包む

文字数 11,332文字

その3 包む

「保護者同伴でない制服姿でのご入店はご遠慮願います。」
「意味わからんし、いつも来てるし。」
入口で加賀美は制服姿の男子中学生三人が店に入ろうとしているのを阻止しようとしていた。近所の公立中学はテスト期間、昼までに下校した少し素行不良の学生が昼食をとり、そのまま、試験勉強と称して、長時間居座る。店にとっては何一つメリットのない、ただ迷惑なだけの客で学校側にもそのことを伝えたが、学校は校外のことは、知らぬ存ぜぬで、今世紀に入ってから、ずっと対応から逃げていた。
「俺ら、お客なわけじゃん。金払うお客を入れないってどういうことだよ!」
男子中学生ともなれば加賀美より背は大きく、腕力ではとうてい敵わない。それを自覚したように中学生三人は加賀美に詰め寄るが、加賀美は毅然として
「決まりは決まりですから、って、早く帰って勉強したら?」
と世界の常識を背後に信じて応戦する。その様子を星野は店の中からハラハラして見ていた。三人は、誰が見ても性質の悪い中学生に見えるし、大声出したり、暴力でも振るわないか、仕返しにこないかとか心配になった。あの中学校の良くない噂を結構耳にする。あまり無理せず、仕方なく店内に入れればいいのに。そんな星野の心配をよそに加賀美は堂々と正論をぶつける。
「あんたたち学生でしょ?試験期間でしょ?家帰って大人しく勉強しなさい。」
良識を持った大人の代表選手である加賀美の凄味に三人の何も知らない十四歳は、だんだん詰め寄られ、ついには押されてくる。
「・・わかったよ。でも、制服じゃなかったら入っていいんだろ。」
制服以外の未成年者のみの入店を禁止する決まりはなかった。帰って着替えてくるのなら、文句は言えない。正しい社会人であろうとする加賀美は、ルールに対して従順な考えを持っている。ルールを持ち出されたら、少し落ち着きを取り戻す。
「そうね、着替えて来るのなら来店されても結構です。」
「わかった。制服着替えてくるからな!」
三人の中学生は加賀美を睨み付けた。加賀美はその威圧的な態度を背伸び程度に感じて、少しかわいいとさえ思った。
「加賀美さん、無理しないでくださいよ。あそこの中学荒れてますから、変なことになりますよ。」
星野が店に入ってきた加賀美に近付いて注意を促すようにささやく。加賀美は何事も無かったように微笑んだ。星野は本当にこの人、大丈夫なのだろうかと心配しながら、その勇敢ともいえる行動には敬意を持った。
「誰かが注意しないと、あの子たちも分からないままになるでしょ。」
加賀美にとっては当たり前で、普通の事だった。その様子に星野は加賀美が真っ直ぐすぎるのではなく、こうなると自分が大人になれてないのかと思うようになっていた。そんなことを思いながら暖かい店内から窓の外を見ると、さっきの中学生三人が駐車場で制服を脱いで、北風吹く中、すね毛出してパンツ姿、取り繕うように急いで体操服に着替えていた。無音のコントのようなその光景に、二人は気が付き大笑いした。
「制服じゃないし。」
「文句言わせないし。」
校章が胸にプリントされた紺色のジャージ姿の三人が入口に堂々と立っている。加賀美と星野は鼻の孔から漏れそうな笑いをこらえて三人を迎え入れた。その後も中学生が入ってくる。五人の学生に対して、そのうちの一人の母親。これは文句言えない。学校の鞄を持っていたが、一度帰ってジーンズ姿に着替えて着たグループ、どさくさで入る制服組。
「姐さん、あれアリ?俺らジャージでダサいんですけど。」
薄ら笑いを浮かべて加賀美は三人に流行した朝ドラのセリフを引用。
「ダサいぐらい我慢しろ!」
そんな会話もあってか、注意されたことで三人は加賀美に対して敵意を持つどころか、親近感を持っていた。まじまじと見て、名札に名前を見つける。
「姐さんの名前ってカガミでいいの?だったらミラー姐さんって呼ぶわ。」
