押す
文字数 13,158文字
その一 押す
むせ返るような厨房でタチバナは伝票を見ながら十五人分の昼食を作っていた。右から順番に作ることになっていたが、ハンバーグステーキランチが2個飛ばしにあったので、それを始めに作ることにした。間にあったドリアと鳥南蛮定食は後回しにする。解凍してあったハンバーグをグリルコンベアに載せて、待っている間にコーンとボイル人参を熱せられた鉄皿に載せ、余った時間で皿にご飯を盛りつける。十年も厨房に居れば、ご飯200グラムを計りなんて使うことなく正確に盛り付けることが出来る。その点に関しては、自分はプロだと自負していたが、その自負を公開する場もなく、ただ、密かな誇りとして、胸の中にゆっくりと沈んでいく。サクサクと調理場の作業を進めることは、タチバナにとって意識ない楽しみとなっていたが、やはりそれは所詮、意識ないものであって、知らない間に積もった雪が、知らない間に溶ける様に、気が付けば、何もなかったように、跡形もなく消えていく。
出来たものからオーダー伝票を添えてカウンターに並べていく。アルバイトのウエイトレスが出来た順にテーブル番号を確認して持っていく。刷り込まれた様式、一連の流れ、単純化された作業。この行動一つ一つにマニュアルが存在する。右から順に並べるとか、盛り付けを考慮した皿の置き方、提供することを見越しての皿の取り方など。タチバナは、初めの頃は一々そのマニュアルの内容に感心していたが、来る日も来る日も繰り返していくうちに、それは朝起きて歯を磨く、トイレに行ったらズボンを下げるといった当たり前の行動になっていき、当たり前すぎて、仕事としての緊張感などはとっくに薄れていた。
「店長、3番席のドリアと8番席の鳥南蛮はまだですか?3番のお客さんから「まだか」って催促があるんですけど。」
二児の母でもあるアルバイトの加賀美利恵が、店長であるタチバナに訴えではない、批難じみた強い口調で言いつける。タチバナが厨房からそっと覗くと三番席に四人家族がそろって座って、父親と思われる男の席にだけ飲みかけのガラス細工のような緑色したメロンソーダ―のみが置いてあり、小学生の兄弟の席には湯気が出終わったハンバーグステーキが並んでいて、母親の席のパスタもすっかり色彩を失いかけていた。男は大人なのに坊主頭で、よく日に焼けて、季節は秋なのにタンクトップを着ていて、分かりやすく体中の筋肉が盛り上がっている。タチバナは考える。あれは肉体労働者か、自身の肉体を鍛えることに喜びを見出すタイプの人間。どちらにしろ怒ると怖いタイプだ。ようやくタチバナはドリアを後回しにして、尚且つ、作り忘れていたことに気が付いた。自らの失態に口を歪ませながら問題の3番席に再度目をやると、ドリアを待っている筋肉の塊が、闘牙を帯びて筋肉を盛り上がらせている。まるで開戦前の飢えた土佐犬、交友関係には存在しないタイプの人間、怒らしたら面倒だ。
「なに、ぼーっとしているんですか!早くドリア作ってくださいよ!お客さん、強い口調で「まだか!」って言ってますよ。」
「・・・ドリアのオーダーってあったっけ?オーダー取り忘れたんじゃないの?」
この期に及んで責任逃れしようとしたタチバナに対して加賀美は睨みつける。
「どういう意味です?人のせいにしないでください。端末にドリアの記録はちゃんとあります。見ますか?」
「・・そうじゃなくて・・オーダー伝票をちゃんと置いたかの意味なんだけど・・」
開口半分、奥歯にモノが詰まったように言いながら、タチバナは並べられたオーダー伝票の三番ドリアの紙切れをこっそり隠そうと手を伸ばした。カウンターの越しの加賀美からなら気が付かれないと思っての行動だったが、思わぬ伏兵がいた。
「店長、いま、ドリアの伝票を隠そうとしましたね、私見ましたよ。」
後ろからの声にタチバナは心臓が止まる思いがした。抑揚なく罪を指摘したのは、フリーターのアルバイト、星野明子だった。
「星野さん、厨房に入ってきたらダメじゃないか。ちゃんとオーダーとか取らないと。ほら、レジにお客さんが待っているよ。急いで行かないと。」
誤魔化す人間特有のそぞろな口調でその場を流そうとしたが、アルバイト二人は見た目は細く、整った顔立ち、色白で一見か弱い印象を持っていたが、ガッチリとした強靭な意志の関を作って、百キロ超のタチバナに詰め寄った。
「いい加減にしてくださいよ。さっさと手を動かしてドリアを作るか、お客さんに謝罪に行くかをすればいいんですよ。とにかく店長のミスなんだから、対応しなさいよ。」
加賀美が顔赤らめて命令口調で荒く噛みつく。星野は冷たく腕を組んで睨み付ける。タチバナは自らの尊厳を、店長という立場を強く出して、二人の年下の煩い女たちを蹴散らしたかったが、ミスをしたのは明らかに自分で、分も悪く、喉もとでむせ返る憤りは、腹の中に沈んでいく。しかし、腹は痛まない。なんとなく悪くは思うが、仕方ないことだと思うばかりで、罪悪感のようなものは霧のようにすぐに消えていく。その様子が手に取る様にわかる加賀美と星野は怒った分だけ馬鹿を見たような気になり、さらに腹が立ってきた。タチバナはゴミ箱に投げたゴミがうまく入らず、それを仕方なく拾いに行くような不貞腐れた雰囲気を出してノロノロと冷凍のドリアを皿に移してグリルコンベアに乗せた。あとは五分もすれば完成である。効率重視で練られた作業は簡便で、ドリアが流れる間にフライヤーに冷凍の衣の付いた鳥の胸肉を放り込んで、三分で揚がって、切って盛り付ければ鳥南蛮も終わる。すぐに出来ることだが、アルバイトという部下に手荒く指示されたことが歯がゆく、その二人の厳しい監視下に置かれていることが囚人のように屈辱的だった。しかし、その怒りも、積もることなく、フライヤーの揚げ油の弾ける音のように、時間が経つとタチバナの中で消えていく。
「加賀美さん、ほら、出来たよ。早く持って行って!早く!急いで!」
言われた通りやってやったよ、ほら、とっとと行けよ!加賀美にはそう聞こえた。加賀美はそのいやったらしさに対して牙を剥きたかったが、そんな暇はなかった。彼女にとっては、待っているお客さんが優先だった。嫌な気を静めて、せっかく家族そろって楽しい時間を過ごそうと来てくれたお客さんに申し訳ない気持ち一杯でドリアを運び、坊主頭の男に店内が静まり返るほどの大声で怒鳴られた。席で待つ小学生の子供たちは3年生と5年生ぐらいで、そろそろ社会のことがおぼろげに解ってきているようで、遅れて運ばれた料理に対して不信感を持ち、「こいつが悪いんだ。」といった冷たい目で加賀美を責める様にじっと見た。「すっかり冷めちゃった。」と母親は小さく嫌味を言った。加賀美は悔しく思う以上に、申し訳ない気持ちが強かった。加賀美も一家でたまに外食をすることがあるが、稀にある料理が全員分揃わない状況は、なんだか社会から無視され、取り残されたような嫌な気持ちになる。子供がウエイトレスに期待して、しかし素通りされて、諦めたような寂しそうな笑い方をする。あれは胸に詰まる。
昼食時の混乱は波が引くようにすっかり消えて、店内は数人の客がドリンクバーのジュースでねばっていた。タチバナは鼻歌交じりに厨房でテキパキと食材を集めていた。グリルの上にはハンバーグが二つ乗っかり、片方にはチーズ、片方にはトマトソースがかかっていた。ハンバーグがコンベアを流れている間に、アツアツのグリル皿の上に千切りキャベツが盛られ、塩コショウ、バターを載せて、一方では、大根おろしと麺つゆ、レモン少々、照り焼きソースが少量混ぜられたタチバナ着けダレが完成し、白ごはんがどんぶり一杯、温泉卵の入ったトン汁にエビ天が乗っけられた。それと小皿に酢と七味が混ざったものが用意される。コンセプトは不明だが、食べ応えのある内容だった。
「またタチバナ定食作ってる。あの酢と七味を箸に着けてしゃぶるのがキモイ。」
