七時雨 後・ⅩⅢ
文字数 1,999文字
暖炉の前で、カノンはうんざりして書物から顔を上げた。
さっきから止まらないリリの愚痴に、文字を読む事を諦めたのだ。
「いいじゃん、ユゥジーンの記憶が戻って、何もかも元通りなんでしょ? 執務室だって万々歳だし」
「だってあの馬鹿のせいで、あたし、顔上げて歩けないのよ!」
「それ、どちらかというと、ホルズさんのせいでしょ?」
あの時の執務室の騒動を、勤勉な書記の少年は、生真面目に議事録していた。
帰りがけに少年が、「これやっぱり破棄しましょうか?」と渡した書面をホルズが自宅に持ち帰り、あろう事か、妹達に見える場所にわざと放置したのだ。
ノスリ家の女性陣の情報拡散力は、魔性よりも脅威だ。
翌日朝一番に、ユゥジーンは付き合っていた女の子達に再度ひっぱたかれ、リリは遠慮のないオバチャン連のお節介から逃げ惑わねばならなかった。
「蒼の里公認カップルになれたんだから、イインじゃネ?」
ユゥジーンの口真似で茶化すホルズには何を言う気力も起こらず、リリはこうしてカノンに愚痴を吐き出しに来るのだ。
「だってリリ、ユゥジーンに何の不満があるのさ。カッコいいし腹筋割れてるしリリ最優先だし」
「カノンまでそんな事言うの? そういう問題じゃないでしょっ!?」
いつもはこの娘が怒鳴り出すと退いてしまうカノンだが、この日は黙らなかった。
「リリはいつまで白馬の王子様を夢見るお姫様でいるんだか」
「なっ何よっ、それ!?」
「じゃあ・・」
少年はいきなり立ち上がって、リリの手首を掴んだ。
「な、何よ……」
「なってやろうか、白馬の王子様に」
「ぇ?」
「シドさんがエノシラさんを連れ帰ったみたいに、僕がリリを攫(さら)って帰ったっていいんだ」
「は? へ? ほ、本気?」
長いのか短いのか分からない時間が過ぎて、カノンは肩を降ろして、硬直する手首を突き放した。
「本気の訳ないだろ、バッカみたい。分かった? そういうのがお姫様気分だってんだ」
「何よそれ! 何よそれ! 何よそれ! デリカシー欠如男! 大っ嫌い!!」
捨て台詞を叫んで、リリは頭から湯気を噴きながら出て行ってしまった。
「ちぇ」
カノンは読み掛けの本には戻らず、暖炉に寄って炭を叩いて火を落とした。
「デリカシーがないのはどっちだよ」
チラチラ瞬く炭を少しの間眺めてから、少年は立ち上がって、寝具の下に隠していた背嚢(はいのう)を背負い、三重の御簾に手を掛ける。
御簾の向こうのひんやりとした室内だって、彼にとっては大冒険なのだ。
でもあの時は、リリのやつれ顔を何とかしてあげたい一心で、翡翠石のある場所まで息を止めて歩いた。
本当に、ただリリの事を想って、『愛着のある物の無い場合のヒト探しの方法』を聞きに行ったのだ。
なのにさっき、硬直した細い手首は、彼の望む感情を、何も何も伝えてくれなかった。
(ホンのちょっと位ときめいてくれたっていいじゃん……)
あの時と同じに、ぶら下がった光る翡翠石を握る。
「だから、そんなに度々使うなと言ったろ? 室内だって暖炉を離れるのは君には良くないんだろう?」
灰色の結界の中で、それでも律儀に来てくれたリューズが睨み付けて来た。
「火は落として来ました。これで最後です」
「ん?」
錫杖の男性は、少年が背負った大きな荷物を眺めて眉を寄せた。
その時
――とぅん
結界の端に計ったように、羽根の子供が飛び込む。
カノンは翻って彼に駆け寄り、身体を伸ばして子供の手を握った。
そうして目を輝かせて呟く。
「やっぱり」
子供は・・
少年の真剣なオレンジの瞳を覗き込み、自身も目を見開いて、手を握り返して来た。
「僕に必要なのはこの子だったみたいだ。教わる事が一杯ある。行きます、皆さんに宜しく」
男性に何を言う間も与えず、少年は子供と共に結界の外へ消えた。
***
午後の穏やかな日差しが、窓の氷を緩めている。
西風の少年のいた暖炉の部屋は、きちんと火が始末され、寝具も書物も真四角に整えられていた。
置き手紙の堅苦しい文面は、感謝の言葉と突然の退去の謝罪。
「几帳面は父親譲りなのでしょうね」
先程灰色の結界でリューズにあらましを聞いたナーガ長は、定規で測ったみたいに角が揃った書物を眺めて、苦笑した。
外から、リリがユゥジーンを怒鳴りつける声が聞こえて来る。また何か無神経を言って怒らせたんだろう。
カノンが急に行ってしまった事を知ったら、二人とも、寂しがるだろうな。
ヒトは確かに、忘れながら生きて行く。全部を覚えている事なんてないだろう。
だからこそ、その中から残った、大切に握り締めたそれが、本当に本当の宝物になるのだろう。
明るい陽光に、窓のつららが翡翠石の欠片と反射し合って、唄うみたいにきらめいていた。
~七時雨・了~
リリ&若紫
『七時雨』は、四日ほどお休みします。
明日は、NOVEL DAYSに来て一年記念に、チャットノベルを書いてみた。
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