第1話 天使と奇跡

文字数 10,497文字

 朝が来て、目が覚める。少々暗い日差しに、そういえば今日は曇りと“決まっている”ことをベリルは思い出した。
 意識ははっきり覚めていて、身体も伸びやかに動く。時計を見てみると睡眠時間はぴったり7時間だった。機械的なほど完璧な寝覚めを実現する天使の身体は便利ではあったが、ベリルは未だに受け入れがたく感じていた。
「……絶対に辞めてやる。」
 ベリルは天使だ。階級は下から2番目の6級天使に在位している。だが、かつては人間だった。神に反抗し、その懲罰として天使をやらされている。その仕事は文字通り“天の使い”、ラフに言えば“神様の使い走り”。神が世界を統治する中で発生する、細かなトラブルを地道に処理する仕事がほとんどだ。やりがいも面白みも少ないが、仕事の報酬でもらえるポイントを稼がなければ、天使を辞めて人間に戻ることはできない。
 ベリルはため息をつきながら、ふてくされた顔で今日の仕事を確認する。頭上に漂う天輪(ヘイロー)の端をタップしメッセージ一覧を見ると、既に上司から連絡が届いていた。
「40分後にワープポータル9まで来ること、ね。へいへい。」
 ワープポータル9までは約10分で行ける。時間に余裕があるのでベリルは朝食をとることにした。ベッドから立ち上がるとキッチンに向かい、トーストを一切れ取り出してトースターに入れる。焼き上がりを待つ間にコップを棚から出して野菜ジュースを注ぐ。焼けたトーストを皿に置き、適当にジャムを塗りたくって出来上がりだ。
 実のところ、天使の身でそこまで用意する必要性はない。全く食事を摂らなくても1ヶ月ほどは活動できる。摂取するのも簡素なゼリー食で事足りる。それでも食事を手間をかけて用意するのは、あくまで人間で在ろうとするベリルの意地だった。睡眠もそうだ。5日に一度、1時間も眠れば事足りる。それでも頑なに毎日7時間眠ることで、ベリルは人間らしく在ることに拘っていた。天使になって何もかも変わった生活の中で、人間で在ろうとすること。それだけは変わらない、譲れないしるべだった。

 朝食を食べ終えて時間を確認すると、まだ15分余裕があった。特段他にすることも無いので、早めだがベリルは家を出ることにした。柄無しのシャツとズボンを身につけ、薄手のカーキ色のコートを羽織る。最後に、ややくたびれたハンチング帽をかぶるのがいつものベリルの習慣だ。天輪(ヘイロー)を隠すと共に、身分を聞かれたときに私立探偵だと言い訳が効きやすいようにしてくれるこの一式を、ベリルは気にいっていた。家から出て、しばらく歩いていると後ろから声をかけられた。
「おはようございます!ベリルさん。」
 美しいソプラノ調の声は、近隣に住居を構えている女性型の7級天使のものだった。上司の指示方針が似ているのか、出勤途中でたまに出くわすことがある間柄だ。
「おはよ。」
 ベリルは適当に返事を返す。実を言うと彼女のことは苦手だった。朗らかに話しかけてくるが、その内容は天気の話と近所で起きた些細な出来事、そして神を礼賛するものばかりで、聞けば聞くほど人間味の薄さが目立って不気味さを感じずにはいられなかった。
「今日は曇りですね。明日も曇りですね。でも、明後日は晴れにしてくださるそうですよ。この順番は何か神様のご意思があるのでしょうか?」
「たぶん無いと思うよ。」
 神様はいいかげんだからな、と付け加えそうになったのをベリルはすんでの所で抑えた。以前うっかりそこまで言及し、説教に捕まってずいぶん遅刻した苦い経験をベリルはしっかり覚えていた。しばらくそうして聞き流していると、二叉に分かれた道にたどり着いた。いつもここで2人は別れていた。
「それでは私はこちらですので、失礼いたします。神のご加護のあらんことを。」
「ん、ご加護のあらんことを。」
 彼女が手を振りながら遠ざかっていくのを見届けながら、ベリルは小さくつぶやいた。
「あるに決まってるだろ。天使なんだから…。」
 神の使いとして活動する以上、加護は当然受ける。そしてそれは監視でもある。7級天使の彼女はそこまで深くは考えてはいない。ただ儀礼的に言っているだけだ。それでもいちいち会う度に復唱させられるのは、天使であることに不満を抱えているベリルにとっては無視しきれないむかつきの種だった。そしてそういうむかつく出来事は往々にして重なるものだ、とベリルは信じていた。曇天をそのまま映したようなしかめ面のまま、ベリルは待ち合わせのワープポータル9へと向かった。