「特上賄いって伝票に書いてるけど、なんかムカつく。腹下せばいいのに。」
加賀美と星野が皿を片付け、夕方からのハンバーグの解凍やレタスのカット等の仕込みをしながらささやき合っている。タチバナは湯気立つ自分が作った特上賄い定食を抱えて、客もまばらな客席にそそくさと移動する。窓際の角のボックス席に一人座って、皿を机一杯広げ、箸の先を酢と七味を混ぜたものに着けて、それをしゃぶっては、酸味と辛みで食欲を刺激して、特注レシピの専用定食を少しずつ味わって食べる。ハンバーグの上の溶けたチーズとおろし大根の天つゆは、チーズの酸味を台無しにしたが、溶けたチーズの崩れた甘味のようなものがしつこく口の中に残り、そこに白ごはんが入り薄めると同時に、酢と七味がアクセントとして加えられ、結局、なんの味だか解らなくなっていたが、その不透明さにタチバナは特別なものを感じていた。なんとなくだが、大量に口に含むことが出来るような気がした。口いっぱい、塩味、酸味、辛味、甘味、刺激、熱、口どけ感、とけた脂肪、しなったキャベツの青臭さ。口の中は、さながらシンク隅の三角コーナーの籠のようになっていたが、不思議なことに、口の中、胃の中、体の中の糧を得たという感覚に対する満足感だけは高かった。
タチバナは一人で食べることに慣れていた。いや、正確に言うと、一人での食事こそが、満足感を高めていた。好きなものを一人で、黙々と喉もとから溢れる程に詰め込むように腹いっぱい残さず食べる。美味しいとか不味いとかの問題ではない。たまに辺りを見渡す。干渉する外敵はいない。それを確認すると安心して食べ物に向かう。ゆったりと好きなように肉の油を啜る。タチバナはひそかに獲物を不味そうに食べる百獣の王ライオンと自分を重ねてみて、誰にも説明できない、理解されない満足感を味わっていたが、厨房から覗く加賀美と星野にとっては、薄汚れた野良犬が、得体のしれない酸っぱい匂いのする残飯をこそこそ漁っているようにしか見えなかった。
「本当に店長って、キモイですね。死ねばいいのに。」
星野は酷い言葉と理解しながらも、口に出せば少しは背負った重荷が減るだろうと、常識ある年上の加賀美に安心感を持って言ってみたが、
「うん、死ねばいい。」
と速攻返す加賀美をまじまじと二度見して、、そんな星野の反応を面白そうに見ていた加賀美と目を見合わせると、二人で同時にくすくすと笑った。
ガラス窓に店内の様子、ボックス席とテーブル、その上の炭酸の抜けたコーラ、腰をずらして視線低く座る男子学生などの詳細な様子が映り込んできた。すっかりディナーの時間となった。暗くなった窓の外を見ながら、定時を超えたタチバナは帰りたかった。が、学生バイトの塚本健二が遅れて来ると連絡があったので、帰れないでいた。塚本は理系の大学生で、そのせいではないが大人しく、店長であるタチバナを無下に扱うこともなく、文字通りの従業員と化していたので、お気に入りだった。他のバイトが遅れようものなら、電話口で自覚が足りない、常識が無い等と立場を利用した嫌味を散々言って、遅れて来るまで待つことなく、遅れた奴が悪いと言わんばかりに仕事を山積みにして、他のメンバーに任せきりで、全員に負担を思い切りかけて、遅れた人間に後味悪い思いをさせる為に、とっとと無言で帰ってしまうのだが、塚本健二に対しては不快な人間と思われたくないという思いが強かったので、仕方なく待つことにした。夕方五時出勤が六時ぐらいになると連絡があり、一時間の残業、七時までに家に帰ればよかったので、塚本の代役で、本当は人前、表に出たくはなかったが、仕方なくウェイターを買って出た。とはいえ、平日の夕方なので客も少なく、オーダーを取ることもなく、椅子をまっすぐにしたり、ドリンクバーのコップをちょっとだけ補充したり、何やらしているふりで簡単に時間は過ぎていく。
これが忙しい日、たとえば休日の昼であれば、目まぐるしくオーダーに忙殺される。平日の昼間の売り上げは二万程度だが、休日ともなると十万は軽く超える。その量、五倍以上を二倍以下の人員で切り盛りするようにマニュアルには書かれている。キッチンは基本的に一人しかいない。フロアは基本二人だが、休日は三人になる。引っ切り無しに呼び出しチャイムは鳴り、一席三千円以上のオーダーは果てしなく続く。四人座れる十五席は満員になり、入口には順番待ちリストが置かれる。だいたい、五家族ぐらいが待ちの限界で、それ以上になると入ってきたお客は待つことなく店を後にする。一般の人からするとチャンスを逃したように思われるが、それもマニュアルでは織り込み済みである。ある程度溢れた客は、後日、周囲に振れわたる。「あそこのファミレス、お客さんすごかったよ。待たされそうだったから、帰った。」という情報が口コミでばら撒かれることになる。これがいつの間にか批判ではなく、過大評価された評判へと変わっていく。客が溢れる程、人気がある、おいしい店。この仕組みを入社研修時に聞いたときタチバナは非常に感心したが、同時に、一般人は流行に踊らされるという間抜けさを露見されたようで、なにか裏で上位に立てた気がしたと同時に、理由ははっきりとしなかったが、少しだけ不愉快になった。その不愉快さが、何時までも意識内の障壁となって、タチバナの前にハッキリとしない形で立ちはだかる。その為か、何時まで経っても飲食業の基本となるウェイターの仕事が好きになれなかった。企業とお客を繋ぐ役割が、まるで違法な薬を売りつける役割のように思えてくるからだった。理由はなんとなくとしか思いつかなかったが、突き詰めて考えることなく、しかし、どうしても真っ当でないように思えた。
奥の壁にかかった時計を見ると六時を過ぎていた。平日とはいえ、そろそろお客の数も増えてくる。何やらしているふりで潰れていく時間は既に無かった。収まり良く客席が埋まり、オーダーのチャイムが、遊びすぎてバカになったおもちゃのように同じ音を何度も繰り返す。ネズミのように客席を回り、鳥の大群に遭遇したバードウォッチャーのカウンターのごとく、端末にオーダーを止まることなく入力する。ミックスグリル、トマトソースハンバーグ、チキンステーキ・・厨房で目にするメニューは客からの言葉や端末の文字となって目の前に現れる。これを厨房に伝えれば、厨房では調理が始まる。調理が済めば、客席に運び、客はそれを食べて、皿を片付け、レジでお金を貰う。提案、選択、決定、確認、伝達、製造、運搬、消費、撤去、決済。一連の経済活動が、この狭い空間の中で始まりから終わりまで完結し、繰り広げられている。ふっとそんなことを考えてみるが、考えはそこで曲がり角の向こうの突然の壁に激突するように予告なく終焉を迎え、広がることなく、真っ暗闇、ぶつ切りに閉じていく。
「オーダー入りました。って、塚本君、まだ来ない?もう十五分過ぎてるよ。」
「まだみたいですね。今日は雨降ってるから、渋滞してるのかな?」
厨房からバイト歴二年目の藤谷武志が細長く色白な手を休めることなくそっけなく答える。藤谷の声に時間外の労働を課されたタチバナに対する同情のようなものは一切なく、同じ大学の後輩となる塚本に対する心配だけは見受けられた。長身面長で飄々とした藤谷は調理も早く、盛り付けも綺麗で、性格も穏やか、口数も少ない。勝手に人望を集めるタイプで、それが人望を持たないタチバナにとっては鼻に着く。聞いた相手を間違えたと勝手にイラついた。オーダーを渡すと同時に、出来上がったオーダー済み料理が八品並んだ。一息つきたかったタチバナはさらに不機嫌になったが、目の前の商品を捌く以外答えはなく、急き立てられるように両腕に抱えて座席に向かった。
結局、塚本は無断欠勤した。タチバナは午前八時から午後十時まで、日の光を浴びることなく、外気にさえあたることなく、店内に付きっ切りとなってしまった。体に染みついたハンバーグの匂いが体全体に薄い油の膜を作った。タチバナはそっと手の平を嗅いでみた。早く風呂に入って、纏わりつく油膜を拭い落としたかった。
