第6話 天使と悪魔

文字数 13,163文字

 今回は楽な仕事だった。手慣れた奇跡を“起こさせない”仕事であったし、予測地点は市街地からタクシーでおよそ40分ほどの森林地帯であり、その範囲には神木として崇められている大樹があった。あまりの対象の明白さに、ベリルとしては自分が行く必要に疑問を抱くほどだった。
「ん、降ってきたな。」
 神木が纏う奇跡の兆候を目視で確認し、上司のオルトルに報告して仕事を終えたところで、薄黒く曇っていた空から雨粒がぽつり、ぽつりと落ち始めた。ベリルが待たせているタクシーまで急いで戻る道中で雨粒はどんどん増え、着いた時には本降り間近の気配になっていた。
 ベリルも一端の天使なので、翼を出して飛行してくることも可能だった。そうしなかったのはこの雨を嫌ってのことであったし、何よりベリルは飛行が下手くそであった。
「悪い、待たせたな。」
 タクシーに乗り込むと、運転手はベリルが街で買った新聞紙を読みふけっていた。
「すみませんね、暇だったんでちょっと借りてましたよ。」
「いや、全然構わないよ。」
 運転手はバツの悪そうな顔をするが、ベリルは特に気にすることも無く運転手から新聞を返却してもらった。
「結構早かったですねぇ。まぁこの雨ですからしょうがないですな。」
 雨は勢いを増し、タクシーのフロントガラスを打ち鳴らす勢いの大降りと化していた。
「元々記念に一目見るだけでよかったしな、気は済んだよ。街まで戻ってくれ。」
「はいよ。」
 運転手がタクシーを駆動させ、車はゆっくりと街へ通ずる道へと入っていく。
「申し訳ないんですけどこの雨ですんで、速度は少々遅めでいかせてもらえませんかね?」
「あぁ、別にいいよ。」
 ベリルは新聞を開いて端から読み始める。タクシーは行き交う車も無い森林地帯に敷かれた道をしずしずと進んでいく。ベリルも運転手も黙ったままで、車内にはタクシーを叩く雨音の、妙に心地よい音だけが流れていた。

 その静けさを破ったのは運転手だった。10分ほど走ったところで、急に速度を緩めながらベリルに向かって話しかけてきた。
「すいませんお客さん、相乗り構いませんかね?あそこに人が居て、どうもこの雨で困ってるようでして…。」
 そう言われたベリルが新聞から目を上げると、確かに右前方にローブを着た小柄なシルエットが見える。大きな木の下で雨を凌ぎながら、タクシーに向かって手を振っていた。
「いいよ。乗せてやって。さすがに可哀想だ。」
「助かります。」
 タクシーはそのままゆるゆると待ち人の側まで近寄ると、運転手が手招きして乗るように誘う。呼ばれた待ち人は頭を下げると、走ってタクシーの後部座席のドアを開けた。
「すみません、本当に助かりました。うっかり傘を忘れてし…。」
 ドアを開けたのは銀髪碧眼の少女だった。ドアを開け、半身をタクシーの中に入れたところで急に言いよどんで動きを止めた。妙な反応にベリルは不審がるが、ふと少女が座席につけている左手の甲に紋様が刻まれているのに気がついた。山羊の頭部をモチーフにした紋様。その色合いや細部のデザインにベリルは見覚えがあった。
「あ…。」
「天使。」
 ベリルは咄嗟に構えようとするが、気づいたときには少女に指を額に突きつけられていた。
(眷属級の悪魔…!くそっ!手が早すぎる…!)
 ベリルは激しく動揺していた。実力の差は既に明らかだ。このまま破壊され、消滅させられるだろう。いくつもの考えが頭をよぎったが、何一つベリルを救ってくれそうには無かった。
 しかし、なぜか悪魔の少女は攻撃してこなかった。指を突きつけたまま押し黙っている。運転手もただならぬ気配に緊張で固まっていた。しばらく重い沈黙が場を支配した後に、悪魔の少女が口を開いた。
「取引をしませんか?」
「取引…?」
 意外な提案にベリルは鸚鵡返しに反復することしか出来なかった、
「あなたのことは見逃してあげます。その代わり、タクシーに相乗りさせてください。いかがですか?私としてはこれ以上濡れずに帰れればそれでいいのです。」
「も、もちろん…。」
 ベリルは困惑のままに座席を詰め、席を空ける。悪魔の少女は雨でぐっしょりと濡れたローブを脱いで畳むと、空いた席に腰掛けた。ローブの下から現れた、首までかかる銀のロングヘアと青い瞳、そして華奢な身体は全く悪魔らしくない。相席の距離感になって、ようやく微かに悪魔特有の気配が感じられた。つまり魔力制御に長けているということでもあり、その高い実力が窺えた。
「運転手さん、ご迷惑をお掛けしました。車を出していただいてよろしいですか?」
「あ、あぁ、はい…。」
 運転手も混乱しきっており、言われるがままにアクセルを踏む。大振りの雨の中、天使と悪魔を乗せたタクシーが再び走り出した。