そのうち店内は中学生の騒ぎ声で騒然とし始めた。ボックス席に陣取って、壁に単語が書かれた紙やテストのスケジュールを勝手に貼ったり、メニュー立てにノートを挟んだり、ジュースをこぼしたり、勉強なんてしないで大声で話し、携帯ゲームを集団で始めたりと規律が無い状態になった。そうなると昼食に来た一般のお客が怒って帰っていく。
「この店、どうなってるの?あんたたちが注意しなさいよ。」
加賀美や星野は壁に貼られた単語や年号を剥いだりと、荒れた有様を放ってはいなかったが、中学生は二十人を超え、対応が追い付かなかった。しかし、ご指摘はもっともと帰っていくお客には深々と頭を下げた。何時もなら十時から十六時まで毎日居座る六十代の常連の女二人客が、昼過ぎには怒って帰ってしまった。彼女たちも相当うるさかったが、数の多さと若さに、遂には陥落、渋々の撤退を余儀なくされた。
「この店、いつからこんなにうるさくなったの?ちゃんとしなさいよ。うるさい客は迷惑なのよ。もう来ないわ。」
あんたたちも結構うるさいし、数百円で五時間以上粘って、迷惑、来なくて結構と星野は思いながらも「改善に努めます。」と返答した。しかし、その婦人二人は、他に行く当てなく、明日も、その次も、馴染みあるこの店を選ぶに違いない。
その騒然とした店内を後目にタチバナは厨房に籠ってゆっくりとオーダーに対応していた。どうせあいつらは黙って座ることさえできないのだから、注意しても無駄だ。食べるものと言ったら、ハンバーグ、揚げ物、チーズ、ケチャップ、ポテトと小さな子供が食べるものと変わりゃしない。ただ大きくなっただけのガキ。どうせ残すし、散らかすし、長く居座る。大した金も払わないのに、一端気取って大威張り。あいつら、百円でも払えば「お客様」という特別な権利が得られると思っていやがる。自由に、わがまま、好き勝手に振る舞えるお客様。食べた後には「ご馳走様。」じゃなくて、「もっと美味しく作れ!」とか命令口調で指摘までしやがる。珍しくタチバナはイラついていた。心の中で悪態をついて、檻の中で激しく暴れるチンパンジーにも劣る中学生の集団を断罪していた。
何時しか店内は崩壊し、オーダーも止まり、ただ、うるさい中学生のたまり場となってしまった。一応、飲食しているので、追い返すわけにもいかず、どうしようもなく時間が過ぎていく。
「店長、何とかしてくださいよ。これじゃあ、普通のお客さんなんて来ませんよ。学校に電話してください。」
星野がタチバナに詰め寄る。もっともな意見だが、タチバナの腰は重い。うるさい中学生を機関銃か何かで皆殺しにでもしたい気持ちではあったが、もちろんそんなことは法治国家である日本ではできない。だが、これ以上集団で無茶苦茶されたら安全の保障なんてない。警察でも呼ぼうかと考えたが、以前警察を呼んだ時は、なぜ学生を追い返さなかったかと逆にタチバナを厳重注意して、とっととパトカーで帰って行った。こういう安い食べ物を提供する店は、誰も守ってくれない。
「ミラー姐さん、うるさくて勉強出来ないんだけど、何とかしてよ。」
「家に帰ってすればいいじゃない。」
「でも、帰っても夜勤の母ちゃん寝てるし、だいたい家は落ち着かないし。」
「だったら図書館とかあるでしょ?」
「遠いし。」
「そんなの知らないわよ。ここは勉強するところじゃないから。」
「知っているし。でも、ここぐらいしか集まって勉強するところないんだよ。」
居場所が無い子たちが、ファミレスを選ぶ。そう考えると、騒ぐ子たちが、少し気の毒になってきた。色々なことを大人たちから教わるべきなのに、結局教えてもらわずに、見よう見まねで大きくなって、結局、自分たちの立ち位置が分からなくなっている。もっとも、この世代には、立ち位置みたいなものは用意されていない。子供らしくする必要もないし、集まって大人のフリするのも不細工な年代。
「あんたたち、ここに居ても何もないから、それぞれ帰って一人で勉強しなさい。」