「塚本なんかあったんですかね?」
うなだれるタチバナに藤谷が素っ気なく尋ねる。労いも同情もない様子を嗅ぎつけたタチバナは藤谷にフライヤーのたぎった油をぶっかけてやろうかと思ったが、原因は塚本の欠勤にあるんだと自分に言い聞かせ、不毛な徒労感に対する怒りは、必要以上に塚本の名前に雪崩込んでいった。
「なめやがって、塚本は社会に出ても通用しないだろう。事情があるにせよ、無いにせよ連絡ぐらいよこして当然だろう?責任感を持たない人間っていうのは、人の間に入れない。つまり、人間じゃないんだ。人っていう単体にしかなれないんだ。塚本は人間失格だ。」
藤谷は加賀美や星野から昼間のタチバナの対応を聞いていたので「お前こそ責任感ないじゃん。謝るべき時謝れないくせに。」と思ったが、萎びたキャベツのようにくたびれたタチバナを目の前にして、ほんの少しだけ気の毒に思い、しかし、常日頃のことを思うと、やはり、多少ひどい目にあった方が妥当と考え、それ以上タチバナのことを考えずに、深夜シフトになったので、二台稼働しているグリルコンベアの一つの火を消して、掃除を始めた。ステンレスで出来た機器の表面に着いた焦げ付きを力を込めてこそぎ落とすと、とげ着いた気持ちも落ち着いてくる。藤谷はタチバナもたまにはグリルコンベアの掃除をすればいいと思った。こびり付いた油汚れの膜をこそぎ落とすと真新しくも見えるステンレスの地金が輝きを増す。一心不乱に調理器具の掃除をすると、暗い部分が剥がれ落ちて、身が軽くなるような爽快感が味わえる。一日の終わりに相応しいことなのに、それをしないからタチバナは歪んでいるのだろう。真っ直ぐに伸ばした白い手がたわしを押さえつけ、洗剤を潤滑油にしてステンレスの表面を汚れ交じりの泡を飛ばしながら、一日の汚れを研磨する。藤谷はそれを密かな楽しみとしていた。
祈るように掃除を始めた藤谷にそれ以上話しかけることが出来なくなって、タチバナは生焼けの魚のような不完全なモヤモヤを抱えていると、店内から入店の呼び鈴がなった。十時からの深夜バイトの広瀬慶子は更衣室からまだ出てきてなかった。学生からフリーターになってもう十年経とうとしているのに、少し時間にルーズなところがある。彼女はもうすぐ三十代に突入する。だから未だにフリーターなのだろうとタチバナは思いながら、遅れて出てくることに怒りはしなかった。広瀬はこの店のオープンから勤務している。タチバナは転職して十年経つが、この店は五年目だった。店長とバイトなのだから、上下の関係は明白なものだったが、タチバナは時間の積み重ねは重要視していた。多く時間を費やした人間に対して、畏敬の念を持つのは当然であるという考えは人並み以上に明確に持っていた。
だがタチバナは、仕方なくの対応で店内に出た。案内しようとレジ前に立ってみたが誰もいなくて、代わりに窓際の席に三十代の金髪の母親と五歳の男の子が既に座っていた。タチバナは勝手に座る客が苦手だった。勝手に座る客は二種類いて、一つは、ほぼ毎日来るような常連、二つ目は社会通念が欠けたやんちゃな人達。困ったことに、どちらとも消費者様度数が高めで、対応に気が滅入る「お客様」である。
「グリルドファミリアへいらっしゃいませようこそ!こちらは喫煙席となっていますがよろしいでしょうか?お二人様でしょうか?」
母親であるグレーのスウェット上下にサンダル履きの女が金髪の間から今起きたような気怠い視線で、壁に掛けた止まったままの時計を見るようにタチバナを見上げた。強い香水の匂いがタチバナの鼻の奥まで敷き詰めるようにムっと届く。艶かしい匂いにやられたのか、その女の沈んだ視線にタチバナは不意に裸を見られるように急に恥ずかしくなってきた。足元が真っ白になるような力の抜け方がする。これ以上視線に耐えきれないと一度、窓ガラスに視線を向けると、半透明に映りこむ自分の姿が見えた。中肉中背、紙の帽子がちょこんと頭に乗っかかり、黒縁メガネは表情を消している。パリッとはしていないが、なんとなく悪い人に見えない。ただ、存在は薄ら暗い映り込みのように、とても薄く見えた。自分の存在感の軽さに落ち着きを取り戻して、そっと視線を女の方に向けたが、すでに女の視線はタチバナには無かった。斜め上から見える女の顔立ちは整っていて、白い顔を覆う安っぽい金髪が夜の街の一部のように妖艶に映る。無意識にタチバナは女の像を、スッポリと腕に収まるきゃしゃな肩、指でなぞるのが気持ちよさそうな線の細い輪郭、弾力が見えるような艶のある真っ赤な唇、触ると少し驚くぐらい冷たそうな細く白い指といったものを頭の中に叩き込む。タチバナの胸の内は妖しくざわめいていた。そんなタチバナそっちのけで、女は煙草を取り出すと曲芸のように無駄のない動きで火をつけた。女の口から煙がだらしなく漏れてた。細い指先に挟まれた白い紙の煙突から、青い煙が真っ直ぐ上っている。煙草を吸わないタチバナはその様子に見入った。
「なに?ああ、オーダーね。シーザーサラダとポテトフライ、それとドリア。あとドリンクバーは大人だけ、子供はいいんでしょ?」
タチバナは女から低い声が出るものだと思っていたが、鼻にかかった高い声が聞けた。その意外な声にタチバナの胸は軽く、くすぐられた。
「・・かしこまりました。シーザーサラダ―、ポテトフライ、ドリアの以上でございますね・・ごゆっくりどうぞ。」
本当はお子様メニューを頼まないと子供のドリンクバーは無料にならないのだが、タチバナは反論することなくオーダー端末に大人一人と打ち込んだ。女の姿をもっと観察したかったが、料理を出すことを遅れてはならないと早足で厨房に駆け込む。
「急いで頼むよ。」
「こんな時間に子供連れって、どうしたもんですかね。タバコ吸ってるし、あんなの母親失格でしょう?」
奥から一部始終見ていた藤谷が呆れたようにそっとタチバナに話しかけるとタチバナの眉間に皺が寄った。「母親失格であろうと女としては合格だ!」とタチバナは声を大にして言いたかった。
「お客様のことを悪く言うのは良くないよ。何か事情があって、たまたま、こんな時間になってしまったんだろう。彼女は本当に大変なんだよ。」
「でも、あの親子連れ、この時間に良く来ますよ。水商売か、なにかでしょうね。いつもサラダとドリアとポテトフライを頼んで、こどもはジュースばっかり飲んでポテトフライを少しだけ、母親はサラダとドリアのパターンですよ。それに子供のドリンクバー代を払おうとしないんですよ。飲んでいるのに飲んでないって言い張ったり、知らなかったとか言って。まあ、子供が騒がない分だけ、マシですけどね。」
「あの親子、よく来るの?」
「ええ、火曜と木曜が多かった気がします。児童相談所にでも通報しますか?」
「そんなことはしないよ。それより料理は出来た?」
「お疲れ様です。店長、今日は遅くまでいるんですね。最近顔見なかったけど。ああ、オーダー、持っていきます。ゼブラ君親子のドリアとポテトですね。」
支度を済ませた広瀬が会話に割って入って出来た料理を当たり前のように、さっと客席に持って行った。鳶に油揚げをさらわれたタチバナはなすすべなく呆然と立ちすくむ。だが、転んでもタダでは起きない。
「ゼブラ君って、あの子供の名前か?」
「みたいですね。広瀬さん、長いから何でも知っているみたいですね。」
ゼブラという子供の情報だけ手に入れて、しかし、仕方なくタチバナは事務所に上がって着替えを済ませた。今日の数字の打ち込みを済ますと、客席を覗こうかと少し悩んだが、広瀬や藤谷に自分の欲望を悟られてはまずいと行動は控えた。それからシフト表を眺めて来週の火曜と木曜のシフトをいじった。タチバナの出勤は昼から夜へ、他のメンバーの出勤も勝手にずらしてみた。従業員が回し読みする連絡ノートには「塚本健二の無断欠勤があったため、夜の指導を増やすため。シフト変更余儀なくします。」と書いておいた。これで文句が出ても、無断欠勤をした塚本のせいに出来る。
