第7話 生霊

文字数 3,103文字

 脇道に停めておいた車に戻り、深く息を吐く。従者の始末に力を使ったのが堪えた。腕の痛みは治まっても、体が軋みを上げている。

 俺は運転席のリクライニングシートを後ろへ倒し、背もたれに倒れ込んだ。荒い呼吸を鎮めようと、目を閉じて瞑想に入る。
 やや激しくなったみぞれは、外からの視線を遮るブラインドになる。もともと行き交う人も車も少ない小道だ。

 そうして十五分程経った頃、人が近付く気配を感じた。駐車許可証があるので、駐禁切符を切られる心配はない。人影は一向に立ち去らず、車の周りをうろうろしている。気配は一人、けれど普通の人間のものとは少し違う。

 仕方なく、外の様子を窺うべく助手席の窓を少し開けた。流れ込む外気と共に、ドアも開けずにその人物は車に乗り込んでくる。

「……中に入れとは言ってないんだが」
「だって、雨降ってる」
「濡れるような体はないくせに」

 すげなく呟くと、失礼だよ、と先程アパートの前で別れた女が唇を尖らせた。
 姿も声も、何もかもが観月と瓜二つ。大きく違うのは、現在俺の車の助手席に座るのは、肉体を伴わない幽体だということ。

「お前、どうして話せる」
「私に聞かれても、分からない」

(まいったな)

 掌で目元を覆い、俺は眉根を寄せた。術者が潜在意識にアクセスする際、アストラル体が肉体から離れやすくなる。観月のように潜在的に力が強い者なら尚の事。幽体が分離する可能性は想定していた。
 しかし、どうやら「彼女」は自我を持つ。通常、幽体は意識や感情を持たない鏡像にすぎないのだが。

「おま……いや、きみは実体じゃない」
「分かってる。でも、私も『観月』だよ」

 はっきりした口調で、幽体が答える。アストラル体は、世に言うドッペルゲンガーや生霊の類。本体の方に害はないし、おそらく観月本人はこの現象に気付いていない。
とはいえ同じ姿でウロウロされては、混乱を招くだけだ。

「悪いけど」

 軽く詫びを入れ、俺は彼女の頭上で掌を広げた。
 分離した幽体はその場で消す。それが術者の義務。どのみち、物質世界でアストラル体は長く姿を保てず、やがて自然消滅する。

「あ、待って。破魔の力を鍛えたいんでしょ? なら、このままでいた方が便利だと思う。私と観月本体と両方でトレーニングできるから」

 何のつもりか、伸ばしたぎゅっと手を掴まれ、そんな提案をされた。もちろん実体ではないので、あえて言えば空気の塊に包まれたような感覚があるのみ。
 命乞いをしたところで、せいぜい姿が保てるのは一ヵ月。「彼女」自身、それは知っているだろうに。

(一ヵ月、か)

 ふと手を止めて思案する。確かに、アストラル体を直接鍛える方が効率的で、トレーニングを加速できる。この状況下、時間短縮できるのは実際有難い。観月自身を含め、事務所の連中に知られなければ事は済む。ここは乗ってみるのも悪くない。

「……分かった。俺はこれからTFCへ行く。観月の中に戻ってろ」
「トレーニングは?」
「仕事が終わった後」

 幽体相手なら場所も時間も選ぶ必要はなく、マンションだけでいい。一時的に観月の身体に戻っても、消滅させない限り好きな時に分離できるはず。

「夜、俺のマンションに来て。場所は分かるな」
「え、でも、ソウさん、一人暮らしだよね……?」
「……だから、体はないだろ」

 一瞬意味が分からなかったが、つまりは夜に男の家に行くことを警戒しているらしい。本物の観月のような反応に脱力してしまう。幽体を襲う馬鹿がどこにいるのか。

「また後で、『小夜』」

 束の間でも関わる以上、呼び名がないと不便だ。観月本体と区別するため、致し方なく下の名前を呼ぶ。小夜ははにかんだ笑みを浮かべてから、音もなく消えた。助手席のシートに人がいた痕跡はわずかもない。
 静かになった車内で、俺は再び目を閉じる。不思議と、酷かった体の疲労は癒えていた。