「あー、その、質問してもいいですか?」
 ベリルは横から見上げる形で目線を悪魔の少女に向けながら、声をかける。下手に機嫌を損ねるリスクはあるが、この奇妙な状況に対して何か話を向けずにはいられなかった。
「いいですが、条件があります。天輪(ヘイロー)を出してもらえますか。」
 仕方なくベリルは帽子を脱いで天輪(ヘイロー)を見せる。バックミラー越しに運転手がぎょっとしているのが見えた。ベリルは一方的に巻き込まれた不運な運転手のことを少しだけ哀れんだ。
「そのまま動かないでください。発動、【悪の魔輪(ブラックヘイロー)】。」
 悪魔の少女が唱えると頭上に黒い輪が現れる。そこから細く黒い線が放たれ、ベリルの天輪(ヘイロー)へと繋がった。
「い゛っ!」
 突然走った鋭い頭痛にベリルは思わず頭を振ってしまうが、天輪(ヘイロー)に繋がれた黒い線はぐねぐねと曲がるだけで千切れることは無かった。
「痛いですか?すみません。ですが、情報管理のために天輪(ヘイロー)の機能を乗っ取らせて貰います。名前はベリル、6級天使、それに…やはり元人間でしたか。」
「…?やはり?」
 まだ痛む頭に手を当てながら、疑問を口にする。
「純正天使なら負けが確定しようが止まることはしないのです。彼らは結局神々の道具で、そもそも自己保身という価値観が無いのですから。」
「でしょうね…。」
 そう思える場面をベリルは何度か見た覚えがあった。切りつけられようが、抉られようが、半身を砕かれようが表情一つ変えずに敵に向かっていく純正天使達の姿は、確かに自己保身の姿勢はかけらもなかった。
「さて、処置は終わりましたので、質問にお答え…いえ、先に自己紹介をしておいたほうが話しやすいでしょう。私はエグネヴィア。“山羊”の眷属の1人です。それなりに名は知られていますので、詳しくは帰って調べてください。」
 エグネヴィアはそう自己紹介すると軽く頭を下げる。享楽的だったり傲岸だったりするのが通例の悪魔にしては妙に礼儀正しい立ち振る舞いに、ベリルは戸惑うばかりだった。

「あ、はい、どうもありがとうございます。質問なんですが…1つ増えてしまったので先に聞いていいですか?」
「なんでしょう?」
「“山羊”の眷属級は序列は無いんですか?前に“蛇”の眷属級の悪魔さんに会ったときには第七位?とか名乗ってたんですけど。」
 ベリルの問いに、エグネヴィアは少し間を置いて答えた。どうやら開示していい情報かどうか考えていたらしかった。
「ライトップ様でしょう。兎耳の付いた男の子のような方でしたか?」
 記憶をたぐると確かにそういった外見の悪魔だった。ベリルが頷くのを確認してから、エグネヴィアは続きを話す。
「序列は“蛇”にはあり、“山羊”にはほとんどありません。“蛇”は造主たる王が6席のみと決めているのですが、我ら“山羊”の王は乱造するので数が多すぎるゆえ、序列は最上位の実力者の内でのみ決められているのです。」
 エグネヴィアの回答にベリルは引っかかりを感じたが、エグネヴィアも察したようですぐに補足してくれた。
「“蛇”の眷属は第五位がとある神と相打ちになり、永久欠番となっているそうです。あなたのお会いしたライトップ様はその後に眷属として迎え入れられたため、序列番号がずれて6席の第七位となっているのです。」
「なるほど。悪魔も色々と事情があるなんですねぇ。」
 ベリルが呑気に感嘆している一方、エグネヴィアは眉をしかめてため息をついていた。
「おそらく、天使よりも事情はごちゃついていますよ。序列の奪い合いや根回しの潰し合いの話も少なからず耳にしますから。」
 雑談が挟まったことで、場の空気が少しだけ緩んだ。雨もやや小降りになり、雨音が心地よい音響となって車内に滑り込む。タクシーは森林の間に作られた道をつつがなく進んでいく。