 到着したのは指定された5分前だったが、既に上司にあたる天使が待っていた。継ぎ目のない白のローブに4枚の白羽根、ベリルのものより1周り大きい、さんさんと輝く天輪(ヘイロー)。いかにも天使らしい格好をしたその天使は4級天使として、さらに上の天使や神から与えられた指示をベリルらに割り振る中間管理職だ。
「おはようございます。早いっすねオルトル様。」
「別にそんなことはないですよ。」
 オルトルはいつもこのように事務的で、無味乾燥な話し方をする。最初こそ怒らせたのかと戸惑うこともあったが、いまやベリルは慣れきっていた。挨拶もそこそこに、早速仕事の話を振る。
「今日は何をするんですか?」
「起きかけいる奇跡を“起こさせない”仕事を任せます。」
 少々の沈黙が流れ、ベリルの表情がより不機嫌さをあらわにする。
「…3回連続ですけど。」
「あなたの手腕を評価してのことです。成功報酬は2,500ポイント。」
「全く変わりませんね。」
「同じ難易度ですから当然でしょう。」
 ベリルの恨み節にも、オルトルは一向に意を介さない。淡々と仕事の説明を続ける。
「これから転送する地点から半径2㎞のどこかで、何らかの奇跡が起こることが予知されています。また、遅くとも明日夕方までに起こることも同様に予知されています。期限は短いですが探索範囲は狭く絞られているので十分でしょう。これまでと同様奇跡の兆候を見つけ次第連絡をしてください。回収はこちらで行います。何か質問はありますか?」
 ベリルは腕組みをして思案し、ぽつりと呟いた。
「たまには起こしてやってもいいんじゃないですか、奇跡。」
「なりません。今回も検討の上で“起こさない”ことが決定づけられています。」
 オルトルはにべもなく突っぱねる。その声にはいかなる感情の機微も感じられなかった。
「繰り返しになりますが、奇跡とは神々が緻密に組み上げたルールブックの例外なのです。例外だらけのルールブックに信ずるに足る価値は無くなります。信じられるルール無き世界は無秩序に不幸のばらまかれる地獄に成り果てますよ。」
 ベリルがこの説明を聞くのは3回目だった。初めて聞いたのは初仕事の時だった。その時は納得しきれず食い下がった。世の中には奇跡と形容される偶然がある、あれはなんなのだと。オルトルはそれは“奇跡的なこと”であり、奇跡とは似て非なる事象だと返してきた。
 『6面サイコロで説明しましょう。サイコロを振って、6の目が連続で10回出る確率はいくらか分かりますか。』
 1/6の確率を引き当てるのを10回繰り返すので、その確率は1/1億6,046万6,176となる。
 『途方も無く少ない確率です。しかし、単純計算して1億6,046万6,176回サイコロを転がせば1度は起こる。このようにほとんど起こりえないが0%でない確率を引き当てること、これが“奇跡的なこと”です。』
 『では同じサイコロを振って、7の目が出る確率はいくらになりますか。』
 6面しか無いサイコロに7の目は存在しない。0%だ。
 『それが出てしまうのが奇跡です。無いもの、起こりえないことをねじ曲げて成立させる。そんなことを乱発すれば世界はどこまでも歪んでいくのですよ。破滅的に。』
 ベリルは理解はしたが、納得はできていなかった。何度説明されても、神は全能なんだからいくらでも歪みの修整など効くのではないか、と元人間として思わずにはいられなかった。
「分かりました。行ってきますよ。」
 思ったところで言い返して聞き入れる相手ではない。思い浮かぶ考えを頭の片隅に追いやって、ベリルはさっさと仕事に取りかかることにした。
「それではポータルを開きます。」
 2人の前の床に描かれた紋様が淡く輝くと、パズルのピースが組み合わさるように純白の扉が構築される。ベリルは黙ってドアノブを握ると、開け放して扉の向こうへと踏み出した。