タチバナは真っ暗なアパートに無言で帰ると、一番にパソコンの電源を入れた。ネットワークゲームの主戦場に赴くと、すでに戦いは佳境を過ぎていた。火、金、土曜の十九時集合、二十三時解散。社会人が多く参加するタチバナの属するグループの稼働時間は決まっている。今回の火曜の回には結局参加できなかった。
「おつかれ、今日は残業?ブルードラゴン滅多打ちだったよ。金曜にまた会おう。」
ログインすると仲間の「でこすけ」が文字で話しかけてきた。画面上では美少女キャラクターだが、実際は四十歳の痩せこけた独身男だ。
「今日はバイトが来なくて、仕方なく残業。くそ、それより剣手に入った?」
「うん、バラモンが取ったよ。課金すごいからね彼。」
「残念。じゃあお疲れ。」
唯一の楽しみが終わっていた。ソードを一番に手に入れる為に、タチバナも五万円ほどネットゲームに課金していた。家賃ほどの金額をモニターに映る虚像に入れ込むのはバカバカしいことかもしれないが、今のところ、タチバナにとっては当たり前の金遣いだった。
静まり返った蛍光灯の下、ネットゲームが終わった後の予定を思い出し、台所に場所を移した。冷蔵庫を開け、ラップのかかったステンレスの容器を取り出す。中には三枚におろした肉厚の鯖の切り身が二枚、刻み昆布と鷹の爪と一緒にひたひたの酢に漬けてあった。タチバナは今朝、スーパーの朝市で大きな鯖を一匹買い、下ごしらえをして出社していた。酢から取り出した鯖を布巾で丁寧に拭く。身の表面は酢で〆られ白く濁っていたが、親指で触った弾力では、思ったように中まで酢は浸透していない。上出来なローストビーフのように中の生身は侵略されてない。指先で、その身の柔らかな弾力をちょっとだけ楽しんだ後、酸の容器の底で黄金色に輝く五円玉を取り出し、布巾で表面を拭う。五円玉は酸による侵食で表面が削り取られたかのように黄銅の地金が新品の輝きを取り戻していた。次に、鯖の薄皮を慣れた手つきで一気に剥す。綺麗に剥がれるとタチバナは静かな喜びを一人味わう。半透明の薄い膜を剥された鯖の青みが白い蛍光灯に銅イオンのおかげで金属の表面のごとく光り、ギラギラと光を反射する。。皮を剥いだ鯖の身を布巾の上に置いて取れるだけの水気を取る。その間にテーブルの上に置かれたヒノキのお櫃から、今朝酢合わせした酢飯に指を突っ込んでみる。引き上げると粒で酢飯が指に着いていた。これが酢飯の塊が着いていたら失敗とタチバナは判断する。鯖寿司用の酢飯は適度に崩れ、べた付くほうが良い。その方が鯖と慣れる。ざらつきにべた付きを確認し、その上々の出来上がりに気分が高まる。
タチバナの頭の中には、今日の色々な出来事なんてどこにも残ってなかった。今、タチバナに有るのは、単純な意識の集中とプログラムされた機械のような無駄のない動きだけだった。使い込まれたヒノキの押し型に200グラムの酢飯を平らに詰めて、その上に鯖の身を乗せる。はみ出た身は内側に押しこまれる。縦七センチ、横二十一センチの1対3の長方形の木枠に鯖のみが填まる。その瞬間、木枠は額となる。
鯖の銀青の有機的な模様が額縁に入れられたように佇む。鯖の魚臭さが海の記憶を呼び起こす。港の風景、額縁に切り取られる。ダイナミックな構図が浮かんでくる。ついにタチバナはその鯖の模様に富岳三十六景の神奈川沖浪裏、荒波と富士山の浮世絵を見つけた。山ほどの高波が押し寄せ、その荒波にもまれる小舟が見えてくる。富士山は遠くにでんと構え、不動の位置に鎮座する。空模様は怪しく、水しぶきが上がり、波に向かう船に櫓を漕ぐ自分の姿をすぐに見つける。小さな小舟で荒波に向かう船乗はたった一人で、飲み込むような波にもまれて、岸には戻れないかもしれない。激しい風の音、破壊的な波の音、突き上げる波に押し上げられ、上空から落ちる様に白く泡立つ海を見下ろす。絶えず水しぶきが顔に降りかかり、平行は失われ、大きく傾く船の上、酷い揺れにぐっと踏ん張ってみる。もうだめかもしれない。不安感が大きくなったところで、その不安を塞ぐように押し型の蓋で額を塞ぎ、両掌を蓋に翳して、肘を突っ張り、体重をかけて一気に押す。グッと上半身の体重を乗せて押す瞬間、自分が何やら厄介なものと全力で戦って、力強く押し切っているような感覚を覚え、沈み込みが終わった後、なにやら解放された気分になる。
「ふー。」
時間を長くかけ、腹からの深い息を吐き出す。酸素を失った頭の中は空っぽで、押す感覚が体を支配して、それが、不要なものを押し出していく感じがした。肩や背中からボトリと不要な腐ったものが落ちていく。これは嫌な一日を終わらすのに相合しい行動だとタチバナは思った。
出来上がった鯖寿司二本をラップにくるんで、さらに竹の皮で包むと、安普請に似合わない立派な冷蔵庫のマイナス5℃から0℃の凍らない氷温室に鯖寿司を入れた。氷温室には砕いたしっとりとした氷が敷き詰めてあるが、鯖寿司は凍る一歩手前の状態に一晩保管される。タチバナは小さい頃の経験で知っていた。雪の中で一晩寝かせた鯖寿司が美味しいことを。それを再現するためには、収入に不似合いの高級な冷蔵庫も必要不可欠だった。
鯖寿司は一晩、氷温室で熟成される。動植物の体の温度が氷結点に近付くと、タンパクが凍らない様にと体内から不凍液の分泌が増加する機能が働きだす。この不凍液の内容は糖分やアミノ酸であり、それが増加することによって旨味が増し、甘味が増す。つまり熟成される。この氷温による化学変化により、氷温熟成されたものは一般の鯖寿司とは違った角のないまろやかな味わいをもたらす。タチバナはそれを記憶で理解していたが、なんとなく霜を浴びた冬のキャベツが甘いという事実と照らし合わせるだけで、科学的には理解はしていなかった。
氷温庫の薄明かりに、砕いた氷が溶けかかった雪のように、白銀を輝かす。竹皮に包まれた鯖寿司はタチバナの手によってすっかり、雪の中に隠れてしまった。タチバナは無表情だが、脳裏には、縁側から眺める雪原と立ちはだかる雪山が浮かんでいた。それは、もう見ることが来ない風景だとタチバナは諦めていたが、指先から切れるような冷たさが伝わると、どうしても故郷の雪景色の詳細が浮かんでくる。黒光りする縁側を飲み込むような真っ白な風景、身を切るような冷たい空気が鼻を通って、喉を冷やして、肺に入り込んでくる。綿帽子を被った庭木、表面が凍った庭の小さな池、垣根も不恰好に真っ白で、揺らしてその雪を散らしたくなる。零下の空気は澄んで、白銀の地上に続く空は真っ青、やけに静かで、音さえ凍っている。その耳が切れる程の空気の中、少年時のタチバナは長靴を履いて雪に喜ぶ犬のように外に飛び出す。家の前の雪原に飛び出して、雪を掻き分け、こんもりと山になった小さな雪山を素手で丁寧に掘り出す。手はその冷たさに真っ赤になったが、動いた分、ナイロンのジャンパー内の体は汗ばんでいる。だが、昨晩は雪が沢山振ったので、雪に埋めた鯖寿司が中々出てこない。早く取り出して、土間に置いて、今晩に備えなくてはならないのに。活躍した分だけ、鯖寿司の取り分が増えるはずだ。食い意地のはったタチバナ少年は必死で雪を掻き分ける。待った分だけうまくなると教えてもらった。たしかに鯖は酸っぱくないし、臭みもない、酢飯も押されたおかげで、鯖との境界線が薄れて、魚と米がすっかり馴染んで渾然一体となっている。そこから生まれる食欲を刺激する微かな酸味、馴染んだ柔らかな塩味、甘味とさえ感じられるほどの旨味、口に広がるが、残ることない芳醇な風味、お刺身を乗っけた暖かいご飯を食べるような美味しさが広がる押し寿司、早く食べたくて焦るが、真っ白な中に埋め込まれた答えは出ない。
冷蔵庫を閉じると共に、雪原は消え、タチバナは静まり返った台所に突っ立っている。何をしていいか分からなくなったが、思い出したかのように風呂に入り寝るという刷り込まれた当たり前の行動に身を移した。