 TFC内で常時オフィスにいるのは加我主任を含め、ほんの数名。ほとんどは外に出払っている。
 受け持ちの案件次第では、実戦要員も内勤に就く。風の邪神ハスターの監視を担当するシンもその一人。

「頼まれてた件、メールで送っておきました」
「ありがとう、助かる」

 オフィスの自販機の横で壁に寄り掛かり、俺とシンはコーヒーを飲みながら立ち話をした。

「瘴気はひどくなる一方です。早くなんとかしないと」
「今できることをするだけだ。焦ってもしょうがない」

 苛立たし気にコーヒーを一気飲みする後輩の胸を拳で軽く打つ。最近、シンは事務所の高神と組んで外回りをしている。熱血漢の後輩は、たまの内勤の日はもどかしいようだ。

 漆戸良公園に開いた鬼門から瘴気が溢れ、同時に水の信者たちも動き始めた。邪神との血の契約が次々交わされ、あちこちで従者が生まれる。TFCも司門の事務所と連携を取って警戒に当たっているが、瘴気の流出は既に危機的状況。
 そして、鬼門を閉じる術は今のところ、ない。 

「あ、そうだ。主任が呼んでましたよ。手が空いたら、執務室に来て欲しいって。なんだか主任、えらくご機嫌で」
「ご機嫌ね」

 俺はシンの言葉に苦笑し、コーヒの空き缶を回収ボックスに投げ入れた。あの狸親父は何か企んでいる時に上機嫌になる。
 良からぬ用事だと予想はついても、仮にも上司の呼び出しを無視できない。俺は取るべき対応をシミュレーションしつつ加我主任の執務室へ向かった。

(不正アクセスの件だろうな)

 呼び出される理由に心当たりはあった。先日TFCのデータがハッキングされ、内部情報が外に漏れた。もっとも漏洩したのはとある一部分のみで、組織全体を脅かす類のものじゃない。知られていい情報かどうかは選別したつもりだ。

「おや、早かったね」

 執務室に入ると、デスクで加我がのんびり茶を啜っていた。
 NPO法人としてのこの男の地位は、当たり障りのない中間管理職。その実、政府組織上層の一角を担う権力者なのだが、そんな事実は表のNPOスタッフの前ではおくびにも出さない。

「……遅くなってすみません。それで、ご用件は?」

 あからさまな嫌味を聞き流し、話を促す。主任は椅子をくるりと回して腰を上げた。

「例の不正アクセスだけどね。システム管理者のきみにも犯人が分からないなんて、珍しいんじゃないかな」
「セキュリティの間隙を突かれました」
「まあ、他の者にはそういうことにしてあるよ」

 すべてを知っているかのようなしたり顔を前に、俺は平然とした態度を保ち続けた。
 加我お得意の誘導尋問で、あちらも推測の域を出ず、俺から決定的な答えを引き出そうとしている。

「盗まれた情報は、俺のターゲットに関するものです。おそらく、信者の中にハッカーがいるんでしょう」
「そうかな。信者ではないと思うのだが」

(……お見通しか)

 見事に言い当てられ、内心焦りを覚える。下手な嘘は通用しそうにない。
 主任の言葉通り、俺が間接的にTFCのデータを流した。もちろん相手は信者ではなく、司門の事務所。わざとハッキングするよう仕向け、司門に情報を掴ませた。

「俺をお疑いでしたら、上層部に告発したらどうです」
「まさか。私は自分の部下の味方だよ」

 胡散臭い笑顔を向けられ、よく言う、と俺はつい顔をしかめた。
 どうやら今回の不正アクセスについては追及しないつもりらしい。この男を全面的には信用できないとしても、俺を他の幹部連中に差し出す真似はしまい。

 部下が不祥事を起こせば、加我も直属の上司として責任を問われる。直々の有難い呼び出しは、あまり大っぴらに動くなという俺への忠告か、あるいは俺に貸しを作らせる策略か。
 何であれ、ろくでもないことに違いないという予想は当たった。
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