最後の砦に突き放されたように反応する三人だったが、そんなに馬鹿ではなかったので、明日の試験のことを考えたら、加賀美の言うとおりという結論に至った。
三人が帰ると、見計らったように他のグループも帰りだす。最後に帰ったグループは制服姿五人と保護者つきだった。会計は母親、四十半ばに至っても、真面目に物事を考えた経験が少ない印象を受ける、ただ茶色い髪の毛の下の輪郭がおぼろげで、無理に若作りしている価値のない女だった。五人分の食事はデザートまで頼んで一万円近くになっていた。
「いつも、私が全員分払うんですよ。うちだってお金が沢山あるわけじゃないのに。」
ヘラヘラした感じで愚痴を言って勘定を済ませる。星野は受け取った一万円が、透ける程、薄く見えた。そのことを加賀美に言うと、諦めたように、「そういうお母さんって結構いるのよ。」とだけ短く答えた。
近くの中学校のテスト期間は一週間、その間、ずっとこの有様になる。忙しくなるが、単価が低くて、長いこと粘るので回転率も悪く、普通のお客さんも敬遠するので、売り上げは下がる。店にとっては台風が毎日連続してくるような、嫌な期間だ。
「本当にねえ、大変だ。でも、もっと静かにさせろよ。俺たちみたいな上質な客は、困るんだ。何しろ朝昼晩とここで食べるんだから。わかってる?おい、答えろよ。」
大勢の中学生が騒いでいる間は、何か言いたそうな顔をしていたが、居なくなると星野に向かって大威張り。高間繁、五十歳無職、職歴なし、しかし、資産家の息子。週の半分はここに来て、朝から晩までいる。星野は中学生への対応でクタクタだったが、あと一時間と気を取り直して高間の相手をする。
「申し訳ございません。」
あとの言葉は浮かばなかった。改善すると言っても嘘になるし、一週間は雨が降っても、突風が吹いても、祭りがあっても、どうしたって、中学生が来る。
「なんだよ、謝るだけかよ。それなら誰だって出来るよ。車で人轢いたって、謝れば済むと思っているのか?俺のこと、馬鹿にするなよ!」
高間は唐突に激高した。高間が社会と関わりを持とうとすると、いつも軽くあしらわれる。このことが、毎日暇で、ニュースばかり見ていて、関わりの少ない社会に対して過大な期待をしている彼にとっては許せなかった。高間は世の中のことを、誰よりも一番に心配し、その気持ちが地球を支えていると本気で思い込んでいた。そうでないと何も社会的に生産していない高間の精神が持たない。星野は、はじめは高間の事を気持ち悪いと思っていたが、最近は、気の毒に思えるようになっていた。テーブルを見ると、いつもの日替わりランチが置いてあったが、冷えきったご飯は半分残され、刻んだキャベツは手つかず、後は無くなっていた。提供してから三時間ぐらい経つが、高間はタブレットでインターネットを見ながらゆっくり食べる。で、いつもご飯半分と野菜を残す。テーブルには食い散らかした食べカスが散乱する。さっきの中学生たちと大して変わらない。半世紀生きても、自分が思い通りにすることしか考えてない。この先、どうするつもりだろう?本人は始まってもない、ここからだと思っているんだろうけど、とっくに終わっている。星野は見ているだけで、不幸な気分になる。こういった客がこの店に多いのか、それとも、世間にこういった人が溢れているのだろうか?星野はふっと窓に目をやり、通り過ぎる車や、変わることなく立ち並ぶ街並みを見た。町の輪郭にうっすらとした影が落ちていた。もうじき交代の時間だ。
「そう言えば、店長、ああ見えても料理の腕すごいよ。この前、ポテト切らして、子供が食べる何か作れって言われて、有り合わせの材料で、牛丼の味がする巻寿司作ったの。」
「えっ、そんな事出来るの?今日だって、うるさい中学生に注意しろって言ったら、中学生恐れて店の奥に引っ込んだような人なのに?」