むせ返るような厨房でタチバナは伝票を見ながら十五人分の昼食を作っていた。右から順番に作ることになっていたが、ハンバーグステーキランチが2個飛ばしにあったので、それを始めに作ることにした。間にあったドリアと鳥南蛮定食は後回しにする。解凍してあったハンバーグをグリルコンベアに載せて、待っている間にコーンとボイル人参を熱せられた鉄皿に載せ、余った時間で皿にご飯を盛りつける。十年も厨房に居れば、ご飯200グラムを計りなんて使うことなく正確に盛り付けることが出来る。その点に関しては、自分はプロだと自負していたが、その自負を公開する場もなく、ただ、密かな誇りとして、胸の中にゆっくりと沈んでいく。サクサクと調理場の作業を進めることは、タチバナにとって意識ない楽しみとなっていたが、やはりそれは所詮、意識ないものであって、知らない間に積もった雪が、知らない間に溶ける様に、気が付けば、何もなかったように、跡形もなく消えていく。
出来たものからオーダー伝票を添えてカウンターに並べていく。アルバイトのウエイトレスが出来た順にテーブル番号を確認して持っていく。刷り込まれた様式、一連の流れ、単純化された作業。この行動一つ一つにマニュアルが存在する。右から順に並べるとか、盛り付けを考慮した皿の置き方、提供することを見越しての皿の取り方など。タチバナは、初めの頃は一々そのマニュアルの内容に感心していたが、来る日も来る日も繰り返していくうちに、それは朝起きて歯を磨く、トイレに行ったらズボンを下げるといった当たり前の行動になっていき、当たり前すぎて、仕事としての緊張感などはとっくに薄れていた。
「店長、3番席のドリアと8番席の鳥南蛮はまだですか?3番のお客さんから「まだか」って催促があるんですけど。」
二児の母でもあるアルバイトの加賀美利恵が、店長であるタチバナに訴えではない、批難じみた強い口調で言いつける。タチバナが厨房からそっと覗くと三番席に四人家族がそろって座って、父親と思われる男の席にだけ飲みかけのガラス細工のような緑色したメロンソーダ―のみが置いてあり、小学生の兄弟の席には湯気が出終わったハンバーグステーキが並んでいて、母親の席のパスタもすっかり色彩を失いかけていた。男は大人なのに坊主頭で、よく日に焼けて、季節は秋なのにタンクトップを着ていて、分かりやすく体中の筋肉が盛り上がっている。タチバナは考える。あれは肉体労働者か、自身の肉体を鍛えることに喜びを見出すタイプの人間。どちらにしろ怒ると怖いタイプだ。ようやくタチバナはドリアを後回しにして、尚且つ、作り忘れていたことに気が付いた。自らの失態に口を歪ませながら問題の3番席に再度目をやると、ドリアを待っている筋肉の塊が、闘牙を帯びて筋肉を盛り上がらせている。まるで開戦前の飢えた土佐犬、交友関係には存在しないタイプの人間、怒らしたら面倒だ。
「なに、ぼーっとしているんですか!早くドリア作ってくださいよ!お客さん、強い口調で「まだか!」って言ってますよ。」
「・・・ドリアのオーダーってあったっけ?オーダー取り忘れたんじゃないの?」
この期に及んで責任逃れしようとしたタチバナに対して加賀美は睨みつける。
「どういう意味です?人のせいにしないでください。端末にドリアの記録はちゃんとあります。見ますか?」
「・・そうじゃなくて・・オーダー伝票をちゃんと置いたかの意味なんだけど・・」
開口半分、奥歯にモノが詰まったように言いながら、タチバナは並べられたオーダー伝票の三番ドリアの紙切れをこっそり隠そうと手を伸ばした。カウンターの越しの加賀美からなら気が付かれないと思っての行動だったが、思わぬ伏兵がいた。
「店長、いま、ドリアの伝票を隠そうとしましたね、私見ましたよ。」
後ろからの声にタチバナは心臓が止まる思いがした。抑揚なく罪を指摘したのは、フリーターのアルバイト、星野明子だった。
「星野さん、厨房に入ってきたらダメじゃないか。ちゃんとオーダーとか取らないと。ほら、レジにお客さんが待っているよ。急いで行かないと。」
誤魔化す人間特有のそぞろな口調でその場を流そうとしたが、アルバイト二人は見た目は細く、整った顔立ち、色白で一見か弱い印象を持っていたが、ガッチリとした強靭な意志の関を作って、百キロ超のタチバナに詰め寄った。
「いい加減にしてくださいよ。さっさと手を動かしてドリアを作るか、お客さんに謝罪に行くかをすればいいんですよ。とにかく店長のミスなんだから、対応しなさいよ。」
加賀美が顔赤らめて命令口調で荒く噛みつく。星野は冷たく腕を組んで睨み付ける。タチバナは自らの尊厳を、店長という立場を強く出して、二人の年下の煩い女たちを蹴散らしたかったが、ミスをしたのは明らかに自分で、分も悪く、喉もとでむせ返る憤りは、腹の中に沈んでいく。しかし、腹は痛まない。なんとなく悪くは思うが、仕方ないことだと思うばかりで、罪悪感のようなものは霧のようにすぐに消えていく。その様子が手に取る様にわかる加賀美と星野は怒った分だけ馬鹿を見たような気になり、さらに腹が立ってきた。タチバナはゴミ箱に投げたゴミがうまく入らず、それを仕方なく拾いに行くような不貞腐れた雰囲気を出してノロノロと冷凍のドリアを皿に移してグリルコンベアに乗せた。あとは五分もすれば完成である。効率重視で練られた作業は簡便で、ドリアが流れる間にフライヤーに冷凍の衣の付いた鳥の胸肉を放り込んで、三分で揚がって、切って盛り付ければ鳥南蛮も終わる。すぐに出来ることだが、アルバイトという部下に手荒く指示されたことが歯がゆく、その二人の厳しい監視下に置かれていることが囚人のように屈辱的だった。しかし、その怒りも、積もることなく、フライヤーの揚げ油の弾ける音のように、時間が経つとタチバナの中で消えていく。
「加賀美さん、ほら、出来たよ。早く持って行って!早く!急いで!」
言われた通りやってやったよ、ほら、とっとと行けよ!加賀美にはそう聞こえた。加賀美はそのいやったらしさに対して牙を剥きたかったが、そんな暇はなかった。彼女にとっては、待っているお客さんが優先だった。嫌な気を静めて、せっかく家族そろって楽しい時間を過ごそうと来てくれたお客さんに申し訳ない気持ち一杯でドリアを運び、坊主頭の男に店内が静まり返るほどの大声で怒鳴られた。席で待つ小学生の子供たちは3年生と5年生ぐらいで、そろそろ社会のことがおぼろげに解ってきているようで、遅れて運ばれた料理に対して不信感を持ち、「こいつが悪いんだ。」といった冷たい目で加賀美を責める様にじっと見た。「すっかり冷めちゃった。」と母親は小さく嫌味を言った。加賀美は悔しく思う以上に、申し訳ない気持ちが強かった。加賀美も一家でたまに外食をすることがあるが、稀にある料理が全員分揃わない状況は、なんだか社会から無視され、取り残されたような嫌な気持ちになる。子供がウエイトレスに期待して、しかし素通りされて、諦めたような寂しそうな笑い方をする。あれは胸に詰まる。
昼食時の混乱は波が引くようにすっかり消えて、店内は数人の客がドリンクバーのジュースでねばっていた。タチバナは鼻歌交じりに厨房でテキパキと食材を集めていた。グリルの上にはハンバーグが二つ乗っかり、片方にはチーズ、片方にはトマトソースがかかっていた。ハンバーグがコンベアを流れている間に、アツアツのグリル皿の上に千切りキャベツが盛られ、塩コショウ、バターを載せて、一方では、大根おろしと麺つゆ、レモン少々、照り焼きソースが少量混ぜられたタチバナ着けダレが完成し、白ごはんがどんぶり一杯、温泉卵の入ったトン汁にエビ天が乗っけられた。それと小皿に酢と七味が混ざったものが用意される。コンセプトは不明だが、食べ応えのある内容だった。
「またタチバナ定食作ってる。あの酢と七味を箸に着けてしゃぶるのがキモイ。」
「特上賄いって伝票に書いてるけど、なんかムカつく。腹下せばいいのに。」
