第12話 変化
文字数 2,461文字
事態が大きく動いたのは、日が落ちてからだった。
トレーニングが終わった後、高神と一緒に帰ったはずの観月が、いきなりTFCのオフィスに飛び込んできたことにまず驚き、それが観月ではなく小夜だと分かってさらに肝が冷えた。
勘の鋭い人間には、小夜が幽体だと気付かれてしまう。けれど幸い、加我主任は別の部屋に詰め、シンも席を外していた。この二人以外に、わざわざこちらに干渉する同僚はいない。
「小夜。ここには来るなと、あれ程……」
パーティションに仕切られた接客スペースに彼女を追いやると、俺は抑えた声でたしなめようとした。
「大変なの! 視矢くんが、シャドウに……」
色を失った小夜の唇が異変を告げる。どうやら観月のアパート近くの神社で高神とシャドウが一戦交えたらしく、彼女は自ら目にした惨憺たる状況を語った。
幽体である小夜は事実を認識できても、きっと観月の方はそこで何が起こったのか理解が追い付いていない。
(むしろ、知らない方がいい)
高神はシャドウの襲撃に際し、観月を守るための結界に力を注いだ。ビヤがいなければ、高神自身の力は知れたもの。勝敗は分かり切っている。
シャドウは観月に危害を加える気はなかったろうが、お姫様のために身を挺したナイトの奮闘に水を差すのは酷だろう。
「倒れた視矢くんを翼のある女の人が抱きかかえてた。あれが、ビヤ?」
「女?」
小夜の言葉に俺は眉を寄せた。負傷した主人を事務所へ連れ帰るのは眷属の役目で、彼女が見たものはビヤ以外に考えられない。とはいえ、ビヤが人型を取るとは初耳だ。
ハスターの眷属にはまだ謎が多く、TFCが把握しているのはほんの一握りの情報。『翼ある貴婦人』と称されたビヤが、もし本当に女性の姿になれるとしたら、高神ですら驚愕するに違いない。
「高神は事務所に運ばれたはずだ。きみも観月の中に戻れ」
「ソウさんは?」
「先に行ってる」
俺がそう言った後、小夜の姿も部屋の光景も一瞬で視界からかき消えた。正確には、俺の方が瞬時に移動した。
緊急事態を除いて、人がいる場所で遠隔移動など使わない。ほぼ同時にオフィスからいなくなった俺と小夜に、パーティションの向こうの職員たちは誰一人気付かなかった。
「――ソウ? なぜ、あなたが」
事務所に突然現れた俺を、司門が訝しげに睨む。
傷だらけでぼろぼろになった高神が運ばれてきた直後とあっては、警戒されても仕方ない。こちらには小夜という情報源があるおかげで、神社の件がTFCの耳に入る前に動くことができる。もっとも、そこまで司門に教えるつもりはないけれど。
「ビヤはいないのか」
「あなたが来たと同時に消えた」
なぜ来たのだと言わんばかりの口調に俺は肩を竦めた。瀕死の高神は客室のソファに寝かされており、傍にいるべきハスターの眷属は見当たらない。ビヤは主人と同様、前々から俺を嫌っている。
やはりビヤが高神を運んできたのは確かだ。ただ司門の態度から察するに、女ではなく巨鳥の姿で。小夜以外、人型のビヤを目にしていないのは妙な話だが、今はそれを考えている場合じゃない。
「そのうち観月が来る。この有様を見せるのはまずいんじゃないか」
「言われるまでもない」
まるで殺人現場さながらに、床のところどころに赤黒い染みが付いている。俺が暗に促すと、司門はネクタイを緩めて溜息を吐いた。
「とりあえず、視矢を部屋へ運ぶのを手伝って欲しい」
「ああ、了解」
ビヤがいなくなったのは、俺のせいだという自覚は一応あるので、手伝わないわけにいかない。
朱に染まった高神の体の片側を司門が抱え、もう片側を俺が支える。死体は重い。こいつは死体ではないものの、死に掛けの男の体は重く感じられ、二人がかりでなんとか自室のベッドの上に横たえた。
肩に回せる腕がない為、抱えるのも骨が折れる。持ち主から離れた二の腕は、今や血の通っていないモノにすぎず、作り物じみたソレを本来あるべき体の脇に置いた。
(これで生きてるとは)
