第18話 侵攻

文字数 2,893文字

 ぐずついた天気を投影したかのように、漆戸良公園の蒼の湖が瘴気を孕んで淀む。
 水曜の正午過ぎ、鬼門の開放をぎりぎり抑えている現状で、司門や高神と共に漆戸良公園にいるはずのシンから俺のスマホに連絡が入った。

『ソウさん! エイが従者に襲われました!』
「は?」

 大きすぎて音割れしたシンの声が端末から響く。
 声そのものだけでなく、話の内容がまったく理解できず、俺は言葉を失った。

『エイから連絡があったんです。俺もう、びっくりして! ソウさんの方に連絡は?』
「……いや」

 電話の向こうの激しい呼吸音と跳ねる声から、走っているらしいと見当が付いた。
 俺の耳が確かなら、紛れもなくシンは『エイ』と言った。が、エイはTFCを抜けた後、消息不明で連絡がつかないことになっている。

『今からエイのところへ向かいます。ソウさんも一緒に!』

 真面目な後輩がこんな悪趣味な冗談を言うわけはない。といって、エイが従者に襲われるなどあり得ないし、突然シンに連絡を入れてくるなど不可解すぎる。

「俺は蒼の湖へ行かなきゃならない。シンは……、エイを頼む」

 疑念を口に出さず、それだけ告げて通話を切った。
 TFCにいた時分、シンはエイの親友だった。俺が日本へ戻って以降、エイはシンに接触して来なかったのに、なぜこのタイミングなのか。
 たとえばもし従者に襲われたという理由を付けて、あいつがシンを漆戸良公園から遠ざけたのだとしたら。

 俺は加我主任に押し付けられた残務処理の仕事を放り出し、オフィスを飛び出した。
 司門のスマートフォンに掛けてみてもつながらず、高神の方も同じく不出。嫌な予感に神経がピリピリ逆立つ。

(ついに開く、か)

 来るべき時が来たのだと確信する。
 鬼門が解放されれば、街中が瘴気に包まれ、従者や眷属が人を襲う。パニックになるのは必至だ。
 アジフの魔の力では、鬼門は閉ざすことはできない。それができるのは、光の聖女の力だけ。
 バイクを出すのも煩わしく、非常手段に出ようとした時、手にしたスマホが着信音を鳴らした。

『よかった、ソウさん!』

 ワンコールで出た俺に、観月は切羽詰まった声で訴える。彼女の方も司門たちと連絡が取れないため、俺に頼ってきたのだろう。ちょうどこちらから掛けるところだったので手間が省けた。

「事務所に迎えに行くから。すぐ出られる?」
『え? うん』
「来てくれ、蒼の湖だ」

 電話で話しながら、俺は司門の事務所に一瞬にして現れた。ドアを開けることなく部屋にいる客に、観月は慌てふためいている。

「ソウさん? なんで……」
「遠隔移動なんて、初めてじゃないだろ」

 ナイやビヤによって体験済の観月でも、俺とは初体験。狼狽える彼女の腕を取り、マンションの一室から漆戸良公園へさらに移動を重ねる。周囲の景色が切り替わるのに一秒もかからない。

 最悪の予想は当たり、かつての緑の公園は枯草だらけの不毛の地と化していた。最前線の蒼の湖はTFCが防御陣を敷き、湖から離れた場所に司門と高神の姿があった。
 司門の体調も高神の怪我もほぼ問題ないが、次々湧き出る従者に戦況は芳しくない。

「ソウ! 貴様、なんで小夜を連れて来た!」

 こちらに気付くや、高神が怒りを露わにして掴み掛ってくる。司門は無言のまま、過保護な保護者たちは揃って俺に強い非難の眼差しを向けた。
 観月はどうしたらよいか分からないという様子で大層戸惑っている。申し訳ないとは思うものの、事態は一刻を争う。

「そんな場合じゃないと承知のはずだ。彼女にしか鬼門は閉ざせない」
「……チッ、くそ!」

 正論を突きつけてやれば、高神は忌々しげに俺から手を放した。

(面倒だ。ナイ、代わってくれ)