「ところで、本命の質問は何ですか?」
 エグネヴィアに話を振られたベリルは、少し躊躇ったが思い切って話を切り出した。これまでの会話でエグネヴィアが温厚な性格寄りで、急に気が変わって消されるようなことは無いだろうと踏んでの決断だった。
「どうしてあたしを消さないんですか?あたしを消したってタクシーには乗れたでしょうに。」
 また不穏になりそうな気配の会話に、運転手がチラリとバックミラー越しに不安そうな目線を寄越す。一方、エグネヴィアは動じた様子は無かった。
「先にも言いましたが、私は雨に降られて参っていました。ですので事を荒立ててタクシーに逃げられでもしたらその方が困る、というのがまず第1の理由です。」
「まず?というとまだ何か他に?」
 問われたエグネヴィアは、改まってベリルに向き合った。
「第2の理由は、元人間の天使と話をしてみたかったのです。

悪魔として。」
「元人間?」
 全く予想していなかった答えに、ベリルはまた鸚鵡返しに言葉をなぞってしまっていた。
「そう、私は元々人間だったのです。しかしある日を境に神を憎み、敵対したところを悪魔に見初められました。悪魔に魂を売った、と言ってもいいかもしれませんね。」
「そう、ですか…。」
 ベリルは驚きと共に、ある種の納得感も得ていた。神を憎み悪魔になったエグネヴィアと、神に弓引いた咎から天使になったベリル。立場は違っても、神に刃向かったという境遇は似通っていた。そのことをエグネヴィアは瞬間的に悟ったのではないだろうか。
「あまり多く語る時間はないですから、率直に聞きましょう。」
 タクシーは既に15分ほど走っている。込み入った話をするなら確かに時間はあまり多くない。
「天使として仕える身になってから、神をあなたはどう見ているのですか?」
「難しい質問ですね。」
 ベリルは神のことを考えることはほとんどなかった。基本的に仕事は天使同士でやりとりするので、そもそもベリルと神とは接点が薄い。
「もう少し具体的に話をしましょうか。神の行いは正しいと思いますか?万能を謳っておきながら、気まぐれに救いを選別する神のやり方は。」
「…天使にされてからすぐ講習を受けたんですけどね、そこで最初に教えられる大原則があるんです。知っていますか?」
 エグネヴィアは首を横に振った。ベリルは躊躇った。これから話す内容は、神を憎む悪魔にとっては激昂するほど不愉快かもしれなかったからだ。しかしベリルの神へのスタンスを話すためには、語らなくてはいけない内容だった。
「曰く、『神が行うことは必ず正しいことである。そして神が行わないことは悪である』と。だから神に刃向かうものを

魔と呼ぶのだ、そう教わりました。」
「っ……!!」
 エグネヴィアは唇をわなわなと震わせ、膝の上に置かれた両手をぎゅっと握りしめていた。ぶつけようのない怒りを必死に押し殺しているその姿は、ある種の悲哀に満ちていた。
「あたしも、その考え方には納得できないんですよ。」
 ベリルはそう付け加えた。エグネヴィアは黙ったままだったが、潤んだ眼は続きを促していた。
「たとえ気まぐれであろうとも、どこかで線引きは必要だと思います。でも、あたしはその身を捧げて誰かを救おうと頑張り続けたのに、報われない人間を見過ぎました。それが悪だなんて言うのなら、あたしはそいつが誰だろうがぶん殴りにいきますよ。」
 エグネヴィアはベリルの持論を聞いて共感したのか、幾分か落ち着きを取り戻したようだった。そして、ぽつりと言葉を投げかけた。
「もしかして、あなたが天使にされた理由はそこにあるのですか?」
 ベリルはエグネヴィアを見ていなかった。遠い昔の、一番大事な友人の姿に想いを馳せていた。
「そうです。」
 ベリルは短く返した。様々な思いが心の中で渦巻いて、それだけしか言えなかった。
「聞かせてもらえませんか。何があったのか。」
「愉快な話ではないですよ。」
 ベリルはそう前置きするが、エグネヴィアは引き下がるつもりは無さそうだった。ベリルはため息をついて、仕方なく語り始めた。
「一番大事な友人を救えなかった、馬鹿どものつまらない話です。」
 雨は勢いを取り戻し、タクシーの天井や道路を騒々しく叩き音を響かせる。街までの道のりは折り返し地点に差し掛かっていた。