 扉の先は路地裏だった。振り返ると通ってきた扉は廃業したバーの扉に変わっていた。路地を出て見えてきた景色から察するに、かなり発達した文明圏であるようだった。綺麗に石で舗装された道、等間隔に植えられた街路樹、並び立つ大小のビルと商業施設。ベリルはその中から喫茶店を見つけて入店し、なるべく端の席を選んで座った。注文した珈琲を飲みながら、周りに見られないようさりげなく帽子の中の天輪(ヘイロー)の端をなぞる。その部分が砂粒が飛ぶようにさらさらと無くなり、代わりに机に小さな機械が現れた。天輪(ヘイロー)のマップ機能を現地で最もポピュラーな形に現出させる、カモフラージュ機能だ。初めて手にする機械だが、操作方法は天使の機能として触れるだけで概ね知ることが出来る。
「う…結構アテが多いな。」
 マップを見るに、この近辺は都市の中枢圏のようだった。大型商業施設に学校、図書館、美術館、病院など人の多く集まる場所が集中していた。奇跡はそうした場所で起こりやすい。2日あるので回りきることは可能だが、それなりに急ぐ必要がありそうだった。残りの珈琲を一気に飲み干すとベリルは足早に歩き出す。
 まずは手近な大型商業施設からあたった。まず端から端まで歩き、続けて左右に広がる通路を全て通って奇跡の兆候が無いことをしらみつぶしにチェックする。一通り見終わってからフロアマップを確認すると、地下に1フロアあり、さらに2階フロアは店舗に加えて映画館もあるようだった。当然同様のチェックをそれら2フロアでもしなければならない。ぐるりと歩いてフロアを回り終えると、映画館に入った。受付で何を観るか聞かれたので、1番上映時間の早いものを選んでチケットを買った。どうせ観るつもりは無い。単に中に入って各シアターをチェックするだけだ。それでも待ち時間が少々できたので、購買でチョコスムージーを買った。チケット代は経費で出るが、スムージーは自腹だ。退屈な仕事の貴重な癒やしなので、ベリルはゆっくりと飲むことにした。開演時間になってシアターに入れるようになると、ベリルは係員に見つからないようこっそりと各シアタールームを巡り、チェックを行う。結果はハズレだった。無駄足を喰った苛立ちからスムージーを一気飲みしてしまったので、ゴミ箱に捨ててふてくされた顔のまま映画館をさっさと後にする。