加賀美と星野が皿を片付け、夕方からのハンバーグの解凍やレタスのカット等の仕込みをしながらささやき合っている。タチバナは湯気立つ自分が作った特上賄い定食を抱えて、客もまばらな客席にそそくさと移動する。窓際の角のボックス席に一人座って、皿を机一杯広げ、箸の先を酢と七味を混ぜたものに着けて、それをしゃぶっては、酸味と辛みで食欲を刺激して、特注レシピの専用定食を少しずつ味わって食べる。ハンバーグの上の溶けたチーズとおろし大根の天つゆは、チーズの酸味を台無しにしたが、溶けたチーズの崩れた甘味のようなものがしつこく口の中に残り、そこに白ごはんが入り薄めると同時に、酢と七味がアクセントとして加えられ、結局、なんの味だか解らなくなっていたが、その不透明さにタチバナは特別なものを感じていた。なんとなくだが、大量に口に含むことが出来るような気がした。口いっぱい、塩味、酸味、辛味、甘味、刺激、熱、口どけ感、とけた脂肪、しなったキャベツの青臭さ。口の中は、さながらシンク隅の三角コーナーの籠のようになっていたが、不思議なことに、口の中、胃の中、体の中の糧を得たという感覚に対する満足感だけは高かった。
タチバナは一人で食べることに慣れていた。いや、正確に言うと、一人での食事こそが、満足感を高めていた。好きなものを一人で、黙々と喉もとから溢れる程に詰め込むように腹いっぱい残さず食べる。美味しいとか不味いとかの問題ではない。たまに辺りを見渡す。干渉する外敵はいない。それを確認すると安心して食べ物に向かう。ゆったりと好きなように肉の油を啜る。タチバナはひそかに獲物を不味そうに食べる百獣の王ライオンと自分を重ねてみて、誰にも説明できない、理解されない満足感を味わっていたが、厨房から覗く加賀美と星野にとっては、薄汚れた野良犬が、得体のしれない酸っぱい匂いのする残飯をこそこそ漁っているようにしか見えなかった。
「本当に店長って、キモイですね。死ねばいいのに。」
星野は酷い言葉と理解しながらも、口に出せば少しは背負った重荷が減るだろうと、常識ある年上の加賀美に安心感を持って言ってみたが、
「うん、死ねばいい。」
と速攻返す加賀美をまじまじと二度見して、、そんな星野の反応を面白そうに見ていた加賀美と目を見合わせると、二人で同時にくすくすと笑った。
ガラス窓に店内の様子、ボックス席とテーブル、その上の炭酸の抜けたコーラ、腰をずらして視線低く座る男子学生などの詳細な様子が映り込んできた。すっかりディナーの時間となった。暗くなった窓の外を見ながら、定時を超えたタチバナは帰りたかった。が、学生バイトの塚本健二が遅れて来ると連絡があったので、帰れないでいた。塚本は理系の大学生で、そのせいではないが大人しく、店長であるタチバナを無下に扱うこともなく、文字通りの従業員と化していたので、お気に入りだった。他のバイトが遅れようものなら、電話口で自覚が足りない、常識が無い等と立場を利用した嫌味を散々言って、遅れて来るまで待つことなく、遅れた奴が悪いと言わんばかりに仕事を山積みにして、他のメンバーに任せきりで、全員に負担を思い切りかけて、遅れた人間に後味悪い思いをさせる為に、とっとと無言で帰ってしまうのだが、塚本健二に対しては不快な人間と思われたくないという思いが強かったので、仕方なく待つことにした。夕方五時出勤が六時ぐらいになると連絡があり、一時間の残業、七時までに家に帰ればよかったので、塚本の代役で、本当は人前、表に出たくはなかったが、仕方なくウェイターを買って出た。とはいえ、平日の夕方なので客も少なく、オーダーを取ることもなく、椅子をまっすぐにしたり、ドリンクバーのコップをちょっとだけ補充したり、何やらしているふりで簡単に時間は過ぎていく。
これが忙しい日、たとえば休日の昼であれば、目まぐるしくオーダーに忙殺される。平日の昼間の売り上げは二万程度だが、休日ともなると十万は軽く超える。その量、五倍以上を二倍以下の人員で切り盛りするようにマニュアルには書かれている。キッチンは基本的に一人しかいない。フロアは基本二人だが、休日は三人になる。引っ切り無しに呼び出しチャイムは鳴り、一席三千円以上のオーダーは果てしなく続く。四人座れる十五席は満員になり、入口には順番待ちリストが置かれる。だいたい、五家族ぐらいが待ちの限界で、それ以上になると入ってきたお客は待つことなく店を後にする。一般の人からするとチャンスを逃したように思われるが、それもマニュアルでは織り込み済みである。ある程度溢れた客は、後日、周囲に振れわたる。「あそこのファミレス、お客さんすごかったよ。待たされそうだったから、帰った。」という情報が口コミでばら撒かれることになる。これがいつの間にか批判ではなく、過大評価された評判へと変わっていく。客が溢れる程、人気がある、おいしい店。この仕組みを入社研修時に聞いたときタチバナは非常に感心したが、同時に、一般人は流行に踊らされるという間抜けさを露見されたようで、なにか裏で上位に立てた気がしたと同時に、理由ははっきりとしなかったが、少しだけ不愉快になった。その不愉快さが、何時までも意識内の障壁となって、タチバナの前にハッキリとしない形で立ちはだかる。その為か、何時まで経っても飲食業の基本となるウェイターの仕事が好きになれなかった。企業とお客を繋ぐ役割が、まるで違法な薬を売りつける役割のように思えてくるからだった。理由はなんとなくとしか思いつかなかったが、突き詰めて考えることなく、しかし、どうしても真っ当でないように思えた。
奥の壁にかかった時計を見ると六時を過ぎていた。平日とはいえ、そろそろお客の数も増えてくる。何やらしているふりで潰れていく時間は既に無かった。収まり良く客席が埋まり、オーダーのチャイムが、遊びすぎてバカになったおもちゃのように同じ音を何度も繰り返す。ネズミのように客席を回り、鳥の大群に遭遇したバードウォッチャーのカウンターのごとく、端末にオーダーを止まることなく入力する。ミックスグリル、トマトソースハンバーグ、チキンステーキ・・厨房で目にするメニューは客からの言葉や端末の文字となって目の前に現れる。これを厨房に伝えれば、厨房では調理が始まる。調理が済めば、客席に運び、客はそれを食べて、皿を片付け、レジでお金を貰う。提案、選択、決定、確認、伝達、製造、運搬、消費、撤去、決済。一連の経済活動が、この狭い空間の中で始まりから終わりまで完結し、繰り広げられている。ふっとそんなことを考えてみるが、考えはそこで曲がり角の向こうの突然の壁に激突するように予告なく終焉を迎え、広がることなく、真っ暗闇、ぶつ切りに閉じていく。
「オーダー入りました。って、塚本君、まだ来ない?もう十五分過ぎてるよ。」
「まだみたいですね。今日は雨降ってるから、渋滞してるのかな?」
厨房からバイト歴二年目の藤谷武志が細長く色白な手を休めることなくそっけなく答える。藤谷の声に時間外の労働を課されたタチバナに対する同情のようなものは一切なく、同じ大学の後輩となる塚本に対する心配だけは見受けられた。長身面長で飄々とした藤谷は調理も早く、盛り付けも綺麗で、性格も穏やか、口数も少ない。勝手に人望を集めるタイプで、それが人望を持たないタチバナにとっては鼻に着く。聞いた相手を間違えたと勝手にイラついた。オーダーを渡すと同時に、出来上がったオーダー済み料理が八品並んだ。一息つきたかったタチバナはさらに不機嫌になったが、目の前の商品を捌く以外答えはなく、急き立てられるように両腕に抱えて座席に向かった。
結局、塚本は無断欠勤した。タチバナは午前八時から午後十時まで、日の光を浴びることなく、外気にさえあたることなく、店内に付きっ切りとなってしまった。体に染みついたハンバーグの匂いが体全体に薄い油の膜を作った。タチバナはそっと手の平を嗅いでみた。早く風呂に入って、纏わりつく油膜を拭い落としたかった。