 声に出さず、元邪神に語り掛ける。一番合理的な思考を持つのはナイだ。

「まだ小夜は破魔の力引き出せてないでしょ。どうするの、ソウ」

 瞬く間にナイと司門が入れ替わり、若干赤みを帯びた瞳が俺と観月を交互に映す。頭の中を読めるくせにわざわざ尋ねたのは、高神や観月にも聞かせるためか。

「俺が力を増幅する。いけるな、観月?」

 俺の口調は半ば強制に近い確認。ろくに説明もなく連れて来られた観月は理解が追い付かないに違いなく、鬼門を閉じる大仕事を簡単には受け入れられまい。だが破魔の力が唯一の希望であり、切り札だった。

 異常な瘴気が肌を刺すのか、観月は両腕をしきりにさすっている。導師がサポートをするにせよ、最終的には本人の鍛錬の成果が物を言う。
 俺は内にいる小夜にも伝わるように、彼女の肩に手を置いて自分の方へ引き寄せた。すると所有物でもなかろうに、触れるなと言いたげに高神が噛みついてくる。

「蒼の湖だろ。俺も行く。小夜だけ、んなヤバイ場所にやれねえ!」
「水恐怖症のくせにか。悪いが、お前じゃ力不足」
「やめてよね。湖の側で倒れて、足引っ張る気?」

 ばっさり切り捨てた俺に続き、ナイがさらにとどめを刺す。悔し気に顔を歪める高神に、観月は優しく微笑んだ。

「やってみるよ。心配しないで」

 覚悟を決めた表情で、声音に迷いはない。無理を強いているにも関わらず、泣き言を言わないところが彼女らしい。

(それでこそ、だ)

 ありがとう、と一言呟き、俺は本日三度目の遠隔移動を行った。交換したばかりの左腕は多少の無理が利く。
 気掛かりなのは、観月の意識の中へ入っている間、俺の結界が丸ごと無効になる点だ。鬼門を塞ぐまで、TFC、そして司門と高神に持ちこたえてもらわねばならない。

 現時点で、蒼の湖は司門たちがいる場所より遥かに凄まじい様相を呈していた。濃密な瘴気に汚染され、表土さえ腐食し、源泉である湖面は煮立ったようにボコボコと瘴気の泡を吹き出している。

「こんな……」

 どす黒い湖水を覗き込み、観月が青ざめた。しかしすぐ咳き込んでしまい、言葉が継げなくなった。蒸れた大気が喉を焼き、呼吸すら困難になる。

「今のうちに深呼吸して。またすぐに瘴気が充満する。口は開くな。肺をやられる」
「ソウさ……」
「俺の事はいい」

 宙を右腕で薙いで、わずかながら清浄な空気を確保する。俺を気遣う彼女の口を掌を塞ぎ、しゃべるなと合図した。

「トレーニングと同じ要領だ。意識の奥にある力を探って、それを引き上げる。片鱗が見えたら、俺が手を貸す」

 恐怖と緊張で観月の体が強張っており、この状況で精神を集中するのは難しい。

「リラックスして。力を具体的な物でイメージするといい。……そうだな。たとえば、海の底に眠る宝石とか」

 俺はできる限り柔らかい口調で語り掛けた。イメージトレーニングは小夜ともさんざん行った。
 バイクの後ろに乗ろうとして、ヘルメットを視覚化した小夜の誇らしげな笑顔が脳裏に浮かび、頭を振ってその幻想を打ち消す。

 観月は首元を探り、服の下からペンダントを取り出した。チェーンでなく紐が通された平たい褐色の石を、大事そうに手の中に包んで目を閉じる。
 ペンダントから感じる温かな気の流れは、前世の巫女、セレナの神力だろう。
 観月の意識のブレ幅が徐々に小さくなっていく。潜れそうな頃合いを見計らい、俺は彼女の精神と自分自身を同調させた。
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