 続けて図書館も一通り巡ったが、こちらもハズレだった。合間合間で路地や店舗もチェックしていたので、次に到着したアタリ先である病院に着いたときにはもう夕方が近くなっていた。
「はぁーあ疲れた…ろくでもねぇ仕事だ…。」
 もちろん身体的な疲れではない。気疲れだ。病院の裏口から入ると、ベリルは壁に寄りかかって、気晴らしに電子煙草を吸い始めた。人間であったときは健康リスクが嫌でほとんど吸わなかったが、天使の身体は健康リスクなど無縁な完全なものだ。仕事報酬であるポイントとは別に遊行費として支給される給料の1/3ほどを、ベリルは煙草代に充てていた。
「ちょっと君、ここは敷地内禁煙だよ。」
 3口目を吸おうとしたところで、男が声をかけてきた。名札に『整形外科』の文字が見えたことと、白衣を纏っていることから察するに、おそらく医者だろう。
「あぁすみませんね、この辺に来たのは初めてなもので。」
 ベリルはおとなしく煙草を消すと、一式をコートのポケットに仕舞う。だが医者の男の顔から警戒色は消えていなかった。
「初めてでこの時間に、病院に?正直に言って…怪しいよ。何者だい。」
「探偵ですよ。私立探偵。今回は浮気調査で来てます。」
 ベリルは使い慣れた嘘をさらりとつく。医者の男は一応納得したようで警戒は解いたようだが、以前厳しい顔つきをしていた。
「念のため言っておくけど、院内は関係者以外立ち入り禁止だよ。」
「大丈夫です。外から張り込むだけですから。」
 これも嘘だ。チェックのために当然中には入らないといけない。
「ならいいけど。」
 話の切り上げどころだろうとベリルが場を離れようとすると、気づかないうちに若い女が数メートル先に立っていた。どうやら話しかけるタイミングを伺っていたようだ。医者と、医者に要件のありそうな女と、無関係なベリル。3人の間に気まずい沈黙が流れた。
「あの、先生、最後にしますからもう一度聞かせてもらえませんか。」
 女が話しかけてくれたので、ベリルは顔には出さなかったものの内心安堵した。
「手術は、成功しますか。」
 祈るようなか細い声。聞いているだけで痛々しく感じる、縋るような声。問われた医者の顔を横目で見やると、強い苦悶が窺えた。縋る手を、追い詰められて突き放さなければいけないような、激しい葛藤を抱えた表情だった。
「…医療に絶対はありません。成功するにしても、失敗するにしても。それでも、ベストを尽くしても、成功率は30%としか、言えません。変わらず。」
 女は何も言わなかった。だが、細い手の押さえきれていない震えが、打ちのめされていることを表していた。医者もそうなのだろう。顔が青ざめていた。そこには厳しい現実だけが横たわっていた。
「ありがとう、ございました。」
 女はなんとかそれだけ絞り出すと、ゆっくりとした足取りで病院の外へと出て行った。ベリルも潮時だろうと思った。仕事のために動かなくてはならないし、この場から逃げ出したかった。
医者も考えていることは同じようだった。顔をうつむかせ、病院の中へと戻っていく。ひとしきりその姿を見届けてから、聞こえないよう小さな声でベリルは呟いた。
「神のご加護の、あらんことを。」
 やはり空々しい言葉だなとベリルは思った。

