七時雨 後・Ⅱ
文字数 2,990文字
山の冷気はそんなに辛くないが、苦手なのは暗闇と、神経がすり減る程の静けさだ。
リリは雪洞に分厚い毛皮を敷き、リャマの毛布にくるまって横たわっていた。
風が雪面を撫でるジャラジャラという音で、何度もまどろみから引き戻される。
溜め息して起き上がった。
別に眠るのが目的でここにいる訳じゃない。調べ物は同じ場所で同じ時間を繰り返すのがセオリーなのだ。
「そういう事、教えてくれたのも、ジーンだったのにね」
独り言もやけに響いて、闇に吸い込まれた。
『地の記憶を読む』という方法がある。
大地に両手を降ろして、地面が過去に見た記憶の中から、自分の知りたい事を聞き出す術だ。遠い記憶ほど薄くなって聞き取りにくくなる。
暗くなる前に、この辺り一帯でそれを試してみた。しかし残念ながら、リリにその術は出来た事がない。
もっとも、少し前にナーガ長も同じ事を試したが、ここでは何も読めなかったらしい。春には溶けて流れる氷の地面は、記憶を留めにくいのかもしれない。
「シンリィなら出来るんだろうなぁ」
また独り言が響く。
幼い頃、少しだけ共に過ごした従兄妹のシンリィ。
彼は当たり前みたいに色んな術を使っていたが、その中に、地の記憶に近い術があった。
彼の住んでいた不思議な空間。
そこの窓から地上のあちこちの景色が見えたのだが、彼は窓を通してその場所の過去も視る事が出来た。
自分の目にしか映らないその風景を、手を握って小さなリリの頭にも映してくれた。
何もない草原の何十年も前の戦の風景や、廃虚の街がヒトの営みで満ち溢れていた時代、雪の湿原が僅かな夏に一斉に開く花々で埋もれる様子。
あの頃、蒼の妖精はみんなこんな事が出来るんだと思って、ワクワクしたっけ。
蒼の里に来てみたら、シンリィは特別なんだと聞いて、がっかりした。
蒼の長である父でさえ、他人にそんなに鮮明に見せるなんて凄いなと、素直に感心していた。
本当に、一緒にいた時、もっとしっかり見ておけばよかった。そうしたら、今こんな所で躓いていなかったかもしれない。
斜面を雪が転げ落ちる音で、我に返った。
まったく、こうも静かだと、思い出さなくてもいい過去の後悔までしゃしゃり出て来てしまう。
しっかりしなきゃ、そういう栓もない事は考えるのはもうやめるって決めたじゃない。
自分が今やる事は、ユゥジーンの記憶喪失の原因を突き止めて……
「突き止めて……」
また独り言。
突き止めて、彼の記憶を取り返す。
多分、自分の望みはそうなんだ。
自分のワガママ、彼の為じゃない。
記憶を無くしてからの子供みたいなユゥジーン。本当だったら彼は、あんな屈託のない無邪気な大人になっていたんだ。
今、リリの事を忘れ、何の責任もない場所で、可愛い女の子達と健康的に青春している彼。
記憶を戻すかこのままか、どちらの未来が明るいかって?
あんな風に笑っていられる方がいいに決まっている。
考え事は重みのある足音で遮られた。
――ズズ・・ズズ・・
(何か居る?)
雪を軋ませて踏み締める音…… 意思のある生き物の気配だ。
関わりのない山の獣なら、さっさと通り過ぎればいい。
しかし足音は雪洞に近付き、周囲を回り始めた。
(穴持たずのクマ?)
野生の獣なら、カマイタチで鼻先を脅してやれば彼らはもう近付かない。
若紫は雪に濡れない雲の上に休ませている。こんな事くらいで呼び戻して濡れさせるのは可哀想だ。
馬に頼らず自力だけで対処しようと考えたのは、ちょっとした油断だった。
***
足音は間隔を縮めて近付いて来る。
雪洞に飛び込まれたら袋小路のこちらが不利だ。
リリは敷いていた毛皮を盾代わりに左腕に巻き付け、右手に風を蓄えた。
足音が近付く。
雪洞の縁に獣の吐息がかかるのを感じた。
――今だ!
