、あの悪魔が2人が壊したと考えると不合理すぎたのが気になったんです。見つかるまで悠長に遊んでいて、そのくせ見つかったら逃げの一手。ちぐはぐです。そこから壊されたのではない、ならば、自壊したのではないかと前提を変えてみました。」
「なるほど。いい着眼点だ。」
 ナーベアの反応に手応えを感じながらベリルは話を続ける。
「この前提を補強してくれたのが残された遺骸です。残っていた手は互いに握り合っていました。手を握り合うってのは、何かに立ち向かうために支え合う時にするんです。…2人は自分たちが壊れ消える、その怖さに立ち向かったのではないかと。そう思ったんです。」
「……。」
 今度は反応が悪かった。だがここで話を止めても仕方がない。ベリルは最後まで話し通すことにした。
「2級天使の力を以てしても、自分の全てを捧げなければ成し遂げられないこと、となると相当の大事におのずと限られてきます。それこそ世界の根幹に関わるような。そして隕石の衝突という大事があったことが決め手になりました。」
一言ずつ慎重に選びながら、ベリルは続ける。
「それに、これならなんのためにあの悪魔は居たのか?という疑問にも答えられます。あの悪魔はきっと本当に遊びに来てたんです。世界が滅びるのを知って狂う人間達の姿を眺めて嗤いたかったんでしょう。だけどそれは防がれた。その憂さ晴らしにあそこで飲み交わしていたのではないでしょうか。…以上が仮説に辿り着いた経緯です。」
 ナーベアは目を閉じ、腕組みをして考え込んでいた。まだ納得していない様子だった。
「筋は確かに通っている。だが重要なモノが欠けている。動機だ。ボクに忠実なはずの2級天使ともあろう者が、なぜそこまでする?」
「……好きだったのではないでしょうか。世界が。150年も見ていたら多少の愛着くらいは抱くでしょう。」
 ナーベアは眼を丸くしてあっけにとられていた。全くの想定外の答えだったのだろう。
「馬鹿な。そんな理由でボクに背き、その身全てを捧げたと?考えられない。」
「そうですね。普通そんなこと考えられない。だから仮説以上にはならないんです。推測、いや単なる願望かもしれません。」
 ベリルはそう白状するしかなかった。天使は消えてしまった。その真意を確かめる術はもう無い。ナーベアはもどう受け止めるか考えあぐねているようで、黙り込んでしまった。

「すいません、あたしから話せることはもう無いです。帰ってもよろしいでしょうか。」
 ベリルは沈黙に耐えかねてナーベアに話しかける。だが、ナーベアは帰りの扉を出してはくれなかった。
「いや、あと1つだけ質問に答えてくれ。それが終われば直帰できる扉を出そう。」
「…分かりました。お答えいたします。」
 ベリルは改めてナーベアに向き直った。これは重要な問いだと直感が告げていた。
「ボクは2つのプランを考えている。1つは君の仮説を認めて、本来の確率で隕石衝突をやり直すプラン。もう1つは決定的な根拠が無いとして君の仮説を黙殺し、原因不明の事故として処理するプラン。……君がもしボクの立場だったら、どちらを選ぶ?」
 難しい問いだ。だがベリルは迷わず答えた。
「後者のプランを選びます。ナーベア様“として”ではなく、ナーベア様“と同じ立場として”ということであれば。」
 ベリルが即答した事にナーベアは少しばかり驚いたようだった。
「その心は?」
「立場だけを共有するのだったら、問いたいのは元人間としての目線ですよね。神や天使ではなく人間として言うなら、身を犠牲に世界を少しでも救おうとしてくれた天使の優しさに報いたい。それだけです。」
 ナーベアはそれを聞いて、ぽつりと呟いた。
「情、か。」
 そして3本の腕を上げながら大きく伸びをし、力を抜いて椅子に座り直した。
「ありがとう、いい答えをもらったよ。ボクは心の機微というものにはどうしても疎い。なにしろ見えるモノも範囲も人間たちとは全く違うからね。…だが、やはり論理的なのは前者のプランということも覆しがたい。そこで提案だ。君の報酬から500ポイントをもらいたい。君には全く益のない提案だが、どうかな?」
「受け入れます。」
 ベリルはぶれなかった。ナーベアはしばらく値踏みするような冷徹な目線を投げかけていたが、最後にはゆっくりと眼を閉じた。
「いいだろう。報酬の件はボクからオルトルに直接話しておく。お疲れ様、もう帰っていいよ。」
 ベリルはガクンと力を抜いた。もう緊張の限界だった。
「ただし、ここで話したことは誰にも明かしてはいけないよ。それも優しさに報いるための対価だ。」
「喜んで。」
 ベリルの前に、白い扉がじわじわと湧き上がる。ベリルはナーベアへ一礼すると扉を開けた。そして、消えた優しい天使達のために少しだけ泣いた。
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登場人物紹介

ベリル


元人間の6級天使。人間に戻るために仕事を請け負っている。情に流されやすい。

赤みがかったボサボサのロングヘアーの女の子で、服装もテキトーに選んでいる。

オルトル


ベリルの上司にあたる4級天使。純正天使なので人間味がほとんど無く、いつも事務的。

薄金色の白髪で、天使のイメージだいたいそのままの姿をしている。

ルマリ


元人間の特務6級天使。ベリルが人間であった頃から仲の良い友人。

薄灰色のショートヘアに青い瞳の、小柄な女の子。気弱な性格で、表情が顔に出やすい。

服装は仕事用の黒いローブを纏っている。

オブシディオ


元人間の特務6級天使。ベリルの最も古い顔馴染み。

身長2m近くのマッチョな男で、厳つい顔つきのため威圧感があり天使っぽくはない。

お洒落のセンスは高い。

ゼヘキエル


天使消失事件の調査チームを率いる、2級天使。

その強さゆえに自信家で、ちょっと高圧的。

アイオラ


天使消失事件の調査チームの1人で、情報操作や認知改竄を得意とする4級天使。

小柄で温和な話しやすいタイプ。

ドロウズ


天使消失事件の調査チームとしてベリルと同行していた、3級特務天使。様々な剣に変身したり出したりする能力がある。

後日、たまたまカジノに行くベリルと再会して同行する。

非常に情緒に乏しい割に、突飛な行動をしてベリルを悩ませる。

エグネヴィア


ベリルがばったり出くわしてしまった”眷属級”の悪魔。

所属は羊。

とある理由からベリルと対話をすることになる。

ダイア


ベリルが人間だった頃の、1番の友人。

ベリルの罪の原点。

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