「あたしが産まれた世界は、争いの世界でした。と言っても、人間同士のではなかったんですけど。」
 そう前置きして、ベリルの話は始まった。
「平たく言えば、魔物です。ほとんど知性はなく、破壊衝動と食欲だけで動く魔性の獣。あたしが産まれた頃には世界中にはびこっていて、あたしはそれに親も故郷も壊された、どこにでもいる孤児の一人でした。」
 エグネヴィアにも何か思うところがあるのか、暗い表情を浮かべていた。ベリルにとっても人生で最も楽しくなかった頃の話だ。嫌々ではあったが、話を続けた。
「そんな弱いガキを守ってくれる大人はいなかった。誰も余裕がなかったんです。適当に孤児院に放り込まれて、使い捨ててもいい雑兵として育てられました。読み書き以上に戦い方を、そして自分たちがいかに無価値な雑兵であるかをひたすら覚え込まされて、あたしは傭兵として戦場に蹴り出されたんです。」
「悪魔の私が言うのも何ですが…ひどい、世界だったんですね。」
 エグネヴィアは絞り出すようなか細い声でそう言った。そこには罪悪感と、共感が込められていた。
「そう、ひどい世界でした。戦場に出て半年で、知り合った奴の7割は死んでました。あたしは運が良かった。力量があって息の合う相方に出会えて、コンビとして戦うことで死なない立ち回りが出来たんです。」
 ベリルの最初の友人、オブシディオ。ベリルはあえて“相方”と表現した。出会ってからかなりの間は、2人の間に友情などという暖かな感情は存在しなかった。単に使い勝手のいい駒として互いを利用し合っていただけだった。平時もつるむようになり、友人と呼び合う間柄になるまでに約1年の時間を費やした。
「2人で戦って、戦い続けて…2年経ってようやく雑兵から傭兵として認められるようになりました。とは言っても待遇がマシになっただけで、やることは変わらなかった。雇われるままにあちこちの戦場に行って、魔物を殺して、魔物に取り込まれた人間も殺して、時にはまだ逃げられてない人間の居る町を魔物ごと燃やしたこともありました。」
 一番忘れたい戦場のことを思い出し、息が詰まる。ベリルはなんとかそれを振り切って、話を再開した。
「そういうのを積み重ねていって、あたし達は嫌われていった。どこに行っても狂犬扱い、戦いが終わったらみんな目線も合わさないほど軽蔑されていました。」
「戦わせておいて、忌み嫌う。どこの世界でも戦場は理不尽です。」
 エグネヴィアは俯いていた。彼女にもそうした苦い経験があるのだろう。その目は遠い過去に向けられていた。
「ただ、あたし達は幸運だった。とにかく力を借りたい、仲間にしてくれって言ってきた奴が2人いましてね。4人でチームが組めた。4人も居れば周りからどれだけ嫌われてても、まぁ最低限戦う形には出来たんです。」
 4人で戦った日々を思い出す。この頃もあまり楽しい記憶は無い。戦場では巧みな連携を取れても、戦い終わるとなんとはなしにぎくしゃくしてばかりだった。
「本当に最低限でしたけどね。何しろ人生の積み重ねが違いすぎた。あたしと相方は幸せなんて知らないまま、戦うために戦っていた。他の2人は幸せに生きていた故郷と家族を魔物に壊されて、復讐のために戦っていた。世界の見方が全く違ったんです。」
「よく成り立っていましたね。チームとして。」
 エグネヴィアが感心とも呆れの混じった感想を述べる。ベリルは自嘲するような薄笑いを浮かべた。
「単に、4人とも他に行くところが無かったからでしょうね。」
 タクシーは街までの経路の折り返し地点を通りすぎていた。雨脚は少し弱まり、雨粒が天井を叩く音は小さくなっていた。
「でも、ある日突然、変わったんです。いい方向に。」
 ベリルの声はことのほか大きく響いた。それは雨音が小さくなったせいでもあろうし、また楽しい記憶を語る喜びのせいかもしれなかった。