広瀬と星野は、同じ年、同じフリーター、二人とも長身痩せ型で、目は大きく、少し気が強く、ショートカットで、何となく全体が似ている。そのため、昼と夜で勤務時間は違うが気も合うし、仲が良い。二人にとってタチバナは話のネタになる。
「そのお客さんって、水商売っぽい女で、店内で怒鳴ったりしたんだけど、店長ニコニコしてオーダー聞いてたよ。」
「マジで?なんか、キモイ。それって、下心あり?」
「ありあり。でも、店長の趣味がよくわかんない。ねえ、藤谷君。ゼブラ君母とかに言い寄られたらどうする。」
ハンバーグを焼きながら二人の話を何となく聞いていた藤本は先日食べた牛丼巻のことを思い出していた。あれは、もう一度食べたい。
「はいっ?ああ、ゼブラ君母ですか、いや、僕は苦手ですね。怖いですよ。タバコ吸ってるし、それに家事とかしてくれないだろうし。」
「藤谷君真面目だね。別に結婚前提で考えろって、言っているわけじゃないのに。」
そこで広瀬と星野は笑って、藤谷は耳が赤くなった。そこにタチバナがふっと顔を出した。三人は立ち話が聞かれたかとさすがに緊張した。
「じゃあ、僕、帰るから。」
三人はおそらく聞かれていないだろうと思った。しかし、藤谷は噂話の一端を言っておかないと申し訳ない気分になった。
「お疲れ様でした。店長、また、良かったら牛丼巻作ってくださいよ。あれ、うまかったですよ。今もその話していたんです。店長、料理がすごくうまいって。」
「別に他のものでもいいですよ。今週忙しいし、差し入れお願いします。」
褒められて嫌な気分になる人間はいない。タチバナは少し微笑んで余裕をもって「うん、考えておくよ。」短めの返事をした。
タチバナが駐車場に止めてある車に乗り込もうとしたとき、携帯電話がなった。
「もしもし、助川か、何の用だ。え、飯食わせろ?何処にいる?見えるとこ・・」
薄暗闇にのっそりとした中肉中背の影が立っている。顔に押し当てられた携帯が光って、その丸い輪郭、メガネが確認できる。タチバナは、俺はあんなに無様な感じではないと思っていたが、二人の特徴はよく似てた。助川は電話を切って、さっき出たばかりの入り口にタチバナを手招きで誘う。
「タチバナ、食いに来てやったぞ。今日はどんなスペシャル食わせてくれる?」
「もう、帰ろうと思っていたんだ。今日はお前にタダ飯食わせる気はない。」
「そう言うなよ。今日は生活保護出たから、奢ってやるよ。ただし、優遇価格でな。」
たった五百円しか払わないくせ普通に出せば二千円相当の料理を食いやがる。社員価格なんて教えるんじゃなかった。タチバナは自分の会社員としての優位な面を自慢したつもりが、劣位の無職に利用されることになり、損した気持ちになっていた。
店内は相変らずざわめいていた。出たはずのところに戻る。確かに戻ることは苦痛であるが、しかし、馴染みがいい。それに、簡単に諦めがつく。外側内側と繰り返す。その空気が対極であれば、それぞれの印象が深くなる。だから、店内のざわめきは五分前以上に強く感じたし、温かい温度も纏わりが良かった。
「あれ、店長、帰ったんじゃないんですか?」
「知り合いが来たんだ。まかない作るから。」
藤谷が調理する横に割り込んで、様々なトッピングをされたハンバーグを四枚焼き、白身フライとエビフライを揚げた。ご飯は大盛りで、そこにデミグラスソースをかけ、上にマヨネーズを走らせる。加えて豚汁にうどんを入れたもの。カロリーは一食三千を超えるぐらいの賄い定食二名分。藤谷は眉を曇らせながら横目で見ていた。邪魔だし、不愉快。
「おお、これこれ・・うまいなー。」
助川は運ばれたとたんに食いだした。タチバナは声は出さないがそっと手を合わせて頂きますのポーズをとって食べ始める。助川は右手だけ出して、体を傾けて食べる。くちゃくちゃと音を出し、手で食べ物を口に運ぶのではなく、口を食べ物に近付けて食べようとする。しかも味わうことなく、猛スピードで食べる。ハッキリ言って犬のような汚い食べ方をしている。タチバナも埋め込むような食べ方をするが、ゆっくりだし、両手は机の上、必要であれば皿を持つ。タチバナは助川と食事をするところを見られるのが恥ずかしかった。だが、高校時代からの付き合いなので無下にすることも出来ない。