 それからベリルは病院内をチェックして回ったが、ここにも奇跡の兆候は無かった。次に学校に忍び込みチェックを始めたが、半ばほど見終えたところで今晩泊まるホテルのチェックインの時間が近くなってしまったので、一旦出直すことにした。足早にホテルに向かって歩いて、ギリギリでチェックインが出来た。フロントで一通りの説明を聞いた後、部屋の鍵を渡される。
 ベリルはチェックのペースの立て直しを考えることにした。仕事の退屈感と、病院で出くわした気の滅入るやりとりは進捗を遅くしていた。部屋でマップを見ながら考え、今晩中に学校以外にも追加で、明日回ろうと思っていた場所を先に2,3カ所回っておくことにした。天使の身体は一晩程度眠らなくても全く活動に支障は無い。置く荷物も無いので部屋を出て、そのままホテルも出ようとしたところでフロントにいたオーナーに呼び止められた。
「申し訳ございませんが、お出かけの際は鍵をこちらで預からせていただきます。」
「あぁそうだった、わるいね。」
 ベリルはカウンターに向き直り、鍵を渡す。代わりに預かり札を渡された。
「ところで、お出かけ先はお食事処ですか?」
 支配人は人当たりのいい笑顔で尋ねてくる。
「んーと、そう。食べてから他にちょっと寄ってくるから、遅くなるかも。もしかして帰ってくる門限があったっけ?」
「いえ、門限はございません。私が寝てしまう深夜帯にお帰りになるようでしたら、こちらの機械に預かり札をお入れください。鍵を自動でご返却いたしますので。」
 支配人がフロントに置かれた四角い機械を指差す。ベリルは説明を適当に聞いていたことに少しバツの悪い気持ちになった。
「ところでそう、お食事の話でございます。実は私の友人がやっているレストランで今日珍しい蟹が入荷したそうでして。よろしければ行ってやってはくれませんか。」
 いい勧誘だとベリルは思った。
「オッケー、行ってくるよ。近い?」
「南に向かって道沿いに歩けば5分もあればいけますよ。どうぞごゆっくり。」
 鍵を渡して歩いて行くと、確かに5分ほどでレストランは見つかった。そう大きくはない建物だが、整えられた庭が広がっていて小洒落た雰囲気だった。入り口そばには『珍品 アム蟹入荷 限定10食』と手書きされた看板が立っていた。ベリルが扉を開けると、扉のすぐ横のキッチンから店主の大きなかけ声が上がった。
「いらっしゃい!アム蟹まだあるよ。」
 まださほど遅くない時間と言うこともあり、客は他に1組しかおらず席は空いていた。少し奥まった窓際の席に座ると、店員が飲み水を渡しに来た。
「ご注文は後になさいますか?」
「いや、今から頼むよ。アム蟹のコースと小エビのサラダ、それとリンゴジュースで。」
「かしこまりました。」
 店員はメモ帳に注文内容を書き取りながら離れていく。ベリルは窓から見える庭を見た。店内から見ても味わいのある瀟洒な植え付けで、仕事でやや荒んでいた心が和んだ。料理が届いて食べ終わるまでにおおよそ1時間はかかるだろう。仕事としてはその分ロスを重ねることになるが、庭を見る楽しみや料理への期待に比べれば些細に思えた。
 5分ほどで出され始めたコース料理はどれも美味で、ベリルの期待に十分以上に応えるものだった。食べ終わる頃には仕事のことを半ば忘れかけていた。余韻に浸りながら再度庭を眺めている内にはっと思い出し、足早に会計に向かう。だがちょうど店員が別の注文で出払っていて、待たざるを得なかった。ふと横を見ると、何枚か絵画が何枚か飾られていた。全体的に素人臭さはあるものの、素朴で味わいのあるタッチだった。暇つぶしに眺めていると、キッチンから店主が声をかけてきた。
「気になりますかい?すぐそこの教会の神父様が趣味で描いてらしているものでしてね、1枚ぐらいなら差し上げますよ。」
 教会。多くの人が祈りを捧げる、奇跡と縁深い場所だ。当然、要チェック箇所だ。
「…教会。近くに。」
「店出て南に行って、1番最初の角で曲がればすぐ見えますよ。」
「どうも、ごちそうさん。絵はいいよ。」
 店員が戻ってきたので会計を済ませ、店主に教わったとおりに歩いて行くと、こじんまりとした教会があった。そしてそこからは、探し求めていた奇跡の兆候がかすかに漏れ出していた。
「はー…あ。こんなベタな。なんだったんだ今日は…。」
 散々歩き回ったのが全て無駄足だったと悟り、ベリルはすっかり萎えてしまった。
「さっさと終わらせて帰ろう…。」
 天輪(ヘイロー)の機能で鍵開けをしようとするが、意外にも鍵は開いていた。こんな夜まで教会は開いているものだろうか。いぶかしみながらもベリルは教会の扉を開けて中に入った。