「突然、に。何があったんですか?」
 エグネヴィアも興味をそそられたようで、少々身を乗り出して続きを促した。
「偶然出くわしたんです。あたし達みたいな爪弾き者でも、人として見て手を差し伸べてくれる、優しい、優しすぎる奴に。」
 ベリルは自然と顔がほころんでいた。暖かい気持ちが湧き上がり、記憶が鮮明に呼び起こされる。
「その日は数も質も段違いの魔物の群れに出くわして、4人とも追い詰められたんです。全員ひどく傷ついて、出血で立ち上がれないほど弱ってる奴もいました。正直、誰から死ぬか?って勘定し始めてた位には致命的な状況でした。」
 その時最も死に近かったのは、後方から魔術支援をする担当のルマリだった。彼女は元々病弱で素早く動き回るスタミナが無く、動きが緩慢になったところを狙われて深めの斬撃を腹部にもらい、出血が止まらなくなっていた。
「そんな風に考えてた隙に、気づいたら魔物の1体があたしに襲いかかってきてた。あたしの対応はもう手遅れだった。あぁ、死んだなと思ったその瞬間に、横から大剣が振り下ろされて魔物の手が切り飛ばされたんです。」
「ヒロイックですね。」
 エグネヴィアが皮肉ともつかない感想を述べる。
「そうですね、出来すぎなくらいヒロイックでした。そのまま大剣を握ったそいつは2体、3体と魔物の首を切り飛ばして、あたしたちにこう言ったんです。『生きてますか?助けますから!』って。まさしくヒーロー見参って感じでしたね。」
 エグネヴィアは小さな笑みを漏らす。まるで戯曲のような話のせいだろう。だが、ベリルにとっては紛れもない大切な思い出だった。
「そいつには1人連れが居ましてね。てっきり2人が魔物をばっさりやっつけてくれるのかと思ったら、ちょいと違ったんです。魔物は連れの奴が食い止めて、大剣持ち、ダイアって名乗った女はあたし達の側までやって来たんです。」
 ベリルは一旦そこで話を止める。エグネヴィアは少し考え込んで言った。
「回復魔術の使い手であった…というところでしょうか?」
「半分正解です。ダイアは確かに回復魔術は使えたけど、出来るのは自己回復だけでした。だけどあいつはもう1つ魔術が使えたんです。“他人の傷を自分が肩代わりする”魔術。あいつはそれを使ってあたし達の傷を全部自分に移した。あっという間にあいつは痛みで膝を突いて服が血まみれになった。けどそれを回復魔術で全部一気に直してしまったんです。」
 エグネヴィアは微妙な表情をしていた。感嘆とも呆れともとれるような顔だった。
「危険な使い方です。言うなれば、鉄を真っ赤に熱した後に氷水を注いで無理矢理冷ますようなものです。身体への負担があまりにも大きすぎる。」
「あたし達も同感でしたよ。だからダイアの負担を少しでも減らしたい一心で、残った体力を振り絞って必死に戦いました。魔物を全部片付け終わった時には、皆で大笑いして喜び合って、そのまま自然とダイアとその連れも一緒に戦わないかって話になって、6人チームが出来上がった。あたし達はその時初めて1つの結束したチームになれたんです。」
 ベリルはただ懐かしんだ。全ての喜びの始まりと、その結末。どちらももうずっと前のことなのに、今日起きたことのようにはっきりと思い出せた。
「そこからはいいことずくめでした。ダイアのお陰であたし達は誰かを救うために戦う喜びを知って、だんだん感謝されることも増えて、使い捨ての駒じゃないまともな人間になれた。チームもあちこちで快進撃で、世界から魔物が刻々と消えていきました。」
 ベリルはそこで口をつぐんで俯いてしまった。エグネヴィアもしばらく黙っていたが、一向にベリルは話そうとしなかった。
「どうしました?」
 エグネヴィアはベリルの顔を覗き込んで尋ねた。ベリルの瞳からは、一筋の涙が伝っていた。
「あたし達は馬鹿だった。いいことがありすぎて浮かれてた。本当に悔しい。」
 ベリルは涙を堪えようと顔を上げた。しかし涙はもう一筋伝い落ちた。
「ダイアは病気だったんです。あたし達が気づいた時にはもうどうしようも無いほど悪化してた。1番の友人が、恩人がのたうち回って苦しんでいたのにあたし達は何も出来なかったんです。」
 雨脚がまた強くなった。重苦しい沈黙が流れるタクシーの中で、激しい雨粒の音とせわしなく動くワイパーの駆動音がベリルを責め立てるようにやけに大きく響いた。