「最近さあ、熟女デリヘルに凝ってるのよ。」
「おまえ、婆さんが好きなのか?」
「最近の熟女をしらんな?範囲が広がったんだよ。三十代から八十代まで。若作りが増えたのに、三十代で熟女扱いなの。まあ、言葉の流行みたいなもんだな。四十代前半だったら、全然いけるぞ、だいたい、俺ら四十代、アラフォー世代じゃないか。で、ねらい目は三十代のアラサ―世代。サービスいいぞ。追加払ったら何でもしてくれるし。」
「・・お皿お下げしましょうか。」
タイミング悪く広瀬が空いた皿を片付けに来た。広瀬は汚いものでも見るかのように二人に一瞥し、毒気から逃れる様に素早く立ち去った。その後も助川が散々下衆な話をして、タチバナもそれに乗っかったが、会話は大して広がりを見せず、小一時間でお開きとなった。「また来るからな。」と小銭しか払わない助川に対して、なんであいつは仕事もしてないのに俺の近くに住んでいるんだろう。遠い故郷に帰ればいいのに。と思ってみたが、故郷のことを考えるとタチバナは複雑な網に取り込まれるような気がするので、すぐに忘れる様に務めた。
家に帰ると段ボールの小包が届いていた。実家からだった。だいたい察しが付く。玄米が入っている。母親からの手紙が入っていた。「元気にやってますか?新米が取れたので、古米を送ります。どうぞお体に気を付けて下さい。」故郷から届く手紙は、時間の経過とともに内容は短くなり、文章が他人行儀になってくる。同じ場所関係なのにどんどん距離が離れていく気がする。ネットゲームでもしようかと考えたが、すでに飽きていることに気が付き始めていた。あたらしいゲームを探すのも面倒な気がした。それに助川と会って話し、母親からの手紙も読んだので、今日はもう誰とも会話を持ちたくなかった。
 タチバナは米を精米し始めた。実家から玄米が送られてくるので、仕方なく精米機を買った。それから米を手が切れる程冷たい水に二時間漬ける。冷蔵庫を開ける。有るのは紅ショウガ、玉子、わさびぐらいで、何も無かった。冷凍庫を開けた。油揚げが入っていた。取り出すと湯を沸かし、サッとかけ流して解凍し、醤油、みりん、砂糖、黒砂糖、水で作ったかなり甘目の汁で水気が無くなるまで煮込む。揚げは文字通りのきつね色より濃い目に煮上がる。砂糖醤油に油が混ざった甘い匂いが台所に立ちこめる。その甘い匂いが気分を落ち着かせる。甘い膜がタチバナを包んでいるような気分にさせ、その居心地の良さにうっとりとする。油揚げが程よく冷めたころ、ご飯が炊きあがる。ヒノキの桶に放り込んで、酢と塩のみの合わせ酢で酢飯を作る。砂糖の入ってない合わせ酢はサラサラしていて、ご飯の粒にサッと吸い込まれていく。ちゃんと混ぜ合わさっているのか確認の為に一口食べてみる。酸っぱく、塩っぱい角のある味、正直、美味しくない。そこにゴマを一振り、ゴマの風味で少しは誤魔化されたかもしれないが、単体では酸味が刺々しく、塩気も口に悪い後味を残すばかりで旨くない。タチバナはその酢飯を三角形に結んでいく。手水には、揚げを煮た甘い汁を使う。真っ白な酢飯が、斑な薄茶色の小汚い三角形に結ばれていく。手水を着ける、酢飯を取る、リズムよく三角に結ぶ。その単純な行動はリズミカルであり、そのリズムはタチバナをものすごく静かな場所に誘う。音は無く、色もなく、ただ、三角が作られていく。それは延々とした平らな砂場の様であり、荒涼とした地表の様であり、何もないところに、手作業で、起伏を、変化を、創造していく錯覚に陥ってくる。それまでそこには意味が無かった。だから障害となる辛酸の山脈を作ろう。苦役と言う障害が地表に整然と並んでいく。静まり返った中で意地悪な行動が気持ちよくなっていく。絶望する人たちが地表から空を見上げてやめてくれと懇願する。