目を閉じた土気色の顔は、普段より穏やかな表情をしていた。通常なら、とうの昔に止まっているはずの心臓は今も緩やかに鼓動を打つ。
邪神と契約した人間は老化がなく、怪我の回復も早い。仮に自己治癒力が追い付かなかったとしても、高神にはビヤの力添えがある。
動かない体をベッドへ残したまま、俺と司門は部屋を出てドアを閉めた。部外者が傍にいないのを確認すれば、ビヤが戻って主人の治療を開始する。
小一時間前に観月から連絡があったと司門が言った。こちらへ向かっているとしたら、そろそろ着く頃だ。
「服を替えておけ。観月が見たら、きっと心配する」
「そちらも、相当だが」
「こっちは彼女が来る前に退散するさ」
血で汚れた服を着ていては、誤魔化しようがない。司門が着替えている間に、事務所に残る痕跡は綺麗に始末した。血痕を別空間へ飛ばしてしまえば事は済む。
一段落して俺は自分で淹れた茶を啜り、再び汚さないよう注意を払ってソファに腰を下ろした。
「今日のうちに報告書をまとめておいた方がいい。おそらく明日、TFCに呼び出されるな」
「彼らは、視矢の状態は構わないのだろう。死んでくれれば手間がないと思っている」
「まあ、お偉方は、ね」
司門は組織の冷徹さを十分承知している。TFCにとって、事務所の二人は邪神と同等の脅威。今のところ飼い殺しにしているだけで、いつ司門たちを切り捨てるか分からない。
「星辰が正しい位置に戻る日も近い。シャドウが調子付くわけだ」
「ヒアデス星団食か」
俺から多くを語る必要はなかった。星辰の動きが己の体にいかに影響を及ぼすか、元邪神に説明する方が愚かしい。高神やシャドウとは逆に、一時的に自身の力が弱まることは司門が一番よく知っている。
ふと窓の外を覗くと、マンションのエントランスに走り込む観月の姿が見えた。俺の役目はここまで。手早く湯飲みを片付けて、司門に観月が来た旨を告げる。
俺の姿を見て、彼女に不審に思われたら困る。俺は来た時同様、文字通り司門の事務所から消え去った。
トレーニングが終わった後、高神と一緒に帰ったはずの観月が、いきなりTFCのオフィスに飛び込んできたことにまず驚き、それが観月ではなく小夜だと分かってさらに肝が冷えた。
勘の鋭い人間には、小夜が幽体だと気付かれてしまう。けれど幸い、加我主任は別の部屋に詰め、シンも席を外していた。この二人以外に、わざわざこちらに干渉する同僚はいない。
「小夜。ここには来るなと、あれ程……」
パーティションに仕切られた接客スペースに彼女を追いやると、俺は抑えた声でたしなめようとした。
「大変なの! 視矢くんが、シャドウに……」
色を失った小夜の唇が異変を告げる。どうやら観月のアパート近くの神社で高神とシャドウが一戦交えたらしく、彼女は自ら目にした惨憺たる状況を語った。
幽体である小夜は事実を認識できても、きっと観月の方はそこで何が起こったのか理解が追い付いていない。
(むしろ、知らない方がいい)
高神はシャドウの襲撃に際し、観月を守るための結界に力を注いだ。ビヤがいなければ、高神自身の力は知れたもの。勝敗は分かり切っている。
シャドウは観月に危害を加える気はなかったろうが、お姫様のために身を挺したナイトの奮闘に水を差すのは酷だろう。
「倒れた視矢くんを翼のある女の人が抱きかかえてた。あれが、ビヤ?」
「女?」
小夜の言葉に俺は眉を寄せた。負傷した主人を事務所へ連れ帰るのは眷属の役目で、彼女が見たものはビヤ以外に考えられない。とはいえ、ビヤが人型を取るとは初耳だ。
ハスターの眷属にはまだ謎が多く、TFCが把握しているのはほんの一握りの情報。『翼ある貴婦人』と称されたビヤが、もし本当に女性の姿になれるとしたら、高神ですら驚愕するに違いない。
「高神は事務所に運ばれたはずだ。きみも観月の中に戻れ」
「ソウさんは?」
「先に行ってる」
俺がそう言った後、小夜の姿も部屋の光景も一瞬で視界からかき消えた。正確には、俺の方が瞬時に移動した。