「あたし達は気づくべきだった。振り返ればいくらでも気づくチャンスはあった。戦いが佳境に向かうごとに、ダイアは何かと理由を付けて1人になる時間を多く取るようになってた。」
 ベリルは思い返す。特訓するから、会う人が居るから、飲み過ぎて酔ってしまったから。ダイアはいつも優しく微笑みながらどこかに行っていた。そうして誰にも見つからないように、1人で苦しみを抱え込んでいた。
 そしてあの日。大きな勢力圏をもっていた魔物を倒し、あとほんの一握りを倒せば戦いが終わる展望が見えた日。ベリルがねぎらおうと近寄っていった先で、ダイアが大剣を力なく落とし、激しく咳き込んで血を吐く姿。そして、ゆっくりと地面に崩れ落ちる姿。
「ダイアはあたし達に気づかれないように、呪いに等しい魔術を幾重にも自分にかけ、ひどい副作用のある劇薬をいくつも飲んでたんです。戦線から抜けてしまったら士気が下がるから、そのためだけに。」
 ベリル達は急いでダイアを抱えて主治医の元へと転がり込んだ。主治医は言った。『もう休みなさい。余生を大事にしなさい。』、それは死の宣告だった。崩れ落ちそうなほど目眩のする絶望を、ベリルはその時初めて味わった。
 オブシディオは殺気だって主治医に食ってかかっていた。なぜ危険な薬を処方し、病人であることを知っていながら戦場に向かわせたのかと激しく問い詰めた。主治医が何か言う前に、虫の息のダイアが答えた。ダイアの病気は判明した時には既に末期だった、それでも皆と戦いたいから自分が主治医に無理を言って口止めして貰っていた、と。
「ダイアは、それでもなお、戦いたいと言いました。当然あたし達は総出で止めました。でもダイアは折れなかった。鎖で繋がれたって引きちぎっていくと言い張り続けた。結局はあたし達が折れて、後方支援に徹するならと条件を付けてダイアと最後の戦いに臨みました。……折れた、って言い方は卑怯ですね。あたし達はこの期に及んであいつの優しさに甘えた。本当に、馬鹿だった。」
 ベリルは顔を手で覆ってうなだれた。エグネヴィアは何も言わず、ベリルの膝に手を添えた。先にも増して長い長い沈黙が流れた。ベリルは2,3度大きく息をついてなんとか落ち着きを取り戻して、その先を語りだした。