「塚本なんかあったんですかね?」
うなだれるタチバナに藤谷が素っ気なく尋ねる。労いも同情もない様子を嗅ぎつけたタチバナは藤谷にフライヤーのたぎった油をぶっかけてやろうかと思ったが、原因は塚本の欠勤にあるんだと自分に言い聞かせ、不毛な徒労感に対する怒りは、必要以上に塚本の名前に雪崩込んでいった。
「なめやがって、塚本は社会に出ても通用しないだろう。事情があるにせよ、無いにせよ連絡ぐらいよこして当然だろう?責任感を持たない人間っていうのは、人の間に入れない。つまり、人間じゃないんだ。人っていう単体にしかなれないんだ。塚本は人間失格だ。」
藤谷は加賀美や星野から昼間のタチバナの対応を聞いていたので「お前こそ責任感ないじゃん。謝るべき時謝れないくせに。」と思ったが、萎びたキャベツのようにくたびれたタチバナを目の前にして、ほんの少しだけ気の毒に思い、しかし、常日頃のことを思うと、やはり、多少ひどい目にあった方が妥当と考え、それ以上タチバナのことを考えずに、深夜シフトになったので、二台稼働しているグリルコンベアの一つの火を消して、掃除を始めた。ステンレスで出来た機器の表面に着いた焦げ付きを力を込めてこそぎ落とすと、とげ着いた気持ちも落ち着いてくる。藤谷はタチバナもたまにはグリルコンベアの掃除をすればいいと思った。こびり付いた油汚れの膜をこそぎ落とすと真新しくも見えるステンレスの地金が輝きを増す。一心不乱に調理器具の掃除をすると、暗い部分が剥がれ落ちて、身が軽くなるような爽快感が味わえる。一日の終わりに相応しいことなのに、それをしないからタチバナは歪んでいるのだろう。真っ直ぐに伸ばした白い手がたわしを押さえつけ、洗剤を潤滑油にしてステンレスの表面を汚れ交じりの泡を飛ばしながら、一日の汚れを研磨する。藤谷はそれを密かな楽しみとしていた。
祈るように掃除を始めた藤谷にそれ以上話しかけることが出来なくなって、タチバナは生焼けの魚のような不完全なモヤモヤを抱えていると、店内から入店の呼び鈴がなった。十時からの深夜バイトの広瀬慶子は更衣室からまだ出てきてなかった。学生からフリーターになってもう十年経とうとしているのに、少し時間にルーズなところがある。彼女はもうすぐ三十代に突入する。だから未だにフリーターなのだろうとタチバナは思いながら、遅れて出てくることに怒りはしなかった。広瀬はこの店のオープンから勤務している。タチバナは転職して十年経つが、この店は五年目だった。店長とバイトなのだから、上下の関係は明白なものだったが、タチバナは時間の積み重ねは重要視していた。多く時間を費やした人間に対して、畏敬の念を持つのは当然であるという考えは人並み以上に明確に持っていた。
だがタチバナは、仕方なくの対応で店内に出た。案内しようとレジ前に立ってみたが誰もいなくて、代わりに窓際の席に三十代の金髪の母親と五歳の男の子が既に座っていた。タチバナは勝手に座る客が苦手だった。勝手に座る客は二種類いて、一つは、ほぼ毎日来るような常連、二つ目は社会通念が欠けたやんちゃな人達。困ったことに、どちらとも消費者様度数が高めで、対応に気が滅入る「お客様」である。
「グリルドファミリアへいらっしゃいませようこそ!こちらは喫煙席となっていますがよろしいでしょうか?お二人様でしょうか?」
母親であるグレーのスウェット上下にサンダル履きの女が金髪の間から今起きたような気怠い視線で、壁に掛けた止まったままの時計を見るようにタチバナを見上げた。強い香水の匂いがタチバナの鼻の奥まで敷き詰めるようにムっと届く。艶かしい匂いにやられたのか、その女の沈んだ視線にタチバナは不意に裸を見られるように急に恥ずかしくなってきた。足元が真っ白になるような力の抜け方がする。これ以上視線に耐えきれないと一度、窓ガラスに視線を向けると、半透明に映りこむ自分の姿が見えた。中肉中背、紙の帽子がちょこんと頭に乗っかかり、黒縁メガネは表情を消している。パリッとはしていないが、なんとなく悪い人に見えない。ただ、存在は薄ら暗い映り込みのように、とても薄く見えた。自分の存在感の軽さに落ち着きを取り戻して、そっと視線を女の方に向けたが、すでに女の視線はタチバナには無かった。斜め上から見える女の顔立ちは整っていて、白い顔を覆う安っぽい金髪が夜の街の一部のように妖艶に映る。無意識にタチバナは女の像を、スッポリと腕に収まるきゃしゃな肩、指でなぞるのが気持ちよさそうな線の細い輪郭、弾力が見えるような艶のある真っ赤な唇、触ると少し驚くぐらい冷たそうな細く白い指といったものを頭の中に叩き込む。タチバナの胸の内は妖しくざわめいていた。そんなタチバナそっちのけで、女は煙草を取り出すと曲芸のように無駄のない動きで火をつけた。女の口から煙がだらしなく漏れてた。細い指先に挟まれた白い紙の煙突から、青い煙が真っ直ぐ上っている。煙草を吸わないタチバナはその様子に見入った。
「なに?ああ、オーダーね。シーザーサラダとポテトフライ、それとドリア。あとドリンクバーは大人だけ、子供はいいんでしょ?」
タチバナは女から低い声が出るものだと思っていたが、鼻にかかった高い声が聞けた。その意外な声にタチバナの胸は軽く、くすぐられた。
「・・かしこまりました。シーザーサラダ―、ポテトフライ、ドリアの以上でございますね・・ごゆっくりどうぞ。」
本当はお子様メニューを頼まないと子供のドリンクバーは無料にならないのだが、タチバナは反論することなくオーダー端末に大人一人と打ち込んだ。女の姿をもっと観察したかったが、料理を出すことを遅れてはならないと早足で厨房に駆け込む。
「急いで頼むよ。」
「こんな時間に子供連れって、どうしたもんですかね。タバコ吸ってるし、あんなの母親失格でしょう?」
奥から一部始終見ていた藤谷が呆れたようにそっとタチバナに話しかけるとタチバナの眉間に皺が寄った。「母親失格であろうと女としては合格だ!」とタチバナは声を大にして言いたかった。
「お客様のことを悪く言うのは良くないよ。何か事情があって、たまたま、こんな時間になってしまったんだろう。彼女は本当に大変なんだよ。」
「でも、あの親子連れ、この時間に良く来ますよ。水商売か、なにかでしょうね。いつもサラダとドリアとポテトフライを頼んで、こどもはジュースばっかり飲んでポテトフライを少しだけ、母親はサラダとドリアのパターンですよ。それに子供のドリンクバー代を払おうとしないんですよ。飲んでいるのに飲んでないって言い張ったり、知らなかったとか言って。まあ、子供が騒がない分だけ、マシですけどね。」
「あの親子、よく来るの?」
「ええ、火曜と木曜が多かった気がします。児童相談所にでも通報しますか?」
「そんなことはしないよ。それより料理は出来た?」
「お疲れ様です。店長、今日は遅くまでいるんですね。最近顔見なかったけど。ああ、オーダー、持っていきます。ゼブラ君親子のドリアとポテトですね。」
支度を済ませた広瀬が会話に割って入って出来た料理を当たり前のように、さっと客席に持って行った。鳶に油揚げをさらわれたタチバナはなすすべなく呆然と立ちすくむ。だが、転んでもタダでは起きない。
「ゼブラ君って、あの子供の名前か?」
「みたいですね。広瀬さん、長いから何でも知っているみたいですね。」
ゼブラという子供の情報だけ手に入れて、しかし、仕方なくタチバナは事務所に上がって着替えを済ませた。今日の数字の打ち込みを済ますと、客席を覗こうかと少し悩んだが、広瀬や藤谷に自分の欲望を悟られてはまずいと行動は控えた。それからシフト表を眺めて来週の火曜と木曜のシフトをいじった。タチバナの出勤は昼から夜へ、他のメンバーの出勤も勝手にずらしてみた。従業員が回し読みする連絡ノートには「塚本健二の無断欠勤があったため、夜の指導を増やすため。シフト変更余儀なくします。」と書いておいた。これで文句が出ても、無断欠勤をした塚本のせいに出来る。