 ギイィと大きく軋ませながら扉を開けると、中には先客がいた。細身のシルエットを見るに女のようだ。女はチラリと入ってきたベリルを見たが、すぐに向き直ってしまった。
(あの顔…病院の。)
 先客は夕方に病院で会った女のようだった。会話の内容から察するに、たぶん手術の成功を祈っているのだろう。そして、そこから起こる予定だった奇跡は、自分がもみ消そうとしている奇跡は。それを考えると、ベリルの気分は一気に悪くなった。
(手術がどうこう関係無しに、病気が無くなるってところだったんだろうな。そんで私は、そんな幸せな奇跡を潰しに来たわけだ。)
 なにが天使だ、と思った。やっていることは人間からすれば悪魔のようではないか。だが、ベリルはやらなければならない。仮に自分がやらなければ、他の天使が派遣されて速やかにもみ消されるだろう。結果は変わらないのだ。ベリルは重い足を引きずって奇跡の兆候をため込んだ女神の像へと近づいていく。像の前に立つと、女が横目でじっと見ているのに気づいた。目撃させるわけにもいかないので、ベリルは女を眠らせてしまうことにした。
「なぁ、隣いいかいお姉さん。」
「どうぞ。」
 女は小さな声で返答した。ベリルは横に腰掛ける。
「その代わり、少しだけ話を聞いてちょうだい。」
「いいよ。」
 考える前にベリルは答えてしまっていた。後ろめたさがそうさせた。
「あなたは神様って本当にいると思う?」
「いると思うよ。」
 ベリルはあえて曖昧に返した。本当にいるのは知っている。だが今は認めたくないような気分だった。
「私もそう思うわ。世界は精緻に美しく出来ているもの。」
 女はそこで一拍置いた。ベリルは黙って聞き入っていた。
「でもきっと、美しく作るのが好きなだけで、優しくは無いの。毎日祈ってみたけれど、奇跡は起こしてくれなかったわ。」
 的を得ているとベリルは思った。返事をしようとしたが、なんと言っていいか分からなかった。
「でも、やっぱりこうして祈りに来てしまうの。ダメ元だけど、私もベストを尽くしておかないと、きっともっと後悔してしまうから。」
 あまりにいたたまれなく、ベリルはもう聞いていることが出来なかった。立ち上がると、女の肩に手を軽く添えた。
「あたしも祈るよ。」
 なるべく優しい嘘をつきながら、女に魔法をかける。疲れていたのだろう。簡単に眠らせることが出来た。ベリルは力の抜けた女の身体を、ゆっくりと椅子に横たえさせる。そして帽子を取ると天輪(ヘイロー)に触れ、オルトルに連絡を取った。
「もしもし、奇跡の兆候を発見しました。処理をお願いします。」
「ご苦労様です。直ちに処理を行います。」
 オルトルが話し終えると、像の周りに輝くもやが広がる。それが輝きを増す度に、ベリルが感じていた奇跡の兆候の反応が薄まっていくのが分かった。
「あの、あくまで試しに聞いてみたいんですが。すぐ横で寝てる女が祈っていた手術の成功率を上げるのって、何ポイントあれば出来ますか。」
 奇跡が消えていくのを眺めながら、ベリルは聞いてみた。仕事の成功報酬としてもらえるポイントは、支払えば“奇跡的なこと”を起こすことが可能で、ベリルは何回かやったことがあった。
「100%まで上げるなら30万ポイントが必要です。補足しておくと、あなたの所有するポイントを全て消費して上げられるのは60%が限度です。実行しますか?」
「……。」
 持てるポイントを全て消費しても、未だ分の悪い賭けにしかならない。ベリルは無力感を抱くしか無かった。
「高いと思いますか。しかし命の価値、命の重みはそれほどのものなのですよ。決して軽んじてはいけない。」
「…そうですね。すみません、実行無しでお願いします。」
 そう言い終わるのと、目の前で奇跡が消え去るのがちょうど同時だった。これで仕事は終わったが、チェックインしているホテルには戻らなければならない。ベリルは教会を出ると、せめて眠っている女の安全のためにと教会の扉に鍵をかけた。そして日が落ちきって暗くなった夜道を歩いて行く。ホテルが見えてきたところで、ベリルはふとあることを思いつき、天輪(ヘイロー)でオルトルにお伺いをかけてみた。
「それでしたら500ポイントで実行可能です。」
 報酬の2割。思ったよりも高かった。
「やってください。お願いします。」
「承りましょう。しかし、あなたも奇特なものですね。」
 もう会う機会も無い相手だし、感謝も期待できない。ベリルにメリットなどないことをするのだ。オルトルが奇妙がるのも納得だった。それでも、ベリルはやっておきたかった。納得できるベストを自分も尽くしておきたかった。
 ホテルに戻ると、ベリルはコートだけ脱いでベッドに横になった。翌朝までやることも無いので、そのまま眠りに落ちた。