「最後の戦いは拍子抜けするほどあっさりと終わりました。あたし達を脅かすものは消えた。けど、ダイアの命はもう戻らなかった。余命は長くて2ヶ月、そんな残酷な結果だけが残りました。」
 主治医が涙ながらにそう宣告するのを、ダイアは穏やかな微笑みを浮かべて黙って聞き届けていた。ベリルはその側でただ呆然と立ち尽くしていた。
「あたし達は受け入れられなかった。だから、結果をねじ曲げることにしたんです。」
 エグネヴィアが知りたかった話の核心、ベリル達が犯した罪。ここまで長話を聞いてくれたことに応えるためにも、話さないわけにはいかなかった。
「あたし達の1人がありとあらゆる手を探って、ある魔術を組み上げたんです。…命の循環を止める、“何者も死なず生まれてこない”よう世界を組み替える大魔術。」
「そんなことが可能なのですか?」
 エグネヴィアは信じがたいという表情をありありと浮かべていた。
「いつかは破綻するものだったのかもしれません。でも、成立してしまったんです。ダイア以外のあたし達5人の命を人柱として。」
 エグネヴィアは腕組みをして考え込んだ。魔術に詳しいのか、それとも他に何か思うところがあるのか。しばらくしてからようやく口を開いた。
「そんな強行策を、あの神々がよく許したものですね。」
 あの、の1フレーズには隠しがたい憎しみが滲み出ていた。ベリルは苦笑いしながら答えた。
「神様でも破れないほど緻密で、強固な魔術だったんです。大したもんでしょう。天使にされる時に褒められましたよ。」
 その分刑期が延びましたけどね、と冗談めいた調子でベリルは付け加えた。
「神からの干渉でも破れなかった、ということは。…内部から崩壊したのですね。」
「ご明察です。保ったのは7年間、その間は酷いものでした。死ぬリスクが無いから力の強い奴がだんだん増長して、弱い奴らを踏みつけにする。踏みつけられた奴らも徒党を組んで報復をする。だけど死なないから報復された奴もやり返す…その繰り返し。世界中もう争いだらけですよ。」
 エグネヴィアは何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。固い表情を見るに触れられたくない領分なのだろうとベリルは察し、追求することなく話を続けた。
「あたし達は争う奴らを片っ端から腕尽くで叩きのめして、ねじ伏せて回りました。そうしていないと世界を滅茶苦茶に荒らした罪悪感から逃げられなかったし、そうやって逃避してでもダイアにとにかく生きていてほしかったんです。」
 だんだん他の仲間達4人にも、ダイアにも会うのを避けるようになっていったのをベリルはまざまざと思い出す。こんな世界でいいのかと問われることを、ベリルは内心ずっと怯えていたのだった。
「そんな状況を破ったのは?」
 エグネヴィアが急かす。ちらりと時計を見てみると、もう街に着くまであまり時間は残っていなかった。ベリルは話を切り上げるために短く答えた。
「ダイアと、その連れ。魔術の人柱となった5人のうちの1人ですよ。」
 答えがダイアではないかとはエグネヴィアも予想していたようだが、協力者の存在は予想外だったようで、目を丸くして驚いていた。
「裏切りですか?しかしなぜ?」
「ダイアが泣き落としたんですよ。ダイアは自分が生きているために世界が荒れ果てることを拒否した。でもダイアは死にはしなかったけど、病気が治ってくれたわけじゃない。いくら呪いと劇薬で無理矢理動かしても、そんな身体であたし達5人を殺して魔術を解く力はもう無かったんです。だから1番長く人生を共にした連れに頼み込んだんです。」
 気づけば雨はかなり勢いを落とし、地表をしとしと濡らす程度に収まっていた。その静けさは、ベリルが苦い結末を語る憂鬱をかえって大きくした。
「あたし達も譲れなかった。話し合いもできないまま、あたしはダイアと戦わざるを得なかった。でも、ダイアを生かすためにダイアと殺し合う、なんて矛盾を抱えたあたしが負けるのは道理でした。最後はダイアに仲間殺しの悲しみを背負わせて、あたしは死にました。」
 その時のダイアの泣きはらした顔を、ベリルは鮮明に覚えていた。天使として働くという罰の起源である罪を象徴するその光景を忘れるのは、天使でいる間はきっと出来ない。
「そして気づいたら天使の前に引っ立てられて、神様のルールに反した罰として天使にされた、という訳です。話はこれでおしまいです。」
「ありがとうございました。…その、嫌な話をさせてすみません。」
「いえ、いいんです。これは嫌な話でも、語れるくらいに覚えておかなくちゃいけない話ですから。」
 エグネヴィアは返事に窮したのか、無言だった。ベリルにももう語ることはなく、タクシーは静かに街へと近づいていく。