緊急事態を除いて、人がいる場所で遠隔移動など使わない。ほぼ同時にオフィスからいなくなった俺と小夜に、パーティションの向こうの職員たちは誰一人気付かなかった。
「――ソウ? なぜ、あなたが」
事務所に突然現れた俺を、司門が訝しげに睨む。
傷だらけでぼろぼろになった高神が運ばれてきた直後とあっては、警戒されても仕方ない。こちらには小夜という情報源があるおかげで、神社の件がTFCの耳に入る前に動くことができる。もっとも、そこまで司門に教えるつもりはないけれど。
「ビヤはいないのか」
「あなたが来たと同時に消えた」
なぜ来たのだと言わんばかりの口調に俺は肩を竦めた。瀕死の高神は客室のソファに寝かされており、傍にいるべきハスターの眷属は見当たらない。ビヤは主人と同様、前々から俺を嫌っている。
やはりビヤが高神を運んできたのは確かだ。ただ司門の態度から察するに、女ではなく巨鳥の姿で。小夜以外、人型のビヤを目にしていないのは妙な話だが、今はそれを考えている場合じゃない。
「そのうち観月が来る。この有様を見せるのはまずいんじゃないか」
「言われるまでもない」
まるで殺人現場さながらに、床のところどころに赤黒い染みが付いている。俺が暗に促すと、司門はネクタイを緩めて溜息を吐いた。
「とりあえず、視矢を部屋へ運ぶのを手伝って欲しい」
「ああ、了解」
ビヤがいなくなったのは、俺のせいだという自覚は一応あるので、手伝わないわけにいかない。
朱に染まった高神の体の片側を司門が抱え、もう片側を俺が支える。死体は重い。こいつは死体ではないものの、死に掛けの男の体は重く感じられ、二人がかりでなんとか自室のベッドの上に横たえた。
肩に回せる腕がない為、抱えるのも骨が折れる。持ち主から離れた二の腕は、今や血の通っていないモノにすぎず、作り物じみたソレを本来あるべき体の脇に置いた。
(これで生きてるとは)
目を閉じた土気色の顔は、普段より穏やかな表情をしていた。通常なら、とうの昔に止まっているはずの心臓は今も緩やかに鼓動を打つ。
邪神と契約した人間は老化がなく、怪我の回復も早い。仮に自己治癒力が追い付かなかったとしても、高神にはビヤの力添えがある。
動かない体をベッドへ残したまま、俺と司門は部屋を出てドアを閉めた。部外者が傍にいないのを確認すれば、ビヤが戻って主人の治療を開始する。
小一時間前に観月から連絡があったと司門が言った。こちらへ向かっているとしたら、そろそろ着く頃だ。
「服を替えておけ。観月が見たら、きっと心配する」
「そちらも、相当だが」
「こっちは彼女が来る前に退散するさ」
血で汚れた服を着ていては、誤魔化しようがない。司門が着替えている間に、事務所に残る痕跡は綺麗に始末した。血痕を別空間へ飛ばしてしまえば事は済む。
一段落して俺は自分で淹れた茶を啜り、再び汚さないよう注意を払ってソファに腰を下ろした。
「今日のうちに報告書をまとめておいた方がいい。おそらく明日、TFCに呼び出されるな」
「彼らは、視矢の状態は構わないのだろう。死んでくれれば手間がないと思っている」
「まあ、お偉方は、ね」
司門は組織の冷徹さを十分承知している。TFCにとって、事務所の二人は邪神と同等の脅威。今のところ飼い殺しにしているだけで、いつ司門たちを切り捨てるか分からない。
「星辰が正しい位置に戻る日も近い。シャドウが調子付くわけだ」
「ヒアデス星団食か」
俺から多くを語る必要はなかった。星辰の動きが己の体にいかに影響を及ぼすか、元邪神に説明する方が愚かしい。高神やシャドウとは逆に、一時的に自身の力が弱まることは司門が一番よく知っている。
ふと窓の外を覗くと、マンションのエントランスに走り込む観月の姿が見えた。俺の役目はここまで。手早く湯飲みを片付けて、司門に観月が来た旨を告げる。
俺の姿を見て、彼女に不審に思われたら困る。俺は来た時同様、文字通り司門の事務所から消え去った。