タチバナは真っ暗なアパートに無言で帰ると、一番にパソコンの電源を入れた。ネットワークゲームの主戦場に赴くと、すでに戦いは佳境を過ぎていた。火、金、土曜の十九時集合、二十三時解散。社会人が多く参加するタチバナの属するグループの稼働時間は決まっている。今回の火曜の回には結局参加できなかった。
「おつかれ、今日は残業?ブルードラゴン滅多打ちだったよ。金曜にまた会おう。」
ログインすると仲間の「でこすけ」が文字で話しかけてきた。画面上では美少女キャラクターだが、実際は四十歳の痩せこけた独身男だ。
「今日はバイトが来なくて、仕方なく残業。くそ、それより剣手に入った?」
「うん、バラモンが取ったよ。課金すごいからね彼。」
「残念。じゃあお疲れ。」
唯一の楽しみが終わっていた。ソードを一番に手に入れる為に、タチバナも五万円ほどネットゲームに課金していた。家賃ほどの金額をモニターに映る虚像に入れ込むのはバカバカしいことかもしれないが、今のところ、タチバナにとっては当たり前の金遣いだった。
静まり返った蛍光灯の下、ネットゲームが終わった後の予定を思い出し、台所に場所を移した。冷蔵庫を開け、ラップのかかったステンレスの容器を取り出す。中には三枚におろした肉厚の鯖の切り身が二枚、刻み昆布と鷹の爪と一緒にひたひたの酢に漬けてあった。タチバナは今朝、スーパーの朝市で大きな鯖を一匹買い、下ごしらえをして出社していた。酢から取り出した鯖を布巾で丁寧に拭く。身の表面は酢で〆られ白く濁っていたが、親指で触った弾力では、思ったように中まで酢は浸透していない。上出来なローストビーフのように中の生身は侵略されてない。指先で、その身の柔らかな弾力をちょっとだけ楽しんだ後、酸の容器の底で黄金色に輝く五円玉を取り出し、布巾で表面を拭う。五円玉は酸による侵食で表面が削り取られたかのように黄銅の地金が新品の輝きを取り戻していた。次に、鯖の薄皮を慣れた手つきで一気に剥す。綺麗に剥がれるとタチバナは静かな喜びを一人味わう。半透明の薄い膜を剥された鯖の青みが白い蛍光灯に銅イオンのおかげで金属の表面のごとく光り、ギラギラと光を反射する。。皮を剥いだ鯖の身を布巾の上に置いて取れるだけの水気を取る。その間にテーブルの上に置かれたヒノキのお櫃から、今朝酢合わせした酢飯に指を突っ込んでみる。引き上げると粒で酢飯が指に着いていた。これが酢飯の塊が着いていたら失敗とタチバナは判断する。鯖寿司用の酢飯は適度に崩れ、べた付くほうが良い。その方が鯖と慣れる。ざらつきにべた付きを確認し、その上々の出来上がりに気分が高まる。
タチバナの頭の中には、今日の色々な出来事なんてどこにも残ってなかった。今、タチバナに有るのは、単純な意識の集中とプログラムされた機械のような無駄のない動きだけだった。使い込まれたヒノキの押し型に200グラムの酢飯を平らに詰めて、その上に鯖の身を乗せる。はみ出た身は内側に押しこまれる。縦七センチ、横二十一センチの1対3の長方形の木枠に鯖のみが填まる。その瞬間、木枠は額となる。
鯖の銀青の有機的な模様が額縁に入れられたように佇む。鯖の魚臭さが海の記憶を呼び起こす。港の風景、額縁に切り取られる。ダイナミックな構図が浮かんでくる。ついにタチバナはその鯖の模様に富岳三十六景の神奈川沖浪裏、荒波と富士山の浮世絵を見つけた。山ほどの高波が押し寄せ、その荒波にもまれる小舟が見えてくる。富士山は遠くにでんと構え、不動の位置に鎮座する。空模様は怪しく、水しぶきが上がり、波に向かう船に櫓を漕ぐ自分の姿をすぐに見つける。小さな小舟で荒波に向かう船乗はたった一人で、飲み込むような波にもまれて、岸には戻れないかもしれない。激しい風の音、破壊的な波の音、突き上げる波に押し上げられ、上空から落ちる様に白く泡立つ海を見下ろす。絶えず水しぶきが顔に降りかかり、平行は失われ、大きく傾く船の上、酷い揺れにぐっと踏ん張ってみる。もうだめかもしれない。不安感が大きくなったところで、その不安を塞ぐように押し型の蓋で額を塞ぎ、両掌を蓋に翳して、肘を突っ張り、体重をかけて一気に押す。グッと上半身の体重を乗せて押す瞬間、自分が何やら厄介なものと全力で戦って、力強く押し切っているような感覚を覚え、沈み込みが終わった後、なにやら解放された気分になる。
「ふー。」
時間を長くかけ、腹からの深い息を吐き出す。酸素を失った頭の中は空っぽで、押す感覚が体を支配して、それが、不要なものを押し出していく感じがした。肩や背中からボトリと不要な腐ったものが落ちていく。これは嫌な一日を終わらすのに相合しい行動だとタチバナは思った。
出来上がった鯖寿司二本をラップにくるんで、さらに竹の皮で包むと、安普請に似合わない立派な冷蔵庫のマイナス5℃から0℃の凍らない氷温室に鯖寿司を入れた。氷温室には砕いたしっとりとした氷が敷き詰めてあるが、鯖寿司は凍る一歩手前の状態に一晩保管される。タチバナは小さい頃の経験で知っていた。雪の中で一晩寝かせた鯖寿司が美味しいことを。それを再現するためには、収入に不似合いの高級な冷蔵庫も必要不可欠だった。
鯖寿司は一晩、氷温室で熟成される。動植物の体の温度が氷結点に近付くと、タンパクが凍らない様にと体内から不凍液の分泌が増加する機能が働きだす。この不凍液の内容は糖分やアミノ酸であり、それが増加することによって旨味が増し、甘味が増す。つまり熟成される。この氷温による化学変化により、氷温熟成されたものは一般の鯖寿司とは違った角のないまろやかな味わいをもたらす。タチバナはそれを記憶で理解していたが、なんとなく霜を浴びた冬のキャベツが甘いという事実と照らし合わせるだけで、科学的には理解はしていなかった。
氷温庫の薄明かりに、砕いた氷が溶けかかった雪のように、白銀を輝かす。竹皮に包まれた鯖寿司はタチバナの手によってすっかり、雪の中に隠れてしまった。タチバナは無表情だが、脳裏には、縁側から眺める雪原と立ちはだかる雪山が浮かんでいた。それは、もう見ることが来ない風景だとタチバナは諦めていたが、指先から切れるような冷たさが伝わると、どうしても故郷の雪景色の詳細が浮かんでくる。黒光りする縁側を飲み込むような真っ白な風景、身を切るような冷たい空気が鼻を通って、喉を冷やして、肺に入り込んでくる。綿帽子を被った庭木、表面が凍った庭の小さな池、垣根も不恰好に真っ白で、揺らしてその雪を散らしたくなる。零下の空気は澄んで、白銀の地上に続く空は真っ青、やけに静かで、音さえ凍っている。その耳が切れる程の空気の中、少年時のタチバナは長靴を履いて雪に喜ぶ犬のように外に飛び出す。家の前の雪原に飛び出して、雪を掻き分け、こんもりと山になった小さな雪山を素手で丁寧に掘り出す。手はその冷たさに真っ赤になったが、動いた分、ナイロンのジャンパー内の体は汗ばんでいる。だが、昨晩は雪が沢山振ったので、雪に埋めた鯖寿司が中々出てこない。早く取り出して、土間に置いて、今晩に備えなくてはならないのに。活躍した分だけ、鯖寿司の取り分が増えるはずだ。食い意地のはったタチバナ少年は必死で雪を掻き分ける。待った分だけうまくなると教えてもらった。たしかに鯖は酸っぱくないし、臭みもない、酢飯も押されたおかげで、鯖との境界線が薄れて、魚と米がすっかり馴染んで渾然一体となっている。そこから生まれる食欲を刺激する微かな酸味、馴染んだ柔らかな塩味、甘味とさえ感じられるほどの旨味、口に広がるが、残ることない芳醇な風味、お刺身を乗っけた暖かいご飯を食べるような美味しさが広がる押し寿司、早く食べたくて焦るが、真っ白な中に埋め込まれた答えは出ない。
冷蔵庫を閉じると共に、雪原は消え、タチバナは静まり返った台所に突っ立っている。何をしていいか分からなくなったが、思い出したかのように風呂に入り寝るという刷り込まれた当たり前の行動に身を移した。