「あなたの話を聞いて、提案したいことがあります。…あなたも悪魔になりませんか?」
 今度はベリルが目を丸くする番だった。
「そんな簡単になれるものなんです?」
 驚きで空っぽの頭のまま、ベリルは咄嗟に浮かんだ疑問を口にしていた。
「普通はそう簡単にはいきません。しかし、あなたの技量や過去のことを考慮すれば、おそらく私と同じく眷属の悪魔として受け入れられる可能性は高い、と私は考えています。」
 ベリルはまじまじとエグネヴィアを見るが、その表情は真剣だった。
「救うべきを救わない、驕れる神には鉄槌を下さねばならない。あなたもそうは思いませんか?」
 エグネヴィアは真正面からじっとベリルの眼を見つめた。ベリルもしばらくそれに応えていたが、やがて目を逸らした。
「申し訳ないですけど、あたしにそこまで強い恨みはないみたいです。悪魔には、なりません。」
 しかし、エグネヴィアは引き下がらなかった。
「考え直してください。あなたが命を捧げてまで救おうとした人の末路、その悲惨を。神ならいくらでもそうならないよう手を差し伸べる機はあったはずです。そうしなかった怠慢に本当に恨みは無いのですか?」
 ベリルは少し考える。確かに恨むべきかもしれない。だが、不思議とそういった感情は湧いてこなかった。
「すみません。なんでかは分かりませんけど、やっぱりあたしにはそこまで思えない。それに、あたしは人間になりたいんです。悪魔でも、神様でもなく。」
「人間になりたい、ですか。辛いことも苦しいことも数多ある人間に…。」
 エグネヴィアは小さく呟いた。きっと彼女にも未練があるのだろうとベリルは想像した。なぜなら、人生は辛いことしかないだけではない。たとえ微かでも幸せな時はあるからだ。
「……決裂ですね。」
 エグネヴィアは心底残念そうな顔をしていた。実際のところベリルは拒否することで用済みとして消されるのではないか?とうっすら懸念していたが、表情を見るにそこまでする気は無いようで、ベリルは安堵した。
「あの…街にもう入りますけど、どちらで降りられますかね?」
 後部座席でやりとりしていた2人に、運転手がいかにも気まずそうな声色で尋ねてきた。
「あー、…人通りの無い路地ならどこでもいいよ。これ代金な。」
 ベリルは身を乗り出して、運転手にメーターで表示されている運賃より少し多めに紙幣を握らせた。迷惑料含みというニュアンスは伝わったようで、運転手は何も言わずに受け取った。
 タクシーは街の外縁部に沿って、細い雨の降る路地を走って行く。やがて、廃墟と倉庫ばかりの通りに入ったので、ベリルはそこでタクシーを停めさせた。
「ここでいいや。それじゃあすみません、あたしはこれで。話を聞いてくれたことと、誘ってくれたこと、一応感謝しておきます。」
 ベリルがそう言ってタクシーを降りようとした瞬間、いきなり袖をグイと引っ張られ車内に引き戻された。予想外のことに動転している間に、気づけばエグネヴィアの腕に抱き留められて口づけをされていた。
「んぅ゛!?」
 突然の奇行にベリルは慌てて押しのけようとするが、エグネヴィアの抱き留める力は意外なほど強く、引き剥がせない。そうしている内に、ベリルは顔の右側に激しい痛みを感じた。
「い゛っ!ぐ、この、うっ…!」
 ようやくベリルはエグネヴィアを突き飛ばせたが、痛みは右腕にまで広がっていた。眼をそちらにやると、右腕は真っ黒に変色していた。
「ふふふ、ちょっとした呪いをかけさせていただきました。私も一端の悪魔ですから、神の使いにはこれぐらいの悪戯でもしておかないと沽券に関わるというものです。それでは。」
 エグネヴィアは妖しい笑みを浮かべながら、ベリルと反対側のドアを開けて路地裏へと消えていった。それを引き留める余裕も無く、ベリルは痛みに耐えながらタクシーを降り、とにかく帰還して助けを乞うことにした。バックミラーにちらりと映ったベリルの顔は、右の1/3ほどが腕と同じく黒くなり、瞳は燃えたぎる炎のような深紅に染まっていた。
「ちっ、くしょ、やられた…。」
 楽な仕事のツケがこれか、と悪態をつきながらベリルは帰還用の扉をくぐると、そのまま意識を失った。
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登場人物紹介

ベリル


元人間の6級天使。人間に戻るために仕事を請け負っている。情に流されやすい。

赤みがかったボサボサのロングヘアーの女の子で、服装もテキトーに選んでいる。

オルトル


ベリルの上司にあたる4級天使。純正天使なので人間味がほとんど無く、いつも事務的。

薄金色の白髪で、天使のイメージだいたいそのままの姿をしている。

ルマリ


元人間の特務6級天使。ベリルが人間であった頃から仲の良い友人。

薄灰色のショートヘアに青い瞳の、小柄な女の子。気弱な性格で、表情が顔に出やすい。

服装は仕事用の黒いローブを纏っている。

オブシディオ


元人間の特務6級天使。ベリルの最も古い顔馴染み。

身長2m近くのマッチョな男で、厳つい顔つきのため威圧感があり天使っぽくはない。

お洒落のセンスは高い。

ゼヘキエル


天使消失事件の調査チームを率いる、2級天使。

その強さゆえに自信家で、ちょっと高圧的。

アイオラ


天使消失事件の調査チームの1人で、情報操作や認知改竄を得意とする4級天使。

小柄で温和な話しやすいタイプ。

ドロウズ


天使消失事件の調査チームとしてベリルと同行していた、3級特務天使。様々な剣に変身したり出したりする能力がある。

後日、たまたまカジノに行くベリルと再会して同行する。

非常に情緒に乏しい割に、突飛な行動をしてベリルを悩ませる。

エグネヴィア


ベリルがばったり出くわしてしまった”眷属級”の悪魔。

所属は羊。

とある理由からベリルと対話をすることになる。

ダイア


ベリルが人間だった頃の、1番の友人。

ベリルの罪の原点。

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