その顔触れに助川がいた。文句を言う時は人一倍だ。あと広瀬たちバイトの連中もえらい剣幕だ。いっつもそんな目で見てる。それに、今日店で見た中学生とか常連などの殆どが、その辛さに文句を言っている。本当は少し我慢すればいいのに、そうはいかない連中、よしよし、待っていろ。そんな連中は一束単に包んでやる。大きな甘い香りのする布を広げ、辛酸に塗れた山を余すことなく、すっぽりと包んでいく。次々と包んでいくと、最後には誰もいなくなった。後は表面が甘い山がずらりと立ち並ぶ。包み終わるとタチバナは満足した。
 「ああ、しまった、作りすぎた!」
 思わずタチバナは一人声を漏らす。目の前には三十個を超える大きめの稲荷寿司が並んでいた。明日食べるにしろ、五個で十分。処分方法を考える。明日の出勤は昼から夜まで、ちょうどよかった。明日は吉山親子が来る日だ。前の巻寿司を要求されたら、このいなり寿司を出してやろう。いなり寿司が嫌いな子供はいない。好感度が上がれば、吉山との距離が近くなる。助川の熟女デリヘルの話が頭をかすめる。三十代熟女と、やれる。そんなに簡単な話ではないだろうが、可能性は広がるし、案外、簡単に行くかもしれない。ゼブラからの信用を得ればいいんだ。そうすれば隙が出来る。だが、それでも稲荷寿司は余ってしまう。藤谷が「うまかったですよ。」と賞賛していたことを思い出す。いいうわさでも広がっていれば、みんなが奪い合うように持って帰るに違いない。そう考えると少し気分が良かった。いつも厨房で誰かのための料理を作っているが、あれは、規格であって、自分が作ったという気分がしなかったが、これは、自分が作った物と言い切れる。自分が作った物を、知った他人が食べる。単純に不思議な気がしたが、少しくすぐったいような感じで、案外、悪くなかった。
 「店長、なんか、よく来る似てる人と熟女風俗の話で盛り上がってたらしいよ。」
 「まじで?キモイ。」
 噂と言うものは一晩あればあっという間に広がる。夜のアルバイトから、深夜のアルバイトへ、それから早朝のアルバイトに伝わり日中のアルバイトに見事に繋がった。翌日の昼に折り詰に入った稲荷寿司を抱えてタチバナが出社してくると、好奇と冷気の入り混じった視線が向けられたが、タチバナは気が付かなかった。稲荷寿司を事務所の角に置くと「ご自由にお持ち帰りください。タチバナ手造り稲荷寿司。」と札を掲げた。誰か持って帰るだろう。しかし、足りなくなったりしたら、面倒だな。と思いつつも、正直、少し緊張していた。自身のプロダクト品がどのように評価されるのか気になった。だが、そんな心配は無駄に終わる。
 「加賀美さん、店長、デリヘル希望のくせに、いなり寿司作って配ろうとしてますよ。」
 「店は忙しいのに、あんな暇があるんなら早く来ればいいのにね。でも、広瀬さんが店長料理が上手って言ってたね。なんか、急なお客さん用に巻寿司作ったらしいね。」
 「でも、店長が作った稲荷寿司、誰も持って帰らないって言ってましたよ。何が入っているか分からないって。気味が悪いですよね。」
 食べ物はイメージが先行する。安全でも、どんなに美味しくても、そのイメージが悪ければ、誰も手を出そうとしない。口に入っても安全な食べ物そのものに罪はないが、イメージの悪いものを食べるということは、悪いイメージを体の中に取り込むことになる。
タチバナは誰からも触れられることのない稲荷寿司をチラチラ見に行っては、一ミリも動いた気配もなく、まるでタチバナ自身の存在が全否定されたかのように気分を沈めた。一方で店に入ると中学生の集団が昨日と同じように騒いでいる。その為にハンバーグを焼いたりポテトを揚げたりしている。いつもなら別に気にもしないが、変に自分について何か評価のようなものを期待した分、素通り同然の無視をされて、ひどく落ち込んだ。自発的に食べ物を作らなければよかった。あれはゴミだ。美味しいけど、ゴミとされた。ひどく悲しく感じられ、無表情でいるが、その哀愁は全身から滲み出ている。アルバイトの中でも、加賀美だけはそのことに気が付いていた。無責任な店長であるタチバナのことは正直、嫌いだが、気の毒な人間を放っておくことは出来なかった。そんなことを気にしつつ、終業時間になるころには、思い切って、一つ、決心をした。