 翌朝、きっかり7時間で目を覚ましたベリルはコートを羽織ってチェックアウトに向かう。手続きしながら朝食はどうするか支配人に聞かれたが、外で食べると言ってホテルを出た。しかしベリルの目的地は別にあった。歩くこと約20分、昨日訪れた病院の職員駐車場にベリルは来ていた。車が1台入ってくるのが見えたので、ベリルは植木の陰に隠れて様子を見た。停まった車から降りてきたのは昨日会った医者だった。そのまま病院へと向かっていくのを、ベリルは引き留める。
「ちょっといい?」
 医者は明らかに不審がっていた。浮気調査をしているという自称探偵が、朝っぱらから話しかけてくる怪しさは相当なものだろうとベリルも思った。それでもベリル自身がやらなくてはならないことがあった。
「なんだい。」
 医者の声は気の張った、低い声だった。怪しいベリルへの不審感と、その陰にある重圧への恐怖。ベリルは無言で距離を詰めていく。医者は身構えようとするが、手提げ鞄が邪魔で不格好な構えしかとれず、おたおたとしていた。ベリルは医者のすぐ前まで行きながら、横をそのまま通りすぎ、肩にポンと手を当てた。
「がんばれよ。」
 それだけ言ってベリルは駐車場を去って行く。医者は呆然としてベリルの後ろ姿を見送っていたが、その顔からはだんだん恐怖による怯えの色が消え、幾ばくか晴れやかなものになっていた。
「実行完了です。彼は手術へ挑む勇気を得ました。」
 天輪(ヘイロー)からオルトルの通信が届く。ベリルの依頼、“勇気が湧く”は叶えられた。
「ありがとうございます。…でも、もうちょっと割安に出来ないものですかね?」
「勇気の価値もまた高いのです。」
 ベリルは軽口を叩いてみるが、オルトルはすげなく返した。もちろん、勇気1つで手術の成功率が上がることはない。だが、怯えながら“向かっていく”のと、勇気をもって“挑む”のとだったら、きっと“挑む”方が賭けに勝てるのではないか、とベリルは信じてみることにした。
 しばらく歩いて、昨日通ってきた廃業したバーの扉の前にたどり着いた。
「ポータルを開きます。」
 オルトルがそう告げると共に、扉が淡く輝き出す。ベリルは少しだけ立ち止ってから、扉を開けた。
「上手くいきますように。」
 今度は本心から祈りながら、ベリルは天界へと戻っていった。


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登場人物紹介

ベリル


元人間の6級天使。人間に戻るために仕事を請け負っている。情に流されやすい。

赤みがかったボサボサのロングヘアーの女の子で、服装もテキトーに選んでいる。

オルトル


ベリルの上司にあたる4級天使。純正天使なので人間味がほとんど無く、いつも事務的。

薄金色の白髪で、天使のイメージだいたいそのままの姿をしている。

ルマリ


元人間の特務6級天使。ベリルが人間であった頃から仲の良い友人。

薄灰色のショートヘアに青い瞳の、小柄な女の子。気弱な性格で、表情が顔に出やすい。

服装は仕事用の黒いローブを纏っている。

オブシディオ


元人間の特務6級天使。ベリルの最も古い顔馴染み。

身長2m近くのマッチョな男で、厳つい顔つきのため威圧感があり天使っぽくはない。

お洒落のセンスは高い。

ゼヘキエル


天使消失事件の調査チームを率いる、2級天使。

その強さゆえに自信家で、ちょっと高圧的。

アイオラ


天使消失事件の調査チームの1人で、情報操作や認知改竄を得意とする4級天使。

小柄で温和な話しやすいタイプ。

ドロウズ


天使消失事件の調査チームとしてベリルと同行していた、3級特務天使。様々な剣に変身したり出したりする能力がある。

後日、たまたまカジノに行くベリルと再会して同行する。

非常に情緒に乏しい割に、突飛な行動をしてベリルを悩ませる。

エグネヴィア


ベリルがばったり出くわしてしまった”眷属級”の悪魔。

所属は羊。

とある理由からベリルと対話をすることになる。

ダイア


ベリルが人間だった頃の、1番の友人。

ベリルの罪の原点。

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