投げ付けた風つぶてが入り口に固めていた雪を跳ね上げ、紫の前髪の娘が飛び出した。
「!??」
そこにいた筈の『何か』の姿がない。
外は吹雪だが、視界が塞がる程ではない。
取り敢えず高い所から見下ろそう。
「風よ!」
右手を挙げて風を呼び、身体を舞い上げようとした・・ 途端、視界の雪が消えた。
――!!
背筋に電気が走り、本能で後ろに飛び退(すさ)った。
次の瞬間、元いた場所に、ブワッ! と黒い物が覆い被さる。
「何!?」
今一度大きく後ろに飛んで、やっと『何か』の全体を見る事が出来た。
降雪の白の中を切り抜いて、見上げるばかりの黒いモノがそびえている。半透明ではっきりした形はしていない。巨大な卵の中身がフルフルと空中を漂っているみたいな。
中心に一つ、赤く光って渦巻いているのは目か? 核か? 黒い身体の所々が炭火みたい燃えている。
もう考えなくてもビシビシ伝わって来る。そんじょそこらの魔物とはレベルの違う、異形の大魔!
リリの六感が激しい危険を訴えた。しかし今は馬がいない。
次の一手は、馬を呼ぶより、風を呼んで更に逃げる事に使わされた。魔性が身体の一部をムチみたいに伸ばして捕まえに来たからだ。
「あっ!」
ムチは予想外に長く伸び、リリの足首を払った。瞬間、突き刺すような痛み。
倒れざまにカマイタチを放ったが、黒い手はスルリと引っ込んで本体に戻った。
魔性は身体を溶岩みたいにたぎらせて、全体で襲って来ようと機を伺っている。
リリは雪に倒れ込んだまま、カマイタチを構えて赤い目を睨み付ける。
さっき触れられた足の付け根から下が、痺れて動かない。
それでも一歩たりとも弱気を見せちゃいけない。
いつまで・・? 蒼の妖精といえど冷気は気力体力を蝕む。
―― !!!!
まったく意表を突いて、草の馬が飛び込んで来た。
若紫? 違う。
「あ、あんた、何で?」
「い、いいがら、ばやぐ、飛び乗れっで!」
鞍上のユゥジーンが鼻水を凍らせて歯をガチガチ言わせながら叫ぶ。
主より冷静な草の馬が、リリに後肢を差し出した。
その毛づめを両手で掴む。
「飛んでちょうだい!」
ユゥジーンが尻をバンと叩いて馬は垂直に上がった。
娘をぶら下げた後肢だけは優しく折り畳まれている。
リリは馬に負担を掛けぬよう、風を起こして自身の体重を支えた。
手を伸ばして鞆(とも)から腰へよじ登ろうとするが……
――ジャッ
地上から伸び上がった黒いムチに追い付かれた。痺れてダランとなった足首に、今度はビッシリと巻き付く。
「あうぅ!」
足首から脳天まで突き刺ささる冷気。
「おい、どうした、頑張れ!」
鞍上でユゥジーンが馬を叱咤している。
「ダメよ、あたしが捕まっちゃった……あっ」
実直な馬は、頑張って左右に飛んで、魔物を振り払おうとしている。
「ダメ! あんた、脚を折ってしまう!」
更なる黒い手が地上から伸び上がって来る。
迷っている暇は無い。
リリは口をキュッと結んで、毛づめから手を離した。
枷が外れた馬は一気に上昇する。
振り向いたユゥジーンは、離れて行く娘の大きな瞳の紫が、水面みたいに揺れるのを見た。
地上に引っ張られる娘は身体を翻し、腕を交差させて全力のカマイタチを魔物に向けて放った。
――ピュイィン!!
今までで一番、改心の刃が飛ぶ。
魔性にどれだけ効いたか分からないが、足首の戒めは離れてくれた。
墜ちていく空中で残った力をかき集めて風を呼んだが、リリが覚えているのはそこまでだった。
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