 「店長、今週は忙しくて、家のこと何もしていないんですよ。それで、お願いがあるんですけど、少し多めに稲荷寿司もらって帰ってもいいですか?子供や旦那が稲荷寿司好きなんですよ。」
 タチバナは、誰も触れられずに残った稲荷寿司を自身の恥とさえ感じていたので、とにかく目の前から無くしたかった。だから渡りに船とはこのことと
 「いいですよ。全部持って帰ってもいいですよ。」
 「いえ、私ばっかりが持って帰っても申し訳ないし、少しは残しておきますよ。」
 家族四人で平らげるには二折りあれば十分だが、加賀美は三折り持って帰ることにした。一折だけが残っている。タチバナは、ぬぐいきれないと思っていた、恥のような重荷が減ったように安堵した。
 
 「ただいまー。」
 玄関の開く音に反応して一年生になる晴馬と三歳の鉄馬がダダダダダと駆け音立てて加賀美家の主人を迎える。
 「おとうさん、きょうねえ、うどんといなり寿司なんだって!」
 「おかえんなさい。ええっとねえ、うろんよ。」
 子供たちが嬉しそうに報告する。年下の鉄馬がお帰りなさいの挨拶が出来て、お兄ちゃんが出来ないことに苦笑しながら、加賀美拓馬は昼に社員食堂でうどんといなり寿司を食べたことを思い出した。好きなものも二食続くと飽きてしまう。カレーで数回あった。あれは何となく損した気分になる。
 食卓に並ぶ折りに入った稲荷寿司、六つ入りが三折りで計十八個もある。子供は頑張っても二つが限界。大人も三つ食べればお腹いっぱい。うどんはお椀に少しだけになっていたが、どうもバランスが悪い。だが、食事のことを一々聞くと妻が機嫌悪くなることをよく知っている拓馬はとりあえず黙って食べることにした。
 「いただきまーす。」
 子供たちはすぐにいなり寿司に手を伸ばす。一口頬張ると止まらず一個食べきった。加賀美利恵もタチバナのことを考えずに口に入れた。口に入れた瞬間、揚げの甘味が口の中に一気に広がり、甘すぎと思った後に、包まれた揚げを噛み切ると、中から程よい塩っけと酸味の寿司舎利が飛び出してきて、甘味をうまくコントロールする。味の印象が暗闇で電気をつけたようにいきなり眩しく広がり、しかし、すぐにドアが開かれ、違う光が入ってきて、すぐに心地よい光加減に変化するようなドラマチックな展開があった。その刺激が口の中に記憶を残す。ハッキリとした存在感があった。単純だが、複雑、認めたくはなかったが、美味しかった。
 「おい、これどこで買った?めちゃくちゃうまいぞ。今日の昼食ったいなりが霞む。別物だな。また、買ってきてよ。デパ地下か何かだろ?」
 少し躊躇ったが加賀美利恵は正直に話す。
 「これね、バイト先の店長が作って皆にどうぞって事になってたんだけど、誰も持って帰らなくて、ちょっと気の毒になって、ほとんど持って帰ったのよ。」
 「余りものには福があるってことか。いや、使い方違うな。まあ、しかし、これ、素人が作ったもんじゃないぞ。でも、店長って、例のダメ店長だろ?就職先間違えているな。これだけのもの作れるんなら自分で店でも持てばいいのに。冷凍ハンバーグ焼いている場合じゃないぞ。」
 食べきれないと思われていた稲荷寿司だが、四人にすっかり平らげられた。加賀美は見下していた店長を悔しながらも見直していた。美味しいものを作れる人は偉い。どうしてもこの評判の良い稲荷寿司の作り方をタチバナに聞きたかったが、どうやって聞き出そうかと悩んだ。
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